「話が違う!」
セクション管理者の叫びに、ラビは落ち着き払ってダーツの矢を壁のマップへと放つ。
「はて、話とは?」
「……28号を抑止出来れば、このセクションを見逃すという話だったはずだ……!」
「残念ながら。エメトピア中央庁はこのセクションにおける28号の抹殺は不可能だと判定し、よってセクションごと“なかった事”にする準備を整えました」
「……焼夷弾頭でエメトピアのセクションを焼き尽くすなど……そこまで非人道に堕ちるか……!」
ラビは首を傾げ、それからダーツを拾い上げる。
「我々はこれまでも、何度も繰り返してきた。セクションを襲う脅威は、何も“SAYA”だけではない。28号をどう処理出来るかの手腕も問われている。今回は不適合だった、それだけですよ」
「……“SAYA”感染者をここまで抑え込んできたと言うのに……! 私は次期首長候補だぞ……!」
「それは気の毒に。これまで積み上げてきた虚栄の城も、意味がなかったという事ですね」
何でもないように言ってのけたラビに、管理者は拳銃を突き付けていた。
「……それはどのような真似で?」
「……もう一度、言う。セクションの爆撃を中断しろ。これでは話が違うというものだ!」
覚悟の是非を問うた切り詰めた声音のつもりであったが、ラビはせせら笑う。
「これはこれは。慣れない殺意なんて振り翳すものではございますまい。それはみっともないというのです」
「……ラビ、貴様ぁ……ッ!」
引き金を絞ろうとして、躯体に衝撃を感じる。
振り返った時には、上半身が滑り落ちていた。
セクション管理者は生き別れになった下半身より、音もなく上半身が落下した事を感覚すると共に、背後に佇んでいる人物の声を聞いていた。
「ラビ、迂闊ですよ」
「助けられましたね、しかし、調停にもならないとは。そういう未熟なセクション管理者は早々に見限るのがよろしい」
「我々の存在を知られればそれだけリスクです。もう少し慎重に事を進めるよう」
「善処しますよ。――わたしのシュヴァリエ」
「ま、て……」
呼吸音と大差ない声を漏らすと、ラビはこちらを覗き込んで凶悪な笑みを浮かべる。
「まだ生きていらっしゃる。それは生き意地が汚くって大変……わたし好みでよろしい。ですが、ここまでですね。死人に足を取られている場合でもない。さよならです」
直後、外套の人物が大写しになったかと思うと、視界が両断されていた。
「……本部からの伝令だ。とっととセクションからの脱出を、との事。どうする? デヴィッド」
「決まり切っている。倉橋真那の望みは叶える、そこまでだ」
「……言い切ると思ったよ。本部へ! “音無小夜”のルイスとデヴィッドはこのまま作戦行動を続ける! ギリギリまで、だ!」
真那は焼け落ちていくエメトピアの白亜の建築物を視界に入れつつ、居住区のマップを震撼しながら指差す。
「ここ……です。ここに住んでいるはず……」
「よし。キザハシ、援護を……」
「や、よ。もう借りは作らないって決めたの」
「……デヴィッドとして命令してもいい」
「そのボロボロの身体で? いいえ、侮るべきでもないのよね。けれど、あたしはノーを突き付ける。あたしの“デヴィッド”と“ルイス”じゃないし、それに、他の“小夜”の宿命なら首を突っ込まないのがルールのはず」
それは、とデヴィッドは力なく応じる。
恐らく、デヴィッド達でもどうしようもない事実なのだろう。
「……デヴィッド、さん……。私、自分で自分の家にくらいは……帰れます」
「しかし、倉橋真那……」
「刀さえ持っていれば、下級翼手に殺されるなんて事はないでしょう。さっきの戦い振りを見るに、ね。あんたも間違いなく“小夜”だって事なんでしょうし」
キザハシはこちらの事情に関与する事はない。
多大に誰かの人生に口を挟む事を忌避する響きがそこにはあった。
きっとそうやって線引いて、そうやって生きる事が賢いのだろう。
しかし自分には、そこまで思い切れる事など――。
「直上に出た。……デヴィッド、それに二人とも。いいんだな?」
ルイスの確認に了承の首肯を挟んで、真那は下降用のロープを掴んでいた。
どうしてなのだか、先ほどの戦いを経てその程度では自分の皮膚は傷つきもしないという自負がある。
デヴィッドの目線に浮かんでいたのは憐憫でも何でもない。
覚悟を問い質し、そして己の罪を直視する懺悔の瞳であった。
