「……な、に……!」
更衣小夜の驚愕に塗り固められた顔面へとキリエが行った事は少ない。刃を人差し指と中指で止め、カウンターの肘打ちを鼻筋へと叩き込む。
更衣小夜は己の有り余る膂力を逆利用されて吹き飛び、地面を転がっていた。
「……更衣隊長……?」
自分の存在理由を問い質したのは、この時、誰の声だったのか。それを拾い上げる前に、キリエは疾走していた。地面に落ちていた鉄片を指先で挟み、立ち上がろうとする更衣小夜へと馬乗りで飛び掛かる。
「……え」
その瞳が殲滅の赤に染まる前に、頸動脈を掻っ切っていた。血潮が迸り、更衣小夜が絶叫する。
「きさ……きさ、まぁ……ッ! ど、どういう……つもり、でぇ……ッ!」
「――黙れ」
そのまま鉄片を投擲し、更衣小夜の額へと突き刺す。絶命したかに思われたが、その身体が痙攣しているところを見るに、まだ生きているのだろう。なんて生き意地の汚い生命体。これが「翼手」か。
キリエは大剣を拾い上げる。既に頬の傷も、肩の傷も塞がっている。そこから漏れ出た血糊が舞い上がり、キリエの周囲を祝福するかのように両翼の形を成す。
「……血の翼……。あの時と、“シンジュク”の時と同じ……」
姫川小夜がそう呟いたその時にはキリエの心象風景に世界は塗り替わっていた。どこまでも深い赤に染まった、衝動だけの生命体となり、最高速度を保って突っ切っていく。大剣が、これまでに感じなかったほどに軽い。紙細工のようだ。
身体と一体化した錯覚さえ覚える大剣を薙ぎ払う。更衣小夜は咄嗟に刀の峰で受け止めたようだが、衝撃波で肉体を激震され、膝をつく醜態をさらしていた。
「それが翼手の限界か」
別段、挑発したつもりもない。それで結果が変わるとも思っていない。しかし、更衣小夜にとってはそれは違ったらしい。額に突き刺さっていた鉄片をずぶりと抜き取り、血濡れと真紅に染まった眼差しでキリエを睨む。
「……更衣……ッ、キリエェ――ッ!」
「うるさい」
更衣小夜が瞬間的に肉体の閾値を超えた速度を叩き出す。恐らくは、サヤとして覚醒したがために行使できる血の力の一端。超加速度に至った更衣小夜は蒼い残像を伴わせてキリエの背後に立ち現れる。
だが、あまりにもお粗末だ。もっと殺す気で来なければ、こちらも甲斐がない。
柄頭でキリエは更衣小夜の顎へと一撃を見舞う。どのような生物でも免れない、脳震盪の一瞬の隙。それを逃さず大剣で更衣小夜の躯体へと叩きつける。純粋な重量を持つ鉄塊を打たれたのだ、肋骨粉砕か、あるいは臓腑にまでダメージが至ったか。
何度も咳き込み、何度も血反吐を吐いて、更衣小夜は這いつくばる。
先刻まで自分を超越してみせた存在と同じとは思えない。ただただ蹂躙され、その尊厳を奪われるだけの獣。翼手と言う名の、愚かしい帰結。
「わた、しはぁ……ッ、まだぁ……!」
「そうか。なら死ね」
自分の喉から漏れたとは思えないほどの冷徹な響き。キリエが狙ったのはほんの一点、更衣小夜を絶命させるために心臓を貫こうとする。さしもの上級翼手相当とは言え、今のダメージの蓄積から血の循環を絶たれてしまえばそこまでのはずだ。
その切っ先が更衣小夜を貫こうとした瞬間、キリエは袖を引く猫背の少女を感覚していた。
「……いつも泣いてばかりで……!」
苛立たしげにそれを振り払い、更衣小夜を討とうとしたその時、共鳴音叉がキリエの肉体を嬲る。
相手にしていなかった存在からの奇襲に備える事は出来ず、キリエは不格好に地面を転がっていた。
