何度目かの覚醒と昏睡を繰り返し、その末に脳内で瞬いた意識に揺られてモモカは目を覚ましていた。酷く体調が悪い。身体は熱っぽく、そのくせ真冬のように寒い。額に手をやると眩暈を覚えてよろめいた途端、モモカは周囲の状況を把握していた。
「ここって……」
息を呑む。血濡れのビルの屋上では空調機の忙しい音が間断なく耳朶を打ち、水音が時折聴覚を震わせる。
エメトピアの壁は白を基調としているはずだったが、経年劣化と汚れのせいで赤黒くくすんでいる。モモカは壁の図柄を思わせる血の跡を指先で辿っていた。据えた臭いが漂い、風に乗って鼻孔を突き刺す。
「……こんなに濃い血の臭いなんて……」
そこまで口にしたところで狭苦しい通路の先で呻いている人影を発見する。何度も何度も、茶褐色の翼を再構成しようとしては、鮮血によって崩れていく。
「……あなたは……」
「来るなァ……ッ! “キザハシ”……っ!」
「キザハシ……? 私はそんな名前じゃ……あなたは、怪我をして……」
モモカが歩み寄ろうとした瞬間、硬質化した爪が首筋に添えられる。間違いなく、上級翼手相当の相手であるのは疑いようもない。だが、自分に何が出来るだろうか。作戦も失敗し、その上で彼が追っていた「ファントム」本人であろうとも、もう自分が功績を遺す事は出来ない。
帯刀はしていたが今の自分は丸腰同然だ。
血の使用許可もない状態ではファントムと真っ当に戦って勝てるとは思えない。ファントムは仮面の下で脈打つ血管が弾けてかっ血する。
「がはぁ……っ! こんな……もの……!」
この世全てを恨むような眼差し。この理想郷そのものを憎むかのような怨嗟の声。モモカは硬質化を維持出来ないファントムの爪を握ってから、静かに呟く。
「……あなたも、そうなんだね……。この理想郷のどこにも、居場所なんてない……」
「……ころす、のか……」
モモカは大剣を置く。それに驚愕して眼を見開いたファントムに対してモモカは頭を振っていた。
「殺さないよ……。私があなたを殺したって……誰も……褒めてはくれないだろうし」
実力不足が浮き彫りになった今、ファントムの寝首を掻いたところで、誰に称賛されるわけでもない。それに、モモカには気にかかる事があった。
「……あなたの情報、私の出来る範囲で調べたの。そうすると、なんて言うのかな。このエメトピア中央庁で、あなたに照合する人物が一人だけ、浮かび上がってきたんだ。あなたの本当の名前は、ファントムではなく――」
そこから先を遮るように、ファントムは牙を軋らせ、硬質化した爪を払う。すぐ傍の地面が断ち切られたが、その能力もほとんど失われているようであった。ボロボロに朽ち果てていくファントムがぜいぜいと息を切らす。
「……血が足りないの?」
うぅ、とファントムが呻く。自分が調べた範囲が正しいのならば、ファントムの出自は恐らく――。
それを察知した瞬間、モモカはコートを剥ぎ取り自身の首筋を晒していた。白い月明かりが差し込み、白磁の肌を照らす。
「……飲んで。私の血で……大丈夫なら……」
一瞬の逡巡の後にファントムが首筋に食いかかる。牙が食い込んだ直後、モモカは静かに喘ぐ。
まるで稲光のような、一拍の快楽。
血を啜るファントムの頭を撫でる。頭髪は白髪交じりで、肌はボロボロであった。それでも、彼の中に眠る誇りがモモカの血を吸い尽くす前に牙を離す。
「……ころ、し……」
ファントムが歯を震わせて自らの罪過に苛まれるように頭を押さえて蹲る。その喉から漏れた絶叫には悔恨の音色が窺えた。
「……あなたは……後悔しているの?」
「だま……だま、れぇ……ッ!」
力に任せて押し倒される。ファントムのぞっとするような白い肌と、そして真紅に染まった瞳。その後ろで月明かりがぼやけている。モモカは、死ぬべき時があるとすればこんな夜なのだろうな、と力を抜いていた。
「……殺したければ、殺して」
ファントムがうろたえたように声を濁らせる。モモカはファントムの頬に手を添え、それから言葉の穂を継ぐ。
「……私、生きていても迷惑かけちゃうんだ……。更衣先輩にも、犬神君達にも……。一生償えないんならさ。ここであなたに殺されたほうがいいよ」
いつまでコープスコーズC班として償いの日々を続ければいいのか分からない。ともすれば永遠に飼い殺されるくらいならば、ここで終わりにしてもいい。それが自分にある唯一の自由だ。
「……あぅ……あ、あぁ……」
ファントムは戸惑いを浮かべる。モモカは首筋から流れる血の熱さを感じていた。
「……血ってこんなに熱いんだね。知らなかった……」
「あぅ……あ、あぁ……!」
ファントムが顔を覆い、それから自身の喉を絞める。きっと彼は何度も何度も、眠れぬ罪の夜を重ねてきたに違いない。自分の調べた結果が正しいのならば、ファントムがこれまで殺してきた被害者達は――。
「……知り過ぎちゃうって……嫌だね」
「あぅ……」
ファントムが身を折り曲げて何度も頭を打ち付けさせる。それを眺めながら、モモカは身体を起こして首筋に触れていた。既に皮膚の再生が働いている。自分だって正しい意味では「ヒト」である事をとうに辞めているのだ。だと言うのに、真っ当に生きて、真っ当さを信じて、それに振り回されるばかりの人生を送るなんて。
