彼の
―――××××年 人は語る、英雄の冒険譚を。
冬の女皇帝を頂くスネージナヤにて、後の英雄。アヤックスなるものが誕生。
彼はこの冬の国の大地に生まれながら、冬の女皇帝へ対する忠誠心は薄氷を履むが如しで、その魂はいつも果ての見えぬ彼方の世界にあった。
氷の張った海の底。雪解けの見えぬ山の頂き。風が躍る草原。揺るがぬ岩盤。雷鳴轟く孤島。緑豊かな叡智。まだ見ぬ彼方の世界はどれもこれもが楽しそうで浮足立つ。商人から聞くスネージナヤ以外の世界は、もとより好奇心旺盛な彼の魂を揺さぶる希望に溢れたものだった。
大きくなったら何になりたい? 子どもたちの未来に思いを馳せながら、そう問うた町の大人たちの言葉にアヤックスは屈託のない顔をして「世界を冒険する人になる」と明言した。
そう答えた時からもうすでに、彼の冒険譚は故郷に居た頃から始まっていたのだろう。彼の眼は悠々と広がる大海原にあった。
―――××××年
言葉を覚え、文字を覚え、文化をその身に宿す日々。父親から武芸を学び、やがて独自の剣を振えるようになったアヤックスは、その町で一番の実力者となった。
誰もが苦戦するような強敵と相対し、必ず生還する。その安心感と言ったら、後の世であるはずの町に代わらず彼の銅像が残されるほどであった。
冬のお山を退けた偉業を以て、まさしく町の英雄となった彼は、町を出て、相棒の空鯨と共に国の中心を目指した。
打ち上げられた特大の水しぶきは、今から行くぞという彼からの挨拶だった。彼の腰には、神の祝福を受けた証がある。祝福をそんな風に使った人間は、きっと彼が初めてだったのだろう。誰もがざわめき、神すらも驚きなされたという。
そんな人々を前に彼は、威風堂々と言った。姿現さぬ他国の
―――××××年
スネージナヤの中央。冬の女皇帝が手ずから統治するその国へアヤックスが到着する頃には、冬の国を救済する英雄の名前として知られることとなった。
兵士たちですら苦戦するような魔物たちを、旅中で討伐してきたからだった。冬の女皇帝からの歓待を受けた彼は、その日の夜にスネージナヤを出立する。彼はかのお方の剣になる為に足を運んだのではなく、ただ、故郷の国から離れて旅立つから見守り続けてくださる親のようなお方に顔を見せに来たのだと言ったのだ。
見ようによってはどころか、言わずもがな。その言動は今も昔も不敬そのものであったが、冬の女皇帝は彼の自由奔放さを寛大な心でお赦しになった。刹那の風景を鮮やかに彩る人だった。
「スネージナヤの母よ。きっと退屈なんてさせやしない俺の冒険譚でこのパレスを彩ってみせよう!」
「俺は年に一度、感謝の気持ちを込めて土産に話や贈り物を届けるよ。」
そう言ったアヤックスのことを冬の女皇帝は、彼女の眷属であった、雪の中に生まれ来る自由で無邪気な小さな精霊だと思われたのだろう。生命の活力に溢れた冒険者の門出を祝うように、その日のスネージナヤの夜は、淡く暖かな粉雪が降ったそうだ。
―――××××年
かくしてアヤックスは、その限られた生命の流動が制止を告げるまで冬の女皇帝への宣言を実現してみせた。その最後の一瞬ですら、冬の国へ特大の花火を持ち込む大胆さを以て。
平穏なイマの不変を望む神々と異なり、彼は変化を愛する男だった。閉ざされた氷の城にて、王として座する冬の女皇帝に雪解けの大地を教えたスネージナヤの子どもでもある。その柔軟な在り方ゆえか、彼は流動の化身たる”水神”の寵愛を受ける男だった。
少年と呼ばれる齢まで成長した子どもは思った。最初に聞かされた物語とは違うものだと。そして、同時にとても懐かしさを覚える。身に覚えのある物語のような気がしたのだ。
鯨は語る。「君と僕が歩んだ物語なんだよ。」弾んだ声で言った。氷の張った海の底。雪解けの見えぬ山の頂き。風が躍る草原。揺るがぬ岩盤。雷鳴轟く孤島。緑豊かな叡智。まだ見ぬ彼方の世界でありながら、もう見知った世界の冒険譚を語って聞かせてくれた。
夢の中の少年は、海の底に居た。差し込む光が巨大な生き物を照らし、その全貌をそれとなく見せてくれる。自由自在に海の中を泳ぎ唄う姿は壮大で、美しく、未知の冒険を前にしたかのようで胸が躍るようだった。
そんな巨大な生き物は、少年の言動でコロコロとよく声色を、その表情を変える。少年が巨大な生き物のことを「相棒」と呼ぶ度に何故か嬉しそうにひれをばたつかせ、少年が続きを強請ると何処か寂しそうに溜息のような泡を吐き、少年が巨大な生き物の目を見るとやがて喜ばしそうにその背に乗せて泳ぎ、少年が”目を覚ます頃”にはそうして悲しそうにじっと見つめて、空気を震わせてくるくると声色を変えて鳴くのだ。
心に住む友人と呼ぶには遠く、旅を共にする相棒と呼ぶには近く。不思議と手を伸ばせば届く、そんな距離にあの生き物は在る。おそらくは、少年の人生における揺るがぬ何かであるのだろうと感じ取った。鯨は泳ぐ。少年の夢の中で自由に、壮大に。幻想的な星の海を悠々と泳ぐ。
そして、再び景色が塗り替わる。「あ、」少年の口から泡と共に声がこぼれた。再び誰かの物語を語られたからだ。