BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第十五話 赤い衝動

 

 院長が一歩、こちらへと踏み込んでくる。

 

 真那は思わず叫んでいた。

 

「来ないで! 来れば……私の血で……!」

 

「あなたの血で? どうしようと言うのです? 使い方もほとんど分かっていない“サヤ”で壊滅させられると。随分と舐められたものだ。私の、力を……」

 

 院長が大きく息を吸い込み、そして直後――鼓膜を劈く“声”が残響していた。

 

 この“声”の主は、と真那はセクション三十七で遭遇した上級翼手の様を思い返す。

 

「……まさか……」

 

「マ、ナ……」

 

「気を付けたほうがいい。あなたのすぐ傍に、爆弾はあるのだから」

 

 真那は振り返る。

 

 真紅の眼光を振り乱し、肉体が複雑に折れ曲がったショーコが、そこに存在していた。

 

 肥大化した筋肉繊維が病人服を貫通し、背びれを突き出させてショーコは――否、翼手は真那を見下ろす。

 

「……うそ……」

 

 直後、ショーコであったはずの彼女から爪が振るわれ、真那は病棟のリノリウムの床を転がっていた。

 

 無数のベンチを巻き添えにして、肉体が鈍痛を帯びる。

 

「……痛っっ……」

 

 額が切れたのか、血が片目へと滴っていた。

 

 翼手化したショーコが雄叫びを上げ、こちらへと駆け抜けてくる。

 

 真那はメスをその指先に挟んで一閃を見舞おうとして、翼手から漏れ聞こえてくる“声”を聴いていた。

 

 ――助けて、マナ。

 

「……ショーコさん?」

 

 その声が喉を震わせた時には、翼手の爪が腹腔を射抜く。

 

 真那は激しくかっ血し、ショーコの声でさえずる翼手を見据えていた。

 

「ショーコさんの……意識を保ったままで……」

 

「これは残酷ですか? しかし、あなた方が悪い。“隔離病棟“になんて攻め込まなければよかった。そして、”サヤ“に成り立てのお嬢さん。あなたも運が悪い。何せ、全てを知る前に消えられれば、もう少し安らかに死ねたのに」

 

 院長が顎をしゃくる。

 

 まるでその命令に逆らえないように、翼手化したショーコが乱杭歯で首筋へと噛み付かんとしていた。

 

「ショーコさん! ショーコさんっ! 私達、友達……でしょう?」

 

 血の混じった涙で訴えかけるも、既に野生に支配されたショーコは赤い眼光でこちらを見据える。

 

 獣の眼差しだ。

 

 ぐっと奥歯を噛み締め、真那は瞼を閉じる。

 

 もう、何回も間違いを犯すのは嫌だ。

 

 千佳の時も、両親の時もそうだった。

 

 知らなければいいわけではない。

 

 知らなければ罪が清算されるわけでは決してないのだ。

 

 だから――刃を振るうかどうかは自分で決める。

 

 その心持ちくらいは、あったはずなのに。

 

「……ショーコさぁ……ん。何で私……あなたを……殺せない……」

 

「地に堕ちましたね、機関の“サヤ”の質も。いいから、死になさい」

 

 タクトを振るうように雄弁に、院長は最後の一線を越えさせようとする。

 

 その瞬間であった。

 

 鼓膜を震わせたのは鋭く、そして長い音叉。

 

 それが砲撃によるものだと、認識した瞬間には、世界が裏返っていた。

 

 病院の天蓋が砕け落ち、白い粉塵が巻き上がる。

 

「一体、何が……!」

 

 困惑する院長に真那の視界に映ったのは、白銀の砲弾と、そして天地を縫い留めるかのようなワイヤーであった。

 

 そのワイヤーを伝って、一人の少女が制服を翻している。

 

 風圧が宿り、少女は携えた刃を握り締めていた。

 

 抜刀の刹那に、院長は咄嗟の判断で片腕を異形化させる。

 

