BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第三十八話 守りたい想いは虚しく……

 

「……大きく、なれば……か」

 

 呟いた自分にチトセは首をひねる。

 

「どうしたの? 音無さん。ずっとセクションの繋ぎ目を見ているけれど」

 

「……何だか、もっと大きな世界が、待っているはずだって思っていたのは、私のただの思い込みだったのかな、って……」

 

 セクション同士を繋ぎ止める構造物は自分という単一の個に比すればあまりに巨大であった。

 

 歯車状の物体が白亜のセクション同士を接続し、風景は均一化して変わらない。

 

「すごいよねー、モニュメント端子って本当にあったんだ」

 

 チトセにしてみればセクション十五で一生を終えるはずだった身だ。

 

 セクション間の接続口を見られただけでも僥倖なのだろう。

 

 そのささやかな幸福が、今は見ていて――。

 

「……チトセ。私はね、小さい頃にずっと、ときめきを植え付けられたの」

 

「ときめき?」

 

 チトセには意味さえも伝わらないのだろうか。

 

 彼女は鉄道内のサービスで買った特製コーヒーのストローに口を付けていた。

 

「……うん。すごい大事な友達が……昔居て、その子と一緒にね、いずれは見に行くんだって。そのときめきを……いずれは実感するんだって」

 

「それが“海”?」

 

 こくり、と頷くと、そっか、とチトセは底溜まりのコーヒーを吸い上げる。

 

「……優しい記憶なんだね、それ」

 

「……どうかな。ある意味じゃ残酷な記憶かも」

 

 千佳を手にかけ、両親も葬った。

 

 忘れたほうがいい出来事があるとすれば、それは思い出なのだろう。

 

 いい記憶がなければ、悪い出来事に気持ちを左右されずに済むと言うのに。

 

 どうしても縋ってしまう。

 

 幸福な夢、何も知らずに済んだ、楽園の片隅の記憶。

 

 暮れるまで三人で遊び歩いて、暗くなったら店長は星を一つずつ星座の名前で繋いでくれた。

 

 母親からは一時期、自分が不良になった、と騒がれたっけと思い返す。

 

 それでも――千佳と店長と一緒に過ごした記憶だけは、掛け替えのない思い出として今も自分の胸にささくれを残す。

 

 きっと、店長もあの灼熱の業火から逃れられずに死んだのだろう。

 

 セクション三十七での記録情報は何一つ残っていない、とデヴィッドが報告したのを思い出す。

 

 あの日――世界に壊された自分の楽園。

 

 必要ないと判じて葬られた、自分の理想郷。

 

 真那は骨が浮くほどに拳を握り締めていた。

 

 ――翼手が来なければ、自分達はまだ楽園を享受出来ていた。

 

 何も知らなくとも、否、知らないからこそ、か。

 

 翼手が自分達から、安息の日々を奪い去ったのだ。

 

 だから――その存在の一匹たりとて、許してはおけない。

 

 画材ケースを意識する。

 

 中には応戦用の刀が収められているが、これを使う時が来ない事を願うしかない。

 

 それとも、キザハシはそれさえも理解して、この遠大な楽園からの逃避計画に賛同してくれたのだろうか。

 

 どうせ、どこかで“サヤ”の宿命からは逃れられない時が来るのだと。

 

 もう自分の手は血で汚れてしまっている。

 

 何も知らない「倉橋真那」は、もう居ないのだ。

 

 そういう意味では目の前で菓子を頬張るチトセは、かつて永劫失った自分自身の影であるのかもしれない。

 

 何も疑問に感じず、ただ安寧の毎日を享受し、この楽園が薄氷のように脆いのだとは想定してもいない。

 

「ねぇ、音無さんはさ。“海”に行けたら、まず何をしたいの?」

 

「……海に行けたら……うん、まずは、足で、その冷たさを感じたいのかも」

 

「そんなのはプールで出来るじゃないの? 何で、“海”じゃないと駄目なの?」

 

「それは……」

 

 言いかけて、そうなのだと絶望する。

 

 自分の中に、「そうでなければならない」と言う確固たる自信もなければ理由もない。

 

