第四十六話 青空のナミダ
タタン、と電車がホームへと滑り込んでいくを、少女は目の当たりにしていた。
人気の絶えた、深夜急行。
踏み入れた彼女の奇異さを、誰も見咎めない夜半。
少女は特徴的な漆塗りの番傘を畳み、ほとんど乗客の居ない電車にて、座席へと座り込んでいた。
『次は、官庁前、官庁前でございます。皆様、この急行は次の停車駅まで停まりません。お忘れ物ないように――』
車掌のアナウンスが響き渡る中で、少女は伏せていたその瞳を、同じ車両に乗り合わせていたくたびれたサラリーマンへと据えていた。
サラリーマンは半分ほど寝入りかけているようであったが、こちらの視線に勘付いて僅かに眉を上げる。
等間隔に刻む車両の音叉に、少女は紅を引いた唇を引き結び、つり革の揺れる車両内で凍えたような白い息をついていた。
マフラーが巻かれ、どこかのハイスクールの制服を着込んでいる。
少女はおかっぱ頭の髪を僅かに揺らし、サラリーマンへと視線を投げていた。
『車両メンテナンスの関係で、数分間、車内設備が停電いたします。ご利用の皆様には大変、ご迷惑をおかけいたします』
アナウンスが耳朶を打つなり、一つ、二つと車両から光が失せていく。
やがて少女の車両から光が失せた瞬間、彼女は駆け出していた。
サラリーマンが恐慌に駆られて、足をもつれさせながら逃げおおせようとする。
しかし、迷いのない少女の双眸は彼を逃がさない。
車両連結部で無様に転がったサラリーマンへと、少女は番傘に仕込んでいた刃を閃かせていた。
相手の絶叫が上がる前に、少女の斬撃がその頭蓋を割る。
タタン、と等間隔の音を立てて車両がレールを滑っていく。
やがて、光の戻ってきた車両で少女は布で刃に付着した血を拭っていた。
急行が滞りなく、ダイヤを乱さずにホームへと辿り着いた時、少女は自分の名を呼ぶ男の声を聞いていた。
「――サヤ! アマミヤサヤ!」
その言葉に少女は――雨宮小夜は歩みを止める。
相手は二人組で、両方とも年若い。
まだ未成熟な二人はよく似通った整った顔立ちで周囲を見渡す。
「カイン兄さん……目撃者は……」
「“ルイス”、任務中の僕は“デヴィッド”だ」
そう諫めた青年は微笑んでから、ルイスと呼称されたほうを顎でしゃくり、電車内へと導く。
「首尾は?」
「上々やね。ウチ、正直なところで言えば、もっと強い翼手を殺すべきやと思うんやけれど、それは機関が許さんのかね?」
流麗な言葉遣いを返したアマミヤは番傘をさすってから、デヴィッドの瞳を覗き込む。
「それもそうなんだけれど、ここ最近は特に28号翼手の目撃例が多い。こっちでも手を打とうとしているところで――」
「兄さん! 翼手じゃないぞ! どうなってるんだ!」
車両内から戻ってきたルイスは口元をハンカチで押さえつつ、必死に抗議する。
「まだ変異していないだけだろう? 騒がないほうがいい。人の眼がないわけでもない」
「ちゃんと見てくれって! 今回こそ仕損じたんじゃないだろうな、“サヤ”!」
「あら? けったいな事を言うんやね。ウチら小夜は人間だけは殺せんはずやろ? なら、斬ったのは翼手のはず」
「アマミヤの言う通り。君は少し迂闊が過ぎるんだよ、ルイス。下手な事を言って一般人に勘繰られたくもない」
「ちゃんと見てくれって! あれはあまりにも……!」
吐き気を催したのか、ルイスが後ずさりながら十字を切る。
その瞬間、アマミヤの思考回路は白に染まり、憎悪の瞳でルイスの顎を引っ掴んでいた。
ルイスとアマミヤほどの体格差でも、彼が浮かび上がる。
「……ここのところ、毎度毎度……機関の情報網も鈍ったんと違う?」
「上の指示だ。僕とルイスは作戦目標を実行するしかない」
僅かな間、デヴィッドと睨み合いが続いた後、彼は搾り出していた。
「……本当に何も知らないんだよ……」
それでアマミヤはこれ以上の議論は無意味だと判定し、ルイスを突き飛ばす。
刀の血を拭った布をゴミ箱に捨ててから、後を追ったデヴィッドが回収したのを声で関知していた。
