その気配に勘付いたのは、キザハシのほうが後であったらしい。
ハッと習い性の神経で飛び退った彼女は異常事態そのもののように、ローブ姿の人物を認める。
「……何者……? ここに現れるって事は……」
「――なるほど。二人とも“サヤ”ですか」
絶対零度の響きを伴わせた、冷徹な声。
人間の唇の紡ぎ上げるような音叉ではない。
奇妙なほどに色素の薄い唇が覗き、死骸のような白亜に近い肌が僅かに垣間見える。
それは、この場に在るのにはあまりにも異色。
「……たす、ケテ、くだ、サイ……シュヴァリエ……」
「シュヴァリエ……? 今、シュヴァリエって言ったの……まさか……!」
「死に損ないは余計な事を口走る。いつだってそうですね」
次の瞬間には、人影が構築したのは大剣を想起させる片腕であった。
異形の腕を振るい、院長翼手の息の根を止める。
首を落とされた院長翼手は結晶化を受けて脆く崩れていく。
その遺骸を、相手は無慈悲に蹴飛ばしていた。
「ゴミです、翼手といえども、死ねばゴミになる。それまでの価値は消失し、そして意味をなくす」
男の声のようであったが、よく聞けば聞くほどに鈴を鳴らしたような少女の声にも聞こえる。
正体を掴めない相手に対し、キザハシの肩が震え始めているのを、真那は感覚していた。
「……キザハシ……?」
「……あんたが正真正銘、シュヴァリエだって言うんなら……ここでの勝負は……」
強気なキザハシが恐れを抱いたように歯の根も合わない様子で怯えている。
真那には何の事だかまるで分らなかったが、それでも院長を殺してのけたのだ。
それは即ち、無関係ではないという事。
身構えると、相手は院長の死骸に突き刺さっていた刀を掴み、それを軽く投げ渡す。
「構えなさい。こちらだけではフェアではないでしょう」
眼前に転がり落ちた刀に、真那は警戒を解かずにその柄を握り締める。
「……お前も翼手なのか」
「名乗ったほうがよろしいでしょうかね。新たな“サヤ”。僕の名前はアダム。――シュヴァリエ、アダムです」
アダムと名乗った相手は片腕を硬質化させ、大剣のように構築しているだけで、ほとんど隙だらけに映っていた。
先ほどまで戦闘していた院長のほうがよっぽど敵意に塗れている。
戦う気がないのか、と真那は訝しんだが、キザハシが知っている相手ならば、敵に違いない。
真那は再び、刀へと血によって火を灯す。
「emeth」の血文字が刻み込まれ、赤い残光が宵闇で月下を帯びる。
「……翼手ならば……私の敵……」
「来なさい、“サヤ”。僕も前線から退けば腕が錆びつく」
手招いた相手に、真那は戦闘神経を奔らせていた。
一瞬の肉迫の後に、加速した刃を疾走させ、その腕を断ち斬る――そこまでのイメージを脳裏に描き真那は瞬間的に加速していた。
馬鹿正直に真正面からは仕掛けない。
壁を蹴り、鳴動で宙に浮いたベンチを足掛かりにし、病室のドアを取っ掛かりにして敵の横合いから一閃――それで全ての決着が着くはず。
赤い旋風に意識を染められている今ならば、どのような相手でも一蹴出来るだろう――そう信じていた。信じ込んでいた肉体は、意識は、感覚は――この時、アダムの発した冷たい一言に掻き消される。
「――その程度ですか」
何が起こったのか、まるで分からない。
何が生じたのか、何一つ理解出来ない。
だと言うのに、両腕が宙を舞うのは。
両足が断絶されたのだけは。
意識に浮かべるまでもなく、明瞭で。
そしてなおかつ――間違いようもない現実であった。
「……うそ……」
認識を改めようとして、アダムの片腕が四肢をもがれた真那の胸元に伸びる。
病人服の襟首を掴まれ、外套より覗く赤い瞳が無力な自分を憐憫していた。
「なんて――弱い」
アダムの片腕が大剣化を解いて、自分の頬をなぞる。
生殺与奪を完全に奪われた状態で、真那は歩み寄ってくる死の足音を聞いていた。
「……ま、だ……」
「どうすると言うのです。両足を削いだ、両腕を落とした。如何に貴女が“サヤ”とは言え、これではまるで……そう、まさに手も足も出ないと言うもの」
アダムが片手を硬質化させた剣で真那の鎖骨をなぞる。