「――へぇ、反応は上々。なるほど、上級翼手ね」

 

「……その、声……は」

 

 自分はその人物を「知っている」。

 

 だがどうしてこんな場所に、という事だけが解せない。

 

「……“オトナシ”の“小夜”。こいつにやられるほど弱くないでしょうに。まぁ、武器がそのメスだけじゃどうしようもないか」

 

「何のつもりなのです……! あなたは、一体……――!」

 

「“キザハシ”。覚えておきなさい、あんたを殺す、“小夜”の名前を。あたしは――階小夜」

 

 キザハシは太刀を薙ぎ払い、院長を後退させる。

 

 院長は真正面からの打ち合いよりも、周囲の翼手化した患者を操る作戦に転じていた。

 

 耳を劈く“声”が放たれ、四方八方より翼手が院内へと突入してくる。

 

「……これじゃ、一人では難しいわね」

 

「……“キザハシ”……! 聞いた事がある。“サヤ”の一人か……! それほどまでに我々を殲滅したいか! この討滅の走狗が……!」

 

「ええ、とっても。あんた達の悲鳴が、あたしにとっては協奏曲のようなものだもの」

 

 院長は舌打ちし、患者翼手達を一斉にキザハシへと殺到させる。

 

 その気勢を削いだのは、直後に天上から放たれた白銀の砲弾であった。

 

「……特殊弾頭、間に合ったわね」

 

 砲弾が花開くように内側から展開し、内部に格納されていた一振りの刀をキザハシの前に顕現させる。

 

「言っていなかったかと思うけれど、あたしは元々、二刀流の使い手なのよ」

 

 キザハシはもう一本の刀を左手に構え、刀身を十字に交差させる。

 

「……やれ。“隔離病棟“は我々、翼手人類のための礎だ!」

 

 院長の号令で飛びかかってきた翼手の群れを、踊るようにキザハシは叩き切っていく。

 

 その佇まいの流麗さに言葉をなくしていると、彼女はこちらへと視線を投げて舌打ちを滲ませていた。

 

「……いつまでやってるのよ、それ……。あんたねぇ! もうとっくにこの世界から爪弾きにされた側なんだから、被害者ヅラしてるんじゃないっての!」

 

 右手に携えていた抜身の刀を投げ、それは真那の手の届く距離の床へと突き刺さる。

 

「……刀……」

 

「自分でやりなさい。あんた自身の手で、これまでの安寧と惰弱の世界から、ケリを付けなさい。でないと許さない。それでも“オトナシ”の小夜か!」

 

 キザハシの言っている事は半分も分からない。

 

 分からないが、眼前に戸惑う翼手化したショーコを、救えるとすれば自分しか居ない。

 

 唸り声を上げるショーコの声の残滓が耳に伝ってくる。

 

 ――マナ、殺して……。

 

「……何で……、何でそんな事を……言うんですかぁ……っ」

 

 ――まだ人間の意識があるうちに、マナの手で、殺して欲しいの。

 

 きっと、今にも手離しかねない意識の手綱なのだろう。

 

 そのほうが楽に決まっているのに、ショーコは人間で居たいと願っている。

 

 人間のまま死なせてあげられるのは、きっと誰でもない、自分にしか出来ない。

 

 真那は刀へと手を伸ばしていた。

 

 柄を握り締め、親指を切って血潮を刀身に彫られた溝へと流す。

 

 刻まれた「emeth」の文字へと血が滴った瞬間、真那は声を発していた。

 

「……ごめん……なさい……っ!」

 

 それが自分の背負う咎だと言うのならば、喜んで受けよう。

 

 ショーコを一文字で両断した血文字が頭文字の「e」を消され、「meth」となる。

 

 真紅の一閃は無情にも、あるいは最後の優しさのように彼女の肉体へと染み渡る。

 

 結晶化していく最中で、“声”が耳朶を打っていた。

 

 ――ありがとう……マナ、だいす、き……。

 