デヴィッドとルイスが言い争いを始めているのを、歩きながら聴き留める。
『何だって言うんだ、チクショウ……』
『ルイス、少しは彼女との付き合い方を学ぶべきだ』
『……けれど、兄さん。あんな化け物とオレ達がこういう身分だなんて……』
『それともう一つ。アマミヤは耳がいい。これもたぶん、聞こえているだろうね』
その言葉にルイスは思わず口を噤んだようであったが、無意味だと感じたのか嘆息をつく。
『……機関の仕事って言うのも楽じゃないな……。兄さんは嫌にならないんだ?』
『嫌だとかどうだとかで収まる話でもない。それに、僕は彼女の戦い振りは好きなんだ。応援してあげたいと思う。ルイス、覚えておくといい。彼女らを怒らせるな、彼女は組織の知る唯一の“オリジナル”に近い小夜だ』
『……オリジナル……』
その一部始終を聞き終えたアマミヤは馬鹿馬鹿しいと一蹴していた。
「ウチがオリジナルなら、とっくの昔にこの闘争は終わっとるわ。翼手一匹倒すのと、小夜を育成するのとではとんでもなくリターンが薄いんやから、こんなの長続きせんよ」
そうぼやきつつ、アマミヤは番傘を差す。
天候はあいにくの雨であった。
雨の中で歩くのは好きだ。
自分が喧騒と曇天の中に埋もれていくようで、個人の思惑を掻き消す事が出来る。
誰でもない存在として、自身を希釈出来るのはきっと雨の特権だろう。
おかっぱの襟足を払って、アマミヤは街頭モニターに表示された速報に目線を向ける。
『“SAYA”感染者は日々、増えている模様です。エメトピア市民の皆様におかれましては、感染予防と、そして互いの思いやりを大事にしてください』
「思いやり……ね」
そのようなもの、真っ先に掻き消されてしまう事柄だと言うのに。
しかし、アマミヤは雨模様が嫌いではない。
そして、雨の日特有のどんよりとした空気感も、湿り気も、人々のどこか憂鬱な面持ちでさえも、ある意味では一興だ。
姿のない悪意がこの世にあるとして、それは雨と言う分かりやすい形など取らないだろう。
アマミヤは冷え始めた吐息を漏らし、マフラーの下に仕込まれている首輪を意識する。
直通通信に凍えるようにマフラーを抱いて応じていた。
「何か? 今日のミッションは達成したはずやけれど」
『アマミヤ、今日殺した翼手はやはり、28号であったらしい。それも、粗悪品だ。翼手としての戦闘行動でさえも難しかった個体だろう』
「あんたさんがそう言うって事は、それだけやないんやろ? ――ジョエル」
先回りして言ってのけたこちらに、通話先のジョエルは咳払いする。
『……つい三分前に入ってきた情報だ。28号翼手のハーレムを確認した。アマミヤの小夜、君には継続的に、殲滅戦闘に移って欲しい』
「ええの? ウチ、スコアとか興味ないけど」
『だからこそだ。……マップからして、28号の潜り込んでいるのは孤児院が入っている。犠牲者が増える前にケリをつけて欲しい』
なるほど、翼手の思い通りにさせないと言うのは確かにロンギヌス機関の長を名乗る人間の命令権だ。
「……けど、ウチのデヴィッドとルイスはまだ手が離せんのやろ? どうするって言うん?」
『君だけで突入、後にデヴィッドとルイスを向かわせる。清掃班と処理班は既に展開済みだ。彼らに関しては心配しなくていい』
「……なるほど、ウチが頷こうと首を振ろうと、もう結果は決まっとるんやね」
『アマミヤの小夜、君ならば28号程度、さしたる問題でもない。問題なのは犠牲者が出る事だよ。奴らのハーレムに潜り込むのは容易くはないはずだ。上級翼手に近い存在が出てくるとなれば、機関も本腰を入れて小夜を育成しなければいけなくなる』
「ウチ一人のリソースでええんなら、それに越した事はない、か。ジョエル、あんたさんも言葉を選ばんくなったんやね」
『どうとでも言ってくれたまえ。孤児院は現在地から君の脚ならばニ十分以内だ』
「そう。なら、十分で着けるわぁ」
直後、アマミヤは群衆に埋もれて掻き消えていた。
