ようやく逃げおおせたのを関知し、地上へと降り立とうとして、先ほどの“狩人”の殺気を思い返す。
獣に変じた身でもぞっとする。
まるで戦闘能力などないような矮躯の少女が、刃を振るい、自分達の同胞を殺してのけた。
「……あれが、“小夜”……」
変異を解き、シスターの姿へと戻ってからも震えが止まらない。
噂には聞いていたが、実際に相対すれば迫力が違う。
冷徹な殺戮兵器――ロンギヌス機関の有する自分達に対しての最大の毒。
「……私が上級翼手でなければ、狩られていた……」
「――それが分かるだけでも、十全かと思うけれど?」
その声にシスターはハッと意識を振り向けていた。
こちらをビルから見下ろすのは黒衣に身を纏った金髪の男であった。
直感的に、シスターは相手が自分より高位の翼手である事を認識する。
「……あなたは……」
「シュヴァリエ。聞いた事ない?」
「……エメトピア中央庁に召し仕えられる、翼手の騎士……」
「あら? 知ってるじゃないの。じゃあ、話が早いわよね」
トン、と一足飛びにこちらへと近づいてきたシュヴァリエの男は気配をほとんど感じさせずに、肩に手を置く。
「大丈夫? 少し怯えているようだけれど……まぁ、無理もないか。狩人に行き遭って平静じゃいられないわよね」
「……あれが、小夜……なのですね」
「そうよ。アタシ達にとっての天敵であり、同時にこの理想郷を壊すだけの病理でもある」
シュヴァリエの男はどこか軽薄に言いやってから、こちらへと意見を促す。
「……あれを倒さなければ、いけないのですか」
「倒す? なかなか難しい事を言うのね。アタシ達、翼手は小夜の血の一滴だけでも致死量なのよ? 機関は彼女らに最適な武器を与えている。“emeth”の刻印が施された武装、神託兵装と呼称されているそれは、小夜の血を吸い、最悪の殺戮兵器として存在している。それで斬られれば、アタシのようなシュヴァリエでも死ぬわ。甲斐もなく、結晶化してね」
「……それが私達の、宿命だと言うのでしょうか」
「まさか。そこまで悲観していないわよ。何よりも、あなた、結構な数を逃がしたじゃないの。その功績は大きいわ。あなたが生み出したハーレムで、増やした数は?」
「……全部で十四体、ですが、時間がかかり過ぎてしまいました。その割に、前回の狩人によって数は半減……」
「上々よぉ、それだけ出来れば。ロンギヌス機関に悟られずによくやっていたわね。それと、もう一個。あなた達、“SAYA”のキャリアーを匿っていたわね? それはどうして?」
ここで隠し立てしたところでためにはなるまいと、シスターはこぼしていた。
「……姉妹だったのです、双子の。片割れにとってそれは都合の悪かった。隔離して、軟禁するのが精いっぱいであった、というのが正直なところです。排斥するのには、“SAYA”の脅威を前に手をこまねいていた」
「なるほどね。確かに、アタシ達、翼手人類からしてみれば“SAYA”のキャリアーを殺すのもちょっと躊躇うところよね。けれど、妙なのはそれだけじゃないの」
「……と言うのは?」
「気配が違うみたいなのよ。そこいらの“SAYA”とはね」
「……何故、そのような事が分かるのです?」
「それに関しては、彼がよく分かっている。そうよね?」
振り向いた男に、いつの間にこの場に集っていたのか――仕立てのいいスーツに袖を通した頑強な初老の男が佇む。
その眼差しには諦観のようなものが窺えたがそれにしたところで――シスターは力なく膝を折る。
あまりにも、苛烈なる殺意に中てられたのだ。
「……あなたは……」
「彼は最も強いシュヴァリエであり、そして翼手人類を導く光のような存在よ。名前を――」
「ネイサン。私の流儀だ。自分で名乗らせてもらおう」
「あら、嫌だわ、もうっ。そんな古い名前を持ち出さないでよ。このエメトピアじゃ新しい名前なんだから。アタシは今はマハラルよ」
指輪をはめた手が差し伸べられ、名を告げる。
「私の名は――アンシェル。君達、翼手人類を導くために、この楽園に遣わされた。……なに、古い翼手だよ。君らに比べればね」
しかし、シスターはアンシェルから視線を外せずにいた。
圧倒的な力の具現――それを細胞の一個単位で感じ取っている。
逆らう事もまかりならぬのならば、ここで一言でも要らぬ言葉を発すれば、即座に首を刎ねられるかのような。
「……私の、してきた事は……」
「エメトピアの翼手としては正しい。それにしても、なかなかに易い世界へと成ったものだ」
「アンシェル、彼女が匿っていた“SAYA”感染者、間違いないんでしょう?」
「ああ、それに関しては私が間違うはずがない。まだ未覚醒のようだが、私が接触すればすぐに覚醒状態となる。その時に、一番に傍に居るのはこの私、アンシェルでなければならない」
「……あの子のシュヴァリエだものね、過去も未来も、あなたは」
「ネイサン、貴様も変わっていないようだな。まさか、ここまで生き延びているのが私だけではないとは思いも寄るまい」
