木造物の上で活動する見知らぬ人々の気配を感じ取り、少年の意識は覚醒した。直前の記憶は、もちろんある。友人たちとの帰り道、故郷の組織の襲撃を受けたのだ。がばりと飛び起きた先では何かのバインダーにペンを走らせる女性が居て、首を絞めて来たのはそっちだろうに少年の体調を気遣って来るなんて不思議な経験を得た。
どうやらそのまま囚われの身となってしまったようだけれども、身を縛る拘束具のようなものは一切なく、自由度だけで言えば船の上ならばなんでもと奔放ぶり。―――だが、逃げようとするなと忠告はしてくる辺り、少年の自由は船上だけの制限された範囲なのだろう。
一応は望んだことを望んだように出来るし、少年が羨めば船の上に打ち上げられた魔物を倒す許可も出るし、寒くてくしゃみをしたらふわふわのファーが頬を撫でる漆黒のコートをくれたしで、マァマァな待遇だと思った。包帯を首に巻くことになった原因のぞけば、少年が此処で危険を感じるなんてことはないような気もしてくる。じゃれつくように手合わせを望めば彼らは戸惑った様子を見せながらでも応じてくれるお人好し加減も見えるし、余計にそう思えてしまった。
船に揺られること数日で、少年の首を絞め落とした女性とバッタリ遭遇した。「あ、」少年の後ろで兵士のひとりが表情を強張らせる。下がれと小声の注意を無視してそこかしこの兵士たちが頭を下げ、彼女の通る道を開ける中、少年はニッコリ笑ってナイフを構えた。あまりにも自然に流れるような動作で、挨拶代わりにまず一線。結びかけた白の軌跡は、ぐわりと揺れて曲線となる。腕から背中へ掴まれた場所が変わるのを感じた。
気づけば、綺麗に床へ転がされるように背中を支えられており、彼女の顔を見上げるような形だったからそのままで制止し、彼女もまた少年を見下ろした。闘気と狂気の孕んだ目が合う。
「子どもは元気が一番だ、そう思うだろう。」
「……は、え?」
何を言われてるのかさっぱりだったが、彼女は少年の襲撃を許すと言ったようだった。あれだけの強者がただの下っ端であるはずもないという希望的な確信もあったが、本当にそうだったとは。彼女を倒せば少年の方が強いという証明になるのだから、好都合である。
少年を連れ去った女はファデュイの中でも、結構偉い人であるようで彼女が立ち去った後には、兵士たちから囲まれて無事を喜ばれながらも無謀なことをしたことを叱られてきょとりとした。
みんなもそこに
おそらくスネージナヤに到着しても簡単に抜け出せないのだろう、と早々に理解した少年の行動は早かった。抵抗を止めておとなしく与えられた部屋で大半を過ごすことにしたのだ。
拗ねたともいう。「元気が一番」と言った女性が、ときおり引きずり出すようにしてくるのには諦めとともに受け入れて、出された紅茶を乱暴に飲み干す。同じ部屋から出て行くためには紅茶とお菓子を食べ終わらなくてはならない、という謎の決まりがあるから。少年が自分の味方だと思っているのは、今ではおさげの兵士のみであった。
「ゴチソーサマッ!」
「……少年のお口にあったようで何よりです。お下げしますね。」
タンッ、と乱暴に置かれたコップを兵士はトレーに乗せて下げる。そのまま部屋から退室した彼女を見送り、少年はドカリとソファーに座った。
「孤児ではなかったか。」
「そうだよ……?」
かの女性は子どものことが好きなようだったけれど、稲妻から連れて来た少年には興味がさほどないようだった。「愛する家族がいる!」と言ってからは、余計に薄れたような気がする。それで良いのだけれど、なんか勝手に連れ去って勝手に置き去りにして、色々好き勝手にされて。―――やっぱりなんか釈然としない。
不意打ちとは言え、敗者は敗者。従うべきなのは分かるけれども、そんな現状にものすっごく腹が立ったので、勝負の場を設けるところから頑張った。彼女の茶菓子を子どもが用意すると言った平凡な内容ではあったが、勝負は勝負である。速やかに決行された。