 その言葉を聞き届けた瞬間、真那は思い出していた。

 

 記憶の底に蓋をしていた。

 

 自ら思い出すまいと封殺していた、忌むべき赤い記憶。

 

 親友をこの手にかけた――大罪を。

 

「……私はお礼なんて……言われるような人間じゃない……んです」

 

 それでも、一振りのさよならを。

 

 刃に携えた血色の残光が、意味を成すように願って。

 

 崩れ落ちていくショーコの遺骸に、院長は片腕を異形化させて失笑していた。

 

「下級翼手程度を殺して涙する“サヤ”で果たして私に勝てますかね?」

 

「……下級翼手……」

 

 真那は面を上げる。

 

 刹那には――真紅の旋風が全てを洗い流していた。

 

 漂白されて一点に凝縮した意識が閃光の黒点となって、院長を睥睨する。

 

 それだけで、気圧されたように院長は後ずさっていた。

 

「……その眼……!」

 

 俯瞰した意識の自分が、今の自分を観察している。

 

 片手に提げた刃へと迷わずに親指を沿わせ、血文字を滾らせる。

 

 真紅に染まった眼光が院長を捉え、彼の指揮する患者翼手達を瞬きの間に切り刻んでいく。

 

 それは、舞い踊るかのように流麗で。

 

 それは、誰かに決められたわけでもなく。

 

 それは、誰かに咎められるわけでもなく。

 

 最高のリズムで。

 

 最大の悪夢で。

 

 赤い辻風が、まるで雨風のように降りしきり、翼手を寸断している。

 

 結晶化に晒された翼手の死骸が降り注ぐ。

 

 禊の赤い雨を浴びて、真那は姿勢を沈めていた。

 

 院長の恰幅のいい躯体が僅かに硬直する。

 

 その人のいい笑みであった表情が、瞬時に忌々しげなものへと切り替わっていた。

 

「……こんの……討滅の道具共がァ……ッ!」

 

「ええ、そうよ。それの何が悪いの」

 

 異形となった腕を振るう院長とキザハシが幾度か交錯し、互いに干渉の火花を散らす。

 

 キザハシは一度真那の隣まで後退していた。

 

「……行けるわね?」

 

 こくりと頷いた「自分ではない何者か」の冴えた意識がキザハシへと刀を返し、白銀の弾頭へと手をつく。

 

「David,sword」

 

『認証した』

 

 砲弾が花開き、展開された装甲部の中心軸には一振りの刀が収められている。

 

 自分の牙だ、と認識した真那は藍染色の鞘に包まれた刀剣を腰だめに構える。

 

「……“サヤ”二人で、私が殺せるとでも思っているのか……!」

 

「そうね、これでも勝ち筋はかなり高いと自負しているわ」

 

 デヴィッドの放った暗号通信が刀の鍔を繋ぎ合わせていた牙状の拘束器具を解除していく。

 

 途端、真那は駆け抜けていた。

 

 抜刀の銀閃が院長の懐で舞い遊び、彼は咄嗟に爪を振り翳す。

 

 それと同期して大きく弾かれ合うも、真那は壁を蹴り上げ、大上段に振るい上げた太刀を叩き下ろす。

 

 舌打ちが滲み、院長は両腕を異形化させてそれを防御していたが、真那は足蹴にして相手の防御を打ち崩す。

 

 本来ならば、真那のような痩躯では全く突き崩せる気配のない院長の躯体が浮き上がり、院内を吹き飛ばされていた。

 

「……ふざけるな……ふざけるなよ、ロンギヌス機関の“サヤ”風情が……! 私を……! 私に傷を与えるなど……度し難いな!」

 

 院長の顔面に亀裂が走る。

 

 直後に表皮を貫いて現れたのは緑色の皮膚を晒す大型翼手であった。

 

 怠惰の証のように垂れ下がった腹腔で姿勢を落とし、翼手形態の院長は咆哮する。

 

「……合わせるわよ、“オトナシ”」

 

