BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第三十七話 ときめきを抱いて

 

 駅前は少しだけごった返していて、真那は白亜の建築物が眩しく陽光を反射しているのを感じて手を翳す。

 

 その時、こちらを見つけて駆け出してきた影と出くわしていた。

 

「音無さん! びっくりした! ……昨日遅くにメッセが来たものだから……」

 

 チトセは制服に身を包んでいるが、今日は学校で出会うのではない。

 

「……迷惑だった、かな?」

 

「ううん! 何だかちょっと意外だったかも」

 

「意外って……? やっぱり、よくない?」

 

 チトセは微笑んで茶髪のボブカットを揺らす。

 

「たまにはいいよね、学校をサボるのも! それに、今日は音無さんだけが知ってるトコに案内してくれるんでしょ?」

 

 同情したわけでも、ましてや彼女の生きざまに悲しみを感じたわけでもない。

 

 ただの自己満足、ただの自己欺瞞だ。

 

 それでも自分はやはり――チトセを救いたい。

 

 その一つとなるのならば、自分に出来る事をしよう、そう感じて真那はセクションを巡る鉄道へと歩み出していた。

 

 ステーションは常に管理されており、一秒未満での乱れのないダイヤが保障されている。

 

「私、別のセクションに行くのってはじめてなんだ」

 

「そう……なんだ。あのね、チトセは……他のセクションで生きたいって思った事ない?」

 

「うーん……どうなんだろ。セクション十五は結構治安もいいし、衛生環境も上だって聞いた事はあるけれど」

 

 唇を指で押し上げて疑問符を浮かべるチトセには、翼手に喰われてしまう悲哀などまるで感じさせない。

 

 むしろ、自分のやっている事はただ目の前の脅威から視線を外しているだけだ。

 

 目を背けて、それで誰かを助けたつもりになりたいだけの、身勝手な欲求でしかない。

 

 そんな自分に嫌気が差す。結局のところ、幸せなんて人間の数だけあるのだ。

 

 その独善性に自分の咎の重さを感じ取る。

 

 結局のところ、救われたいのはこうして“サヤ”の力でもどうしようもない自分自身ではないか。

 

「……どうしたの? 音無さん。怖い顔してるよ?」

 

「あ、いや、その……勝手に連れ回してるな、って思っちゃって」

 

「ぜーんぜんっ! そんな事ないってば! それよりも、意外だったなぁ」

 

「……意外って?」

 

「音無さんからこうやって私に声をかけてくれたところ! 他のセクションのルールは分かんないけれど、ちょっと壁作られてるのかなって。だって、音無さん、階さんとの間にも割って入るなって感じだったし」

 

「そ、そうかな……」

 

「でも、楽しみー。音無さんのガイドなら、私安心だし。セクション十五を一度でも出るなんて、思いも寄らなかったなぁ」

 

 真那は人混みの中に紛れているキザハシを視界に留める。

 

 デヴィッド達はどうしてなのだか連絡が取れない。

 

 その代わりに、というわけでもないのだろうが、三日後の講演会までの情報交換はジュリアが仲介していた。

 

〈音無さん、あなたにもしもの事があった時のことを考えて、キザハシを常に三十メートル以内に付けておきます〉

 

 それがジュリアとキザハシの納得した条件であった。

 

 チトセはこのまま、何も知らずにセクション十五の決まりだからという理由だけで翼手に献上されるのは覆しようがない。

 

 ならば、その前に少しでも思い出を、と提案した自分の意見は存外に簡単に承諾されていた。

 

 セクション間を跨ぐ鉄道は、平時ならば特殊権限を持たなければ乗車すら出来ない。

 

 チトセのような身分ではなおさらだろうが、ここで機関の“サヤ”である事が活きて来るのか、通行証の発布は思ったよりも容易かった。

 

 鉄道内部はほとんどビジネスマンばかりで、ハイスクールの制服を纏う自分達は少しばかり浮いている存在だ。

 

「こっちこっち! 空いてるよ!」

 

 チトセにしてみればちょっとした小旅行なのだろう。

 

 窓際の向かい合わせの席へと座り込み、彼女は白亜の建築物ばかりが居並ぶ光景に胸を高鳴らせているようだ。

 

「それで? “海”ってどんな場所なの?」

 

「あ、うん……。私も、話に聞いただけで、本当のところは見た事もないんだけれど」

 

 チトセを誘う口実に使ったのは、自分も伝聞でしかない「海」に関しての事柄だった。

 

 元々、自分達の住んでいたセクション三十七でも「海」は一度として情報として触れた事も、ましてや存在ですらも知らなかった。

 

 だがある日、よくしてくれた“油処”の店長がライブラリ映像として見せてくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわっ! これ何? 店長! 水溜りじゃないの」

 

 千佳の驚嘆する声に店長はふふっ、と雅に笑う。

 

「それはね、“海”って言うのよ」

 

「う、み……?」

 

 真那は千佳の持つライブラリ端末から覗き込むようにして、それを凝視する。

 

 ――どこまでも碧く、どこまでも遠い空と地平が漠然と広がっている。

 

 それは、学校で習った「砂漠」にも似ていたが、砂漠のように人間の介在を拒むもののようには映らなかった。

 

「ねぇー、店長ぉー。ウミって何ー」

 

 千佳はリトルスクールの高学年になって少しばかりファッションに気を遣うようになっていたせいか、スカートを揺らして店長を仰ぎ見る。

 

 自分は、未だに少しばかり野暮ったさの抜けない母親に選んでもらった服を着込むばかりであった。

 