その時、予備回線がコール音をキャッチする。モモカはファントムを一瞥してから、回線に応じていた。
『……私だ。田井中だ』
「……田井中さん……。田井中、ゴロウ……さん?」
『私の事が分かるか? ……色々あったようだが、あの後現場が封鎖されて誰も手出しが出来ん。この回線が生きているという事は私の事を少しは信じてくれているんだろうが、こっちの処理班も動きが読めん。監査部の同期にも探りを進めるように言ったが……大丈夫だったか?』
田井中は自分を取り巻く状況に関しては知り得ていないようであった。モモカは息を詰め、よろめきながら赤黒い壁に手をつくファントムを気に掛ける。
「……何とか。けれど、更衣先輩達は……」
『コープスコーズC班には被害が出たと聞く。それよりも、もっと読めんのはB班の連中だ』
「B班……依代隊長達……」
その時、鮮烈なイメージとしてモモカの脳裏を駆け抜けたのは仮面を砕かれたB班の班員の相貌であった。
隊長である依代ミコと瓜二つ――否、あれはそのような生易しいものではない。まったく同一の人間が存在しているとしか思えない。
「……田井中さん。私、まだ生きているのは多分奇跡みたいな確率で……」
『回線から位置情報を割り出してもいいが……その仕事は更衣キリエに任せたほうがいいか? 私から手を回してもいいのなら、そうするが……』
「……心配、してくれているんですね……」
『当たり前だろう……! 上級翼手相当の敵だったって言うんだろう? それに、コープスコーズが束になっても敵わなかったって言うんなら……!』
怒気を混じらせた声音にモモカは、ああ自分のほうがよっぽど人でなしだ、と膝を抱える。田井中との関係はただのビジネスでしかないと考えていた。その上、自分が死んだところで次の疑似餌を見出すだけだろうとまで。
「……田井中さん。私の位置情報を更衣先輩達には、同期しないでください」
『……だが、コープスコーズ側に私のような一端の監査部付きが意見出来るような事は……!』
「お願いします。……今は……誰とも会いたくないんです……」
身勝手な我儘だ。そして、部隊の人間を危険にも晒す。しかし、これだけは譲れなかった。今のファントムならば、簡単にキリエ達に討ち取られてしまうだろう。それが耐えられない――だって彼も、同じように。楽園から弾き出された、居場所のない人間なのだから。
数拍の沈黙の末に、田井中は決断をしたように声を絞る。
『……言っておくが、尋問されれば吐かない自信はない』
「それでもいいんです。……多分、そんな事をしている場合じゃないでしょうから」
モモカは手元の小型端末を操作する。首から下げられるロケット程度の大きさしかないが、自分の能力を十全に発揮出来るようにカスタマイズされている。
そこから逆探知を走らせると、田井中の言葉はどこにも嘘はないのだと察知出来た。こんな時でさえも、他人の裏を掻く事ばかり長けている自分自身に嫌気が差す。どうせ、こんな風に誰かの期待に応える事一つ出来ないまま、自分は上手く使われるばかりなのだ。ならば、多少の面倒事は飲み込むしかない。
「……田井中さん。コープスコーズB班の動きを察知出来ますか?」
『……正直なところを言えば、そのB班がきな臭い。何だって言うんだ? 不意に現場からの全ての権限を奪われてしまうなんて、一体、依代ミコを含むB班は何をやったって言うんだ……?』
ダークウェブに身を浸すが、B班に関しての情報は浮かび上がっていない。情報封鎖は完璧なわけだ。モモカは自分で信頼出来る情報筋にアクセスし、コープスコーズの情報交換を行う。
〈コープスコーズに関して知りたい人は居ないですか? 情報交換を受け付けています〉
すると即座にレスポンスが返って来る。
〈都市伝説程度の話でしょ?〉
〈そもそも実在するの?〉
餌に食いかかればこっちのものだ。モモカは秘匿レベルA以上のファイルをアップしてから、相手の情報網を探っていく。ファイルをダウンロードしたのは特A級ウィザードレベルのハッカー達だけ。他の者達は及び腰になったらしい。こちらの情報の表層だけを拾い上げようとしたようだが、そのような連中にはバックドアを仕掛け、中央庁への導線を作る。これによってレベルの低いハッカー達の口減らしにはなろう。
〈……あんたの貼ったファイル、危ないよ。情報秘匿レベルが高過ぎる〉
「……でも信じてくれるんですよね、っと」
〈……こっちも必死だ。これ、疑似餌だろ? ここまでなると、中途半端な情報屋は逃げ腰にならざるを得ない。他の奴らも同様のはずだ。信用出来る筋を当たるのが当然だろう〉
〈あなたは信用出来るんですか?〉
するとファイルがポップアップされる。五分以内に消去されるように設定されたファイルには、コープスコーズに関しての独自の調べが尽くされていた。その中にはC班でしか知り得ない作戦内容もあり、モモカは即座に個人回線に割り込む。
「……もしもし?」
『……驚いたな。ホットラインを三分以内に察知されるのは初めてだよ』