真那はその眼差しに頷き、戦術ヘリから急降下する。
ちょうどベランダに降り立った真那は、鞘に納めたままの刀身で強化ガラスを叩き割る。
「お父さん! お母さん!」
しかし、二人の姿はない。
真那は部屋の中を見渡すが、影も形もなかった。
「……逃げ切ってくれた……?」
だが楽観視は捨てるべきだろう。
真那は全ての部屋を見てから、最後に自分の部屋の扉を開けた途端、飛び込んできた二体の大型翼手に馬乗りになられていた。
「……翼手……!」
即座に抜刀せんとしたが、それを取り押さえるように片割れの翼手が手元を鉤爪で引き込み、もう片方の翼手が血に塗れた牙で肉薄する。
舌打ちを滲ませて馬乗りになった翼手の腹腔を蹴り上げていた。
ただの少女の膂力で吹き飛ばされるはずもない翼手の巨体が天井に突き刺さり、相手がかっ血した隙を突いて真那は刃を握る。
途端、全ての現象は赤い世界へと没していた。
吹き荒ぶ真紅の旋風。
後れを取った現象の中で、真那は抑え込もうと猪突した翼手へと、すれ違いざまに斬撃を浴びせていた。
翼手の頭蓋が割れる。
脳しょうを撒き散らす敵を背後から突き刺し、心の臓が絶えたのを感じ取ってから刀を引き抜いていた。
柄頭で向かってくる敵の眼窩へと一撃を与え、眼球がこぼれ落ちる。
黄色く濁ったその眼差しを真那は一文字に引き裂き、翼手の視野を奪い取ってから、その背筋へと一足飛びで足をかけ、脊椎へと刃を走らせる。
背筋を割られた翼手が倒れ込み、滴った血の残光が「emeth」の文字を象る。
頭文字の「e」だけが削られ、二体の翼手は沈黙していた。
「……私……は……」
朽ち果てた翼手の遺骸の指先に輝いた見覚えのある指輪に、まさか、と真那は絶句していた。
「……うそ、でしょう……。おかあ、さん……?」
結晶化の始まった翼手の骸は応えない。
真那は何度もその肩を揺すった。
「おかあさん……? お母さん! じゃあ、こっちの翼手は……」
大型の翼手二体の正体に、真那はこみ上げてきた胃液にその場で吐き出していた。
何度も吐いて、もう吐くものがなくなってから、目頭が熱くなってくる。
「……嘘だって、言ってぇ……っ。お父さん、お母さぁん……」
だがこの現実を否定する術はない。
この地獄を抜け出す道はない。
真那はよろりと立ち上がり、昨夜まで平穏であった自分の家を見返していた。
――どうして、こうなってしまったのだろう。
自分がグミを取りに学校へと赴かなければ……いや、そもそも自分が翼手や、小夜の闘争に巻き込まれなければ――。
このセクションの人々はこのような地獄の中で死なずに済んだ。
誰もが、平和を噛み締めて、当たり前のように甘受して、そして明日を迎えられたはずなのだ。
だと言うのに、壊したのは自分だ。
砕け落ちたのは、無知蒙昧な自分の世界だ。
真那は刀を握り締めたまま、今にも全焼しかけている白亜の廊下を彷徨う。
もう、どうなったっていい――そのつもりで歩いていた。
翼手の放つ高周波の咆哮が辺りから耳朶を打つ。
誰もが怪物へと変異し、そして日常は崩壊していく。
「……助けて……助けてよ、誰か……」
返り血を浴びたまま、真那は低い空を滑空する爆撃機の腹を仰ぎ見る。
爆雷がそこらかしこで破裂し、衝撃波で肉体が吹き飛ぶ。
しかし、死ねない。
皮膚が裂け、全身が痛んでもすぐにそれらの症状は修復されていく。
まるで早戻しのように。
手首が折れ、骨が垣間見えたものの、肉腫を膨れ上がらせてそれらは再生されていた。
「……何でぇ……っ。何でこんなの……! 望んじゃいない……のに……っ!」
悲痛に叫ぼうとした真那はその時、過敏になった聴覚が拾い上げた声に面を上げる。
「……誰かが……呼んでる? 私の……名前を……」
ともすればそれは先ほどの二体の翼手は父母ではないという証明であったのかもしれない。
あるいはこの地獄の片隅に陥った灼熱世界で、少しでも希望を見るための――ただの妄言か。
炎の中で彷徨い歩く真那は、よろめいた人影を視野に入れていた。
「……千佳……?」
「うそ……真、那……?」
千佳は全身に裂傷を作り、制服は焼けていたがそれでも生きている。
真那は駆け込んで抱き寄せていた。
「よかったぁ……っ。よかったよぉ……ぅ。千佳が無事で……」
「真那? これ、どうなってる……の? 私、何にも分かんなくって……」
