ファントムの資料を得たいと自分が言い出すのは想定内であったのだろう。
加藤は早速纏め上げたファントムの資料を同期させる。
「……ファントムの餌食になったのは、若い女性ばかりですね……。それも少女と言っていい年かさの」
「ああ。それも含めてC班に頼みたい。コープスコーズC班は君と永瀬モモカ、それに雉子ヤミが在籍している。上は体のいい囮程度にしか思っていないようだが、私は適任だと思っている」
端末に共有された情報にはファントムの血文字の筆跡から男性である事が推察されていた。
だが、翼手はその姿を自在に変える。
これもある意味では当て推量でしかないのだろう。
「ですけれど……ファントムは他の翼手の行動パターンとは違うような気もします。これまで上級翼手、ひいては28号はこの中央庁において身を潜めてきました。前回の作戦においても、四十体の翼手は隠れながら好機を狙っていただけで……ファントムは……」
「そうだな。ファントムはどちらかと言えば、自身の犯行を隠しもしない。加えて気にかかるのは、襲われた被害者達の状況だ」
「……血を吸われている、んですよね?」
臓腑を喰らい、肉体を引き千切っているのも死因だが、恐らく最も重大なのは吸血行為による失血死であると目されている。
「これも妙な話でね。これほどまで食い散らかす翼手が、最も重要視しているのが少女らを吸血する事……そのお陰でファントムという名称がより明確化している」
「……昔の資料で見た事があります。ファントム・ジ・オペラ……女性だけを狙った殺人犯が居たと」
「随分と昔の話だ。理想郷が形作られるよりも数百年単位での。今回のファントムは、その模倣犯の可能性も高い」
「……でも、過去のファントムは翼手ではなかったかもしれませんけれど、これは間違いなく……」
キリエの赴く先を加藤は先んじていた。
「ああ。確実に上級翼手だろう。ここまで見つからないのもそうなら、その反抗手段も。何もかも28号とは一線を画している。ファントムはこの間会敵したと言う、確か……」
「“キサラギヨスガ”、を名乗っている翼手が居ました」
可笑しな符号だ。
自分と同じような名前を持つ上級翼手が四十体を率いていたなど。
出来過ぎている偶然を疑わざるを得ない。
しかし、一体誰があの翼手に名前を与えたと言うのだろう。
基本的に翼手は固有名詞を名乗らない。
それは無数に擬態して自らの本来の名前を忘れているためなのもあるが、元々そう言った記号に頓着しないのが翼手と言う名の怪物だ。
だと言うのに、あの更衣ヨスガは執着していた。
自分を殺すために。
実際、翼手としては強敵であったのだろうが、その後に戦ったサヤの印象のせいで多少薄れていた。
――そう、サヤ。姫川小夜。
思い返す度に、彼女の言葉が胸中で渦巻く。
――私はサヤの、“音無小夜”と言う名前だと言うのか?
確実な要因はない。
しかし、否定しようにも二年間の記憶の隔たりは完全に振り払うのには難しかった。
そんな自分の翳りを察知したのか、加藤が声をかける。
「更衣隊長。君はよくやっている。如何に翼手が君達の戦いに陰を差そうとも、それでもやり抜くといい。戦って勝利する事だけが君の命題だ。自分を知る、と言う意味でもね」
「……加藤総督……」
こうして理解者が居るうちは、まだ迷わずに済む。
それでも、自分の足元はぐらついていた。
どうすれば自分自身の記憶に絶対の価値を持てるのだろうか。
記憶なんて薄らいで、靄のように消えていく代物だと言うのに。
「あら? 来ていたのね」
唐突に扉が開き、そこには平時の様子を崩さないマハラルが佇んでいた。
「お父様……っ!」
思わず駆け寄ろうとして今は加藤の目の前だと己を制する。
しかし、マハラルは何のてらいもなく歩み寄り、自分の頭を撫でてくれていた。
「よくやったわね、キリエ。……C班に被害が出たのは、残念だったけれど。猿渡君だったかしら?」
「あ、はい……。完全に戦線離脱と言うわけではないんですけれど……どうにも頸椎にダメージがあるらしく」
「しばらくは療養ねぇ……。ねぇ、キリエ。何か隠し事をしていない?」
その切り込み方にキリエは心臓が跳ね上がったのを感じていた。
「……いえ、報告書は既に加藤提督に提出済みで……」
「そう? 何か迷いがあればいつでも言ってね? そうじゃないとあなたの父親をやる意味もないからね」
キリエはサヤに関しての情報を意図的にぼやかしていた。