「……ファントム……!」
声が出せただけでもやっとだろう。シュヴァリエ相当と推定される敵の質量音波を至近距離で受ければ、聴覚がしばらくは失われる。
三半規管が崩れ、立っている事が出来ない。この格好の機会に更衣小夜が仕掛けて来ても可笑しくはなかったが、それを阻んだのは姫川小夜を含む一団であった。
「……音無小夜。あなたはここで死ぬべきではない」
聴覚情報ではなく、“声”で認証される。キリエへと仕掛けようとしたファントムに対し、姫川小夜と同行者の女性は冷静に応じる。
「あれが……データにあったシュヴァリエ、アダムだとして……。ここで封殺できますか?」
「やらなければ、この混戦はまずい。私達は音無小夜の確保を優先する。他は後回しにしろ」
「仰る通りに。……シュヴァリエと相対するのは慣れていないのですがね」
姫川小夜が血の粒子を漂わせ、イレイナがガンブレイドに弾丸を装填する。それを遠巻きに眺め、絶望するミコと、何も出来ないまま状況に振り回されているヤミ。B班の者達は隊長の命令がないせいか、それとも自己判断が出来ないためか木偶人形のように硬直している。
更衣小夜をここで討たなければ、と身体に無理やり熱を通そうとするが、何度も仕損じてしまう。
「……音無小夜。無理はしないでいい。私達が……翼手を殲滅する」
三半規管が戻るまでの時間はざっと概算しても三分以上。それが致命的な領域になるのは分かり切っている。だからこそ、キリエは立たなければならなかった。ここで機関のサヤに任せていいわけがないからだけではない。更衣小夜との因縁は自分のものだ。その決着に唾を付けられて堪ったものか。
「……まだ……まだぁ……っ」
更衣小夜が刀を下段に構える。その瞬間、姫川小夜は弾かれたように動き出していた。まずは火花が舞い、互いの剣閃が宵闇に燻る。着地するのと同時に足払いで牽制し、真紅の粒子を飛ばして更衣小夜を眩惑しようとしたようだが、相手は何でもないように姫川小夜の肩を蹴って距離を稼ぐ。
その着地点に先回りしていたイレイナがガンブレイドの銃口を向けていた。瞬時に発射される榴弾。命中しなくとも、その弾速と衝撃波だけで視聴覚は削り取られても不思議ではない。更衣小夜はそれを見越して回避し、すぐさま刀を逆手に握り締めて鉄拳を見舞う。
だが、イレイナは冷静に事の次第を読み取り、ガンブレイドの重量だけで弾き返すのと同時に利き手の拳を叩き割っていた。
如何に超速再生能力があっても、粉砕骨折を瞬時に治せるわけがない。更衣小夜が舌打ちを滲ませたその時には、ガンブレイドの刃が上段より打ち下ろされる。
切り込んだ瞬間に引き金が引かれ、榴弾が更衣小夜の肉体を削ぐ。更衣小夜はとっさの判断であったのだろう。ダメージを負った左腕を肩から引き千切り、イレイナへと投げる。
これまで洗練されていたイレイナの中に生まれた、レイコンマの逡巡。サヤの血の呪縛を知らないはずがない。後ずさろうとしたイレイナの動きを予見して、更衣小夜は自らの首筋を爪で掻っ切る。迸った血潮がまるで煙幕のように張られ、一寸先でさえも見えない真紅の闇が広がっていく。
「血の煙幕か……! イレイナ、下がれ! アシッドの作ったサヤとは言え、毒となる可能性が高い」
「離脱は既に。しかし、この状態はまずいですね」
イレイナと呼ばれた女性は碧眼で周囲を見渡し、その眼差しがファントムを捉える。
「……せめて、シュヴァリエの首くらいは貰っておかなければ損害の割に合いません。一撃で獲らせていただきます」
