アシッド、と教えられてアンシェルは怪訝そうにする。
「使えるのか? その組織は」
「何を言ってるのよぉ。このエメトピアを実効支配する組織よ? むしろ、アタシ達の拠点となるんだから」
「拠点、か」
アンシェルはかつての兄弟としてのシュヴァリエ達との日々を回顧する。
彼らはディーヴァを戴き、確かな絆で結ばれていたはずだ。
しかし、それを壊したのは間違いようもなく……。
「……小夜」
怒りが滲み出ていたのか、拳が雷撃を帯びる。
「まぁまぁ。機関のサヤと戦って見てどうだった? あなたなら、簡単に殺せたんじゃないの?」
「壊すのはさほど難しくはない。だが、問題なのは数と、そして割れない能力を隠し持っている事だ。群れるだけの相手など蹂躙出来ると思っていたが、想定以上にサヤは集団戦闘を心得ているらしい。特に、私と相対した、おかっぱ頭のサヤ……」
「ああ、あの子ね。あなたのお眼鏡にかなったっていうわけ。それも、アタシ達と戦った、“オリジナル”以上とでも?」
マハラルの言葉にアンシェルは鼻を鳴らす。
「馬鹿を言うな、ネイサン。断言しよう。最早あのような真紅の気概も、気高い気性も、永劫失われたのだろう。今の“サヤ”連中は三流がいいところの既製品ばかりだ」
「じゃあ、既製品の中でも、まだマシという事よね?」
「何を言わせたい? 私に、アシッドに降れとでも?」
「降る、と言う段階でもないのよ、アンシェル」
その時、アンシェルは闇の中に浮かび上がった翼手の気配を感じ取っていた。
総数――推し量れる“声”の力だけでも上級翼手が数十体。
完全に包囲されている。
「……謀ったな、ネイサン。何が何でも、私をアシッドに所属させるつもりか」
「今のエメトピアはまだ、理想郷には程遠いのよ。それを少しでも、時計の針を進めさせるために」
「お前らしくもない……あの時のシュヴァリエの中でも読めない動きを続けていたと言うのに、今度は劣化した翼手の群れに従えと言うのか」
「――劣化、と言うのは正しくないわね。最適化、と言って欲しいわ」
闇の中から凛とした声が響き渡り、アンシェルは握り締めた拳の中に雷霆を浮かばせる。
「……新手か」
立ち現れたのは白スーツの女性であった。
見眼麗しいかんばせだったが、生来の気性の荒さを隠し切れていない。
まるで虚飾そのもの――この漂白されたエメトピアと言う名の理想郷を体現しているかのようだ。
「新手、という言い草はよくないわね。はじめまして、ミスターアンシェル。かつて伝説の中だけにある……お伽噺の狼さん」
お伽噺――なるほど。自分の存在も、そして背後や周囲を固める翼手達も同じく闇の存在というわけか。
姿かたちでさえも定かではない――暗黒童話。
「繰り言を聞いているつもりはない。貴様の名前は?」
「ジャンヌ。この理想郷において、“聖女”の名前を戴いているわ。これも、引き継がれる名前だけれどね。エメトピア中央庁、幹部でもある」
「嘘しかないこの楽園の作り手か」
「嘘? 何を言っているかしらね。これほどまでに完成された人類の理想郷は存在しない。それはミスターアンシェル、あなただって例外じゃないでしょう? あなたはかつて、お伽噺の中でこの世界を願ったはずよ。翼手だけの、獣しか居ない楽園の園を」
両手を広げて大仰に語って見せるジャンヌに、アンシェルは眉間に皺を寄せる。
「……誤解があるようだ。私は理知の獣を願ったおぼえはないとも。それとも、幾星霜の時間の流れが歪みをもたらしたのだろうか」
「どう捉えても結構。マハラルから話は聞いているでしょう?」
ジャンヌにはどうやら偽りの名前である「マハラル」で通っているらしい。アンシェルはネイサンへと一瞥をくれてから、なるほど、と呟く。
「全て織り込み済みか。お前らしい結果論だとも」
「勘違いしないでね? アタシは以前までのように、あなたともう一度、兄弟に戻りたいと思っているのよ」
「兄弟、か。確かに、ディーヴァの下に集った我々は確かに、文字通り血を分けた兄弟であった。……それも結果論だな」
「あなたの昔話を聞かせてちょうだい。どれくらいの齟齬があるのか興味深いわ。だってあなたはお伽噺の人なんですもの」
ジャンヌの声に宿った興味本位の抑揚にアンシェルは冷たく手を払っていた。
「告げておく。私が従うのはディーヴァだけだ。ディーヴァを取り戻す以外での共闘はしない。それはハッキリさせておきたい」
ジャンヌは己の自尊心を僅かに傷つけられて目を見開いていたが、背後のネイサンが諫めていた。
「ジャンヌ、アンシェルは小夜達と一戦してきたのよ。疲れているの。今日はこの辺にしておいてもらえる?」
「……そう、ね。マハラル、あなたがそう言うのなら、従ってあげるわ。けれど、勘違いをしない事ね。もう、この世界はエメトピア――純白の、翼手のための理想郷。それはあなたが願ったはずの世界そのものなんだから」
無数の獣を引き連れ、ジャンヌは闇の中へと踏み出す。
その後ろ姿に、これが、と失笑する。
「これが、私の願った翼手の世界、か……。存外に狭い代物だったのだな、これも」