一つだけ聞いておきたいと、そう口火を切ったのは何も間違いではないのだろう。
キザハシは講演会の前に屋上の柵にもたれかかっていた。真那は何かいいきっかけを作れないかと思案している間に彼女からの逆質問に遭う。
「……何であんな事を言えたの?」
問うまでもない。チトセに告げた希望じみた言葉の事だろう。
「……私自身、信じたかったのかもしれません」
「信じたい? それは、あんたがまだ、このエメトピアには未開の地があって、そこを目指せば幸福だって言いたいの?」
「……いえ、……けれど、はい……。そうだと信じたいだけの、弱い自己矛盾を抱えて、それでチトセには諦めて欲しくなかったのかも」
「彼女だけじゃない、このセクションはみんなそう。養殖場で育った少女達は、十八で翼手人類に喰われるのを何よりも至上の喜びとする。分かる? 翼手のために死んで、喰われる事を、よ? 価値観が違う」
そう吐き捨てたキザハシに真那は少しだけ希望を見ていた。
「……キザハシさんも、よくないって思ってるんですね」
「家畜のように扱われるのは御免ってだけよ。あの子達に同情なんてしてられない」
キザハシは松葉杖で身体を支えていた。
暗殺用に機関より送られてきた、キザハシのための牙だ。
「……本当に、やるんですよね……。今回のミッション……」
「乗り気じゃないんなら、あんたは消えれば? どうせあたしだけでもやれる」
「……いえ、私……逃げちゃいけないんだって、チトセに誓ったんです。ここは……確かに最悪の場所かもしれない。翼手にとって都合のいいだけの、そういうセクション、そういう……世界。けれど、私も……そうだったんですよね、きっと。エメトピアの……理想郷に何の疑いも持たない、無知なままで生きていくしか能のない……」
「ほとんどの人間はそのままで一生を終えるのよ。あたし達みたいに世界の裏側で戦い続けるなんて相応の覚悟がないとやっていけない」
そう、だからこそ、問い質したかった。
真那はキザハシへと真正面から向き直る。
「……キザハシさんは、何のために戦ってるんですか……?」
ある意味では彼女への侮辱に当たる質問であったのかもしれない。だが、聞きたい。聞いて、その上で納得がしたい。
キザハシの持つ覚悟の表層を、自分のような人間でも知っておきたかった。
共に戦うと言うのならば、分け合える痛みでもあるはずだ。
しかし、キザハシは簡単に弱音を吐かなかった。
「……何のために、ね。ねぇ、あんたは何のためなのよ。ま、どうせ不幸にも“オトナシ”を継いでしまったがゆえの性能だし、そこには同情はしないでもないけれどね。最強に近い“小夜”の戦闘本能で生きてるんだもの。理由なんてないでしょう?」
そう聞かれてしまえば自分の中にはさしたる理由も存在しない。
導かれるがままに“サヤ”の力を手に入れ、そして今、己の胸に空いた虚飾を持て余す。
ここでチトセのためだとか、これまで殺してきた大切な者達のためだとかは、きっと詭弁だ。
真那は自分の奥底にある衝動を手繰り寄せていた。
自分にしか出来ない事、自分だからこそ出来る事――。
「……私は……“サヤ”の力で誰かを……守り通したい。たとえ何があっても……どれだけ辛くって痛くって……苦しんだとしても……。それでも私は……音無小夜としての責任を果たしたい……のかもしれません」
「力が手に在るのならば、それを振るうのも含めて、本人の意義、か。……けれどあんた、やっぱりまだまだ甘いわ。“小夜”同士の裏切りだって加味しないと、これから先は生き延びて行けない。それなのに、お人好しの理論だけで戦い抜こうとしている。それじゃあね、誰も救えやしないのよ。結局のところ、救えるのは自分の虚しい心だけ。持て余すのよ、そのままじゃ、ね」
それはキザハシ本人の経験則のようで、真那は二の句を告げなくなっていた。
彼女なりの処世術を聞いて責任はあるはずだ。
それだと言うのに、何か気の利いた言葉一つでさえも返せない。
何よりももどかしく、そして歯がゆかった。
自分はここまで弱いのだろうか。
自分はここまで誰かを救えないのだろうか。
自分はここまで――闘争への覚悟が足りないのだろうか。
喉から無理やり言葉を搾り出そうとしたその時には、キザハシは柵から離れていた。
「そろそろ時間ね。オトナシ、分かっていると思うけれど、邪魔はしないで。それだけがあんたに出来る貢献よ。あと、暗殺任務は一発勝負。一手でもしくじれば、それは永劫に好機を逃す」
作戦上、キザハシが斬り込み、自分はもしもの時に現れるであろう翼手のカバーを行う手はずであった。
「……うまく行くんでしょうか……」
「知らないわよ、そんなの。ただ……これは機関にとっても、あたし達、“サヤ”にとっても大きな躍進であるのは間違いない」
だが重要人物の暗殺と言う穏やかではない作戦に、人間を殺せない制約のある自分達では仕損じる可能性だってある。
