BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第十四話 崩落する安寧

 

 また、夜が来た。

 

 そう思うと、何だか身体が重く、真那は点滴のせいだと言っていたショーコの言葉を思い返す。

 

 ショーコは早々に寝入っていたようであったが、どこか胸騒ぎがして真那は眠れないでいた。

 

「……私は……何かを忘れている……?」

 

 不自然に抜け落ちた記憶。

 

 虫食いのような認識。

 

 どれもこれも、今の自分への欠落であった。

 

 少し歩けば、眠りもやってくるだろうか、と真那はベッドから降りてリノリウムの廊下を踏み出す。

 

 しばらく歩けば今も煌々と明かりを灯すナースステーションが点在していた。

 

「あら? 倉橋さん。どうかしましたか?」

 

「いえ、ちょっと眠れなくって……」

 

「点滴が効いてないんでしょうかね。この時間になると眠れるはずなんですが」

 

「私も、何でなのか分かんなくって……。ちょっと歩いてもいいですか?」

 

 迷惑だろうかと感じた問いかけに看護師はにこやかに応じる。

 

「いいですよ。この病院では自由ですから」

 

 自由、か、と真那は胸中にひとりごちる。

 

 ショーコは“SAYA”感染者の隔離施設なのだと吹聴していたが、どれもこれも憶測の域を出ない。

 

 その上、自分が“SAYA”感染者だとすればおかしな事がいくつも出てくるではないか。

 

「……“SAYA”っていう病気、私もかかっているのに、何ともないなんて」

 

 それに、ここに居る患者全員が“SAYA”のキャリアーだと考慮してみれば、彼女らの症例も様々だ。

 

 このようにばらけた症状の病気などあるのだろうか。

 

 あるいは、解読もされていないのが“SAYA”なのだとすれば、自分達は体のいいモルモットとでも?

 

 どれもこれも、あり得ないと一蹴する。

 

「……下手に大真面目に考え過ぎなんだよ、ショーコさんも」

 

 散歩しかけて、真那は耳朶を打つ“声”を聴いていた。

 

 昼間に聴いたものと同一だったが、あまりにも距離が近い。

 

 どこから、と首を巡らせた真那の視野に大写しになったのは、談笑する看護師達であった。

 

 彼女らの声紋にだぶるような形で、“”声“が残響する。

 

 鈴を鳴らすような声にかぶさるのは、獣の嘲笑であった。

 

 耳障りな声に、真那は僅かによろめく。

 

 どうしてなのだか分からない。

 

 分からないが――この“声”の主は。

 

「倉橋さん? どうしました? 調子が悪いんですか?」

 

 一人の看護師が駆け寄ってくる。

 

 真那はしかし、その看護師からもたらされる高周波の“声”に、嫌悪を抱いていた。

 

 全身が否定する。

 

 神経の根が、拒絶する。

 

 看護師は眩暈を覚えた自分の姿勢を整えようと、抱きかかえんとした。

 

 その胸ポケットにあるボールペンが、照明に輝く。

 

「……倉橋さん……その眼は……!」

 

 直後、赤い閃光が看護師の眼窩を射抜いていた。

 

 咄嗟の事に、相手も何が起こったのか分からなかったらしい。

 

 よろり、と後ずさった看護師の眼球にはボールペンが深々と突き刺さっていた。

 

「な、んで……」

 

 分からない。

 

 自分でも制御出来ないのだ。

 

 真那は赤い旋風の巻き起こす衝動のままに、看護師へと馬乗りになってボールペンを引き抜く。

 

 滴った血と潰れた眼球の白濁した物体を放り、真那は尖ったペン先で掌を掻っ切る。

 

 鮮血がペンに宿り、真那はそのまま打ち下ろしていた。

 

 心臓へと食い込んだ途端、看護師が声にならない叫びを上げ、その部分を中心にして肉体が結晶化していく。

 

 真那は記憶の底にある、根底の声を拾い上げていた。

 

「……翼手……」

 

 自分の血で殺せる存在。

 

 自分の血でしか、購えない罪の象徴。

 

「ど、どうにかしましたか……!」

 

