BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第七十五話 鏡の向こうへと

 

 鏡を見るのが昔から苦手だったな、とカインはふと思い立つ。

 

 ライブラリ情報にアクセスした途中で、前回の戦闘時に渡された鏡へと視線を配る。

 

「……何でもないじゃないか、こんなの」

 

 しかし、無関係だと断じて捨てる事も出来なかったのは事実。

 

 カインは鏡を覗き込む。

 

「悟りの具に非ず、か」

 

 鏡を真正面から見たところで、自分の正直な気持ちが見透かせるわけでもない。

 

 情報網にアクセスしつつ、カインはやはりと声にしていた。

 

「ジョエルの日記に抵触するか。ここから先は知れば知るほどに戻れなくなるが……」

 

 それでも、今は好機。

 

 この事態において、自分以外に真実に肉薄は難しいだろう。

 

 エンターキーを押し、その先へと進む際、パスワード認証を求められていた。

 

「パスワード……ジョエルの、か」

 

 ジョエル――父親の意向である程度のアクセス権限は持っていたが、ここまで深いのは初めてだ。

 

 何度か試行錯誤しようとして、ふととある場所と日時が脳裏を掠める。

 

「……ボルドー、1883……」

 

 入力すると隔壁が開いていき、情報が端末へと自動的にダウンロードされていく。

 

「……こんなに簡素なセキュリティで……? いや、今は一つでも……!」

 

 取りこぼさないように、とすぐさま動こうとして激震によろめく。

 

「……今のは……?」

 

『艦内に緊急警報。侵入者を関知。これよりレベル4の警戒体制へと入ります』

 

 アナウンスが響くなり、赤色光が照らし出し、カインは端末を手に避難経路を辿っていた。

 

「ともすれば、前回のシュヴァリエ……いや、だがどうしてこの場所が分かった? 機関の支部は完全にスタンドアローン状態のはずだと言うのに……」

 

 その時、端末へとコールが響き、カインは応じていた。

 

『カイン。どうやら翼手による侵攻を許してしまったらしい。これより第四種警戒態勢、小夜による迎撃網を張る』

 

「相手の目的は? それさえ分かれば要らぬ被害を抑えられるはずです」

 

『……交渉が通じる相手とは思えんのだがな。現にアマミヤが足止めを食らった様子だ。わたしは現状、機関に在籍しているサヤを総動員させる。どうにも……目的が見えない』

 

 ジョエルでさえも目的が不明とするのは、明らかにアマミヤの留守を狙った強襲であると言うのに、機関壊滅と言う最悪のシナリオの想定には弱い点であろう。

 

「……向かってきた翼手は?」

 

『前回のデータから、シュヴァリエ相当、と推察されている。カイン、お前は今は非戦闘員だ。出来るだけ交戦を避けて離脱を――』

 

「それは出来ませんよ。それに、あまりにもその決断は遅かった様子だ」

 

 カインは資料室から出るなり、目の前で群れを作っている28号翼手を視野に入れる。

 

 その前線で指揮を執る、黒スーツの金髪の優男も。

 

「……シュヴァリエか」

 

「ご明察。アタシの名前はマハラル。エメトピア中央庁の人間の一人」

 

「人間とは、なかなかに詭弁めいているね。君らは翼手だろう?」

 

「そちらこそ、可笑しな事を言うのね。人類は最大多数の最大幸福で回ってきた歴史がある。だったら、数が多いほうが勝つのは定石でしょう?」

 

 カインは敵の戦力を分析する。

 

 28号自体の戦闘能力はそれほどでもないが、問題なのはマハラルと名乗った相手だ。

 

「……アダム君をシュヴァリエにするようにキザハシをそそのかしたのは君だな?」

 

「あら? 分かっちゃうのねぇ。アタシの役目はせっかくのシュヴァリエ候補、ちょっと譲って欲しいのよ。どうせ、あなた達じゃ飼い殺しでしょ?」

 

「……アダム君は渡さない。それ以前に、逃げ切れると思っているのか? ここはロンギヌス機関の総本山だ。当然、無数のサヤが駐在している」

 

「それにしては、あなたはサヤと行動を共にしていないようだけれど?」

 

 カインは呼吸を落ち着けさせる。

 

 一拍、少しずつではあるが、シュヴァリエと対等に渡り合う手段を講じていた。

 

 ――シュヴァリエにとって有効なのはサヤの血。だが、サヤの血は兵装化できない。弾丸に埋め込めば、数秒で無効化される。

 

 よって、この情報を恐らく知っているのであろうマハラルには銃弾の牽制も通用するまい。

 

「……なら、僕なりの足止めをさせてもらうまでだ」

 

 片手を振り払い、呪符を編み出す。

 

 マハラルが口笛を吹いた途端には、壁を抉って下級翼手を薙ぎ払う触手が払われていた。

 