 癖っぽい金髪をくるりと巻いて、店長は応じる。

 

「これはね、エメトピアの……そうね。三十七地区のさらに先、本当の理想郷なのよ」

 

「“りそーきょー”って、この間習ったわ! このエメトピアの事を言っているのよね!」

 

「も、もうっ、千佳ってば……理想郷くらい分かんないの?」

 

「私、真那みたいにガリ勉じゃないもん!」

 

 その様を微笑ましく眺めていた店長は、頬に手を当てて首を傾げる。

 

「千佳ちゃんも真那ちゃんも、いずれは行けるようになるはずだわ。だって、女の子はいつか、旅立つ時が来るのよ? その時に、アタシ二人がどんな風になっているのか、すっごく楽しみだもの!」

 

「その時は店長も、だよね!」

 

「そうね。アタシも安住の地を決めて、ちょっとはマシになっているかも」

 

「あんじゅー?」

 

「安住だよ、千佳。もうちょっと勉強すれば?」

 

「真那に言われたくないー!」

 

 ばたばたと手足を揺らす千佳に、店長はけれど、と付け加える。

 

「……その時には、理想郷はどうなっているかしらね? 壊れていなければいいけれど」

 

「……店長、理想郷って壊れるんですか?」

 

「ああ、今のは聞かなかった事にしてちょうだい。ほら、今日のアイスもとっておきを持ってきたのよ?」

 

 キッチンカーを開き、色とりどりのアイスクリームを店長はよそっていく。

 

「店長、いい大人だよねぇー。ママ達の言っているのとは大違いなんだってば!」

 

「あら? 千佳ちゃんのママさん達にはどう言われているのかしら?」

 

「店長とは付き合うな、だって! 失礼しちゃうわよね! 私達、これでもきっちり、“オトナの付き合い”をしてるってのに!」

 

 店長が邪険にされている事を怒っていると言うよりかは、至らないとされている自分達を嘗められているのを憤っているのだろう。

 

 ――この時は何も分からなかったが、今ならば分かる。

 

 真那は店長の持ってきたライブラリ端末に表示された「海」の投射映像を三百六十度回転させて、四方八方から注視していた。

 

「……真那ちゃん、アイスこぼれるわよ?」

 

「あわわっ……」

 

 おっと、とストロベリーアイスを舐め取ると脳天に響く冷たさと、舌先に残る濃厚な甘みで真那は大声を出していた。

 

「すごくおいしいですっ!」

 

「……真那ってば、それって“ゲンキン”って言うんじゃないの? アイスには目がないんだから」

 

 とは言いつつも千佳もお気に入りのチョコモカアイスを頬張っている。

 

「真那ちゃんは海に魅せられちゃったのね。いつか、行きたい?」

 

 端末を翳し、こちらの手を自由にした店長は誇れる大人だ。

 

 断じて、他の大人達の言う「いい加減な」人間などではない。

 

 その証拠に、自分達に理想郷の果てを見せてくれている。

 

 真那は自分でも瞳の奥が輝いているのが分かっていた。

 

『海』を見るだけで、心の奥底に仕舞った何かが弾け出してしまいそうだ。

 

「……店長。私、“海”、行きたい……」

 

「真那は馬鹿ねぇ。そんな大きな水溜り、何が面白いんだか」

 

「で、でも、千佳……っ! “海”、すごいよ! どこまでも果てがないんだもん!」

 

「果てがないのはこのセクションも同じでしょうに」

 

「同じじゃないよ! だってここは……真っ白で、どこに行っても似たような景色だけれど……“海”は違う! 何だろうこれ……すっごくドキドキする……っ! 店長!」

 

「それはきっと“ときめき”ね、真那ちゃん」

 

 胸の高鳴りを店長は一言で言い当てる。

 

「……ときめき……」

 

「そうよ。女の子は誰でも、“ときめき”一つで何にでも変われるの。どんな困難が待ち受けていても、ときめきだけは失くさないで。それはきっと、真那ちゃんを強くするわ」

 

「……ときめき……私、ときめき……たいっ!」

 

「真那みたいな鈍くさいのが、変われるわけないじゃないの」

 

「あら? 千佳ちゃんだってそうよ? 最近オシャレに気を遣っているのは……もう千佳ちゃんなりのときめきを見つけたんじゃないかしら?」

 

「そうなの? 千佳っ」

 

 千佳は図星なのか少しだけ頬を紅潮させてから、アイス一口で掻き消す。

 

「……アホらし、真那のクセに……。人様のときめきにあんたが口出すなんて、十年早いっての」

 

 ぴんとデコピンが飛び、真那は額を押さえながらも店長の持つ端末から視線を外せないでいた。

 

「……いつか、行ってみたいな……“海”……っ!」

 

「……私のデコピンでも泣かないなんて、真那らしくない。そんなにいいものなの? “海”って? 店長」

 

 彼は斜陽の朱に染まりかけた白亜の建築物に透かすようにして、端末を自分の目の前へと持って来る。

 

 まるでそこだけ風景が切り取られたかのように、退屈な白の世界は消え、「ときめき」の世界が溢れ出す。

 

「そうね……いずれは行けるかもしれないわね。千佳ちゃんも真那ちゃんも。大きくなったらね」

 

「大きく……」

 

「真那だけよ、そんな大きいだけの水が好きなんて。ガキンチョなんだから」

 

 しかし、どれだけ千佳に馬鹿にされても、真那にとっては店長の運んできたその風景は目に焼き付いていた。

 

「……いずれ、行ける……大きく、なれば……」

 

 

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