 駆け寄ろうとする看護師からも耳障りな“声”がもたらされる。

 

 真那は点滴の針を引き抜き、その針で迫ってきた看護師の首筋へと突き刺していた。

 

 痙攣した相手を足蹴にし、続いてくる看護師達をペンの血で遠ざける。

 

 彼女らはめいめいに目線を交わし、やがてめきめきと骨格を変容させていた。

 

 服飾を引き裂いて、黒い獣が一つ、二つと屹立していく。

 

 獣達の遠吠えが響き渡り、真那は戦闘意識に塗り固められた視野の中で、ペンを携えつつ、ナースステーションへと飛び込んでいた。

 

 狙い通り、そこには白銀に照り輝くメスがある。

 

 真那はメスへと指を沿わせ、血を滴らせていた。

 

 身体ごと飛び掛かり、翼手の頭蓋へと突き刺す。

 

 横合いから鋭い爪で挟撃を仕掛けようとした翼手には、ペンを投擲し片側の勢いを殺してから、相手の爪を掻い潜る。

 

 懐へと潜り込み、真那は自分の血を入れた注射器を翼手の腹腔へと叩き込んでいた。

 

 注射器が割れ、溢れ出した血で獣は腹部より結晶化していく。

 

「……どう……したの? ……マナ?」

 

 ショーコが騒ぎを聞きつけて起きて来たらしい。

 

 惨状を目の当たりにして彼女は絶句する。

 

「……これ、あなたがやったの? どうして……怪物……?」

 

「……ショーコさん、これは……」

 

 説明しようとして、ショーコが青ざめていた。

 

 ハッと気づいて振り返る前に、翼手が真那の肩口へと食いかかる。

 

 牙を伝って体内に入った血液で相手は結晶化するが、その様相にショーコはその場にへたり込んでいた。

 

「……何が起こっているの……? 看護師の人達……でしょう? それ……」

 

「ショーコさん。私にも……分かんないんです。けれど一つだけ、言えるとすれば……ここは危ない。今すぐに……脱出しないと」

 

 何故、自分がここに入れたのかも不明だが、そもそも職員が翼手であったなど、想像も出来なかった。

 

 真那は引き抜いた点滴の成分を凝視する。

 

「……この液体、私達を弱体化させる……?」

 

「何を……何を言っているのよぉ……マナ! あなた、大人しい子だったはずでしょう……!」

 

 翼手に関しての事は、自分もデヴィッドとキザハシから聞いた以上の事は分かっていない。

 

 しかし、真那はショーコだけでも助け出せないかと、周囲を見渡す。

 

 その時、カタリ、と病室が開いていた。

 

 そこからよろめきながら現れたのは少女の患者だ。

 

「あ、あの子達……今の騒ぎで起きたんだわ。助けないと……」

 

 ショーコが駈け出そうとした瞬間、真那は“声”を聴き留めていた。

 

「……嘘、でしょう……」

 

 咄嗟に真那はショーコの手首を掴む。

 

 少女の患者達は、“声”に呼応して肉体を膨張させていた。

 

 膨れ上がった筋肉がその相貌を崩し、肉塊の黒い獣と化す。

 

「……どういう……事なの。怪物は……患者、も……?」

 

「ショーコさん……! 退いて!」

 

 飛び掛かってきた患者が変容した翼手に、真那はメスで一閃を加えていた。

 

 相手はその巨躯からは想像出来ない機敏さで天井へと張り付き、乱杭歯の並んだ口腔部を剥き出しにする。

 

「……何なの、マナ……。あなたは一体……何だって言うのよぉ……っ!」

 

「……私は……」

 

 僅かな硬直と迷い。

 

 その隙を逃さず、巨体の翼手は攻撃を仕掛けてくる。

 

 爪を振るい、有り余る膂力で真那を吹き飛ばしていた。

 

 病室の扉がひしゃげ、噴煙が舞う。

 

 鈍痛を覚えながら、ぼやける視界で真那はショーコを襲おうとする翼手を視野に入れていた。

 

「……駄目……っ!」

 

