狩人として過激に穏やかな日々を悶々と過ごした、ある昼下がりのことだった。
早朝にアヤックスが狩りを成功させた獲物を燻製肉にしてつまみながら、狩人のひとりが恐々と言った。「町の近くで発見したんだ。」大きな獲物だったから、隣人へのお裾分けのつもりで焚き火を囲んだのだが、火が爆ぜる音はやけに大きく聞こえた。
どうやらヒルチャールの巣を発見したらしかったけれど、果たしてそれをわりと最近の出来事で騒動のあった子どもに言うものだろうか。普通気遣って話題を避けるとかしない? よりにもよって、同郷の子どもたちの父親が言ったのだから余計に最近の記憶が刺激を受ける。目元を押さえてながら本当にあった場合に生じる被害の範囲を視野に含めて考えた。
微妙な気持ちが浮かぶ。「またかー、強者と戦えるなら構わないけど。」嘘なのだろう。溜息とともにそんな感覚が先にやって来る辺り、アヤックスにとってヒルチャールの巣の発見報告は禁句ワードである。トラウマになったとも言えるのだけれど、それは当然のことだった。
凍った空気の中に、熱が噴火した。父親の怒号が響く。こちらもまた、あの時のことを思えば当たり前のことだ。討伐してきてくれと普段通りの口調で場を滑らせた狩人は縮こまるしかない。
あの日のことを反省した。後悔した。だから罪を告白した。だからといって、過去がなくなるわけではないから、そんな家の子どもたちの親は未だ白い目を向けられている。言うに事を欠いて、男の妻は酒の席で愚痴って、それを被害者である少年に切り返えされたことも原因だろう。
なんてことを言わせるのだとそれぞれ生活の日々を労わる席がざわつき、普段ならば少年の悪戯に怒りを見せる側のザハールが珍しく少年を庇うほどの内容でもあったのだ。
それは、アヤックスが生還してから二日目の夜のことであった。週に一度ある、狩人たちへの労わりの会だった。日々の働きを労わり合う酒の席で、狩人の妻は憎々しげに言ったのだ。「子どもたちのお遊びだったんでしょう。その日のうちにあの子が無事な姿で帰って来なかったから、うちがいらない苦労をするハメになったのよ。」少年はそれを否定した。あんなものは遊びなどではなかったし、下手をすれば命にも関わる情報伝達だったし、そもそもヒルチャールの巣を発見したという報告は狩人の間の緊急連絡だったからだ。
あらゆる理由を含めて、あの吹雪すら流れ込まぬ空間を知るアヤックスは、事実無根であると間髪入れずに否定する。「俺は帰れなかったんだよ。」純粋な感情のまま零した。「嘘よ!」ヒステリックな声がしたが、当事者は首を傾げる。そんなことで噓をつく理由なんて何もない。
同時に、あそこの何を知っているんだと言わんばかりの気持ちであった。あの極寒の記憶が無垢なるアヤックスを殺したのに。何も知らぬままの子どもは居なくなってしまったことに気づかぬはずもなく、誰もがアヤックスの変化を痛ましいものとした。
けれど、ただ叫んでくるだけの雑魚には興味もそそられなかったので。「事実を言っただけなのにへんなの。」少年は母のミートパイを届けに来ただけだったことを思い出して、酒場の店主にカゴを預ける。「はいこれ、」「あ、ああ、」戸惑う彼らを放って、早々に帰ることにした。
その一連を見た酒場の人々は衝撃を受けた。当の本人はあまりにも無関心なのである。けれど、彼を可愛がる町の人々はそうもいかない。あの子は被害者なのだ。