「……へぇ。それが〈古きもの〉、ね。長い年月を生きて来たけれど、本物を見たのは初めてだわ」

 

 単純な物量で相手を圧倒するミミズの〈古きもの〉だ。

 

 しかし、耐久戦闘にはこれくらい頭脳がないほうが効率もいい。

 

「やれ」

 

 ミミズの〈古きもの〉が蠢動し、壁にその身をめり込ませたかと思うと、内側から粉砕し下級翼手を瞬く間に圧殺していく。

 

 相手からしてみれば何が起こったのか解明するような時間もないはずだ。

 

 ミミズの〈古きもの〉が翼手の血を啜り、その身を肥大化させる。

 

「やぁねぇ……。気持ち悪いものを使役するじゃないの」

 

 カインは下級翼手を澱みなく狩っていくが、マハラルには一撃どころか返り血さえも浴びせられていない。

 

 シュヴァリエとしての権能を用いずとも、自分程度ならば殺せるという判断なのだろうか。

 

「……聞きたい。何故、ここに僕を縫い留める。とっととアダム君の確保に行ったほうが手早いはずだ」

 

「それはねぇ……あなたにも実は用があるのよ。前回、九頭から鏡をもらったでしょう? それを何度か覗き込んで、気が付いた事があったんじゃない?」

 

 マハラルの見透かした論調にカインは平静を装おうとしたが、懐に仕舞った鏡がどくんと脈打つ。

 

 途端、カインは膝を折っていた。

 

 戦闘継続が可能なはずなのに、人間としての根本の部分が消え失せようとしている。

 

「……何をした……」

 

「何もしていないわよ? あなたは鏡を目にして、気づいたの。“これは自分の魂が望む場所じゃない”という事をね」

 

「世迷言を……! 翼手を殲滅するのが、僕達の目的だ……」

 

「果たしてそうかしらねぇ……。ねぇ、一つずつ解きほぐしていきましょうか。ここは楽園、エメトピア。翼手人類にとって最適な世界であり、誰も不幸になんてならない、富の分配も、幸福度の高さも、システムの完璧さも、どれもこれも高水準。アタシが生きていた時代よりもずっと、充実している。これを壊してどうするの?」

 

「……どうする、だって……? 翼手人類の支配のままでは、純正人類が滅ぶ。それが分からないわけじゃないだろう」

 

「じゃあ、ほんの一パーセント未満の純正人類のために戦って、それで報われれるの? 隣人が翼手かもしれないのに、それで平和になるのかしら?」

 

「……純正人類がエメトピアを奪還すれば、きっと希望が――」

 

「ないわよ、そんなの。あるわけがない。きっと、何もかもを繰り返すだけ。翼手人類を殲滅しても、今度は人類同士で争いが生まれるでしょうね。そんな時、誰が裁くの? アタシ達を裁くのはサヤだった。けれど、サヤでさえもオニゲンの一部。本当の楽園なんて訪れると思う? あなた達は結局、未来なんて見えていない。遥か遠く、どうしようもないほどの過去に縋っているに過ぎない」

 

 カインは言葉を失っていた。否、分かっていたからかもしれない。

 

 ここに自分の居場所はない。

 

 いや、それどころか。

 

 自分の力は――ほんの一パーセントの少数を殺すためにあるのだという事を。

 

「……僕の何を知っている……?」

 

「何も。あなたを見出したのは九頭だもの。でもね、アタシにも一家言くらいはあるのよ。いい加減、魂の望む場所を見つけ出したほうがいいんじゃない? 自分を従えられるのは他でもない自分自身よ? これは経験則も入っているのだけれど……っと」

 

 ミミズの〈古きもの〉がマハラルを貫こうとした。

 

 その躯体を彼は払っただけの腕で弾き返す。

 

「……〈古きもの〉を……」

 

「危ないわねぇ、これ。翼手と違って血で死ぬ事はない、大量出血じゃないと殺せないって言うのは思った以上に厄介。あと、数も多いのよねぇ」

 

 直後には上下左右からミミズの〈古きもの〉が襲い掛かったのを、マハラルはパチンと指を鳴らしていた。

 

 途端、起こったのは可視化出来ないほどの細やかな斬撃だ。

 

 翼手の爪でも、牙でもない。

 

 何が起こったのかの明瞭化は不可能であった。

 

 主であるはずのカインでさえも、従えていた〈古きもの〉の状態を把握不能。

 

 断ち割られたミミズの〈古きもの〉から臓腑と血潮が溢れ出し、機関の廊下を濡らす。

 

 それでも、マハラルは血の一滴でさえも浴びていない。

 

「これで分かったんじゃない?」

 

 超越者の余裕。

 

 否、これは別種の感情だ。

 