「……ああ」

 

 二刀を携えたキザハシがまず切り込んでいく。

 

 院長翼手は片腕を肥大化させて、その有り余る膂力でキザハシの交差させた一閃を叩き割っていた。

 

 キザハシはしかし、それをまともに受けるような愚は侵さない。

 

 剣の峰で最小限度の受け流しで、相手の打撃を相殺し、流れるような速度で腕を斬り捌く。

 

 片腕を寸断された院長翼手が至近距離で“声”を放つ。

 

 それだけで、常人ならば鼓膜が破れ、全身の筋繊維が引き裂かれていただろう。

 

 それでも――その程度で“小夜”がうろたえるものか。

 

 キザハシは奥歯を噛み締めて二刀を躍らせ、片方の刃を支点として跳躍する。

 

「これで……!」

 

 一閃が打ち込まれかけるも、もう片方の腕を翳した院長翼手はその連撃をいなす。

 

「……随分と生ぬるい太刀筋だな」

 

「そう見える?」

 

 キザハシの返答に相手が疑問を浮かべる前に、真那は立体的に壁を蹴り、ベンチを吹き飛ばし、宙に浮いた僅かな足場を縫うように利用して、院長翼手の背後へと肉薄せしめていた。

 

「……何だと……!」

 

「――終わりだ」

 

 自分とは思えない冷徹で詰めた声が弾け、真那は血を吸わせた刃を打ち下ろす。

 

 赤い残光は間違いなく、相手の死角に放たれていたが――院長翼手はその経験則からか、あるいは反射的な戦術行動か、キザハシに貫かれている片腕を肩口から引き剥がす。

 

 血潮が迸り、一瞬だけ真那の視野が閉ざされる。

 

 その隙を講じ、相手は固めた拳で真那の腹腔を殴りつけていた。

 

 あえて爪を使わなかったのは、逃げに徹するためだろう。

 

 院長翼手は、ボロボロになった片腕を引きずりながら、“声”を使う。

 

 死に体であった患者翼手達が一斉に襲い掛かり、自分とキザハシの動きを僅かに鈍らせていた。

 

 院長からしてみれば、その一瞬でよかったのだろう。

 

「……さよならですね、“サヤ”。ここでは致命的な敗走でしょうが、あなた達に殺されるよりかはいい。“隔離病棟”は何度でも復活する。機関がどれほどこの世界を巡らせようと無駄ですよ。この世において、我々翼手人類の勝利は揺るがないのですからね……」

 

 院長は闇の中に溶け込もうとする。

 

 真那は感覚器を鋭敏化させて院長翼手を逃すまいと、極大化させた意識野の中にその痕跡を捉えていた。

 

 壁を伝って逃げようとする院長翼手に、真那は今一度刀へと血を与える。

 

「……勝ち逃げなんて……絶対に許さない……!」

 

「emeth」の血文字が赤く照り輝き、直後にはその刃を投擲していた。

 

 空気を射抜く速度を伴わせて、その切っ先は呼び込まれたかのように、院長翼手の脊椎へと深々と突き刺さる。

 

 断末魔の叫びが迸る。

 

「……ここ、で……死ぬわけ、には……」

 

「往生際が悪いわね、院長。悪いけれど、ここで“隔離病棟”は打ち止め。あんた達の目論見も挫かれたってわけよ」

 

 キザハシがトドメを刺そうと、二刀のうち片割れを担いで肉薄せんとする。

 

 キザハシならば、確実に獲るはずだ。

 

 その予感に、真那は先鋭化した意識網を手離そうとしていた。

 

 何よりも――もう限界が近い。

 

 如何に“サヤ”としての力を行使しようとも、まだ慣れない肉体機能の発露は、それだけで大きな疲弊となる。

 

 だからなのか。

 

 それとも、最初からなのか。

 

 ――倒れ伏す院長翼手へと、いつの間にか佇んでいた人影に気づけなかったのは。

 

 

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