「……“サヤ”候補生の……断末魔? これって一体……」
『……これは……どういう事だ? “サヤ”候補生達のバイタルが次々に消えていく……?』
うろたえた様子のアダムにデヴィッドが言葉を投げる。
『こちらでもモニターした。どうやら、候補生が逆に翼手に追い込まれているらしい。だがそれ自体は物珍しいものでもないはずなんだが……』
濁した先を、アマミヤの断定の論調が遮っていた。
『――ただの28号翼手による攻勢やないね、これ。ここまで統率して、候補生を殺せるのは、恐らく間違いなく――』
その言葉が紡がれ行く前に、ノノは空を覆う曇天を目の当たりにしていた。
不意打ち気味にエメトピア上空へと渦巻いた積乱雲が内部で一際輝き、紫色の稲光を棚引かせる。
「……何よ、あれ……エメトピアで異常気象なんて、あり得るはずが……」
全ての事象は操作され、全ての気象条件はコントロールされている。それこそがこの白亜の理想郷エメトピア――何人にも侵されざる聖なる領域であるはずなのに。
しかし、直後には迸った雷撃が楽園の中枢地を射抜いていた。
デヴィッド達との交信が途絶える。
「ちょっと……! これってどういう……! デヴィッド! アマミヤ! アダム……!」
首輪へと問い質しても返答がないと言う事は、この一帯の夜は既に相手の掌握下にあると言う事だ。
固唾を呑んだノノは、降り立った無数の黒い影を認識していた。
「また会ったわね。ノノ……」
「……シスター? どうして……ここに……」
彼女は下半身を黒い獣の姿へと変じさせて、他の翼手を率いる。
まさか、彼女の差し金か、とノノは刃を突き上げていた。
それを目にして、シスターは眼差しを翳らせる。
「悲しいわ、ノノ。あなたはとても、いい子だったのに。まさか“サヤ”になってしまうなんて」
「……あたしも悲しいわね。信じていたはずのシスターが、上級翼手なんて」
「そう、そこまで知っているのね。じゃあ虚飾も、要らない取り繕いであなたに手加減も必要ないわよねぇ……?」
シスターが指差すと、下級翼手達が一斉に牙を軋らせる。
恐らく、この状況を生み出しているのは翼手の側だ。
力の未熟な候補生の試験場を、逆に罠に嵌めて獲物と狩人を逆転させた。
獣が跳ね上がり、ノノは自身の刃へと指を沿わせ、太刀を見舞う。
頭蓋を叩き割らんとしたところで、不意打ち気味に声が漏れていた。
「ノノ、おねえちゃん……ぼくだよ?」
孤児院で見知った子供の声で囁く翼手に刃が思わず止まる。
それを相手も予見して、爪が奔っていた。
肩口を切り裂かれ、背後を取った相手に返答の太刀を浴びせようとして、この翼手も自分の知っている相手なのか、と鈍っていた。
後ろ足で思いっきり顔面を裂かれ、血潮が舞う。
シスターは哄笑を上げていた。
「殺せないでしょう! だって、知っている仲だものねぇ! ノノ、あなたは翼手を殺せない! “サヤ”として、完全に分けて考えるのにしては時間が短過ぎるでしょう? これで、狩人は制した!」
下級翼手に揉まれるように、ノノは身体中を切り刻まれ、乱杭歯が食い込んでいく。
全身を引き裂かれ、寸断されていく痛みにノノは必死で耐えていた。
ここで声を上げれば、シスターを愉しませるだけだ。
それに――自分は何のために、ここまで戦い抜いてきたと言うのか。
「……あたしは、あの夜に死ぬはずだった」
「そうね。あそこで死んでいれば、少しは安息だったでしょう」
「……恨んじゃないないわ。恨みたくもないのよ。この生まれも、この宿縁も……そして……このザマも」
「諦めるのね。あなたは死に、そして私は招かれる。エメトピア中央庁へと。上級翼手として!」
きっと、ここで意識の手綱を手離したほうがよっぽど容易い。
――ああ、だから。
ここで全てを投げ出して、“サヤ”の宿命からも逃げおおせて。
――そうだ、だから。
「ああ、そうだろうけれど、だからさ。……さっきから煩わしいのよ、その笑い声……!」
赤い噴煙が身体の内側から生ずる。
脊髄の最奥が開き、全ての神経が常時の数倍の出力を発揮していた。
赤く閉ざされた闇の中で、刀を振るい上げる。
真紅の残火を纏わせ、斬撃は下級翼手の首を刈り取っていた。
次々と結晶化していく下級翼手を蹴り上げ、ノノは躍り上がる。
驚愕に目を見開いたシスターを睥睨し、いやに醒めた思考回路のまま、赤く染まった宵闇を駆け抜けていた。
数秒が一拍まで収縮する。
一分は、レイコンマまで凝縮される。
瞬きの間は、思考時間では一秒にも満たず、収斂する。
太刀を薙ぎ払ったその思考回路は、既に捕殺者のそれだ。
考えるより先に躍動した肉体が、血脈に呪いを宿し、身体の一部と化した刃がシスターの肉体を掻っ切る。
シスターの片腕を落とすに値した一閃をさらに追撃、二の太刀が閃いたその時には、彼女は牙を現出させて咆哮していた。
ゼロ距離に等しい場所からの“声”による質量圧倒。
平時の自分ならば、鼓膜を破られた事に一ミクロンの戸惑いと逡巡くらいはあったのかもしれない。
しかし――“サヤ”の戦闘意識には浮かべるまでもない。
鼓膜が破れたから如何にする――?