「大丈夫……! 大丈夫だから……! デヴィッドさんに伝えればきっと、千佳だけは助けてくれるはずだからぁっ! だから、千佳はこのまま、私と一緒に――」
そこで不意打ち気味に至近で翼手の“声”を聞き届ける。
真那は即座に戦闘用に己を塗り替えようとしていた。
「……離れないで、千佳。この辺りに、翼手が……でも、こんなに近い場所で……? 一体どこに隠れているって言うの……?」
「……まな……」
「千佳、私の陰に隠れて。絶対に……千佳だけは守るから。守るからだから、私の傍に――」
直後、“声”が迸り鋭い爪が真那の腹腔を破っていた。
激痛に顔をしかめた途端、真那の視界に大写しになったのは千佳の変異した腕であった。
「……ち、か……?」
「ま、な……? わた、し……どうして……?」
ごきり、と千佳の肉体が醜く折れ曲がる。
首が異様に伸長し、肩口が膨れ上がる。
倍以上の躯体へと変化した千佳の肉体が、何かの冗談のように制服の一部分を残している。
「……い、や……」
「マ、ナ……」
最早、それは親友の姿ではない。
大型の翼手が血の臭いを辿って頭を垂れ、そこいらで燻っている人間の死体を漁り、貪る。
その地獄の光景に真那の意識は弾け飛んでいた。
絶叫が肉体を貫き、エメトピアの中心で迸る。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――こんな末路は、こんな事になるなんて――。
変貌した千佳がヒトの腕を喰らい、血の味を覚えたのか、真那へと赤い眼光を揺らめかせる。
その瞳が細められた途端、真那は期待して声を発する。
「……千佳――」
そこから先は、変異した翼手が咆哮した事で掻き消される。
翼手の爪が肩口を引き裂き、それから怪物の膂力で蹴り飛ばされていた。
かっ血した真那は涙と鈍痛に滲んだ視界の中で、親友の名を呼ぶ。
「……ちかぁ……っ」
吼え立てる野生をものにした翼手には、もう千佳の面影はない。
だから――なのか。
ようやく――なのか。
立ち上がった真那は、紅蓮の地平で刀を握り締め、指先を切りつける。
「……ごめん……ごめんね……千佳。私……愚図だから、助け……られなかった……」
滴った血潮が刀身に掘られた溝へと流れ込み、「emeth」の文字を赤く煌めかせる。
鮮血の真紅を帯びた剣閃が、直後に翼手の懐へと飛び込み、「彼女」を吹き飛ばす。
その躯体に宿った真紅の裂傷を触媒にして、翼手が結晶化していく。
それに抗うかのように、翼手は今一度、雄叫びを上げる。
「……もう……やめよう……。やめ、ようよ……こんなの。千佳ぁ……っ」
翼手がその名を打ち消すかのように吼えて、人間の反応速度では捉えられない瞬間速度を叩き出す。
――だが、既に“小夜”を身に宿している己にとってしてみれば、それは止まっているに等しく。
真那は背後から牙を突き立てて来た翼手へと、一撃は甘んじていた。
乱杭歯が食い込み、真那の頸動脈から危険域の出血が滴る。
「……ごめん……ごめんね……千佳……。私、助けられなかった。だから、もう……行くね……?」
翼手の牙が真那を引き裂かんとする。
その前に、真那は突き上げた一閃を相手の首筋に当てていた。
瞳が戦闘色に塗り替えられる。
視界が赤い息吹を帯びる。
全ての神経が――真紅の風を巻き起こす。
叩き上げた太刀筋が次の瞬間、翼手の首を落としていた。
「……だから、もう。行かなくっちゃ……」
結晶化の始まった千佳の死骸を視野に入れないように、真那はきつく瞼を閉じていた。
くらくらする血の臭いの充満した世界。
ぜいぜいと呼吸を乱しながら、灼熱の大地を踏み締める。
この間違いだけの世界を、もう生み出さないように。
最後の仕上げだ、と真那は太刀を自らの首筋に沿わせていた。
終わりを辿るのに、何の躊躇いもあるものか。
だから――もう終焉だと思い込んでいた。
直後に強い力で抱き留められるまでは。
「自害なんて、あたし達“小夜”にとっては最も縁遠いって言うのにね」
「……キザハシ……」
「飛ぶわよ。舌は……まぁ噛んだってあたし達は再生するんだけれど」
キザハシの力に抵抗しようにも、彼女は的確に人体の急所を心得ているようでまともに抗う事も出来ない。
「死なせて……もう、嫌なのぉ……っ」