だと言うのに、この三日間、ジュリアが代理で通信を送ってくるだけでデヴィッドともルイスとも会話をしていない。
何か、想像もつかない事が起こっている予感だけが膨らみ、真那は押し潰されそうだった。
「……その……もし、失敗したら……」
「失敗したら、なんて考えたって仕方ないでしょう。それに、あたしは絶対に失敗はしない。それだけよ。オトナシ、バックアップだけは万全にしてちょうだい。あんたは結局……」
そこで言葉を切ったキザハシの視線に、真那は自ずとその先を追っていた。
屋上へと上がって来ていたのはチトセだ。
彼女はどこかおっかなびっくりに、自分達へと言葉を投げる。
「……そろそろ時間だから、二人を探してきなさいって先生が……」
「……行くわよ」
キザハシは何の迷いも窺わせずにチトセの脇を通り抜ける。
鉄道で起こった翼手の集団行動も彼女にとってしてみれば些事であったのだろうか。
チトセを一顧だにせずに階段を下りて行ったキザハシに、真那は胸を締め付けられる思いであった。
彼女があれだけ強くあるのならば、自分も強くなくてはいけないのだろうか。
それとも、キザハシの領域に安易に踏み込めるのだと考えている自分はただの勘違いなのであろうか。
その答えも出ぬままに、チトセはこちらへと歩み寄ってきた。
あの日、楽園の片隅の答えを知った者同士、僅かながら距離を感じさせる。
「……先生が呼んでるって言ったの、半分は嘘なんだ」
どこか躊躇いがちに口を開いたチトセに、真那は問いかける。
「……何で、そんな……」
「だってそうでも言わないと、音無さん、一生私と話してくれないでしょ?」
チトセは手首のドッグタグを指先で弾き、それから陽光に翳す。
それはこのセクションで生きていくという呪縛そのものであると言うのに。
彼女の声には自ずと力がこもっていた。
「……私ね、音無さんがあの時……怪物と戦った時、とても怖かった。人間じゃないみたいで……。でも、そうじゃないんだよね。今、階さんと話していたのを見ていたけれど、きっと人間なんだよ。私はけれど、やっぱり……なんだよね。“ヨクシュ様にいつか、美味しく食べてもらう事が一番の幸せ”……ずっと、それを信じてきたから……。だから、眩しいのかもしれないね。だって、音無さんの手には未来を切り拓く刃があるもの」
「……そんなにいいものじゃないよ」
高尚に出来た覚えもない。
自分の手は、ただただいたずらに血潮を撒き散らすだけだ。
誰かを、傷つけてしまうだけなのだ。
それでもチトセは頭を振る。
「……ううん。きっと、音無さんの手は色んな人を救うと思う。刃だけじゃない、音無さんはとても優しいから。私が絶望しないように、言ってくれたんだよね。まだ、この理想郷の先があるって」
「……分かんない。私自身、そう思いたかっただけのエゴなのかも」
チトセ一人を救ったところで、何も救済はない。
セクション間で世界は移り変わる。
自分にとっての常識も、セクションを超えればそれは別の常識が待っている。
世界を知った風になっていた頃が、今は懐かしい。
誰かを救えるだなんて傲慢に成り下がったつもりもない。
「……でも、嬉しかったんだ。だって、音無さんは私を助けるために必死に……怪物と戦ってくれた。それを……馬鹿だよね、私……。怖いなんて、拒絶しちゃって……。音無さんのほうがよっぽど怖い目に遭っているのに……」
真那は言葉を詰まらせていた。
被害者に成り下がるのは身勝手で、そして容易い。
しかし、チトセは自分を分かろうとしてくれている。
たとえそれが、翼手にとって都合がいいだけの生だとしても。
彼女は、自分の言葉で、自分を癒そうとしてくれているのだ。
「……チトセ。私ね、海を見せたいんだ。いつか誰かと一緒に、海を見て、そしてこう言いたい。……ああ、なんて私たちの生きていた場所なんて狭苦しかったんだろう、って。……昔は、それを言える人はきっと近くに居るんだって思い込んでいたの」
千佳がいつだって近くに居てくれて、そして彼女は馬鹿にせずに自分の夢とときめきを、大人になっても応援してくれる――そうなのだと、信じ込んでいた。
だから、喪失感が時折、鉛のように肉体を縛り付ける。
自分の手で千佳を手にかけた。
咎はいずれ受けなくてはいけないだろう。
「……音無さん。それ、私じゃ……駄目かな?」
最初、何を言われたのか分からずに真那は伏せていた顔を上げていた。
チトセは柔らかく微笑んで言いやる。
「……私じゃ、海を見る時に一緒に居るのは……駄目かなって……」
「……私、は……」
「音無さんの夢、とても綺麗だなって私には思えたの。海を見るんだ、って言う、ときめきも。その夢に、さ。私も相乗りさせてくれない?」
綺麗――そんな風に思った事は一度もなかった。
ただ、漫然とした憧れだけがあった。
ただ、漠然とした将来への不安だけがあった。
ただ――蒙昧に生きていくだけのヒトとしての一生しかなかった。