再生する間に、敵へと剣を振るい落とし、戦闘能力を奪え、と。
視聴覚が失われたなら如何にする――?
再生を待つ暇も惜しい、そのまま超感覚に身を任せ、敵を葬れ、と。
全て告げる。
全て、明瞭に。
全て――はかる事、それそのものが煩わしく。
振るった一撃に確信を。
それだけでいい。
刃が命中したのならば、それを嚆矢として敵の心の臓を貫け。
命中しなくとも、相手の血の臭いが分かるだろう?
それを頼りにして、獣の如く追撃せよ――そう告げるのは、何者なのだ?
アマミヤの声のようで、そうではない。
自分の声のようで、そうではない。
誰かの声のようで――そうでもない。
これは、自身の肉体に刻まれし、呪詛の在り処。
「これが……“サヤ”の力……!」
忌々しげに放ったシスターは肉体を変異させ、上級翼手の姿となって飛び退る。
刀に血を滾らせたまま、ノノは殲滅の誓いを胸に掲げる。
世界は静かだ――ノイズもない。
赤い夜は昏く――灯りもない。
そして、自分が奔る世界は導く――果ての黄色道。
それを辿るようにして、ノノは疾走していた。
上級翼手が吼え立てて、極大化した片腕の膂力を振るう。
拳が肉体へとめり込み、瓦解する寸前にノノは刃を閃かせていた。
二度、三度と死線が編まれ、上級翼手の片腕を微塵に砕く。
赤い残火を灯らせて、ノノは敵へと直進していた。
そう、敵だ。
翼手は倒すべき敵。
そこに何を迷う事などあろうか。
そこに何を疑問など挟む余裕があろうか。
そこに――同情も、そして悲観もない。
あるのは、肉体を駆け巡る喜びだけだ。
血が吼える。
沸騰寸前の血液が。
加速し切った血の一滴が。
殺せと叫ぶ。
滅ぼせと喚く。
そうして――敵を一匹たりとも赦すなと、精神の根が劈く。
振るわれた太刀は明瞭な答えを伴わせて、シスターの肉体めがけて振るわれていた。
「……ノノ……」
薄い懺悔だ、聞く事はない。
それでも、結晶化したシスターに抱かれるようにして、ノノは血染めの身体から熱が冷めていくのを感じていた。
「……よく、やったわね……」
まるで、いつものように自分をなだめる声音で。
シスターの身体が傾ぐ。
両断されたシスターの断面から大量の血が降り注いでいた。
血の雨を浴びて、ノノは空を仰ぐ。
満月の夜が、自分の過ちを睥睨している。
こんな月の綺麗な夜に――自分は恩人と朋友を殺した。
刀が手から伝い落ちる。
ああ、と瓦解寸前の自我を辛うじて繋ぎ止めたのは、声であった。
『……聞こえていますか、“サヤ”未満!』
「……アダム……?」
『これからそっちに向かいます! ……どうやら僕ではこの二人にとって、足手纏いのようだから……。そちらの状況は!』
問い質したアダムの声に、ノノは周囲を満たす臓物の骸を眺めていた。
妙な感覚だ。
殺したのは間違いなく自分なのに、誰かの仕出かした粗相を見ているかのよう。
「……翼手は……死んでいる」
『死んで……? 倒したのですか?』
「……分からない。何にも……分からない」
『……恐らくは血中のSコードの暴走か。今すぐ向かいます! そこから離れないように、いいですね?』
離れるな、と言うのか。
自分自身の咎の証に。
己が殺した、人々の怨嗟に。
ノノはその段になって、胃の腑から上がってくる吐き気を抑えられずに胃液をぶちまけていた。
現実味が薄いのに、翼手を殺した感覚だけが明瞭だ。
悪い夢のように、感覚だけが暴走している。
「……アダム。少しだけ……休める場所に移動させて……。そうじゃないと……壊れてしまう……」
自分の情けない懺悔に、アダムは言葉少なであった。
『……分かりました。そちらで合流地点は示し合わせてください。……どうか、少しでも身体を休めて……無茶だけは、しないように』
今は言い返すような気力もない。
この夜の出口を求めるかのようにして、ノノは刀も持たずに這いずっていた。