兵士たちからお菓子作りを教わること数日。少年はめきめきと腕前を上達させて、多くの胃袋を掴んだ。厨房へ行くか行かぬかと船内をふらふら散歩するのが最近の趣味である。
彼女の胃袋に向かって敗北の文字を刻むために手掛けた焼き菓子。今回が、少年と彼女の間で定めた勝敗の最終戦である。趣味趣向を今までの経験から計算し直し、気温や湿度による焼き加減の調整などもバッチリと演算した上での研究成果。一枚つまんでは紅茶を飲み、鼻で嗤われるなんて日々とはおさらばしてやるのだ。
「いざ…」
一つ摘まんでは口元へ運ぶ手が止まらず、消えゆく焼き菓子。「ふむ、」さく、さく、さくり。勝負のはじまりは少年からの挑発的な笑みと焼き菓子を指す手だったが、彼女もまた武人の身だからかしかと勝負として受け入れられたようだった。
手に汗を滲ませながら少年は息を呑む。食らえ飯テロ。ムッとした様子の彼女は、それでも手が止まらぬ。掴みはバッチリのようだ。唸れ俺の料理技能。胃袋を掴んで強者を跪かせてやる。じっと見つめたまま微動だにせず、相手の出方を伺う。今は力も技術も叶わないだろうからと、少年なりに知恵を絞って考えた勝負なのだ。
気づけばテーブルの上にあった焼き菓子は完売しており、しばしば彼女からの視線を受けるようになったことで勝者が決したことを悟る。長く息を吐き出して、栄光の拳を高く突き上げた。口の端を彩るヨゴレこそ、完膚なきまでの勝利である。嗚呼、甘美なり。じーんと平和な方法で得た勝利を噛みしめる。言葉要らずで行われた密やかな勝負は、少年の勝利で決定したのだ。おかわりを要求する彼女の眼差しから、少年はするりと逃げて厨房へ戻った。
一対一。一旦は勝敗を決したから、次はちゃんとした舞台で刃を交えることを目標とする。惜しむような声は聴かなかったことにした。少年は戦士なので物理で勝つったら勝つのだ。
―――…
調理器具を片付けながら、少年はふんふんと唄を奏でる。故郷の国歌をなぞったもので、周りの兵士たちもほっこりとした気持ちを抱えて故郷に思いを馳せた。
ちゃぷん、と少年の周りで水元素が浮かび上がる。上機嫌な少年が、厨房に幻想的な水族館を運び込むのは今に始まったことではなかったから兵士たちに慌てた様子はない。ちゃぷちゃぷ浮かぶ水の生き物たちを見やりながら、ここ数日で馴染んだ兵士たちは執行官に勝負すると宣った子どもが無事であることに安心すらしていた。
「今日はやけに機嫌がよろしいのですね…?」
「そりゃあね、俺が勝ったからね!」
執行官と少年の間で行われた、平和的な勝負のことなのだろう。胃袋を掴めたら少年の勝ちだと、お菓子作りが得意な兵士たちに師事を仰ぐすがたは毎日あったから。
今まで以上にご機嫌な様子にびくりとした。鼻唄のリズムと一緒にふわふわと揺れる夕暮れの頭はこうしてみると年齢相応で微笑ましい。とは言え、勝利した、と。誰に、とは、それはもちろん少年が挑み続けた執行官様に、である。彼女に勝負を挑むのだと言って、厨房やら食材やらを好き勝手に使う許可を得て、毎日せっせと腕前を磨き続けたのだ。
「……まあ、本当に!?」
「おめでとう坊やよく諦めなかったわねぇ!」
「どのお菓子が一番だったのかしら、今度またお姉さんとつらない?」
きゃあきゃあと女性兵士たちが騒ぐ中、少年はニコニコと笑って頷く。それぞれに教えてくれてありがとう、と素直な感謝を伝える姿は故郷で帰りを待つ幼い家族のようで、兵士たちは胸をわしづかみにされた感覚に襲われた。
振り返ってモソモソと大きな板を取り出した少年は、同じほど大きな机によたよたとそれを運ぼうとする。巨体を誇る氷邪眼を持つ兵士が代わりに運んでやったそれを見ると、シャンパンタワーのような形でピロシキが積まれてあった。見事な造形の山であるのだが、立てかけられた小さな旗には味の種類であろう名前がちらほらと。
