BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第七十三話 真紅の走馬灯

 

 少女らの両腕が二つに開き、肘先から裂けて皮膜を生じさせる。

 

 翼手の産声が響き渡る中で、トーマだけは耳を塞いでその場に蹲っていた。

 

「……トーマ……あなたは……トーマでしょう?」

 

「……聞きたくない」

 

「何をやっているんだ。まったく、これだから未覚醒オニゲンと言うのはいただけないな。あれだけ殺してきたじゃないか。あれだけ撒き散らしてきたじゃないか。臓物を! 饗宴を! そして甘美なる血を啜ってきたと言うのに、今さら! 今さら“人間様”の座に戻れるとでも思っているのか?」

 

「言わないでぇ……っ!」

 

 トーマはすすり泣く。

 

 その涙は見間違いようもなく人間のものに映るのに。

 

 少年は舌打ちを漏らして、小さく命じる。

 

「サヤをやれ。分かっているな? もっと喰わせてやるから、出来るだろう?」

 

 最早、少女の人格を漂白された二体の翼手がキザハシへと襲い掛かる。

 

 しかし、刃を振るえなかった。

 

 つい数時間前まで、何でもないように語らい合っていたではないか。

 

 何でもないように、女子高生を演じてこられたではないか。

 

 愚図だと、お互いにどこかでこの日常がずっと続くように錯覚できたと言うのに。

 

 血の狂乱が、そんなささやかな幸せを許しはしない。

 

 翼手が肩口へと食い掛る。

 

 その翼で羽ばたき、耳障りな“声”を反響させる。

 

 音階だけで地面が陥没し、キザハシは覚えず膝を折る。

 

 それでも――血潮が舞うこんな悪夢の只中でも、涙で頬を濡らしたトーマに手を伸ばす。

 

「……トーマさん……。あたし、あなたはだって、こんなあたしでも友達に……」

 

「……キザハシさん。ウチも……こんな最果てでも、友達に戻れるんなら――」

 

 互いに縋るようにして手を伸ばす。

 

 この最悪の現実から逃れるようにして。

 

 しかし、その願いは容易く挫かれていた。

 

「――うざったいよ。人間ごっこなんて」

 

 パチンと指が鳴らされ、その瞬間にトーマの涙に濡れた瞳が裏返る。

 

 赤く濁った、獣の眼光に。

 

 伸ばされていた救いのための指先が引き裂け、内側から黒々とした残忍な爪が覗く。

 

 背骨が何度も蠢動し、骨格を軋ませてトーマが変貌していた。

 

 喉の奥から漏れ出るのは、理性の一滴さえも感じさせない、けだもののだみ声。

 

「……あ……ああ……!」

 

 懇願の指先が容赦なく、眼前に立ち現れた獣によって打ち砕かれる。

 

 サヤの再生能力をグミによって封じているため、痛みが脳天まで突き抜けていた。

 

 激痛に悲鳴を上げる。

 

 それだけではない。

 

 背後から襲い掛かった翼手二体に金網へと追い込まれ、キザハシの無抵抗な肉体は叩きつけられていた。

 

「……何をやっているの……! 戦いなさい! これまでだって、こんな怪物達は殺してきたでしょう……!」

 

 主であるケイトの命令は絶対だ。

 

 電流を肉体へと注ぎ込む首輪が無情にもキザハシの閉じかけた意識をこじ開ける。

 

 喉奥から呻き声を上げて、キザハシは刀を握り締める。

 

 だが――斬れない。

 

 斬れるものか。

 

「……何でぇ……っ……。この子達とあたしに、何も違いなんてないのにぃ……っ」

 

「あなたと彼女らは違うわ。あなたは狩人、彼女らは獲物でしょう!」

 

 ケイトは事情を知らないから言える。

 

 そう断じられれば、どれほど楽だったか。

 

 彼女もクラブドールのしきたりに則っているだけだ。

 

 このセクションでのし上がるために、必死なだけなのだ。

 

 だが、自分は。

 

 翼手と化してしまった少女らの無念を知っている。

 

 何の変哲もない、女子高生として生きて来た、その生き様の輝きに。

 

 魅せられていたのかもしれない。

 

 自分が永劫失ったものを、彼女達は持っているのだから、と。

 

 いや、妬みか。

 

 嫉妬がないと言えば嘘になる。

 

 あの日――アマミヤによって自分の世界は醜く変質した。

 

 翼手との終わりようのない闘争の宵闇。

 

 そこに投げられた事を、恨んでいないと言えば、それも嘘になるだろう。

 

「……でも、出来ないよぉ……っ!」

 

 この刀と血でしか、翼手は殺せない。

 

 しかし、人並みの平穏を知っているこの身では。

 

 人間性を、何も知らずに育ったわけではない、この弱さは。

 

 刀を抱いて、キザハシは痛みに蹲る。

 

 三匹の翼手がそれぞれ、爪を奔らせ、牙を軋らせ、キザハシを食い千切らんとしていた。

 

「何をしているの! 戦いなさい! ここで……クラブドールで勝ち抜くって約束したでしょうに!」

 

 何度も何度も。

 

 電撃が脳髄を復活させる。

 

 諦観に沈む事をよしとしない。

 

 ここで死んでもよかった。

 

 だが、主は立てと命じる。

 

 そしてこの肉体に流れる血は、一秒ごとに呼び覚まされようとしていた。

 