「あら? そう? アタシ、命冥加だけはあるのよねぇ」
「しらばっくれるな。貴様は血が別なのだろう? そうと考えるほかない」
「……どうかしら? あと、もう古い名前で呼ばないでよ。マハラルだって言ってるでしょう? 今仕えている子の前で、くれぐれもその名前は禁じてよね。下手に怖がらせちゃうわ」
「……エメトピア中央庁の女神官だったか。まったく、世界は様変わりしたものだ」
「楽園よ、ここはね」
マハラルとアンシェルの言葉の一つだって分からなかったが、シスターは胸に握り締めた十字架を強く確かめていた。
彼らに付いて行けば、自分はまだ死ななくって済むはずだ。
その予感にシスターは頭を垂れる。
「……必要とあれば、ご命令を……」
「命を投げるか? いや自身の生き残る最善策を模索するか。この世界の人類らしい事だ」
「そう言ってあげないで。彼女らだって翼手なのよ。なら、アタシ達が侮辱するものでもないでしょう?」
マハラルの擁護にアンシェルは鼻を鳴らす。
「……どれだけでも、易くなったものだ。翼手という存在への誉れもないか」
「世界が変わったのよ。なら、アタシ達は従うべきでしょう?」
「全ては理の向こう側、となれば、なかなかに困難を極める。マハラル、私は“彼女”を迎えに行かなければいけない」
「かと言ってロンギヌス機関に仕掛けるのは、あまりにも困難よ? “あの時”と違って、何人も“サヤ”が居る」
「……厄介な世界に成ったものだ。いや、我々のやってきた事がこうも跳ね返ってくるとはな。世界が求めるがゆえに、かくあるべし、か。まずは撒き餌を使う。残存している翼手の数は?」
シスターは自分に問われているのだとようやく認識して掠れた声を出す。
「……わ、私から呼べるのは……せいぜい四体程度です」
「……充分だ。“声”を使って招集せよ。少しだけ、作戦を用いる」
「シュヴァリエが表立って動いているなんて、分かったら事だものね。まずはあなたの増やした下級翼手を使って、機関の“サヤ”を炙り出す。少し、時間はかかるけれど」
マハラルはこちらへと“声”の行使を要請する。
シスターは風に乗せて“声”を拡散させていた。
「……しかし、機関に予見されてしまいます」
「呼び声になればいい。上級翼手の命令で動いているのだと誤認させる。その隙を講じ、我々シュヴァリエが動けば、少しは露払いにもなろう」
「……囮にするつもりですか」
「何の問題が?」
一滴でさえも疑問を挟む余地のないその論調の重さに、シスターは息を呑む。
「……いえ、何でも……」
「この子が増やしたハーレムなのよ。壊すのは惜しいはず」
「使えるものを使わなくては、錆び付くだけだというもの。それに、下級翼手では観測した限り、この世界に居る“サヤ”には勝てんよ。少なくとも、前回の“サヤ”は違っていた」
「そうね。そうだわ! ここは上だとか下だとかは関係なく、同盟を結びましょう!」
手を叩いて提案するマハラルに、アンシェルが険しい瞳を向ける。
「……同盟だと?」
「そうよぉ! この子だって自分の命を使ってるんだもの、上下関係なんて間違ってるわぁ! アタシ達が一方的に命令するのも憚られるし、ここは同盟と行きましょう。“サヤ”を倒すための、ただの同盟よぉ!」
こちらの手を取ったマハラルにシスターは今にも失神しそうであったが、アンシェルは不服そうに声を放つ。
「……下らん。それで勝てると言うのか?」
「少なくとも、負け試合じゃないわよ。よろしくね!」
マハラルは軽い調子で言ってのけるが、それでもシスターにはこの提言に抗う事も出来ないのは誰よりも明瞭に理解されていた。
――彼らの言葉を押しのける事など、自分程度の翼手には出来ない。
今の今まで上級翼手として君臨してきたが、どれもこれも脆い虚飾であったのだろう。
シュヴァリエの放つ殺気に比すれば、自分など塵芥同然。
シスターは力なく頷くしか出来なかった。
「やった! じゃあ同盟ね! 名前は……うーん、そうねぇ……対ロンギヌス同盟、なんてどうかしら!」
「……勝手にやっていろ。やはり貴様は……下らん事にかけずらう癖が抜けていないようだな」
そう告げてアンシェルは一瞬で気配を消し去る。
マハラルは頬をむくれさせて抗議していた。
「何よぉ、アンシェル。……って、もう居ないか。困ったものよね。アタシ達のやり方は、もう古いって言うのに。ただ、あなたの頑張り次第で、それこそ中央庁に召し仕える事も考えたっていいわ」
「……ち、中央庁に、ですか……」
「ええ、そうよ。そこまで行けば、“サヤ”の脅威なんかに怯える必要性はない。アタシ達の天下が待っている」
その甘美なる誘惑に、シスターは十字架を握り締め、そして恭しく頭を垂れて誓う。
「……必ずや作戦の成功を。そして、機関の“サヤ”に死を……」
「その調子よぉ! あなたも分かってきたわね!」
喜ばしい事のように跳ねたマハラルを背に、白亜の楽園には黎明が訪れようとしていた。