無線が接続され、キリエは回線状況を通達する。
「こちら更衣……。現着しました」
赫号を横付けさせ、声を吹き込む。
『こちらB班、依代。……なかなか焦らしてくれるじゃないの。ファントムは今のところ、まだ出現の気配はなし。永瀬さんも頑張ってはくれているようだけれど』
キリエは周囲の気配を探る。
B班の構成員は誰も彼も気配を殺す事に長けており、その息遣いさえも感じさせない。
「……現場に急行する関係上……少し目立つものを足にしてしまいましたので、事が起こってからでしか……」
それだけが悔やまれる。
赫号は優秀な機動力を誇るも、モーターコイルの音叉で翼手にはすぐさま勘付かれてしまうだろう。
そのため、キリエが配置されたのは後方もいいところであった。
「き、キリエマッマ……あたい、疲れちゃった……」
「ゴメンね、ヤミちゃん。ちょっと酔った?」
「キリエマッマ、ハンドル握ると別人なんだもんなぁ~……」
すでにぐでっとしているヤミへと微笑んでから、キリエは広域通信に切り替える。
「こちら更衣。雉子ヤミ構成員と同行しています。帯刀許可は取り付け済みです」
『了解。ま、あたしも似たようなもんよ。任務の性質上、配置状況は言えないけれどね』
ミコはファントムを発見次第、討滅処理を受諾されているはずだ。
恐らくは上級翼手と目されるファントムを相手に、通信網は傍受されていると思ったほうがいい。
その上で作戦を立案してみせたミコの手腕に今は期待するほかない。
「……ミコ隊長。もしもの時があれば、いつでも……」
『逸んないで。……って言ったところで、仕方ないか。前回の作戦に引き続き、そっちの班員が陽動任務に就いているってなれば、隊長としちゃ心穏やかってわけでもないだろうし』
今にモモカが翼手の毒牙にかかるかもしれないと言うのならば、大剣で割って入ってもいいほどだったが、これも作戦だ。
「……ファントムが出て来ない限りは……」
『そっ。様子見ってところね。けれど、これまでの犯行現場と、そっちの雉子さんの読み通りなら、ファントムが現れるのもそうそう遠くないはずよ』
キリエはすぐさま強硬に移れない己を顧みて、拳をぎゅっと握り締める。
「……ミコ隊長。私、分かっていないのかもしれません」
『作戦に関して? それとも、班員が危険に晒される意味を?』
「……多分、両方です」
我ながら情けない。
対翼手に特化した部隊に配されておきながら、全て後手に回っていると言うのも。
『……案外、それくらいの責任感のほうがいいのかもね。ほら、あたしはさ。B班の班員がみんな優秀なもんだから、そこまで不安になんないって言うか。面倒見がいいのもあんたの長所よ』
「そう、でしょうか……。でもこれって……」
『いいから! 自信持ちなさいっ! あんたはよくやってる。それだけは確かなんだからね』
不可思議な感覚だ。
何だか今のような激励の言葉を、ミコからかつて――とても前に聞いたような、そんな気がする。
「……変な事言い出したとか思われちゃうかもしれないですけれど、ミコ隊長と話していると……ちょっと安心します。何でなんでしょう?」
『さぁね。けれど、意外なのはこっちもそう。あんたと喋ってると……こんなヤバい現場だってのに安心する。本当に、何で?』
「……もう。聞きたいのはこっちなんですから」
『それもそうか』
からっと笑った様子が通信越しでも伝わり、キリエは今だけは任せてもいいのだと安堵する。
『……どう? 力抜けた?』
それも分かっての事なのだ。
さすがはコープスコーズB班を束ねる実力者である。
「……はい。ミコ隊長、私――」
そこから先を冷徹な通信網が遮る。
『対象、会敵しました』
本部よりもたらされた情報にキリエは端末に表示された様相に息を呑む。
「……これが……ファントム……!」
モモカに接触したのが伝わり、キリエは再び鋼鉄の躯体に熱を通す。
「き、キリエマッマ……! 突撃するの……?」
「モモカちゃんだって前回のダメージが残ってるはず。あまり時間はかけられないよ」
「そ、それはそうだけれどさ……。キリエマッマだって、思うところがあるんじゃ……」
ヤミも自分を慮ってくれている。
だが、班員に頼ってばっかりの隊長でいいはずがない。
アクセルを吹かし、排気口から鋼鉄のいななき声を上げさせて赫号が蒼い躍動を帯びる。
「大丈夫……! 私がやらないと……だから……!」
目標地点に向けて一路、加速する。
裏通りの一本道だが、後方配置のせいでどうしても五分はかかる。
その間に状況が移り変わっていてもおかしくはない。
「……何とか間に合って……!」
『更衣隊長! 急いでいるとは思うけれど……待って。彼女は……』
ミコの不明瞭な言葉が流れた後に、激震した音響にキリエは下唇を舐める。
「……絶対に間に合ってみせる……!」
姿勢を沈め、さらなる加速に身を浸したキリエは感覚器を奔らせ、視界を拡張する。
モモカへと寄り添っているのは黒衣を纏った痩躯であった。
――あれがファントム……?