酒場に足を運んだばかりで酒を一滴も飲んでいないザハールは、怒りのあまり冷ややかな据わり目になった最愛を少年に預ける。コキリと肩をまわし、無事に家まで送り届ける仕事を与えた。「ワシはちと話し合いがある。」「そうなんだ?」温厚なマルファも冷ややかな眼差しをするほどの爆弾を落とした少年はそれを引き受ける。「じゃ、俺とで悪いけど一緒に帰ろうか。」ザハールの最愛に笑みが戻った。とんでもない被害にあってなお、相も変わらず優しく接することのできる少年を、一体誰が責められようか。
無事に戻ったかと思えば、そこかしこが傷だらけ。よく命があったと涙ながらに健闘称える狩人たちは、少年の戦った後を感じ取った。
人当たりが良くて、無邪気で無垢で。それは変わらなかったけれど、”何か”を見てしまってからはアヤックスの瞳は、閉ざされた、冬の海の底のようになってしまったのだ。
それを見た町のジジババは、そりゃあもう冬の大嵐のように荒れ狂った。まあるくて綺麗な海を写し取ったような蒼はきらきらと輝かせながら昔話をよくよく聞いてくれるあの子を、まるで孫のような子だと可愛がっているからだ。
敵しか増やしてなかった上での、地雷爆弾。あの発言。まさしく自業自得ではあるのだけれど、狩人一家を含めた”彼ら”は連帯責任で針の筵であった。
しかし、アヤックスからしてみれば、父のみせるこの憤慨は不思議なことだった。
普段通りの”良い子”を演じるアヤックスに恐怖心は感じなかったのだろうか。”記録”と違って、父は闘争本能を丸出しにする我が子を怖がらなかったのは予想外のことなのだ。
そもそもの話。息子が敵意を露にするのが敵対生物であるからかは不明だったのが、早々に組織へと突っ込まれずに済んだことを安堵した。とは言え、あんなにも希望や夢に輝く瞳からのコレである。あまりの変化に何かを思わないわけではなかったらしく、温厚な父にしては珍しく声を荒げる姿をたびたび見かけるようになってしまったことも予想から大きく離れたことだった。
普段は温厚な父の変貌に怖がるのは、下の弟妹たちである。家族を愛するアヤックスが行動を起こさぬはずもなく、普段は人の好い顔をして依頼を引き受け、達成し、報酬として食糧を分けてもらうのが、帰郷してわずか一週間ばかりの現状であった。
「今度こそ、あなた方の悪質な行動でこの子を失ってしまったらどうしてくれるんですか。もしやこの世に、アヤックスに代えられるものがあるとでも…?」
狩人を射殺すようなひやりとした瞳。相手を容赦なく射貫く様は、どこか見覚えがあるような気がした。なるほど、その面影に”タルタリヤ”を感じる。
どこか頭痛を耐えるようにも見えて、潮時かな。と思った。14歳の冬を越えたかったけれど、故郷に戻ってもう1週間が経過する。そもそも温厚な性分なので、怒る度に父の神経が削れていて頭痛薬が手放せなくなりつつある今、潮時だな、と思った。だから少年は言ったのだ。
「俺、ここ出てくよ。オヤジが聞かせてくれた、冒険者になって外を見てくる。」
今ではすっかり故郷にとっての厄介者になってしまった自覚もあったので、責任を感じてほしくなかったから、あっけらかんと言ってみせた。
弟妹たちの成長を間近で見られないのは残念ではあるのだけれど、居るだけで騒動の中心となってしまうし、スネージナヤが門戸を閉じる寒波の前だし、旅立つタイミングとしては今がベストだろうと思ったのだ。
そして何よりも、強い相手と思う存分に闘える環境に”ある”事実が、アヤックスの心を、待望に震わせる。武者震いというやつだった。旅人たちの冒険を見て、秘境の存在や地方の強敵の居場所は記憶の中にあるから、今から楽しみでならない。
「しばらくは戻って来られないだろうから、家族には手紙を送るよ。お土産も贈る。」
そう締めくくって、憤慨から呆然とする父親と依頼主を前にアヤックスは故郷で最後の依頼を引き受けた。元気でね、と家族へ親愛の挨拶をしてから。