 今さら言葉を弄するまでもないだろうと言う、諦観にも似た嘆息。

 

「……何で僕なんだ……」

 

「あなた、鏡は見る?」

 

 何でもない日常会話のような論調の問い。

 

「……何を……」

 

「鏡を見るのなら、たまに思うんじゃない? “ここに居るのは本当に自分なのか”、って。人にはそれぞれ魂の望む場所がある。あなたは鏡を見る度に、それを問い質している。だから、鏡がとても嫌いなはずよ」

 

「……シュヴァリエ……僕が通すと思うか……」

 

「その余裕のない物言いも、あなたらしくないわ。もっと超然としていなさい。あなたは自分の魂に嘘をついている」

 

「……克殺……!」

 

 印を刻み、呪符へと力を籠める。

 

 編み出されたのは巨大な鳥類の〈古きもの〉であった。

 

 翼から暴風を生み出し、そのカマイタチの性能を誇る爪が振るわれる。

 

「やれ……! 相手を喰い殺せ!」

 

 こちらの命令に甲高く鳴いた〈古きもの〉がマハラルへと攻撃を仕掛けるも、彼はふんと鼻を鳴らす。

 

 まるで、全く理解しようとしない赤子をあやすかのように。

 

「……駄目ねぇ」

 

 ここに来て初めてマハラルが動きに意味を見出す。

 

 とん、と突いただけだ。

 

 何もない空を、それだけのはずだった。

 

 その一撃が左胸を打つ。

 

 カインは抉り取られた心臓を目の当たりにしていた。

 

 マハラルの手には今も脈打つ、己の心臓。

 

 比して、左胸には大穴が開いている。

 

 何をされたのか――いや、攻撃された感覚さえもない。

 

 痛みも、衝撃でさえも。

 

 何もないのに、心臓を抜き取られた事実だけがはっきりしている。

 

 膝を折るとその時になって堰を切ったように血が溢れ出していた。

 

 ――やられた? 致命傷だ。だと言うのに。

 

「……何で、僕はまだ平気なんだ……?」

 

「それこそがあなたが特別である証。血の盟約よ。あなたは〈古きもの〉と命を共有している。一体や二体のそれじゃない、それこそ百鬼夜行とでも言うのかしらね。膨大な〈古きもの〉と契約を保ち続ける要因、それこそが……」

 

 マハラルが口角を吊り上げる。

 

 心臓をなぞられると、明らかに異質な文様が刻まれている。

 

「それ、は……」

 

「――朱食免、だったかしら。〈古きもの〉を従える契約そのもの。あなたのそれは心臓にあったのね」

 

 返せ、と言葉を発する前にマハラルは笑みを作る。

 

「ねぇ、あなた。事ここに至ってもまだ、嘘をつき続けるつもり?」

 

「……何を……」

 

「もう、いいんじゃないのって言っているのよ。自分の本当の欲望に気付くべきなのよ。何がしたいのか、何のためにこの命があるのかを、あなたは生まれながらに分かっている。それこそ、血が命じているはず。自身の宿業を」

 

 不思議なものであった。

 

 流れる血はほとんどない。

 

 心臓を貫かれたのに、出血は想定外に少なく、静かな死の足音が近づいているのを感じていた。

 

 ――違う。死が近づいてくるんじゃない。

 

「……僕は……」

 

「名前と言うものが、この世界においての役割を決める。それは“小夜”であり、“デヴィッド”であり、アタシの名乗っているこの“マハラル”と言う名前でさえもそう。あなたの本当の名前を言ってあげましょうか? 魂が望む、真の名前を」

 

 やめろと、返す事でさえも出来ない。

 

 もう自分はその帰結を理解している。

 

 マハラルの紡ぐ、美酒のようなその言葉を待ち望んでいるのだ。

 

 ことり、と懐から鏡が滑り落ちる。

 

 それが映し出していたのは、左胸に大穴を開けた、愚かなる人間だけだ。

 

 だが鏡の世界の向こう側には、健在な己の姿がある。

 

 いやに醒め切った眼差しが、今に死に絶えようとしている自分を見下ろしている。

 

 死ぬのか、ではない。

 

 死ぬのだ、でもない。

 

 ――お前の生は、鏡の向こう側にこそある、と囁く。

 

 カインは手を伸ばしていた。

 

 鏡は嫌いだ。

 

 だが、それは何故なのか。

 

 今、唐突に分かってしまっていた。

 

「ああ、だって……鏡の向こうで不敵に笑う僕自身が……恐ろしかったから」

 

 ずぶり、と鏡面に手が沈み込む。

 

 マハラルが片手に心臓を抱えたまま、微笑んでいた。

 

「おめでとう。あなたの本当の名前が分かったわね」

 

「ああ、僕の名前は――」

 

 

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