――ケース38の情報を聞かせたのは、何も伊達や酔狂ではない、とデヴィッドは後付けしていた。
ジュリアが等間隔に脈拍を取り、血液パックから輸血される中で、真那は夢見心地に全てを聞いていた。
キザハシの真相、そして彼女と血を分けた双子こそがこの楽園の歌姫たるレクディ――そして彼女らにまつわる壮絶な戦いの記録。
全てを聞き及んでから、真那は尋ねる。
「……知っていたんですか……」
「いや、俺達もここまでは知り得ていなかった。確かに当時、君の前任者である音無小夜の担当であったが、元々ワイズマンの子飼いであった俺達には、最小限度の情報のみが伝えられ、そして左遷と言うべきか、新任のサヤの育成と、オトナシの運用にだけ全面的に注力するように、と命令されてきたんだ。当然ながら、七原文人の事も、ジョエルの真実も知らなかった」
だが、とデヴィッドは懺悔しているようであった。
「だが……まさかここまでの事態にまで切羽詰まっているとはな……。キザハシは自身の担当である十二年前の“デヴィッド”と共に先日の強襲を企てて来たのだろう。彼女の事だ、レクディの正体にも勘付いていた。その上で、レクディを殺せる最大の手段を講じてきたわけか。……そこにまさか七原文人……楽園の王まで現れるとは想定外であっただろうが……」
真那は滅菌されたような白い天井を仰ぎ見る。
キザハシの過去を知ったところで、七原文人にまつわる因縁を知ったところで――それは所詮、他者の物語だ。
そうなのだと規定するだけの判断材料は揃っていたのに。
「……デヴィッドさん。私、キザハシさんに酷い事をしたんですね……」
「ケース38は特一級秘匿事項だった。一介のサヤに知る事は出来ない。……君の責任じゃない」
それでも、真那は目頭が熱くなっていったのを感じて腕で覆い隠す。
一度に知るのにはあまりにも苛烈であった。
それでも、キザハシにもかつて自分のように大切に思えた誰かが居た事はきっと無関係ではない。
機関のサヤである以上、いずれは通らなければならない道であったのだろう。
「何の覚悟もなしに私……戦って……」
しゃくり上げ始めた自分の手をデヴィッドはその大きな手で握り締める。
「君のせいじゃない。俺達の管理責任だ。キザハシに関しても、その“デヴィッド”の事も……俺達が、彼らをここまで思い詰めさせた。音無小夜の担当が聞いて呆れる。……あの日から、俺達は何も知らない事を選択したんだ。きっと、前任のオトナシは知っていたんだろうな。その上で、沈黙を貫いた。十二年もの間だ。彼女にとっても辛かったに違いない」
「デヴィッド、倉橋真那さんのバイタルは安定域に入って来たわ。……強襲から丸三日。まさか、〈古きもの〉が出てくるなんてね」
真那はホールで居合わせた柔和な笑顔の青年を思い返す。
どこか――この世界に生きていながら現世とは違う理で生きているかのような相貌であった。
そして、交わされた口づけの味も。
無味なそれはまるで、亡者のキス――。
「……あれが七原文人……。このエメトピアの、王……」
「王に関しては中央庁の影響力があまりにも強い。俺達がどれだけ調査を尽くしても、何も出なかった。……情けない話だが、これが現状だ。ロンギヌス機関は翼手人類への徹底抗戦を謳っておきながら、その頭目の情報さえも得ていなかったと言うのは」
真那はデヴィッドの優しげな、ヒトの温かみのある手を振り払えなかった。
彼らだって自身の贖罪の記憶を切り売りさせたようなものだ。
だと言うのに、誰が糾弾出来ようか。
「……何も知らなかったのは、私のほうなんですから」
「君をあの夜……サヤにさせたオトナシの判断を、俺は間違っていると思いたくはない。きっと、オトナシには見えていたのだろう。俺達にはどうしたって暗がりにしか見えないこの暗黒時代を、打ち破る光のようなものが、君には……」
それは音無小夜のデヴィッドとしての、最後の理念だったのだろう。
それを否定してしまえば、彼らの存在理由は掻き消えてしまう。
真那は伝い落ちていく涙の粒を拭ってから、身を起こしていた。
それをジュリアが案ずるが、真那は頭を振る。
「……私、知らなくっちゃいけなかったんです。だって、もう機関のサヤなんですから。知らぬ存ぜぬが許される身分じゃないですし。……あと、一つだけ。私、自分の言葉でキザハシさんに謝りたいんです。だって、何も知らなかったのにたくさん、辛い事を思い出させてしまった。それが自分でも……許せなくって……」
「倉橋真那、今は俺達に任せて欲しい。君が出るのにはまだ時間はあるはずだ。少しでも傷を癒し、次の戦いの備えてくれ。それが君に今出来る一番の貢献だ」
そう言われてしまえば、真那にはそれ以上の言葉はない。
身を翻そうとしたデヴィッドへと、縋るように呼びかける。
「……あの……っ、私の前の、音無小夜は……これを知ったとしても、戦ったんでしょうか。最後の最後まで、楽園の果てに至ったとしても、翼手を倒すためだけに」
「……オトナシは俺が見る限り、常に冷静な判断を崩さなかった。その上で、君は生きている。生きているんだ。だから、そこに負い目を感じる必要性はない。君は小夜だ。だから、いずれは残酷な運命が待ち構えているだろう。その時に……覚悟出来るだけの証を、残しておくといい」
その言葉を潮にしてデヴィッドは医務室を立ち去る。
ジュリアに額を触れられ、それからゆっくりとベッドに横たわっていた。
「……私、何も出来ていない……」
「そんな事はないわ。きっと、これから先でも、いいえ、これまでだってそう。あなたはよくやってきた。突然にサヤの宿命を背負わされたのに、倉橋真那さん、あなたはちゃんと戦ってきたじゃないの」
それでも、抗いの証はまるで指先から滑り落ちていく砂のように儚い。
「……私、何度も何度も……身体の内側から聞こえてくる、衝動みたいなもので生き永らえているだけなんです。これが何なのか、私にもよく分からないんですけれどでも……あの時。そう、あの時……七原文人を目にした途端、抗えない何かが思考回路を焼き尽くそうとした、感覚がして……」
「今は少しでも休んだほうがいいわ。戦いは待ってはくれない。だからこそ、短くとも休息は必要なはずでしょう?」
ジュリアのしなやかな指先で額を撫でられ、真那は瞼を閉じる。
だが、思い出すのは真紅の景色。
血濡れの中で、自分はホールに居た女子生徒達を殺そうとした。
否、彼女らだけではない。
イザヨイや、千佳、それに両親――。
彼らをこの手にかけたのは間違いなく自分自身だ。
殺戮者の指先を真那は拳に変える。
どう足掻いても、躊躇いでさえも今の自分には生ぬるい。
前に進むほかなかった、たとえその道が血潮で彩られていようとも。
今はただ――前に。