それが打ち砕かれた時、どうすればいいのかまるで分らなかった。
しかし、今、目の前に理解者が居るような気がしていた。
「……私じゃ、駄目かな……?」
何かを言おうとしたのだろう。
何かを返そうとしたのだろう。
何かを、彼女にも与えられればきっと、よかったのだろう。
だが、自分には何もない。
返せるものも、誓えるものも、そして、与えられるものも。
だから、返事に窮する。
何を口にすればいいのか分からずに、返答だけが彷徨う。
チトセは、充分に待ってから、自分の言葉を受け止めてくれていた。
「……本当に、いいの……?」
もう自分は“音無小夜”だ。
だから、一生戦い続けるしかない。
このミッションが終われば、また違うセクションへと赴き、翼手を狩るだけの戦闘兵器となる。
それだけの――価値でしかないのに。
「……いいよ、だって、何よりも……私、命助けられちゃってる。これって一生かけても、返し切れないよ」
笑顔を咲かせたチトセに、真那は救われた気がしていた。
きっと、自分の振るう刃は彼女のような牙を持たぬ者のために在るのだと。
今だけの勘違いかもしれないが、きっとそう思える。
理由があると言うのならば。
「……ありがとう。私は、まだ戦える」
「お礼を言うのは私のほう! 行こっ! 小夜!」
手を引いたチトセに真那は僅かに当惑する。
「……今、下の名前……」
「あ、嫌だった? でも、いいよね。小夜で! だって、私の……一番の友達はきっと、小夜なんだもん!」
少しばかり強引で、それでいて少女の奔放さで。
放たれた言葉に、真那は頬を伝う熱を感じていた。
一生涯、奪われたと思っていたこのような安息。
それを今、僅かな間だけでも感じられている。
何よりも赦しを得られたようで、真那は涙を拭っていた。
「……うん、うん……! 絶対に、チトセは守るから……!」
たとえその結末が翼手に喰われる事を彼女は望んだとしても、その時まで守り続けよう。
そして、この任務を完遂するのだ。
何よりも大切な――親友の想いを裏切らないために。
駆け出した足は自然と軽い。
走り出した鼓動は、自ずと高鳴る。
たとえ理想郷を奪われようとも、どれだけの絶望に苛まれようと、今の自分達には関係がない。
理不尽を踏み越えるのが、何よりも“サヤ”の力のはずだ。
講堂へと集まった生徒達の声が騒がしく響く。
「マジにエメトピアの偉い人が来るって?」
「でも、何なんだろうね。私達にご高説してくれるのかな?」
生徒達は誰も自分達の任務を知らない。
真那はそんな雑多な声の中でキザハシの詰めた“声”を拾い上げていた。
――オトナシ。標的が現れるのと同時に飛び込む。バックアップは。
その言葉に真那も特定波長の“声”で応じていた。
囁き声よりも潜めたそれは“サヤ”同士でしか聞き取れない。
――……うん。手はず通りに。
キザハシの松葉杖に仕込まれた刀を真那は意識する。
やがて――幕が上がっていた。
誰しもが、ここに現れるのはエメトピア中央庁の人間なのだと――そう思い込んでいた。
だからなのか、反応が一拍遅れたのはここに居る全員であったのだろう。
白いドレスを身に纏った華奢な少女が拍手喝采を浴びて会釈している。
「……あれは……誰……?」
少女がエメトピアの役人には見えない。
彼女はマイクを握り締め、面を上げていた。
『……はじめまして、皆さん。名乗るよりも、聴いてもらったほうが早いよね? 私の歌声を――!』
途端、歌声が天井の広い講堂内に響き渡る。
その歌声はこの楽園を魅了する、誰もが虜の歌姫――。
「……これ、レクディの、最新曲……?」
「じゃあ、あれ……レクディなの……?」
疑問を呈したのは隣で手をぎゅっと握り締めるチトセであった。
自分達のような女子高生で知らない者は居ない――このエメトピアで最も偉大で、最も名の知られた、この時代を象徴する歌姫なのだが――。
「……何で、事前情報と……違う?」
ここに現れるのはエメトピア中央庁の役人なのだと聞き及んでいた。
だからこそ、自分とキザハシ、両方の“サヤ”を投入したのだと。
しかし、紡がれる歌声の優美さに真那は圧倒されていた。
言葉も忘れた様子の女子生徒達に、チトセが周囲を見渡す。
「……みんな、何も言えなくなってる……。じゃあ、あれ、本物のレクディなんだ……!」
圧巻であった。
レクディの生歌はイヤホン越しで聴くのとはまるで違う。
全身の神経が沸騰し、血液が内奥から衝き動かされる。
しかし――初めてその存在を目にした真那は、レクディの姿にどこかで既視感を覚えていた。
「……どこかで……似たような人を見たような……」
やがてサビを歌い終え、パートが終わるや否や、大喝采の拍手が割れんばかりに残響する。
興奮した女生徒達へとレクディはカリスマのスポットライトを浴びて、その手をつき上げる。
『……さぁ、じゃあ続きを紡ぎましょうか。本物の――歌声を』
「――そんな事、させるわけがないでしょう」