第十九話 嘆きの残滓
「随分と遅かったですね、わたしのシュヴァリエにしては」
振り向かずにそう言い置いたラビへと、黒い影が沁み渡り、モニター室の片隅にて存在を顕現させる。
「……時間がかかって申し訳ありませんでした」
「本意ではないでしょう? “隔離病棟”は墜ちた。もう、あそこに留まる意義すらなかったのに」
ラビはモニター室のデスク上にある本を手に取っていた。
今どき珍しい、紙製の書籍に視線を落とし、黴臭いページを捲る。
薄暗いモニター室にて、映写装置によってずっと映し出されている映像を、アダムは捉えていた。
それは幾度かの敗走の記憶であり、そして躍進の記録――。
「28号翼手の試験映像ですか」
「こうして映像として残っているだけでもありがたい。エメトピア中央庁からしてみれば、全て消したい記録でしょうがわたしはそうは思わないのでね」
「……薄暗がりで本を読んで、何か分かった事でも?」
ラビは色の入った眼鏡の縁を上げる。
「これでも人類は、こうして本と言う名の知識の澱を積み上げる事で生存権を確立してきた。馬鹿には出来ないでしょう。先人達の歩みと言うのは」
アダムはそれとなく、ラビの手元にある本のタイトルを読み取る。
『種の起源』、『偉人説』、『エメトピア全記録』――。
「それにしたところで、時間がかかったのは何も院長を始末して来たからだけではないでしょう?」
「……“サヤ”と会敵して来ました」
「ほう、それはそれは。どうでした? 今期の“サヤ”は?」
アダムはローブの底に沈んだ真紅の瞳を床へと落とす。
「……あれでは我らには到底及びません。脅威判定に上げるまでもないかと」
「一拍、時間が空きましたね。君にしては痛いロスだ」
こちらの言葉の逡巡を読み取ったラビに、やはり隠し通せないか、とアダムは諦観を浮かべていた。
「……あの“サヤ”……二人確認しましたが、片割れはさしたるものではなかった。これは真実です。しかし、もう片方は……」
「シュヴァリエが目にかけるほどのモノだと?」
アダムは目線だけで頷き、それから言葉を継ぐ。
「僕の事を知らなかったにせよ、あれほどの殺意。そして院長を含む“隔離病棟”の翼手を殺して見せた手腕。どれもこれも、“サヤ”の脅威としては……伸びしろがある、と言うべきなのでしょう」
「侮っていれば手痛いしっぺ返しが待っている、とでも?」
ラビは口角を釣り上げて失笑し、それから本にしおりを挟む。
ヒトは、船が錨を下ろすようにしおりで時間を止められるのだな、とアダムは感傷に浸っていた。
無言を是とすると、ラビは顎をしゃくって映像へと促す。
「どう見ます? 28号翼手……我々が欠陥品と呼んできた存在。これまで数多の失敗作を世に放ってきたわけですが、どれもこれも我々の手が及ぶまでに彼の機関が手を回し、歴史の闇に追いやって来た」
「……28号は質も量もあまりに乏しい。未だに実験作と呼ぶべきものでしょう」
「なるほど、シュヴァリエである君が言うと正しい」
別段、茶化したつもりでも馬鹿にしたつもりでもないのだろう。
ラビにしてみれば、それだけでしかないという価値の集約。
「それにしたところで、相討ちにまで持ち込んだ28号と、そうでない者達に降り立った差よ。中には上級翼手にまで上り詰めた個体も居る。それは28号翼手にも、進化する個体が存在すると思うべきではないでしょうかね」
「……それが中央庁の思惑、と言うわけですか」
「察しがいい。助かりますよ、君は。我々にとってももう少し、データが欲しい。ただ闇雲にヒトを襲い、血を啜るのが28号の宿業なのか。あるいは別の進化系統術を彼らは辿るのか。劣化品の血か、それとも嗜好品としての血か」
映像の中では数多の“小夜”が28号翼手と相争い、時に殺し、時に殺されていく。
少女でしかない彼女らの生き様、死に様が克明に刻み込まれ、どこかその記録は闇と呪詛を帯びていた。
――少女らの嘆きの記録だ。
そう胸の中に結んだ自分は、いささか感傷的が過ぎるのだろうか。
「そう言えば、アダム。シュヴァリエとしての任務が下りましたよ。我々はこの後、セクション二十三へと正式に視察命令が下りました」
「……また28号翼手の先回りしての警告、ですか」
「いえ、次は違う。あなたも退屈しているでしょう? 物分りの悪い人類に絶望しているだけではない。我々も動きましょう。“兄上”達も動き出しているはずですからね」
「……兄上……」
「シュヴァリエにも序列がある。君達も大変だ。ヒトを超えた身でありながらヒトと同じくしがらみに囚われているなど」
ラビはそっと肩に手を置き、その切れ長の瞳を細める。
「しかし、逆らえないのが実情なのでしょう。わたしも、家督と言う名の因習には参っている。今代のラビとして、少しは模範的な面を見せなければ、先代達に対して失礼に値しますからね」
そう言い置いてラビはモニター室を出て行く。
アダムは暫時、音のないモニター室に残響する少女らの断末魔を聞いていた。
瞼を閉じれば、死ぬ間際の嘆きが耳朶を打つ。
――怪物なんかと戦いたくなかった。
――こんなところで死にたくなんてなかった。
――誰か助けて。
「……“サヤ”に覚醒してしまった。貴女方の不幸はそれに集約される。あんなものに選ばれなければ、こんな惨い死に方をする事もなかったのに。そして、世界と戦う必要性などなかった。何も知らず、無知蒙昧のまま、血に宿された命を浪費していくだけで、よかったのに」
アダムは映写されていく少女らの死を見据える。
真紅に染まった瞳、まだあどけない、しなやかな肢体。
それらが血に濡れ、時に噛み砕かれ。
そして時には、翼手を斬り裂き、自分達を殺し得る最大の毒として屹立する。
「……それが最も間違いなのだと、貴女達は少しは、分かるような余力があればよかった……でも、世界は残酷だ」
リモコンで映像を掻き消し、アダムはモニター室の薄暗い電灯を、そっと切っていた。