確証を得る前にキリエは既に戦闘態勢に入っている。
「ま、マッマ? 危ないよ……!」
既にヤミの制止の声も届かない。
キリエは赫号の上で立ち上がり、立脚して大剣の鯉口を切る。
解号をそらんじる暇さえも惜しい。
キリエは射程に収めたファントムらしき黒衣に向けて弾丸のように駆け抜ける。
己を鋼鉄の砲弾と定めたキリエは即座に戦闘へと切り替えた肉体で大上段に太刀を打ち下ろす。
だが、それを留めたのは他でもない。
「……何で……!」
「落ち着きなさいよ……! だって、あれは……!」
ミコがキリエの大剣を押し止める。
理由が分からずに困惑する視界の中で、ファントムらしき黒い影が拡張させたのは漆黒の翼だ。
モモカを抱えて、ファントムが飛び去ろうとしている。
「ミコ……先輩……! 退いてください! 奴はファントムなんでしょう……!」
「……駄目。退けないの……。何でなのか分からないけれど、あれをあたし以外が……あれ? 何で……? 何でここであんたを止めているの……?」
ミコもその衝動の正体が分かっていないようであったが、今ここでモモカを連れ去られてはならない――それだけは明瞭だ。
「……ごめんなさい……ッ!」
ミコの肩口に着地し、そのまま勢いを殺さずに肉体を蹴って踏み台にする。
「待って……! 待って……!」
ミコの声が遠ざかる。
キリエは殲滅の衝動のままに、ファントムへと追い縋っていた。
飛翔を果たしたファントムへと風圧が舞い上がり、キリエは一息に断ち切ろうとしていた。
「……討つ!」
モモカを抱えていたファントムの相貌が露となる。
仮面を被って隠していたが、それでも透き通るかのような白い面持ちは、まるで亡者のようだ。
渾身の力で刃を振るい、ファントムの肉体が地面に叩きつけられる。
モモカが転がり落ち、何度も咳き込む。
「モモカちゃん……!」
その首筋から血が伝い落ちる。
吸血されたのだ、と理解した瞬間、キリエを抑圧する自我が消失する。
「……よくも……」
途端、世界は赤く染まる。
全てを殲滅の血に任せ、キリエは大剣を下段より振るい上げていた。
持ち直しかけていたファントムの痩躯を暴風のような太刀が舞い上げる。
ファントムが翼で自身を保護しようとしたが、防御陣でさえも脆い。
横合いから斬り付けて一閃。
ファントムの肉体が弾け飛び、壁に打ち据えられる。
キリエはそのまま追撃しようとして、不意に袖口を引く存在を感覚する。
駄目なのだと、泣きじゃくる猫背の少女が告げる。
「……あなたはいっつも……泣いてばっかりじゃないの……!」
忌々し気に牙を軋らせ、キリエは踏み込もうとしていたが、その時にはファントムの仮面がずり落ちていた。
露となった白い顔には無数の茶褐色の血脈が宿っており、本来ならばぞっとするほどの美貌であるそのかんばせを蝕んでいる。
だが、キリエの口をついて出たのはそれに関してではない。
「……あなたは……シュヴァリエ、アダム……?」
――だが、それは誰?