常人では追えない速度で跳躍し、白亜の建築物伝いに青い加速度を帯びて突き進む。
雨粒が凝結し、頬を濡らしていく中で、アマミヤは情報を拾い上げていた。
『アマミヤ、今しがた辞令が下りたところだよ。28号翼手の親が割れたとの……』
「もう向かっとるわ」
『……さすがだね。ルイスと僕は遅れての現着となる。すまないが、特殊弾頭の使用は困難だろう』
「構わんよ。刀は持っとるさかい、後処理だけ任せるんで結構やろ」
『……おい、アマミヤ。兄さんに対してその言い草……』
「何なん? ルイス。そんなに兄さん兄さん言うて、愛おしいみたいやないの」
少しだけ茶化してやるとルイスも押し黙る。
『そう言わないでくれよ、アマミヤ。ルイスも仕事なんだ』
「一家言くらいはあるって? それもどうなんやろうねぇ」
一足飛びに建築物を跳ね上がり、アマミヤは目標地点である孤児院へと水鳥のように軽やかに降り立っていた。
「……今のところ静かやけれど……分からんもんね。親翼手は意図的に“声”くらいなら消せる奴も多いし」
ここは何の変哲もない無害な人間を装ったほうがいいのかもしれない。
アマミヤは孤児院の戸口へと降りたところで、庭先で遊んでいる少年らに見咎められる。
そっと、唇の前で人差し指を立てて微笑み、アマミヤは入り口を潜っていた。
「ごめんください。雨に降られてしもうて、ちょっとだけ宿借りてもええやろうか?」
入った地点から数えて三つのところに、テーブルが密集しており、どうやら今日は誰かの誕生日を祝っているらしい。
ホールケーキと、そして各種飾り付けが成された暖色の色合いに、アマミヤはまぁ、と声を跳ねさせる。
「誰かの誕生日なんかねぇ? ええわぁ」
「……失礼ながら、あなたは?」
シスターらしき女性がこちらへと歩み寄る。
アマミヤは傘を振って水を落としていた。
「そこのスクールに通っとるただの女子生徒なんやけれど、あいにくの雨でなかなか帰れんのよ。ちょっと雨宿りついでに寄らせてもろうてええかねぇ?」
「……別に構わないんじゃないの? どうせ、やる事なんてほとんどないんだし」
そうぼやいた少女はホールケーキの前で退屈そうに端末を弄っている。
「ノノ! あなたがそう言っちゃ世話もないでしょう? あなた達の誕生日なんだから」
ノノと呼ばれた少女は、栗色の髪を片側で結んでいる。
その瞳は一瞬だけ自分を捉えたが、やがて興味を失っていた。
「……この孤児院も、言っちゃえば狭い鳥籠みたいなものじゃないの。あたしは誕生日なんかで浮かれないからね」
「けれど、せっかく十六になったんだから、それを祝うくらいいいじゃないの」
「めんどくさーい。あたし、一人がいいのに」
シスターが振り返った、その一刹那――。
アマミヤは仕込み傘から抜刀し、その胸元を貫く。
血潮が黒いテーブルへと滴っていた。
「……何、を……」
「あかんよぉ、上級翼手。ウチみたいなのの前で、背中向けるなんて、刺してくれ言うとるようなもんやんか。それに、“声”、耳障りなんよ」
ノノが悲鳴を上げる。
それと同期するかのようにシスターの骨格が組み変わっていた。
背丈が一気に倍近くに膨張した黒い獣へと変じ、肉塊じみた片腕を振るう。
咄嗟に引き抜いた刀身でアマミヤは受けるが、それでも有り余る膂力で押し飛ばされていた。
「……一発で心臓を射抜かんと、やっぱり泥仕合になるやんか」
扉へと背中が迫る前に、空中で姿勢制御して壁を足場にし、アマミヤは上級翼手へと飛びかかる。
上級翼手はその片腕を肥大化させ、翼の代わりに筋肉繊維を無数に拡張させていた。
一太刀を凌がれ、舌打ちを滲ませる前に鉄拳が躯体を揺さぶる。
アマミヤはしかし、一時でさえも隙を見せなかった。
すぐに着地姿勢を取ったその時には、刀を逆手に握り締め真紅の瞳で相手を睨む。
上級翼手は飛び退るのと同時にノノを片腕に収めていた。
翼手の爪に恐れ戦くノノへと、アマミヤは何か声を投げようとして背後から飛び込んできた“声”の密集に身体を嬲られる。