「ワガママ言わないで。この程度の地獄、踏み越えなくっちゃあたしも、あんたのデヴィッドとルイスだって許しはしない。誰よりも……あんたに託したって言う、“オトナシ”の本意じゃないでしょう」
「……“オトナシ”……」
「――“音無小夜”。一番鼻持ちならない“小夜”でなおかつ、あたし達の中じゃかなりのやり手で……強い“小夜”だった。それを引き継いでおきながら、こんなところで死ぬ? 一番許せないのはそれよ。あんたに、安息な死なんて与えてやらない。最後の最後まで、“小夜”として生きて、“小夜”として、地獄の最果てで死になさい。それがあの子の……“音無小夜”を継ぐのに値するというものよ」
「……私が……“音無小夜”……」
茫然自失の自分へと、戦術ヘリがゆっくりと降下距離まで迫ってくるのが視界に入る。
キザハシは片手で垂らされたロープを掴み、そして地獄の光景を目の当たりにしていた。
「……酷いものね。このセクションももう終わり」
「……死なせ、て……死なせて……ください……」
「無理言わないで。あんたはこれから知るのよ。“小夜”が辿る運命と、そして何が待っているのかを。あたし達は殺さなくっちゃいけない。この世界そのものを覆う仕組みを」
「……死なせて……千佳のところへ……っ!」
懇願は嘆きへと変わっていく。
何故、殺した。
何故、現状を砕いた。
そして何故――生き延びるための最適解を、この時ほど選んでしまったのかを。
白亜の街並みは灼熱に巻き込まれ、獄炎が躍る。
終末の景色を視界に入れるのに、今ばかりは憎々しいほどの涙が、強く滲んでいた。
「……倉橋真那を回収。第三十七セクションは破棄せざるを得ない。これも計画のうち……だとは思いたくはないな」
デヴィッドは本部へと通信を繋いでから、ヘリのシートで頬を濡らす真那を一瞥していた。
戦い疲れたのか、真那は深い眠りへと落ちている。
『……それで、“音無小夜”として、使えそうかい? 我らの持つ序列でも最上位に近い“小夜”の運用は君の急務だ、デヴィッド』
「……彼女は目覚めてすらいません。恐らくは本能として戦い方を感じ取っているだけで、“小夜”としての性能の十分の一も出せていない」
『それを引き出すのが君達の役目だ。分かっているだろう? “小夜”を使って、我々はこの終わりの淵に立った世界を壊さなくてはいけない。全ては――この詭弁に沈んだ理想郷を壊すために。全ての翼手の殲滅と、そしてエメトピアを覆う悪意の根絶。ロンギヌス機関はその血を欲している。破壊の血を』
「……承知しております、我らが盟主――ジョエル」
通信越しでまだ年若い声の青年が返答する。
『頼むよ。くれぐれも彼女らを怒らせるな。いいか? 彼女らは唯一の“オリジナル”なんだ』
それを潮にして切られた通信にキザハシは自嘲気味に声にしていた。
「……“オリジナル”、ね」
「……気分を害してしまったのならばすまない」
「いいわよ、別に。そこのお寝坊さんも込みで、今回はあんた達の手柄。あたしは助力はしたけれど、スコアにはならないんでしょう?」
「……“音無小夜”には経験を積んでもらわなければいけないな」
「……その子、泣いていたわ。馬鹿馬鹿しい。人間に期待するから、そうなるだけなのに」
真那の涙に、デヴィッドは苦々しく声にする。
「……“小夜”も泣くのだろうか」
「……そんなの、あんた達が一番よく知っているでしょう? ロンギヌス機関、どこまでその子を運用するのかはこれから先に関わってくるけれど、せいぜい有効に使う事ね。何せ、よりにもよって“音無小夜”を引き継いだのよ、その子は。だったら、どんな運命が待っているのか、分かっているでしょうに」
キザハシの論調には侮蔑の色がある。
その色調を感じ取って、デヴィッドは面を伏せていた。
「……だろうな。君達には軽蔑される」
「……それでも、やるんでしょう? 全ての翼手の殲滅。随分なご高説じゃない。さすがはジョエル、あたし達の飼い主ね」
キザハシは本心からその宿命を憎悪しているようであった。
デヴィッドは愛用の拳銃に埋め込まれた赤い結晶体へと視線を落とす。
「……ヒトは、血に従って生きるしかない。それがどのような結果であろうとも、血に抗う事だけは、どうしても出来ないのだから」
戦術ヘリが終わりの地平線を飛び越える。
今日、黎明の光の代わりに空を灯した焔を、デヴィッドは忘れないだろう。
第一章「殲滅戦線」了