 扉のグリップを握力で無理やり引き剥がし、その尖った部位を用いて槍投げのように真那は翼手の肩口へと投げ放つ。

 

 突き刺さった部位が結晶化し、咆哮が響き渡っていた。

 

 ショーコがパニックになって悲鳴を上げるのを、真那はその手を握り締めて立ち上がらせる。

 

「……走って! 走ってください!」

 

 もつれ、よろめくショーコの手を引き、真那は病棟を抜けようと息を切らせる。

 

「あれは……! あれは何なの……っ!」

 

「……翼手……ヒトを喰らう鬼です」

 

 伝え聞いていた言の葉を紡ぎ上げ、真那はメスを手の中で握り締めてから、待ち構えていた翼手へと振るう。

 

 血潮が舞い、翼手が眩惑されてうろたえた隙を突き、逆手のメスで翼手の首筋を掻っ切る。

 

 結晶化していくのをいちいち目に留めている時間はない。

 

 恐慌に駆られているショーコをひとまず落ち着かせるべきだと、真那は敵影の“声”を感じ取りつつ、中庭を覗き込んでいた。

 

 やはり、と言うべきか。それとも意想外であったか。

 

 ――中庭にも翼手が跳梁跋扈している。

 

 どうしてなのだか、獣達は“声”で呼応している様子だ。

 

「……私を狙って……なの?」

 

「……マナ……ねぇっ! マナぁっ! あの怪物は何! 何だって言うのよぉ……っ!」

 

 喚き散らしたい気持ちも分かる。

 

 自分とて、この状況を完全に把握出来ていない。

 

「……ショーコさん。ここから脱出します。それ以外に生存する方法はありませんし……」

 

「何でそんなに……落ち着いていられるの? 本当にマナなの……?」

 

 昼間の自分とは隔絶しているのだろう。

 

 確かにショーコからしてみれば様変わりしたのは怪物ではなく、自分のほうかもしれない。

 

 真那は掌のメスへと視線を落とす。

 

 平然と傷つけ、その血で翼手を根絶せんとする。

 

 どこまでが本能でどこまでが理性なのか。

 

 それさえも判然とせず、真那は震えていた。

 

「……マナ? 怖い……の?」

 

「……はい。自分の知らない自分が居る事が……何よりも……」

 

 しかし、ショーコは軽蔑したっていいはずだ。

 

 自分が翼手を殺せる兵器である事など、知ったところで彼女のような常人には関係のない領域である。

 

 そう断じていた真那は――真正面から抱擁してきた暖かな体温に目を見開く。

 

「……ショーコ……さん?」

 

「大丈夫、大丈夫だから。あんたは強い子よ、マナ。私が保障する。それに、私もこの状況に振り回されているだけなのかも。マナ、私はあなたを信じたっていい?」

 

 その問いかけに真那は胸が詰まる思いであった。

 

「……はい、はいっ……! 私を信じて……なんて都合のいい事は言えないですけれど、でも、私……ショーコさん。あなたを守りたいんです……っ!」

 

 大粒の涙がこぼれてきてショーコはカラッと笑う。

 

「よかった。やっぱりマナだ」

 

 そう微笑んでくれる人物を、自分はよく知っているはずだった。

 

「……千佳……私……は」

 

「それってマナの友達?」

 

「あ、はい……。でも千佳は、私が……」

 

「何だかよく分かんないけれど、マナが責任を負う必要はないんじゃないの? こんな状況なんだもん。誰だって間違えるわよ」

 

 それよりも、とショーコは血塗れの手を握ってくれる。

 

「あんたのほうが心配。マナ、お願いだから傍に居てね? 約束よ?」

 

 指先が震えている。

 

 きっと触れるのも、ましてや巻き込まれるのも怖いに決まっている。

 

 だと言うのに、ショーコは自分を信じてくれている。

 

 ならば、その信を貫く事だけが自分に出来る唯一の――。

 

「……はい。離れないでください、ショーコさん。私が翼手は倒します。だから、出来るだけ走って……この病棟から抜け出せば……」

 

 そこまで口にしてから可能なのだろうか、という疑念が鎌首をもたげる。

 