「……さっきの子らも、翼手やったってわけ……」
庭先で遊んでいた少年らは28号翼手の走狗となって、爪と牙でこちらへと肉薄する。
アマミヤは呼吸を一拍挟み、それから赤い世界へと没していた。
空間認識が切り替わり、翼手の咆哮が支配する領域で躍り上がる。
まずは下級翼手へと斬撃を見舞い、その片腕を落としていた。
返す刀で一閃、背筋を割ってから足蹴で突き飛ばす。
テーブルへと突っ伏した下級翼手の頭蓋へと、壁にかけられていたキャンドルタワーを引き抜いてそのまま投擲する。
突き刺された箇所から結晶化が始まり、次いで上級翼手へと仕掛けようとして、アマミヤはまだ生き残っている28号翼手に阻害されていた。
「邪魔やん、あんたさんら」
逆手の刃で翼手の爪を削ぎ、上段からの唐竹割りで頭蓋に刃が沈み込む。
血飛沫を引いて後ろへと倒れ込む翼手の肉体を踏みしだき、アマミヤは空中で旋回していた。
直上より舞い降りて来た翼手へと刀が叩き込まれ、その細腕で相手を壁まで吹き飛ばす。
宙づり状態のシャンデリアへと片腕を引っ掛け、反動をつけて翼手の居城となった空間を抜けていた。
「逃がさんよ」
上級翼手はノノを人質にして逃げ切る算段だろう。
下級翼手が阻害せんと追い縋るのを、アマミヤは視線を振り向けもせずに断絶する。
「邪魔やなぁ、ほんま」
階段を駆け上がり、上級翼手の逃げ場を封殺すべく屋上へと出ていた。
雨は先ほどまでよりも強く降りしきっている。
雨風に煽られながら、上級翼手が赤い瞳を蠢かせ、その爪をノノの首筋へと沿わせる。
「それ、もしかして人質のつもりなん?」
問いかけに相手は濁った声で応じる。
「組織ノ……道化、ガ……」
「そうかもしれへんけれど、あんたさんらよりかはマシよ、これでも。その子、こっちへと渡す気ぃないん?」
上級翼手はその返答のようにノノをこちらへと突き飛ばしていた。
少女の痩躯が自分へと折り重なる。
その瞬間――強度を増した爪がノノごとアマミヤを貫いていた。
肉体が傾ぎ、上級翼手の爪が臓腑を引き千切る。
彼女が激しくかっ血したその時には、上級翼手は翼を広げて、孤児院の屋根を伝っていた。
「……しくったわ。飛ぶ気やね……」
アマミヤはノノを振り切ってから、跳躍して上級翼手へと刃を見舞う。
だが、その時には相手は風を得ていた。
翼で滑空し、異形の姿は遠ざかっていく。
「……街に翼手を放ったも同じ……か。この子さえ居らへんかったら、確実に仕留めとったのに……!」
しかし、今さら言い訳じみた抗弁などらしくはないだろう。
アマミヤは下級翼手も数匹、ここから姿を消しているのを、滴った血に指を当てて感覚する。
「……血が、感じられるだけでも十七……。うち、倒したのは四体程度。これじゃ、不始末や言われてもおかしくはないやんね」
いずれにせよ、雨で血の臭いは薄れている。この状態からの追撃は不可能に近いだろう。
「……あ」
声が漏れ聞こえていた。
視線を振り向けると、仰向けに寝かせたノノが今に息絶えようとしている。
「簡単に死ねへんかったん? 不幸やね、それも」
「……あた、し……」
「誕生日に死ぬさかい、ちょっとはマシなんちゃうん?」
息も絶え絶えに、声が絞られる。
アマミヤは手首から滴る血が、禊のように雨に洗い流されていくのを感じ取っていた。
「……あんた、死にとうないんか? それとも、生き意地汚く世界へと、抗っていくん?」
この時、どうして自分の中に憐憫にも似た感情が湧いたのかは不明であったが、アマミヤは死に行く少女をただ苦しませて逝かせるのは憚られていた。
ノノは小さく告げる。
「……しに、たく……ない、よぉ……」
「……“血分け”は趣味やないんやけれど、目の前で死なれちゃ、寝覚めも悪いわぁ」
アマミヤは血を口に含み、それから、ノノへと視線を合わせていた。
「ちょっと苦しいけれど、我慢しぃな」
相手が認識する前に、深く口づけを交わす。
永遠のような一瞬が流れ、そして――。