首を落とされるのも時間の問題である、と認識したその時には、真那に宿っていた赤い旋風は消え失せていた。
全ての現象が今さらに認識され、そして恐怖だけが這い登ってくる。
――分からない。
だが、それでも分かるのは。
――怖い。
「さよならです、“サヤ”」
振るい落とされかけた死の一閃を、直近の火花が遮る。
無理やり距離を開かれ、真那はアダムと相対するキザハシの姿を大写しにしていた。
「……キザハシ……さん……」
「何やってるのよ! あんたは! ……シュヴァリエ相手に無策で飛び込むなんて……!」
「そちらの“サヤ”は物分りがいいようですね。僕の実力も計れずに、懐まで来た愚かな相手は彼女が初めてですから」
「……黙りなさい。あんた達の目的なんて、たかが知れているでしょう……! この“隔離病棟”をなかった事にするくらい……!」
「おや、それにしては。そこまで怯えていらっしゃる。どうにも、いけませんね。僕は平和的に戦いを終わらせたいだけなのに。いつもそうなのですよ。シュヴァリエだと言うと、貴女もそうだ。“サヤ”は怖気づいて、それでもう闘争意識をなくす。そっちの彼女のほうが、両手両足をもいだとはいえ、まだ面白そうだった。貴女は、つまらない側の“サヤ”ですね」
「……どうとでも言いなさい。戦場じゃ、次に生き残るべきを考える人間が勝つ」
真那はようやく、片腕でキザハシに抱えられている状態である事を思い知る。
今の状態では、自分だけではない。
キザハシも死ぬ事になるだろう。
「それは浅慮だ」
アダムが姿勢を沈める。
来る、と身構えた直後、キザハシは首筋に装着した無線機に声を吹き込んでいた。
「……今よ。ポイントはあたしと“オトナシ”の前方十五メートル」
『認証した』
飛び込もうとしたアダムは、ハッとして青い残像を纏いつかせて大きく後退する。
瞬間、自分達と彼の間に割り込んできたのは白銀の特殊弾頭であった。
開くなり、ワイヤーをしならせて脱出機構を拡張する。
「……逃げる、と来ましたか。僕一人ですよ?」
「挑発には乗らないわ。ここではね。でもいずれは……あんた達、翼手人類を必ず……討ち滅ぼす……!」
キザハシの眼光に宿った赤い殺意はそれだけで並大抵の獣ならば委縮したであろう。
あるいは、愚かしいまでに戦闘意識を研ぎ澄まされていたか。
しかし、アダムはいずれのどちらでもない。
大剣の片腕を戻し、軽く会釈してみせる。
それはまるで、舞踏会の主賓に遭遇したような、流麗な立ち振る舞いで――。
「お待ちしていますよ。純正人類の従順なしもべである、“サヤ”と戦える事を」
特殊弾頭のワイヤーが引き戻される。
真那は夜空の天蓋が砕けているのを目にしていた。
今の今まで、空だと思っていたものは偽りであったのだ。
広大なガラス細工である夜空を抜けると、黎明の光が網膜に焼き付く。
世界は朝焼けに染まっていた。
その只中で、自分とキザハシは漆黒の戦闘機の腹腔へと収容される。
「任務ご苦労、倉橋真那。これより、離脱する。いつまでも一カ所に留まってもいられないからな」
ルイスの言葉に何かを返す前に、真那はかっ血していた。
キザハシが苛立たしげに包帯を両腕両足の切断面へと巻いていく。
「……あんた、覚醒して日が浅いのに無茶をし過ぎなのよ。肉体が付いて行っていない」
「……わた、し……私……」
「黙って。今、何か言われるとすっごいムカついて、何しちゃうか分からないから。適切な処理がして欲しかったら……まだ生きていたかったら少しは黙る事くらい、出来るわよね?」
「生きて……いたかったら……」
だが自分は殺してしまったではないか。
一度ならず二度までも。
大事な存在を。
他でもない、自らの手で。
大粒の涙が堰を切ったように頬を伝う。
恐怖したからではない。
後悔したからと言うのも違う。
ただ自分は、自分の脆さ、弱さが――誰よりも憎い。
「……悔し泣きも後になさい。あんたのデヴィッドに報告しないといけない事もある」
血の滲んだ包帯で、キザハシは真那の涙を乱暴に拭う。
その取り付く島もないような行動が今だけは――言葉にするまでもなく何よりもありがたかった。