知るはずのない情報が口走ってからキリエは全身が震え出すのを感じていた。
これは「恐怖」だ。
更衣キリエが知り得るはずのない何かが全身を駆け巡る。
この感覚を、自分は何度も知っている。
――キリエ。立ちなさい。
幾度となく記憶の奥底に封殺してきた、原初の記憶。
立ちはだかるマハラルの刃が首筋に据えられる。
平時とはまるで隔絶されたマハラルの絶対零度の眼差しに、自分は何も言えなくなる。
頭を振って懇願すると、くいっとマハラルは自分の顔を引き寄せるのだ。
――なら、また「死んで」みる?
目の前に切っ先が突き付けられる怖気に、キリエはその恐怖を振りほどくかのように満身から叫んでいた。
身も世もない、純粋な命としての恐怖心の発露。
「……なん、で……お父様は……いい人のはずなのに……?」
何でこんな不出来な記憶が自分の中に存在するのだ。
大剣を取り落とし、キリエは膝を折る。
その瞬間を待っていたかのように、ファントムが翼を構築し直してこちらへと突貫する。
咆哮がゼロ距離で迸り、音響兵器そのものと言える質量が鼓膜を破り、肉体を嬲る。
キリエは壁に押し付けられたまま、何度も何度もそれを浴びていた。
再生能力が追い付かないほどの連鎖。
その度に肉体強度を無視した骨格の粉砕、全身が翼手の叫びでズタズタに引き裂かれていく。
耳から血を流し、血の涙が顎を伝い落ちる。
「あ、……」
ファントムがその手で自分の頭部を掴み取り、果実でも潰すかのようにして振り下ろす。
顔面の表皮が焼け爛れたかのような、鋭い痛み。
立ち上がろうとしてもファントムの“声”が重力のように押し潰さんとしてくる。
「……たた、なくっちゃ……」
――けれどそれは誰のため?
目の前の幻像。
前髪で顔を隠した少女が首を傾げる。
ほんの些細な疑問のような振る舞いに、キリエは微笑みかけようとしてファントムの黒い腕が伸びて何度も何度も、何度も地面に叩きつけられる。
最早、その気概さえも失ったかに思われた。
事実、キリエの表層意識はこの時、理性を手離す事を望んでいた。
下手に生き意地が汚いから、こうして苦しんでしまうのだ。
下手に生存本能があるから、こうして死に切れないのだ。
ならば、死んでもいい。
別段、いいではないか。
ここで意識の手綱を掴み続ける事を諦め、ただただ諦観の上に死しても。
モモカが見てくれている。ヤミが見てくれている。ミコが見てくれている――これ以上に、死に場所なんてないではないか。
――しにたいの?
まるで純朴な問い。
他の言葉なんて知らないかのような。
キリエは答えようとして、ファントムに喉元を絞め上げられているのを関知する。
黒い細腕に茶褐色の血脈が蠢動し、炯々とした真紅の瞳は殺意に沈んで。
このまま死んでもいいのだと、言い切れればまだよかった。
だが――自分の中に潜む何者かが答える。
ここで死んでなるものかと。
何者の“声”なのかと、キリエは内側に潜っていた。
それは黄金の稲穂の向こう。遥かなる広大な平原を抜け、混然一体となった旋風を超えて。
描いた事しかない、楽園の向こうの地平。
俯瞰する視野の中で、波間で砕ける白波を細い足が蹴る。
砂浜に足跡を付けながら、麦わら帽子を傾けるのは白のワンピース姿の少女だ。
嗅いだ事のない涼やかな香りを纏わせ、少女は小首を傾げる。
その唇が次の瞬間、何と紡がれるのか、キリエには予感があった。
だが――それは永劫に訪れない。
何故ならば。
直上から舞い降りたセーラー服の少女が赤い一閃でファントムの片腕を断ち斬ってみせたからだ。
酸素が急速に戻ってきた肉体でぼやける視界をキリエは持て余す。
「……何故、ここに居る」
まるで断ずるかのような鋭い論調。
キリエは咳き込みながら、肉体の熱が循環し始めるのを感じ取る。
今さらに生存本能に衝き動かされた血脈が身体機能を取り戻そうとしている中で、もう一人の声を聞いていた。
「――ねぇ、これがオトナシサヤですか?」