想定外の殺意と深度の眼差しにキリエは呼吸さえも儘ならなくなる。
来る、と予感した直後には一瞬にして距離を詰められていた。
加速に至るまでもロスも、ましてや予備動作もない挙動にキリエは咄嗟に大剣を翳して防御するも、躍り上がった更衣小夜は大剣の峰を蹴って唐竹割りを見舞う。
横っ飛びして回避したが、着地と同時に目を瞠る身体能力と反射神経で更衣小夜の切っ先が眼前に迫っていた。
キリエは後ずさる。
頬から血が滴り、息も上がっていた。
「更衣キリエ。貴様の存在理由はこの世にはない。私こそが、キサラギの名を冠するのに相応しいサヤだからだ。所詮、紛い物……ここで潰えろ」
青い加速度に身を任せた更衣小夜は瞬時に横薙ぎの一閃を払う。
キリエは大剣による防戦一方に追い込まれていた。
――どうしてこの翼手はそこまで自分に執着する? 否、それよりもサヤと対等以上に戦ってみせるのはどういう事だ?
前回までとはまるで違う。
更衣小夜は足払いを行ってこちらの姿勢を崩してからキリエの横腹へと刺突を見舞う。
激痛が走り、キリエは大振りの一撃で相手を引き剥がそうとするが、膂力に任せて更衣小夜の一撃が食い込む。
「がぁ……っ!」
激しくかっ血する。
内臓を切り裂かれ、その上で力任せに吹き飛ばされたのだ。
如何に再生能力があろうとも、これでは勝ち筋も見えない。
「……分かっていたんだ。貴様は私には勝てない。どれほどその姿、そして過去があろうとも、同じ事だ。その名前を私に差し出して死に絶えろ」
切っ先が喉元へと据えられる。
更衣小夜を殺す術はまるで思い浮かばない。それどこか事態は最悪だ。ミコは茫然自失としており援護は見込めそうにもない。モモカは気絶しており、B班の統率も乱れている。
この状況でファントムと更衣小夜――両方を相手取って勝てるとは思えない。そもそも、勝つ必要性があるのか。
ここで負けて、敗北して、死を実感したまま、無力感に苛まれ死んでいく。それが相応しい末路だというのならば、甘んじる事も、ましてや流れる事も間違いだと思えない。
「……一つ、教えて……。何で、私なの……」
すっと刀が肩口に差し込まれる。迷いのない殺意、迷いのない抹殺の意識が刃となって、キリエの肩を引き裂く。
激痛に奥歯を噛み締め、突き抜ける痛みと苦しみのままに叫んでいた。
「何で、だと? どうして、と、そんな事を今、貴様は尋ねたのか。ならば、愚か者だ。私達、翼手が狩られ、奪われ、凌辱され続けてきたこれまで。それを、何でなどと。……だが、その蒙昧なる意識は途切れ、これからは変わる。私達、翼手の側が変える。全てを、この手に……貴様の名前でさえもだ、更衣……キリエぇ……ッ!」
薙ぎ払われた一閃で吹き飛ばされる。防刃コートを羽織っていても、それでも減殺し切れない威力と殺気。キリエは何度も咳き込みつつ、流れ落ちる血を見据える。頬を焼く熱、肩の傷に燻る命の脈動。
そうだ――自分は血によってこの世に生を受ける事を選ばれたのだと、醒めた脳髄が唐突に理解する。「更衣キリエ」と言う名前も、ここまで戦い抜いてきた人格も、何もかも。だが、そこに意図はあったか? そこに執着心はあったか。そこの妄執はあったか。そこに怨嗟はあったか。そこに――誰にも奪わせない、自分だけの価値なんてあったか?
頬から滴る血が、落ちる途上で不意に球体となって浮遊する。
時間が止まったのではない。身体感覚が、思考領域が、潜在衝動が、今、この時を縫い留めているのは、この頭蓋に収まった自分の脳細胞だ。
止まったように錯覚する意識の中で、キリエは思考する。思索し、今の生存に齧りつく。剥き出しの牙で、剥き出しのままの生存衝動で。
髄液が逆流するように熱を持つ。
首裏が灼熱を伴わせ、全てが――逆巻き、流転していた。
これまで思い返す事など一度もなかった、これは走馬灯であろうか。時間の逆回しが、脳内で巻き起こる。最後の一滴となった脳内麻薬の只中で、あらゆる出来事が逆再生していた。
コープスコーズC班の隊長となった時の事。お互いに痣だらけの顔をしたタツヤとアオを迎えた、祝賀会の夜。モモカの事情を聞かされ、指南役として拝命されたその日の夕映え。ヤミに何度も食事を持って行った、まだ打ち解けていなかった時期の事も。次第に家事をアオに任せるようになった。次第に猫達のしつけはタツヤに任せるようになった。モモカに勉強を教える事が楽しみになっていた。ヤミの世話を焼く事が、少しずつではあったが生きる目的に近いものになっていた。
足並みはずっとずれていたのかもしれない。それでも、あの家で。家族ごっこをする事が楽しくなっていたのは間違いようのない事実。誰かが言い出したわけでもない、誰かが拒んだわけでもない。それでも、自ずと収まるべきところに収まるかのように。
――自分は更衣キリエ。コープスコーズC班の隊長であり、班員からは母親のように慕われている。モモカの姉のように勉強を教え、反発的なところのあるアオを諫め、タツヤに時には助けられ、ヤミには母性を感じ、どんな時でも模範的であれと。
C班の皆は自分の背中を見て育つのだ、と。
そんな――「淡い夢を、見ているつもりだったの? 真那ちゃん」――。
意識の中に割り込んできた声。
キリエは目を見開く。今の声の主を、自分はよく知っている。父親として慕い、剣術の師範として何度も鼓舞され、そして背中を押してきた、その人の声を。
「……マナ、って、誰……?」
ようやく現実の喉を震わせたのは、そんな疑問符であった。
その時には更衣小夜の刃が首を刈らんと迫っている。神速の太刀筋を前に、どのような予備動作も、どのような対抗措置も意味を成さない。
ただただ、当たり前のように狩られるだけだ――だけのはずであった。
その太刀を受け止めた、自身の白磁の指先を意識するまでは。