短編1話完結。
老人が素振りをする。
木刀が空を斬る。力強い太刀筋と、全身に満ちた気迫は、遠目にも届く。老齢をものともしない剣豪の鍛錬。いつからか続き、いつまでも続く。
足元でこすれた砂利が鳴る。大小の石が、積み重ね、敷き詰められた、黄泉の河原。
雑念はすでに振り払った。
真剣でも木刀でもよい。年齢は数えていない。現世から常世に移ろおうとも、求める道は変わらない。剣を振る。剣を振り、強くなる。
剣さえあれば暇を持て余すことはない。ただ、退屈だった。剣理を知るための稽古とはいえ、死者にも空虚の感情がある。
「……励んでおられるな」
修験者の装束に、顔の半分を隠す面。奇妙な僧侶に話しかけられた。素振りに集中していたせいか、すぐ近くに立ちながら気付かなかった。
僧の手に目を落とす。同じ木刀を持っていた。
「貴殿も兵法家であるか」
「よければ……いかがか」
まずは木刀を下ろし、改めて向かい合う。名乗り上げる。
「鹿島新当流、塚原卜伝」
「司箭院興仙……司箭流」
充分だった。己が何者であるか。これからなにが始まるか。互いに通じ合った。
試合が始まる。同じ正眼の構え。相手の姿が、鏡に映る自分のようだった。
司箭院が切先を低くする。足をすべらせて間合いを詰める。下段から脚を狙う剣筋。司箭院の踏み込みに合わせて塚原が下がる。木刀を避ける。司箭院は手首をひねり、さらに踏み出す。
返し刃を読んでいた塚原は、再び歩を引きながら、後退した足で地を蹴り、跳び出した。一文字に貫く。
司箭院は連撃で姿勢がくずれていた。塚原の突きが迫る。刀身で弧を描き、木刀を弾く。軌道を動かした。勢いのある突進は脇を取る。突きに合わせて胴を抜き払う。
塚原は弾かれたまま、勢いをより強める。一気に司箭院の間合いから出て、背後に回り込んだ。振り返る司箭院。塚原は回り込みを重ねて翻弄する。司箭院は守勢に入らない。同時に放つ流影斬。
互いが互いの影になり、すれ違いながら影を斬り、三段目で木刀が弾かれ合う。
高度な剣技が寸分違わず交錯した。力量の互角を認め合う。素振りでは得られない感覚。血流が速まったかのように昂ぶる。
「長い道を歩いてきたのであろう」
試合を止めてでも、口を開きたくなった。
「貴殿は、果てになにを見た?」
司箭院興仙。無数の武術に通じ、源義経が遺した兵法から学んだ、司箭流の開祖。仙術の修行により、百歳を超えてなお、その身体は衰えていなかったと噂される。
兵法家であり、高僧の粋に達した修験僧でもある。
「奥義は終わりにあらず。卜伝殿と同じく、拙僧もまた長い道を歩くさなか」
皆伝を得ても極地には至らない。
塚原卜伝は、武者修行で諸国を渡り、多くの剣客と立ち会った。生涯無敗を貫き、誇りとしていた。しかしまだ届かない。執着は無念となり、死後もなお追い求めている。
「拙者の剣をお見せするゆえ、貴殿にもお願いしたい」
さやのない木刀。左手に収め、右手をそえる。
「……承知」
察した司箭院も、塚原に応じて刀を収めた。
居合い。
納刀から始まる。力をため、機を見る。一切の無駄が許されない動きで刀を抜き放つ。心技体すべてを要求される、己の剣理そのものと言える剣術。
一時は弛緩した空気が、再び張り詰め、剣気に満ちる。
塚原も、司箭院も、時が止まったかのように動かない。刹那の中にある、居合いを撃つ機を、読んでいる。無限に続く一瞬。
木刀が白刃のように光った。
見切りは同時。そして時は動き出す。抜刀。最短の軌道を最速で走らせる。
塚原の動きが止まる。司箭院に腕をつかまれた。
司箭院は抜刀していない。木刀は左手に持ったまま、居合いとは逆の左足で踏み出し、右手で塚原を制した。つかんだ腕を手元に引く。踏み出さなかった後方の右足を、弓矢のように蹴り込んだ。
「がふッ、あ!」
司箭院が手を放す。塚原は体を折り、ひざを突いた。木刀を杖にしてかがみこむ。
「卜伝殿の方が速いゆえ……兵法にて取らせて頂いた」
「まさか、居合いから足蹴とは」
蹴りとはいえ、試合は決着だった。居合いでは負けると見た司箭院は、不意打ちの体術で制した。
「……拙僧も精進あるのみ。また手合わせを願う」
呼吸が収まってきた。塚原が立ち上がる。
「足蹴なら拙者も修めている。修験の装束に足をつけるが、許されよ」
「その時は……拙僧の居合いにてお相手する」
塚原が破顔した。司箭院も穏やかに言う。
「拙僧は斬るに至らず、卜伝殿は刀を手放していない。こたびは預かりとしよう」
「なんの。情けはいらぬわ」
司箭院は、遠く空を見た。
「互いに道半ば。無用な焦りは禁物」
同じ道を孤独に歩く。見据える先は、常に次の一歩。終わりはない。
常世にありて、現世を思う。
人と人が殺し合う。戦争が続く。荒魂がはびこる。人を襲う妖怪は、黄泉にいてもわかるほど、日ごとに増えていた。
「貴殿は、あやかしを斬ったことは?」
「……幾度となく」
塚原もまた、人間の剣客だけでなく、多くの妖怪と戦ってきた。
荒魂は荒魂を呼ぶ。太初から続く人妖の歴史。断たねばならない。終わりのない剣の道で、連なる荒魂を終わらせる。
剣だけでは成し遂げられない幕引き。打ち払える者に、兵法を授ける。いつまでも続く道だからこそ、いつかは出会える。
司箭院を見る。面の奥にある顔は、僧の表情をしていた。剣を交わした者同士。思いは通じ合う。
互いに礼。背を向け、歩き去る。