姫川小夜が自分に言ってのけた発言。
そして、自分自身が“音無小夜”と言う可能性。
どれもこれも、個人で抱えるのには重過ぎるのだが、誰かにこれを言った瞬間、己が崩れ落ちるような気がしていた。
「……いえ、何も……」
「そっ。アタシはこの書類を共有して、少しでもファントム捕縛に役立てたいから来たんだけれど」
「ああ、それなら。構いませんよ。ちょうどC班に任せようと思っていたところですので」
加藤の計らいにより、キリエはマハラルへと尋ねる。
「あの……このファントムって言う翼手、強いんですかね……」
「そうね。でも歴史の舞台に巧妙に隠れるのが翼手だから、そういう点で言えば、この相手はさほど賢いとは言えないわ。本来なら血のメッセージも、それに被害者を放置しておくのもどれもこれも詰めが甘い。……まぁ、考えられる要素とすれば……」
「と、すれば……?」
マハラルは端末を操作し、そこに事件現場を投射させる。
「わざと見つけて欲しくって、こういう事件を起こしているって言う線かしらね。けれど、これは先の翼手の習性と矛盾する。ファントムが狙っているのが何なのか……少しでも分かればいいんだけれど」
「ファントムの狙っているもの……被害者は全員女性なんですよね?」
捜査資料に目を通しながら、キリエは遺体の損壊が酷い事に気が付く。
まるで――そう、まるで許しがたい怨敵を前にしたかのような。
「まぁ、いずれにせよ、我々はコープスコーズC班に依頼するつもりですよ。他の部署は別の任務に就いていますからね」
コープスコーズC班に振られるだけマシなのだろう。
A班とB班は一度として真っ当に作戦を組んだ事もない。
「けれどねぇ……上級翼手だと仮定して、あなた達で勝てる? もしよければA班から援軍を募ってもいいんじゃないの?」
マハラルの厚意はありがたいが、今回ばかりは自分達でホシを上げる必要性があった。
「いえ……私達で検挙しないと……。そうでなくっても猿渡君がリタイアしたんです。なら、彼が戻ってくるまでにちゃんとしておかないと……」
こちらの覚悟を察したのか、マハラルは肩に手を置く。
「そっ。けれど無茶な事はしないでね。何があったとしても、アタシはキリエの父親なんだから。父親が娘を心配するのは当然でしょ?」
ウインクするマハラルにキリエは心底救われた気分であった。
ここまで、不明瞭な出来事と敵との遭遇戦が続いている。
摩耗しかねない戦いの只中で、今は多少でも癒しが欲しい。
「……お父様。ちょっとだけ打ち合いに付き合ってもらえますか?」
「いいわよ。じゃあ三十分後に訓練場にね? キリエの剣術、楽しみだわ」
加藤に資料を差し出して片手を振って立ち去っていくマハラルの背中をじっと眺めていると、不意打ち気味に尋ねられる。
「……更衣隊長はお父様であるマハラル様にご執心かな?」
「あっ、これはその……違って! あっ、違うわけじゃないんですけれど……」
大慌てで取り繕おうとしたキリエに加藤は笑いかける。
「冗談だよ。それに素晴らしいじゃないか。親子仲睦まじいなんて。私の娘なんて、君くらいの頃には口も利いてくれないんだからね」
「……別段、すごく仲がいいってわけじゃないとは思うんですけれど……けれど、何て言うのかな……安心出来るって言うか……。お父様に傍に居てもらえるだけで私、幸せだなぁ、って」
「幸せ、か。親にとってもそれだときっと嬉しいはずだよ。……もっとも、それが娘となるとね。いずれは親元を離れるものだから、寂しさは付いて回るが」
そうなのだ。
娘を持つと言うのは、いずれは別れも付き物と言う事。
「……でも加藤総督はお優しいじゃないですか。きっと娘さんもそれを感じ取っていらっしゃいますよ」
「そうだといいんだがね。……さて、いつものカウンセリングと行こうか。あまり時間は取れないかもしれないが」
コーヒーを抽出し、芳しい香りが漂う中でキリエは己の内奥へと回帰していた。
前回の失態、そしてサヤとの関係――どれもこれも清算しなければならない事ばかりで、正直目が回る。
「……あの、サヤらしき相手と戦った時に……いつも言っている女の子が……」
「猫背で前髪の長い少女だったか。その子がどうかしたのかい?」
黒猫をあしらったマグカップに注がれたコーヒーに視線を落とし、キリエは言葉の穂を継ぐ。
「……その子が手を引いたんです。私に、まるでこれ以上戦わせないように。でも、私、それを振り切ってしまって……。そこから意識が曖昧で……」