ガンブレイドを掲げ、イレイナが蒼い加速度を帯びてファントムの眼前に立ち現れる。ファントムが貫手を放つが、それを切っ先で軽く弾き返してから滑らかに懐へと入り、両断の太刀が振るわれる。
咄嗟に硬質化した腕で致命傷は逃れた様子であったが、それでもファントムは追い込まれていた。犬歯を軋らせ、仮面で隠れたその相貌に茶褐色の血脈が走る。
「ここで終わってください、シュヴァリエ、アダム」
ガンブレイドの引き金にイレイナが指をかけた瞬間、身を躍らせた影にキリエは目を見開く。
「……殺さないでください……!」
「……モモカちゃん……?」
信じられない心地でその模様を眺める。モモカがファントムを庇うように前に出て、ガンブレイドの弾丸をその肩に受ける。榴弾が弾け飛び、肩の肉が吹き飛ばされていた。当然、激痛が走ったはずだがモモカは奥歯を噛んでそれに耐え、そこから動こうとしない。
「……何故、シュヴァリエを庇うのです」
「……私は……」
その理由が紡がれる前に、ファントムが“声”を使って場を掻き乱す。その一瞬の隙を突いて黒衣を纏ったその姿が飛翔していた。不完全な翼を広げ、ファントムの姿が遠ざかっていく。
「……モモカちゃんは……?」
モモカの姿はない。まさか、と急く気持ちを抑える事が出来ず、キリエは大剣を振りかぶってイレイナへと仕掛ける。
「……オトナシの小夜とやり合うのは得策ではないでしょうが……」
「退けぇ――ッ!」
自分の喉から出たとは思えない絶叫と全霊で振り下ろした大剣の感触。相手はガンブレイドを翳して防御しようとしたが、その鉄塊が一刀両断される。まさか、一撃で粉砕されるとは想定外であったのだろう、イレイナの翡翠の瞳に逡巡が走る。それを逃さず、キリエは柄頭でイレイナのこめかみを叩こうとして、不意に刃に遮られていた。
「……あなたに殺しはさせられない」
「……姫川……小夜……!」
姫川小夜が赤い粒子を纏いつかせたのを関知して、キリエは飛び退る。その時には、全ての状況が決していた。
モモカとファントムは消え、更衣小夜は逃げおおせたようである。コープスコーズB班の者達は誰もが硬直し、その命令系統を持つはずのミコは茫然自失で頬を濡らしていた。
「……イレイナ、一時離脱だ。ホムラバの情報を待ってからでも遅くはあるまい」
「ええ……。まさかオトナシと相対するとは思っていませんでしたが……。収穫と考えるべきなのでしょうかね」
ハッとして刃を薙ぎ払ったその時には、イレイナと姫川小夜も掻き消えている。
キリエは何も出来ずに蹲るしかなかった。
力の衝動に呑まれたからだけではない。
――今自分は、自分の記憶を掠めたのは、一体誰の記憶……?
確かなはずの「更衣キリエ」と言う名の自分自身が翳る。一体、どこまで信じて、どこからは疑えばいいのか。
「……ま、マッマ……。どうしよう……。こんなのどう報告すれば……」
遅れてヤミがキリエの袖を引っ張る。その瞬間、キリエは深層意識に存在する猫背の少女を幻視し、咄嗟に振り払って大剣の切っ先を突きつけていた。
「ま、マッマ……?」
「……ヤミ、ちゃん……?」
キリエは膂力に任せてヤミを取り押さえ、その首筋を今にも刈ろうとしていた。あり得ない事態に眩暈がする。否、それよりも今自分は何をしようとしたのか。
ヤミを、殺そうとしたのか。
「……いやぁ……」
よろめき、血濡れの指先で顔を覆う。世界が血の臭気に染まっていく中で、キリエは楽園の空に慟哭していた。