BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第四十三話 反転衝動

 

 途端に真那の肉体を突き飛ばしたのは巨大な触手であった。

 

 肉塊のように映る何かが青年の指先から出現し、真那の腹腔を食い破る。

 

 瞬きの間でさえも意識を手離していなかった真那だが、臓腑を食い破られる激痛に、刀を打ち下ろしていた。

 

 咆哮したそれは芋虫型の獣であった。

 

 全身の至るところから血を噴き出し、うねったその長大な体躯は教本で見た太古の生命体である――ヒルに酷似している。

 

「やはり、この程度では駄目かな? けれど、君の目論見の完遂には使えるだろう?」

 

「御意に。文人様、ここでの目的は果たされました。行きましょう、レクディ」

 

『……いいけれど。嫌なモノを使役するのね』

 

「レクディ……いいや、その名も違う、偽りのものだったね。【鎮魂の歌姫】(レクイエム・ディーヴァ)、この世界は退屈かい?」

 

『……少しばかりには、ね。けれど、私だけじゃないみたいで、少しだけ安心したわ。何よりも……あんなに血に飢えた姉様ともう一度会えたのだもの。失礼は帳消しにしても釣りがくるほどよ』

 

「それは結構。アダム、いつまで手をかけているのですか? 撤退しますよ」

 

「少し、お待ちを」

 

 キザハシは血の力を使って黒衣のシュヴァリエと鍔迫り合いを繰り広げていたが、それでも平時の彼女の落ち着きは失われているように思われた。

 

「あんただけは……絶対に……!」

 

「自らの血を呪いますか。だから愚かしいのですよ、キザハシ」

 

「その名を呼ぶなァ――ッ!」

 

 吼え立てたキザハシの声に巨大なヒルが飛びかからんとする。

 

「おや? 駄目だね。僕から離れるとすぐに制御をなくす。これだから〈古きもの〉は扱いづらい」

 

 巨獣のヒルがキザハシへと真っ直ぐに向かわんとするのを、真那は自らの脚へと刃を突き立てる。

 

 血の力――イザヨイと戦った時に使った力がもう一度使えるのだとすれば、それは大量出血した時に他ならない。

 

「……動、けぇ……っ!」

 

 滴った血と臓腑がその時――反転する。

 

 自らが書き換えられ、脳細胞の一滴に至るまで醒めた意識へと変貌していく。

 

 赤い血潮が髪を纏め、しゅるしゅると三つ編みを形成していた。

 

「……ほう、あれは」

 

 全身が真紅に染まる。

 

 脳細胞はフルスロットルを打ち出し、最高速度の生命体として疾走していた。

 

 雷の音を掻き鳴らし、肉体は精神の箍を外す。

 

 血の刃を振るい上げ、真那はヒルの怪物へとその身を躍らせる。

 

 キザハシへと噛み砕かんとしていた円弧を描く口腔部へと、まずは一閃。

 

 その一撃だけで講堂へとヒルが叩き伏せられる。

 

 二階席のオニゲンがヒルへと喰いかからんとしたのを、怪物は自らを振動させて粉砕していた。

 

「文人様。〈古きもの〉は……」

 

「うん。オニゲン程度なら殺せてしまうね。けれど、どうするんだい? 小夜。〈古きもの〉は、君らの血では――」

 

 最早、些末事を聞き届ける間さえも惜しい。

 

 真那はその身を灼熱の血潮へと変え、巨大ヒルへと血の一閃を叩き込んでいた。

 

 巨体が吹き飛ばされ、両断された部位より血飛沫が舞う。

 

 舞台上で返り血を浴びた青年は、落ち着き払って拍手を送っていた。

 

「そう、翼手と違ってね。〈古きもの〉を殺すのには、一度に大量出血させるしかない。難儀なものだろう? けれど、このエメトピアで戦い抜いてきた君達には一番の毒のはずだ」

 

「……貴様……」

 

 刀を提げたまま、真那は舞台上のレクディと白スーツを睨み上げる。

 

 その奥で佇む青年は、ほら、と声にしていた。

 

「まだ生きてるよ」

 

 ハッとしたその時には、ヒルの怪物が払った尻尾の一振りによって真那の肉体は吹き飛ばされている。

 