 ただ漫然と『海』に憧れ、そこが素晴らしいのだと規定しているだけ。

 

 幻を追いかけるのと何が違うのだろう。

 

 反論出来ない自分に、チトセは少し罪悪感を覚えたのか、菓子を差し出す。

 

「食べよう? 大抵の事は、お菓子と美味しいコーヒーがあれば、忘れられちゃうもんだから!」

 

 何だか今はその気楽さに甘えてしまいたくって、真那は菓子を頬張っていた。

 

「……甘いね」

 

「そうでしょ? 女子は甘いスイーツに目がないんだよっ!」

 

 何だかその楽観視はかつての千佳のように思われて、真那は思わず目頭が熱くなる。

 

「……ちょっと、ごめん……。思い出しちゃうな……」

 

 涙の理由を彼女は問わない。

 

 ただ、鉄道は終点に向かいつつあった。

 

「あっ、あと十分だってさ!」

 

 車内アナウンス掲示板に表示された到着時刻に、真那は頷こうとした矢先、その耳朶を打ったのは明瞭な“声”であった。

 

「……あれ? 何だろ? トンネルでも入ったのかな?」

 

「……チトセにも、聞こえるの……?」

 

「えっ、だってこんなにもよく……」

 

 肉体に沁み渡った狩人の記憶が克明に告げる。

 

 ――翼手の気配を。

 

 そして真那は、この車両に乗っていたビジネスマン達が、一人として居なくなっている事にようやく気付いていた。

 

「……誰も居ない……」

 

 先ほどまで詰めていた人々はどこに行ったのか、ではない。

 

 ここはもう狩り場――その感覚に身を浸らせた真那は画材ケースを抱えて立ち上がる。

 

「どうしたの? まだ十分も――」

 

「離れないで。チトセ、これから起こる事は多分、信じられないだろうけれど……でも一つだけ。私を信じないでいい、ただ自分の命を守る事だけを考え、て……?」

 

 そこまで言いかかって、真那は乱反射する“声”を関知していた。

 

 おかしい。

 

 キザハシの報告ならば、紛れ込んでいると言う翼手は残り一体。

 

 自分でも容易に刈り倒せるはずだと判定していたのに、前の車両と後ろの車両から、同時に無数の声が残響する。

 

 それは先刻までのビジネスマン達であった。

 

 彼らが車両連結部を塞ぎ、眼鏡の奥で濁った眼球を蠢かせる。

 

「……まさか……」

 

 直後、劈いたのは一際高い、翼手の遠吠えであった。

 

 チトセは耳を塞いで、鋭く響くその“声”に耐える。

 

「……なに、これ……」

 

 その“声”を嚆矢とするようにして、ビジネスマン達の背筋が割れ、紺色の背広を突き破って骨格が折れ曲がる。

 

「……なんて事……28号翼手……!」

 

 明らかに下級翼手がこうして群れを成しているという事は、残存しているとされていた残り一体というのは――。

 

「……上級翼手が、どこかに居る……? キザハシさんに、任せれば……」

 

「音無さん! あれ、何……? 真っ黒な、獣……?」

 

「……あれが、チトセ達が信じていた、翼手。ヒトを喰らう、鬼よ」

 

「……あれが、ヨクシュ、様……?」

 

 蠢動するのはどれもこれも下級だが数が多い。

 

 真那は決断を迫られていた。

 

 画材ケースの下部を蹴り上げ、宙を舞った刀を掴む。

 

 柄を握り締め、鯉口を切ったその時には、体内より生じた赤い旋風が視界を満たしていた。

 

 鉄道車両は明らかに手狭だ。

 

 集団戦となれば特にだろう。

 

 真那は先手を仕掛けるべきだと判定し、抜刀するなり翼手の頭蓋を叩き割る。

 

 チトセの悲鳴が上がるのを背後に聞き留めながら、車両の天井を這い進む翼手へと躍り上がって蹴りを浴びせる。

 

 それだけで相手の肋骨が粉砕されたのを感じられた。

 

 確実に“サヤ”としての力は上がっている。

 