 ここまで戦い抜いてきたものの、自分はまだ経験は浅い。

 

 敵を打ち倒すという点で言えば、素人もいいところだろう。

 

 だがショーコは血濡れの手を離そうとはしなかった。

 

「……信じるわよ、あんたを。だって、ここじゃたった二人の友達みたいなものだし」

 

「友達……? 私とショーコさんが?」

 

「あれ? 違った?」

 

 問い返された言葉に真那は放心していた。

 

 ここまで化け物じみた挙動をしても、まだ友達と呼んでくれるのか。

 

 ならば、ショーコを絶対に死なせるわけにはいかない。

 

「……いえ、いえ……! 絶対に、死なせません! ショーコさん、翼手は私が倒します」

 

「……何だか変なの。マナって野暮ったい感じなのに、今はすごく頼りになる」

 

 一つ頷いてから、真那は駆け出す。

 

 少女患者の翼手がその体躯からは想像出来ない敏捷さで道を立ち塞がったのを、真那は迷いなくメスの一閃を振るい落とす。

 

 翼手の顔面を斬りつけ、結晶化していくのを蹴り飛ばす。

 

 いちいち倒すところまで相手にしている時間はない。

 

 今は、一刻でも早く、病棟から脱出しなければ。

 

「……マナ……っ! あれ、何……?」

 

 ショーコが疑問を飛ばしていたのは、中庭の患者翼手達が一斉に傅き始めた状況であった。

 

 まるで何かに敬意を示すかのように頭を垂れた患者の翼手の動向に困惑している間に、ショーコが声を放つ。

 

「……マナ! 前に誰か……居る……」

 

 立ち止まったショーコに真那はメスに血を付着させて佇む。

 

「……誰……?」

 

「これはこれは。何という事だ」

 

 恰幅のいい男性が肩を揺らして笑いながら、こちらへと歩み寄ってくる。

 

「……あなたは……」

 

「この病棟の院長です、はじめまして」

 

「……マナ。この人、何ともないみたいに……」

 

 礼節を心得ているかのように院長を名乗った男は会釈する。

 

「……ここは何なんですか。どうして……翼手が……」

 

「ここは“隔離病棟”ですよ。そして質問はこちらが先だ。あなたが“サヤ”ですね?」

 

「……“SAYA”って……病気の……?」

 

 戸惑うショーコに、ノンノン、と院長は指を振る。

 

「ロンギヌス機関の一員でしょう。よく潜り込めたものだ。ここに潜入してきた“サヤ”はあなたが初めてではない。何人かは居たのですが、血液検査によって血中のSコードの値が閾値に達していたために、皆、廃棄処分出来てきたのに。……その検査を抜けて来たあなたは一体、何だ?」

 

 院長の凄味に真那が気圧されていると、ショーコは袖を引く。

 

「マナ……この人、まだまともに見えるけれど……。だって怪物じゃないし……」

 

 笑みを貼り付かせたままの院長に、しかし真那はメスを手離せないでいた。

 

 むしろ、ショーコの印象とは逆だ。

 

 ――ここで下手に退けば、何か致命的な間違いを犯す事になる――その予感に喉がひり付く。

 

「……あなたは……いいえ、あなたも。人間じゃ、ない……」

 

「人間ですよ? 私も。いいえ、私だけじゃない。あなたがこれまで斬ってきた翼手も、また同じ」

 

「……何、惑わせるつもり……?」

 

「惑わせる、とは。……ああ、なるほど、そういう事か。機関の連中も酷な事をする。まだあなたは、“サヤ”に覚醒して、日が浅い。何も知らぬも同じか。だから組織は尻尾切りのようなつもりであなたを病棟に潜入させた。もしもの時には同士討ちでもすればいい、なんとも残酷な答えなのでしょうね」

 

「……何? マナ、この人は何を言っているの……?」

 

「私にも……一体どういう……」

 

「戦闘経験の浅い“サヤ”を自爆特攻のような真似をさせて少しでも“隔離病棟”の位置情報を知りたい。機関の連中の考えそうな事だ。そして……あなた自身がシグナルである事を、まだ何一つ理解していない」

 

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