サヤを撤退に追い込んだのだと理解したのが病室のベッドの上だったのだからこれは手痛い失態だろう。
加藤はしかし特段責め立てるわけでもない。
「ふむ……ともすれば君の記憶の鍵を持っているのは、サヤなのかもしれないな」
「……確か、姫川小夜と名乗っていたはずです。ですが、そんな情報は一つも……」
「中央庁に攻め込むんだ。相手も二手三手先を読んで来ていると思うべきだろう。それよりも、だ。戦った感触を聞かせて欲しい。サヤは強かったかね?」
キリエは己の中に一拍、逡巡を浮かべてから確かな言葉を発する。
「……強かったです。上級翼手なんて相手にならないほどに。それに、サヤの血を吸った刃で斬られた翼手は、一瞬で結晶化して……」
「事前情報通りと言うわけか。なるほど、狩人は未だに健在というのは恐ろしいな」
「でも……手はあります。コープスコーズだって対抗策になり得るはずですし、それに私だって、追従するくらいは……!」
「更衣隊長。サヤは手強い。これはエメトピアが成立してからずっとだ。サヤによって翼手が減らされるのは良い事だが、彼女らは楽園を蝕む悪鬼だろう。その血が毒となるのならば、我々アシッドにしてみれば手を打たないわけにはいかない」
サヤがどれほどの戦闘兵器だとしても、自分達だけで立ち向かうのは無謀だろう。公に、これ以上サヤに関わる事も、ましてその内情を知ろうとする事も無謀なのだと言われるのだと思っていた。
だからこそ、加藤の次の発言に咄嗟に反応出来なかった。
「……よって、我々はファントムの捜査と同時に、君達コープスコーズの連携を望む。更衣隊長、B班の隊長との顔合わせを行ってもらう」
想定外とはこの事でキリエは一瞬うろたえてしまう。
「……それ、って……」
「合同捜査と言うわけだ。猿渡隊員の欠員は痛い。それに、B班も少しだけ作戦行動に余裕が出てきた頃だと聞いている。今回のファントムと、そして君の記憶にまつわる物語。どれもこれも、一つだけで追うのは難しいだろう。既に申請書は通してある。君には三十分後に会議室でB班の班長と打ち合わせを」
「ま、待ってください……! そんなの急に言われても……」
「急なのはこの事態そのものだ。君の記憶がサヤにどう関係しているのか、そして今も楽園を闊歩する敵をどう始末するのかが急務そのもの。その上で、ファントムという更なる脅威に晒されている。私達は個の意識だけではなく、集団の意識を持つべきだろう。エメトピア中央庁の日々を守るために、その自覚を持て、更衣隊長」
確かに班員を危険に晒した自分の行動は是正されるべきだ。
その上、これ以上の作戦を実行するのにはあまりにも戦力が心許ない。
「……その、B班の班長は……」
「書類を渡しておく。経歴は素晴らしい。これまでほぼ八割以上の翼手撃退率。それに、少しだけ厄介な事情もあるB班を上手く纏め上げている。間違いなくリーダーとしての格も君よりかは上だ」
そうハッキリと言われてしまうとキリエ自身も少ししょげてしまうが、加藤はあくまでも快活に告げる。
「なに、君にないものがある、それだけだよ。向こうもそうかもしれないな。任務外で会った事は?」
「……いえ。そもそも任務だってほとんど遭遇しないですし……」
「ではいい機会だ。更衣隊長にはB班隊長との面会を命じる。これは上官命令だ」
そこまで言われてしまえば棄却するわけにもいかず、キリエは受け入れていた。
「……分かりました。ですけれど……私、初対面の人とあんまり仲良く出来ないかもです……」
「なに自信を失ってるんだ。C班をここまで纏め上げてきたんだ、君だって一端だとも」
書面で受け取ってから、指示された会議室へと向かう。
その途中で憂鬱のため息だけは隠せなかった。
「……B班って私達よりかは圧倒的に上だし、会った事もない人と話すのは憂鬱だなぁ……」
そもそもコープスコーズと言う組織で序列は絶対的な意味を持つ。
埋めようのない隔絶。
そして、基本的に相手の作戦内容に口出しは出来ない。
これほどまでに閉鎖的な組織であると言うのに、命令権は別口なのだから始末が悪い。
自分の場合は加藤だが、他の班は違うはずだ。
十分前に会議室に辿り着いたキリエは書類に記されたその名前をなぞっていた。
口にする前に会議室の扉が開かれる。
直立姿勢を取って相対したキリエは、思わず口をついて出た名前を止められなかった。
「……キザハシ……さん?」