どこでバレたのやら、母親から新調された灰色のジャケットだけを餞別に受け取って羽織って見せる。奇しくも、公子としての衣装に近かったが、あれほど気品のあるものではなかった。
シンプルな装いに腕を通し、どう? と人懐こい顔をしてみせる。涙を湛えながら「男前ね」と言ってくれた母親を抱きしめて、同じように弟妹たちも抱きしめる。
行方不明になってしまった弟を探すために実家へ帰省した、怒涛の甘やかしを得意とする兄姉たちからの抱擁も受けながら、惜しむようにゆっくりと体を離した。ブーツは姉からのプレゼントである。母と一緒に揃えてみたのだと言ったそれは、完全に、公子の休日にまとう装い―――のようだった。あくまでもイメージなのだが。
アヤックスが居なくなることだけを察した弟妹たちが泣き出してしまった声に後ろ髪を引かれながら、家を出て。腰のベルトを飾る”水神”からの祝福の証。神の目を輝かせ、門出を盛大に祝う。明星の空に、ゆらりと大きな鯨が踊る。
冬国の空で白く染まった鯨はやがて、ヒルチャールを含めた魔物たちを雪の下へと押しつぶし、再び尾びれをくゆらせて生まれ故郷を出た。
「さて、どうしようか。」
氷の上で釣り糸を垂らしながら少年は言った。
国境を超える前に少年は考える。相棒の空鯨は好きな場所に行こうと誘ってくれるけれど、冒険だったらなんでも出来そうだし、と未計画。一緒なら何処でも強くなれるし楽しめるだろうしとふわふわした考えである。故郷を出る決意は早々にしたものの何処へ行くのか目的地を定めていなかったことを思い出したからだ。
自由を謳歌したかったからまずはモンドにでも向かおうか。風神の恵みである風車を活かした農業と酒造業で、住民も陽気な酒好きが多く、環境のおかげで酒の良し悪しは子どもの頃から仕込まれるスネージナヤの民は意外と合うはず。そして何より、冒険者をするにあたって目立たずに済みそうだった。あそこは風神が学芸の神であることもあってか、子どもであっても必要に応じて仕事や研究をすることもあり、少年冒険者も珍しくはないはずから。
ああ、でも裁判がトンデモだと言う水の国も気になる。せっかく”水神”の祝福である神の目も授かったことだし、一度は水神が見守る国へ足を踏み入れるのも良いだろう。
情が燃えるような火の国も気になるところ。戦の国だと言うし。―――しかし、北の国を出たばかりでは環境に不慣れだろうし、ある程度は身体が慣れてから行くべきだろう。それを踏まえるなら砂漠がある草の国も考え直すべきか。
となると、美食で有名な港町も良いだろうけれど、ああ、でもやっぱりスメールもいいかもしれない。あの壮大な草木は、冬に包まれた雪国では感じられない豊かさであったから。
ああ、植物と言えば、でも懐かしのサクラを見るために稲妻へ乗り込むのもアリだな。大きなカブトムシも居るし。―――あそこは鎖国中ではあるけれど、行けないことはない。”決まった”船に乗れば良いのだということを知っていた。
ううん、と唸る少年はやっぱり初心に戻るべきだろうと引き返す。向かうべく先は、スネージナヤの最も尊きお方を玉座に頂く栄光なる氷のパレスであった。
「せっかくなら、うんと派手に!」
かの英雄のようにウマイ感じの言葉は浮かんで来なかったから、盛大に鯨を飛ばして愚直なまでに現状を最も表す言葉を叫んだ。
我らが故郷の母へダイナミックな行ってきますをしてから自由奔放に飛び出した。母国スネージナヤを英雄の再来かとざわめかせるパフォーマンスでの旅立ちである。氷の皇女様の目に留まったことには露ほども気づかず、少年はただ未知なる冒険へと期待を躍らせて相棒と共に国境を目指すのであった。