肉、魚、海老、卵、キャベツ、ジャガイモ、カッテージチーズ、ジャム。女の嗜好を知る為に大量の食材をねだったのだが、よく快く引き受けてくれたものだと呆然とする兵士たちを横目に見てから少年は言った。
「お礼! ピロシキたくさん作ったから食べよ。」
左側が辛め、中間は癖のあるもの、右側が甘め。少年はおもむろに左側のそれを手に取り、躊躇なくかぶりつく。休む間もなく強者に料理で挑戦し続けたのだが、思いのほか緊張していたことを自覚した。胃袋(弱み)を掴んだことで安心でもできたのだろう。体がようやっと空腹を訴えてきたのだ。もはや食べるしかなかった。
はぐはぐ行儀悪く食んでいると、思いっきり噛み過ぎたのかして、肉汁があふれて手を伝う。べとべとする。慌ててタオルを持ってきてくれたのは、女性兵士だ。されるがままになりながら少年は食事を続行した。
満腹感でぽすりと椅子に腰かけて、そのままは欠伸をこぼせば手持ちの大砲を持ち歩くような大男の兵士が、微睡む少年を抱えて客室まで運んでくれた。最後の仕上げに毛布を掛けてやるとむずがりながら、少年は近くへと寄せられた鯨のぬいぐるみを手繰り寄せて丸まる。「あら、まあ。」と部屋まで送り届けた兵士たちはニッコリした。
故郷の家族を思い出すようだとそれぞれがほっこりとした気持ちになりながら、兵士たちは少年特製のピロシキを間食に頂戴し、呻くこととなる。「コレどうやって作ったんですか少年!!?」 船で健康と栄養と、趣向品を預かる料理長はお手製の調味料を直飲みするレベルで発狂した。
―――…
ファデュイの執行官のみならず、兵士たちの胃袋までもに勝利した少年は、今やぷうぷうと子どもらしく夢の世界に居た。
ころん、と。ときおりうたれる寝返りも愛らしく、家族からの贈り物だと言った鯨型のぬいぐるみが手放されることはなかった。「くう…っ」 女性は思わず口元をおさえて呻く。攻撃なんてものは受けていないはずなのに、ダメージを負ったような気がしたのだ。
衝動のまま音もたてずに少年の身体からぬいぐるみを引き剥がした。「…んん」 何かを探すように、少年の手がシーツの上を彷徨う。ぴく、と指先が動き、何かを握りしめるような形をした。
「……愛い…―――わけがない、いや、しかし…っ」
認めるわけにはいかぬと歯を食いしばった女性は、もう一度少年を見下ろした。動くたびにふわふわ揺れる夕暮れの髪。無垢な子どものあどけない無防備な顔。取り上げられたばかりの生き物を模した鞄らしきものを、不安げに求めて伸ばされた手。さしこめば握りしめてくる指先。
堪えきれなくなった息が、溜息として少年を見守る女性の口から零れ落ちる。やわやわと握りしめられた自分の指のかわりに、取り上げたそれをそうっと子どもの手の上に置いてみた。
不安から寄せられた子どもの眉からふにゃりと力が抜けて、もそもそと手の上のそれを手繰り寄せて頬を埋めている。「ううん、」ときおり、ぐずるように呻きながら抱き心地の角度を探り、ようやく落ち着ける場所を発見したのかして、再びふわふわした笑みを浮かべ微睡みに身を委ねたところまでを見守り。彼女は一つ深呼吸した。その姿は、完全に子どもだ。
何を認めるわけにはいかなかったと言うのか。瞬間、彼女は少年に関してのみ、手のひらをくるりと回転させることにする。うん、子どもは愛するべき存在なのだ。
勝負を挑むような目つきで執行官の茶菓子を、執行官の目の前で堂々と交換するような悪戯をかますようなやんちゃな子どもだったが、彼女はそんな子どもが好きだった。手が止まらなくなるなどと体験は初めてのことだったから戸惑ってしまったが、少なくとも真っ向から来る性質のようだし、裏を掛かれる心配もないだろうから。
アレがまた作ると言うなら味わってやらんこともなくはない。「執行官との勝負に勝ったー!」 と大喜びする少年の発言を裏付けるような証拠、上司の口許に流れた透明なしずくを兵士たちは見なかったことにした。