「気を付けなよ。何せ、血を贄とするヒルの〈古きもの〉だ。なかなか死なないよ」

 

 真那はしかし、壁の石材を弾き飛ばし、ヒルの怪物へと刃を薙ぎ払っていた。

 

 空間を鳴動させる赤き一閃がヒルを一文字に掻っ切る。

 

 だが、それでも相手は死なない。

 

 無数に分裂した顎で噛み砕かれ、真那は講堂の中空で磔となっていた。

 

 青年は朗らかに微笑む。

 

「小夜。諦めたほうがいい。今の君じゃ、こんな低級の〈古きもの〉でさえも撃ち滅ぼせないんだ。あの時の輝きは鈍ったかな? 君は、とても綺麗だった。僕が何度も何度も……何度だって恋焦がれたほどに」

 

「……ころ、す……! 殺す……!」

 

 ヒルの怪物の牙が肉体へと深く食い込む。

 

 何故なのだか、相手は血では死なないらしい。

 

 無数の頭部を持つに至ったヒルが自分の腹腔めがけて一気に肉薄していた。

 

 真那は激しくかっ血する。

 

 臓腑を食い破られる感覚に、何度も意識が途切れそうになっていた。

 

「文人様。あの“サヤ”はなかなかの逸品です。殺すのは惜しい」

 

「ラビ、けれど何度もチャンスを与えるものでもない。そっちは片付いたかい?」

 

「ええ、それはもう」

 

 視界の隅でシュヴァリエの刃を前に、キザハシは講堂の椅子を巻き込んで地面を滑っていた。

 

 立ち上がろうとして、その瞳の真紅が明滅する。

 

 消える間際の、最期の灯火の如く。

 

 まるで時間を飛び越えたかのように、黒衣のシュヴァリエがキザハシの前へと立ち現れる。

 

「ここまでだ、キザハシ。僕に勝てないのは君がよく分かっているだろう。君が“血分け”をしたんだ。そんな相手に、君の勝つ術はない」

 

「殺す……殺して……やる……!」

 

「そうか。けれど今度は、君が首を刎ねられる番だ」

 

 黒衣のシュヴァリエが太刀の腕を振るい上げる。

 

「やめろォ――ッ!」

 

 真那が満身から吼えるも、肉体はまるで自由ではない。

 

 キザハシはその瞬間、一度だけこちらへと視線を向けていた。

 

 最後の最後、キザハシの“声”が耳朶を打つ。

 

 ――巻き込んで、ごめん……。

 

 そんな懺悔を聞きたいわけではなかったのに。

 

 真那は無力感に刃を握り締める。

 

 ヒルの怪物がより深く牙を突き立て、その反抗の気概を奪おうとする。

 

 だが、真那は逃げなかった。

 

 何よりも――ここで逃げて何になるのか。

 

「私、は……」

 

 喰い合いを始めるオニゲン達の中に、チトセが混じっているのが視野に入る。

 

 最早、ヒトであった証左もなく。

 

 その瞳に理性の一欠けらも存在せず。

 

 ただ、闇雲に憎悪と怨嗟を撒き散らすだけの、本能のケダモノに過ぎない。

 

 真那は血の感覚が失せていくのを感じていた。

 

 先ほどまで殺戮衝動に身を任せていた己は、細分化され消滅しようとしている。

 

 ――分からない。

 

 この楽園の何が悪いのだ。

 

 ――分からない。

 

 この理想郷で、何も知らず生きていたほうがいいではないか。

 

 ――分からない。

 

 チトセ達は何が幸福だったのか。何も知らせず、この日を迎えるほうが遥かに幸福だったのではないか。

 

 そんな事――。

 

 だから、そんな事のために偽善者を気取った自分なんて。

 

 ――分からない、だからって。

 

「……ここで消えて……いいわけがないでしょう……! 私は、音無……小夜……っ!」

 

 真紅の瞳に再び業火が宿る。

 

 消えかけていた反抗の灯火が、全身の血流を巡っていた。

 

「……これは……」

 

 眼下に染まるのは、赤い世界。

 

 血と憎しみと、そして本能だけが意味を成す世界で、真那は己の意識の最後の手綱を、「それ」に任せようとしていた。

 

 途端――。

 

「――駄目よぉ、真那ちゃん。そんな簡単に小夜の衝動に身を任せるなんて」

 

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