抜刀の際には、少しばかり浮ついていたほうがいい。
そのくらいが程よく、敵を両断出来る調子を掴むに相当する。
キザハシは建築物を飛び回り、逃げに徹する黒い獣の背を視野に入れていた。
「……うち一体が、我慢出来ずに放たれたか……」
両腕を広げた瞬間に、折れ曲がった翼を拡張させ、揚力を得て翼手は飛び立つ。
ビルの一角を足掛かりにして跳ね、キザハシは画材ケースをそのまま翼手の背骨へと叩き込む。
相手が勢いを削がれた瞬間を狙い、刀へと持ち替える前に、翼を翻した翼手によってキザハシは振り落とされていた。
直下の自転車置き場の天井を突き破り、灰色の粉塵を上げて咳き込む。
「……忌々しい……っ! 下級翼手風情が……!」
柄を握り締め、キザハシは鯉口を切っていた。
鞘を放り投げた瞬間、意識は赤い煙に包まれている。
その噴煙が上がっている間は、自分はほとんど無敵のようなものだ。
周囲を包み込む煙の陣に、真紅の眼光を奔らせ、キザハシは駆け抜けていた。
障害物も、構造物も何もかもを無視して、最短ルートを辿っている。
眼前に聳え立つ住宅を足場にして、直上へと跳躍を果たす。
「獲った!」
一閃が叩き込まれ、翼手の頭蓋を割らんとしたが、その前に翼を羽ばたかせて僅かに狙いが逸れる。
舌打ちを滲ませて二の太刀を見舞おうとしたその時には、発達した脚部でキザハシは鷲掴みにされ振り回されていた。
刃を突き立てて相手の膝より下を寸断するも、その時には翼手は逃れようとしている。
「……逃がさないわよ……こんなところで、作戦の弊害になるような奴を……!」
刀へと指先を添わせ、「emeth」の血文字を灯らせたところで、キザハシはふとこちらへと急速接近する影を関知していた。
まさか、もう一体の翼手か、と身構えたその時には、とんと着地した流麗な人影に彼女は驚嘆していた。
「……何であんたがここに来るのよ、“オトナシ”」
相手は滑空姿勢が制御出来ていない翼手を仰ぎ見て、それから白く煙る吐息を漏らす。
「……私がやります」
「お昼も言ったわよね? それはあたしへの当て付けのつもり? それとも、本気でそう思っているって言うんなら――」
「……このセクションの人達……十八歳になったら翼手に喰われるって聞きました……」
「だから何? あたしは同情はしないし、そういう境遇に何かを感じる事もない。ただの不幸、ただそう生きるしかなかっただけの宿縁よ。それを分かった風になって、それで救おうとするほうが間違ってる」
翼手へと追撃しようとして、音無小夜は制する。
「……私に斬らせてください。これは……ケジメなんです」
「ケジメって……あんたには別に翼手への特別な思い入れなんてないでしょうに」
「いいえ……もう当事者なんです。私もとっくに。なら、私は――友達になろうと言ってくれた子を、裏切る事だけはしたくない。チトセのために……このセクションの歪みを変えます。だから、私へと……届いて。“サヤ”の、力……!」
直後、音無小夜の纏う殺気が変位する。
これまでただの一少女に過ぎなかった彼女が瞬間的に生態兵器として構築され、真紅の瞳が直上の翼手を睨む。
トタン屋根を足掛かりにして一足飛びで翼手の高度へと到達し、そのまま足蹴で相手の気勢を削ぎ、一撃を浴びせていた。
血潮が舞い散る中で、音無小夜は刃を翻し、翼手の首筋を貫く。
頸動脈を掻っ切り、急速に血を失っていく敵を蹴って音無小夜は着地していた。
落下した翼手は既に結晶化しており、肉体は四散する。
「……一つ、聞くけれど、本当に出来ると思っているの? 迷いは何の出口にもならない。堂々巡りの考えじゃ、誰も救えない」
「……分かって、います。私が救える人の範囲なんて、たかが知れてる。だから助けたいと思った人は……救いたいと願った人は、絶対に取りこぼしたくない。それだけは……やっちゃいけないから……!」
音無小夜がどのような境遇に甘んじてきたのかは自分もよく知らない。
だが、彼女もまた“サヤ”であると言うのならば、その生きざまに口を差し挟むべきでもないのだろう。
キザハシは鞘を拾い上げ、刀を納める。
「このセクションじゃ、十八になれば翼手に献上される。そんなのは決まり切ったメカニズムでしかない。ただ彼女達に同情するんじゃ、誰も救えないし、自分でさえも慰められない」
「ええ。だから私なりの……チトセの救い方を、模索したいと思います。そのためには……彼女達が本当に翼手に喰われてしまうまで、護るのが務めだと思うんです」
「……最終的な決着点は変わらないのに? 彼女らはこの場所で、何の疑いもなく翼手に命を投げ出すわ。自分が肉として喰われる事を、よしとして。それはもう変えようのない運命のようなものよ」
「……だから、私はチトセに、教えてあげたいんです。この世界は、たとえ残酷だとしても、それでも生きて行く価値があるんだって。そんなささやかな生き方を、邪魔する翼手を、私は許さない……」
「なるほど。紛れ込んだ翼手を狩るのはそういう理由ってわけ。モノは考えようって気はするけれど、ま、あたしはそれ以上、関知しないわ。けれど、忘れないで。あたし達、“サヤ”は翼手人類殲滅のための走狗。組織にとっての生態兵器でしかない。それだけは拭いようのない事実。どれだけあんたのデヴィッドがいい人間だろうと、どれだけそのチトセとやらが大切だろうと、あたし達はもう、世界の裏側で戦い続けるしかないのよ。楽園からは永劫、爪弾きにされてね」
そこに悲しみを覚えるのも、自分だけの理由を探すのも勝手だ。
自分はそこまで、音無小夜に入れ込むつもりもない。
そう断じてキザハシは立ち去ろうとして、音無小夜に呼び止められていた。
「……キザハシさんは……! 何か、あるんですか……。戦い続けるに足る……理由みたいなのって……」
「他人に理由なんて問い質すものでもないわよ。それに、あたしの理由をあんたが背負えるなんて思っちゃいない。あたし達は、同じく“サヤ”だけれど、同時に全くの他者。永久に分かり合えない」
同じ名前を持っていたとしても。
同じ忌み名に集約されるとしても。
それでも、自分の理由は――誰にも分かるはずがない。
誰かに分かって欲しいわけでもないのだ。
言葉を失った音無小夜へと、キザハシは言い置いていた。
「覚えておきなさい。きっと、あんたの理由だって、誰かにとってしてみればどうだっていい些末事なんだって事を。自分の理由だけが高尚なんて、思い込まない事ね」
別段、アドバイスを投げたかったわけでもない。
ただ、“サヤ”として生きてくのには少しばかり迂闊で、そして誰かの温情を抱え込んでしまうのは厄介な性質だとそう感じただけの話だ。
音無小夜は応じる事もない。
翼手の遺骸を眺め、そして踵を返したのが静かに伝わっていた。
「……あたし達は結局、夜にしか生きられないのよ。分かれとは言わないけれどね」