 しかしそれは、化け物の証明と何が違う。

 

 今は逡巡を浮かべている間さえも惜しい。

 

 一足飛びに前方車両に詰め込まれていた翼手の最前列へと突っ込み、血飛沫を全身に浴びていた。

 

 真紅の衝動のままに、相手を両断し、寸断し、その視野を叩き割る。

 

 眼球を浴びせ蹴り一つで弾け飛ばせ、頭頂部の毛髪を掴み上げて膝の一撃を打ち込んでいた。

 

 よろめいた敵を引き寄せざまに一文字に斬りつけ、入れ替わりに向かい来る敵へと赤い残火を振るっていた。

 

「emeth」の血文字が刻まれた刀身が必殺の一太刀となって翼手の攻勢を削いでいく。

 

 座席を伝ってチトセへと襲いかかろうとしていた翼手へと、真那は刀を投擲していた。

 

 臓腑を貫かれた翼手が眼前でかっ血するのを目の当たりにしたチトセは腰が抜けたのか、力なく膝を折る。

 

 舌打ちを滲ませて真那は刃を再び手にしようと駆けるが、その針路を別の翼手が阻んでいた。

 

 自在にこの閉鎖空間を飛び回る翼手には、ただの一人では厳しい。

 

「……キザハシさん? キザハシさん! ……敵は、28号翼手……!」

 

 マフラーの下にある通信機器に手を当てて呼びかけるも、キザハシからの応答はなかった。

 

 三十メートル以内に居るのならば、この騒乱に勘付かないわけがない。

 

 真那は周囲を満たす殺意と暴力の巣窟に、キザハシの名をより強く呼ぶ。

 

「キザハシさん! 私だけじゃ、チトセを守れない! すぐに応援を……!」

 

『……オトナシの“サヤ”。あたしは上級翼手の討伐任務を与えられている。そっちには手を貸せない』

 

 ようやく帰って来た言葉がそれか、と真那は決死に血溜まりを抜けながら、翼手の爪を掻い潜る。

 

 刀へと指先が届きかけて、横合いから突っ込んできた翼手が咆哮し、眼前で質量を伴った“声”が弾けていた。

 

 痩躯を吹き飛ばす音叉に、真那は負けじと吼え返す。

 

 それでさえも怪物の威嚇に等しいのだろう。

 

 チトセは蹲って血の狂乱に耐え凌いでいる。

 

 彼女を絶対に守らなければならない。

 

 自分が、彼女を安全圏から遠ざけたのだ。

 

 ならば、責任があるはず。

 

 真那は眼前の翼手に向けて手刀を突っ込んでいた。

 

 鼻筋が砕け、その表皮を突き破って顔面の筋肉繊維を剥ぎ取る。

 

 翼手が呻いて後ずさったのを好機と判じ、拳でその部位を打ち据えていた。

 

 当然の事ながら、鋼鉄に近い表皮を持つ翼手相手に鉄拳など通常は届きようもない。

 

 しかし、“サヤ”の身であるのと同時に、引き裂けた掌から滴る血が不可能を可能にしていた。

 

 血で相手の意識が澱んだのを感覚し、真那は翼手の頭蓋を蹴って刀へと到達する。

 

「……絶対に、チトセは殺させない……!」

 

 刃を振り翳し、飛び散った鮮血が座席を濡らす。

 

 窓を蹴ると衝撃でたわみ、時速三百キロ以上で加速する車両の内部圧力が変位する。

 

 常人ではさほど有効ではない策だろうが、相手が感覚器の発達した翼手ならば別だ。

 

 空気の圧力が変容したのを敏感に察知した翼手達が、めいめいに動きを硬直させたのを見逃さず、真那は太刀を振るう。

 

 まず、首が飛んだ。

 

 次いで、肩口へと斬りかかりその体内へと血の呪縛が流し込まれる。

 

 結晶化した敵影を蹴り砕き、残存する翼手数体へと雪崩れ込むようにして斬撃を見舞っていた。

 

「……絶対に……っ! 絶対に、助けるんだ……!」

 

 

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