 グミの対処療法で封殺しているとは言え、三体の翼手を相手取れば、如何に弱小なサヤとは言え、本能が勝る。

 

 ――ここで斬り殺せ。

 

 出来ないなどとは言わせない論調を伴わせて、脳細胞の奥が開く。

 

 骨身と臓物の深層、血肉でしかない場所から真紅の衝動が呼び掛ける。

 

 ――翼手は殺せ。

 

 ――お前が斬れ。

 

 そう叫ぶ声に、キザハシは血濡れのまま頭を振っていた。

 

「いや……だよぉ……ぅ」

 

 片腕が根元から引き千切れる。

 

 足首が折られ、制服姿のままキザハシは翼手三体に貪られていた。

 

 生きたまま喰われる感覚――だが不思議と痛覚はない。

 

 それどころか、死への誘因も。

 

 むしろ、よく生きた。

 

 よくここまで生き恥を晒したものだ。

 

「……もう、いいよ……ね……?」

 

 瞼を閉ざす。

 

 電流が肉体を痺れさせ、何度も起きるように促したが、今は安らかな死の足音が心地よい。

 

 このまま死ねれば――このまま、何事もなく彼女らに喰われるほうが、自分は幸福なのかもしれない。

 

 翼手殲滅などどうだっていい。

 

 妹の身柄も、自分の過ちでシュヴァリエにしてしまったアダムも、もうどうでもいいではないか。

 

 責任なんて、どうやって取ると言うのだ。

 

 この獣達の夜に、自分は迷い込んだだけなのに。

 

 アマミヤの手によって、ほんのささやかな間違いの上に成り立っているのだ。

 

 だから、手離すのは今しかないのだろうと思えた。

 

 サヤの力も、その宿命も。

 

 ここで何もかもを手離してしまえれば、それで終点だ。

 

 そこが終着駅だ。

 

 だから、臓腑を喰われようが、手足をもがれようがどうでもいい。

 

 それで安息な死が待ち構えているのなら、もうこの血濡れの道筋は終わりを迎えても。

 

 刀を手離そうとして、キザハシはその時、記憶の彼方に意識を旅立たせていた。

 

 かつての孤児院での記憶。

 

 妹は――ネネは引き取られた当初から“SAYA”のキャリアーであったために、心ない言葉を投げられた事も少なくはない。

 

 だが、それは自分の事ではない。

 

 そう線を引いて、勝手に納得していた。

 

 その納得が、心地よかったのだ。

 

 ――ネネはこの世界にとっての異分子。

 

 だが自分は違う。

 

 この世界に生きていいのだと、幸福を享受していい側なのだと。

 

 そう認識してしまえば、あとは容易い。

 

 見ないようにしていた。

 

 一度として、ネネに同情してしまえばそこまでだ。

 

 足を取られるぞ、いざという時に見捨てられないぞ、と。

 

 一度も見なければいいだけの話。

 

 振り返らなければ、その過去は縋りついてこない。

 

 ――けれど、なかった事には出来ない。

 

 キザハシは意識の旅路の中で振り返っていた。

 

 ネネが封じられていた禁漁区。

 

 そこに訪れた事は、一度もなかったわけではない。

 

 とても綺麗な、歌声が流れていた。

 

 自分の罪を洗い流してくれるような、ヒトの原罪を何もかも赦してくれるようなそんな歌声が。

 

 その歌声に惹かれて、ノノは誰でもない人間として、ネネの投獄された塔へと赴いていた。

 

 別段、何かをしたわけでもない。

 

 ただ、シスター達が厳しい時には逃げ場にしていた。

 

 誰も“SAYA”感染者に近づく者は居なかったから。

 

 歌声は記憶の中で途切れ、それから問いかけがあった。

 

「……あなたはだぁれ?」

 

 不思議な事に、この時、キザハシ――否、ノノは応じていた。

 

 一言だって話さずに死ぬのだろうと感じていたくせに。

 

「……あたしはあなたとこの世で唯一の……姉妹なの」

 

 子供心に逃避したい気持ちがあったせいか。

 

 それとも、ただの戯れか。

 

 ノノと言う名前は言わずに、話し相手になっていた事もあった。

 

 ネネは一度聞けば、誰なのか分かるのか、足音を聞きつけて何度か話題を交わしていた。

 

「姉様、私……姉様と一緒の世界に生きたい……生きていたい……っ! いつか叶うかしら?」

 

 その純粋な声に、馬鹿ね、とノノは答えていた。

 

「そんな小さな願い、叶うに決まっているじゃないの。あなたはいつか――」

 

 ――あたしのように生きられるのよ――そう答えてしまった原罪が、どうしてなのだろうか。

 

 こんな今際の際に思い出してしまえたのは。

 

「……ああ……」

 

 思い出してしまった。

 

 思い出さないほうがよかった記憶を。

 

 思い返さなければよかった罪を。

 

 四肢に力と熱を通す。

 

 ――血肉よ、今は動け。

 

 血潮よ、今は舞え――。

 

 ここにただ一人として、ただの罪付きの少女として生き永らえてしまった自分を、だって許せないではないか。

 

「……サヤに成ったからなんて、嘘……」

 

 サヤに成る前から、自分は永劫償えない罪を抱えていた。

 

 この世界の真実を知る前から、自分は何度死んだところで、殺されたところで拭えない宿業を抱えていたのだ。

 

 それが償える時が来るとすれば、たった一つ。

 

「……あたしを殺すのは、あんた達じゃない……」

 

 

 

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