少年は自覚があった。
己がただの人の子であることは、自他共に認めること。それは決して変わらぬことであったし、変えるつもりのないことである。
しかして、”深淵”の記憶を刻まれた時、更なる自覚をした。
微睡の中に見るこれは、ただの少年だった頃の自分が死んだ日なのだと。もう決して戻ることのできない道へ踏み入れてしまい、帰り道は崩れ去ってしまったということを。純粋無垢なる少年の自分が死んだ日として認識してしまった。
ここへ落ちる前の自分はどうだったか、だなんて自問自答してしまう辺り、相当キてる。そんな嫌な自覚すらも意識にあった。ただ己の半身である星座は神の祝福を得たそこで息をしてくれていることだけが、少年の唯一の希望である。生まれてずっとそばにいて、少年の育ちとともに多くを語って聞かせてくれた片割れともいえる存在は、最期の時も共にいてくれるようだ。
如何なる時でも一人ではないという事実にすこしだけ安心して、緊張をほぐすように息を細く吐き出した。不安が持ち上がるたびに、堕ちてしまう前の記憶が過る。
少年の家族は、結構な大人数である。
両親を含めて上に三人、下も三人、そして間に自分。上の兄姉たちは、すっかり大人になって巣立ってしまって家で見かけることがない。都会の方へ稼ぎに出たのかして、生まれ故郷で姿を見ることもなかったから写真の中の幼げな姿しか記憶になかったのだ。
居るのはまだ親の庇護下に在るべき子どもたちで、そんな彼らからの煌めく瞳を方々から受けてしまった少年の父親は困ったように眉を落とした。特に、彼らのうち一人が、その英雄と同じ名前を持つからだろう。
英雄譚をねだったときの記憶だと、少年は膝に顔を埋めた。「兄ちゃんすごい。」無邪気に喜ぶ声に対して、少年は自分ではないよとやんわりと返した。けれどもその視線はゆっくりと父の方へ戻し、無言で続きを催促する。母からの叱りつけるようなじっとりとした眼を受けた父は困ったように眉を落としたまま頬を掻く。困ったときによく出る仕草だった。
子どもたちに夢を与える物語としては好評だった。しかし、町に伝わる伝記を寝物語に持ってきたのは、子どもたちを寝かせつけたい母にとっては不評だったようなのだ。
これ以上、妻からの不興を買ってしまう前に寝かしつけようと父は努力する。「続きはまた今度ね。」布団にもぐりこんだまま眼差しで話の続きを強請ってくる子どもたちに、だんだんお決まりになりつつある言葉を告げた。
ええーっ、と他の子どもたちは大人の言葉に負けて不満げな声が上がるのに、かの英雄と同じ名前の持ち主は母に向かってその冬の海のような瞳を輝かせながら、かわいらしく言った。
『勉強も手伝いも、いっぱいがんばるから。もうちょっとだけ、おねがいできないかなあ。』
幼げな様子を前面に叩き出した息子からの攻撃に、ばくんと大きく脈打った胸をおさえて両親は呻く。会心率も爆上がり。そんな会心の一撃が出たのだ。
物語の中の英雄と同じように彼らの三男坊は諦めるという言葉を知らないような子どもである。相手の弱点を見つけたら、しかとそれを突くことに躊躇うこともない。世の中は弱肉強食であることを、かろうじて両手に乗っかる程度の齢の子どもはすでに知っており、だからこそ、力を付けることに対しては貪欲さを見せる。
そのひたむきさに恐怖を感じた最初の頃からは考えられなくなるような思想が、息子に強さを探求させる原動力。ただ”守る為”と言うから、一周回って愛おしさで溢れ返らんばかり。
ちなみにアヤックスとしては、お願いして聞いてくれたら嬉しいな程度の感覚で、ダメだったらダメで結果を受け入れる潔さがあった。一度あっさり頷き、以降あまり何も言わなくなってしまったことがある為、彼の”お願い”には町中が敏感になりつつある。
それ故に、両親は時計を見て、時間を確認する。まだもうすこしだけならば夜の静寂さに耳を傾けても良いだろうと、母は溜息を零した。それはお許しが出たことを意味する、ので。とろとろと眠気とともに溶けた意識が、記憶を呼び起こした。
「やったあ、にちゃありあとー!!」
「あっははっ、いいよ。兄ちゃんも聞きたかったし。」
子どもたちの笑顔が弾けた。
すっかり大きくなって親元から離れてしまった兄姉たちとは違い、まだまだ親の庇護を甘受する齢であるアヤックスはおとなしく広げられた布団に潜り込む。ぱちぱちと小さな火の粉が爆ぜる暖炉の、温もりのような髪をゆっくりと手で梳かすように父の手は動く。寝かしつけるようなそれでありながら、語るのは寝物語であるはずなのにアヤックスの意識はしかと覚醒した。
物語は険しい山のように人を痛めつけては、時には華々しき祭りのように人を喜ばせる。父親の主観が入り混じった英雄の冒険譚を無邪気に聞く子どもの姿は、その魂が二回りほど大きなそれであるとは感じさせない。アヤックスとしても、自由な物語は好きだったからだ。
男の子はいつまでたっても子どもなのね、と。冒険はみんなのロマンだからね、と返した父親の言葉尻をまねて、ね、と返す。より一層、笑みが深くなった。その顔が好きだった。
アヤックス。3人の弟妹が居るお兄ちゃん。
まだ起きてるなら、と母親が暖炉の前に座り込む。大家族の母親の手元で編まれているそれは、どう考えても赤ん坊の靴下だった。ほかの下の兄弟とて、それなりに大きく育ったから不要な物だろう。気になったアヤックスは布団から這い出て暖炉の前に転がり出る。下の弟妹たちは、すっかり夢の世界だったから遠慮することもなかった。
「こら、アヤックス。もう寝る時間なんだよ。お父さんの方においで。」
「何つくってんの?」
父親の制止もなんのその。自由奔放なやんちゃ坊主であるアヤックスは、柔らかなラグマットの上で座る母親の手元を覗き込みながら言った。
あらあらと困ったように微笑みながら、けれども、母親は答えてくれることを知っていたから、言葉が返ってくるのをじっと待つ。父親がよく釣りに連れて行ってくれるから、忍耐力と集中力には自信があるのだ。
「教えてくれるまで寝なーい」
からかうように笑みを向けてみた。このやんちゃ坊主め~、と。ちっとも怒っていない父親の声が背後からして、体がぐんっと引っ張り上げられる。抱っこされたのだと気づき、楽しくなって。スネージナヤの民が愛する冬を感じさせる、海のような、柔らかな蒼を輝かせてアヤックスはきゃらきゃら笑った。そんな父子の様子に、母親はゆったりと微笑んだ。
「これはね、」
母の柔らかな声がアヤックスの鼓膜をくすぐる。
お隣さんの赤ちゃんが生まれるから、お祝いに靴下を編むのだと。ばちりと弾かれるように意識が覚醒する。両親のぬくもりも、弟妹たちのぬくもりもなく、吹き込む風が体温を容赦なく奪う。あのとき母は幸せを滲ませながら他者の小さき未来を祈ると言ったのだったっけ、とアヤックスは暗闇の中で細く息を吐きだした。
お人好しを代表するような、あの両親のことが好きで、そんな親元で育ったからか、兄弟たちも優しくて。だからこそ、守りたくて、―――無謀なことをした、と思う。
昔、冒険者だった頃の獲物だと教えてくれた父親のナイフを手に、生まれ故郷の平和を守る為。冬の国に名をはせる物語の英雄と同じ名を冠する自分だから、より深く夢を描き。同年の友人たちから、功績を立てるたびに孤立して行ったのを今更ながらに理解した。かなり手痛い人生の授業料を支払った、のだろうと。同じような年頃の子どもの身でありながら雄々しく武勇を築き上げ、大人の輪に混じることのできるアヤックスの存在は、それはもう邪魔でしかなかったのだろう。目の上のたん瘤というやつだ。
そんな子どもたちの対抗心なのか反発精神なのかは定かではなかったけれど、慢心していたのも事実。油断したなぁ、とぼやきながら膝を抱えて一時的な寒さをしのぐ。
びゅう、と痛みとともに吹き抜ける風があるから何処かで外には繋がっているのだろうけれど、一切の光が差し込まぬ此処で”この”様子では吹雪なのだろう。
あたたかな記憶を抱えているはずなのに、凍えてしまいそうなほど寒かった。不思議だなぁ、と独り言ち、アヤックスは自分を抱きしめるように身を縮こまらせる。膝に頭を預けて体力を温存させる為に休息に入った。そこで再び、夢を見る。落ちる前の、何も知らぬただの子どもが、大切に抱き続けた
アヤックスは、家族が大事だ。
雪崩さえ気にしなければ、人目もはばからず、声高に叫ぶことだって出来る。まるで秘密の地図で隠したようで、誰かに見せつけるように宝のように想って。真綿で包み込むように、柔らかな夢や希望をずっといだき続けてほしいと願って。その為に、自分が家族を敵意や悪意から、優しさの化身である彼らを守れるよう強さを求めるほどには、愛を注ぐ存在である。
狩りの為に槍を覚えたのだって、子どもの人数が多くて日々の暮らしも貧乏なうちじゃまともに暖を取ることも難しく、子どもたちの為に無理をする両親を見てきたから。
毎日を傷だらけで過ごしながら、時には新たな凍傷をこさえてまで魚釣りでお金を稼ぐ父の身が心配になって、その度に陰る母の表情をなんとかしたくて、それなりに器用であったアヤックスの技術が役立つと知ったから。
すこしでも自分の稼ぎが家の助けになると思ったから、頭の中に浮かんだ映像のような記憶を、父が読み聞かせてくれる冒険譚の記録を頼りに武術を磨き始めたのだ。
それはやがて功を為し、アヤックスは町一番の狩人となった。
年若く、まだ少年の齢でありながら大人たち顔負けの腕前。そして何より、真っ白な柔らかく残酷な世界に覆われたスネージナヤの狩りには欠かせない猟犬代わりの狼たちに。彼らから好かれる才能が、同時に、彼らを愛する才能が、アヤックスにはあったのだ。
スネージナヤの家では、両親の寝室に集まり、まるでペンギンのように身を寄せ合って、互いを温め合いながら冬の夜を眠る。そうでもなければ、この氷に閉ざされたスネージナヤの厳しき冬は自国の民であっても凍え死ぬほどの恐怖であり、超えることのできない山であるからだ。アヤックスが狩りに出かけるようになってからは、日々の暮らしも一変した。まず祝うべきはそうした極寒を越すのに困らなくなったことだろう。
これを仕事にしてしまえるほどアヤックスには武の才能があった。だが、彼は力には溺れずに、変わらず家族を愛した。大穴の中で狂わずに戦えるのは、彼の中にある家族への情がそうさせる。生きて帰るのだと決意を固めて、彼は再びナイフを手に立ち上がった。