「あー、楽しかったー!!」
夕暮れに染まる帰り道、彼女の笑顔は秋晴れの夕陽に照らされて眩しいぐらいに輝いて見えた。
「いやー、水族館なんて久しぶりに行ったわ!! 誘ってくれてサンキューな、ナツ!!」
「俺も久しぶりだったよ。でもまぁ、楽しめるもんだな、案外」
ナツと言うのは俺の名前だ。夏海という名字から取ったそのあだ名は、彼女と俺が小学生で同じクラスだった頃から使われていた年季のある名前だ。いや……彼女はその時は、彼だったか。
「そうそう、高校生の男が二人で行くなんて最初はどうなるかと思ってたけどさ。男女関係ないもんだなー、こういう場所って」
今でこそ、男子としては平均的身長である俺が軽々見下ろせる体躯の彼女だが。
彼女が今の性別になったのは、つい三ヶ月ほど前のことだった。
突発性染色体変異症、だとか仰々しい名前がついていて、世間ではTS病とかいう俗称が定着している病気。その病気に幼馴染はかかってしまい、女になってしまったのだ。
ただ、身体が女になってしまったからと言って、心までもは変わらないらしい。
それこそ、誘った時はデートに思われないか内心ではヒヤヒヤしたものだが、当の本人はただの男二人の遊びだと思ってくれたようで、実に気楽そうなものだった。
「スマンな、あんまり男二人で遊ぶ場所に詳しくなくて……こういう時、男二人はどこに行くのが適切だったんだ?」
「いや、冗談だってーの……真面目ちゃんかよ、ナツは」
「む……いや、モモの話を参考にしたかったのはホントだが……」
普段、遊びに行くとしたら大体は彼女、モモの方から誘われることが多かったので、どこに行くのか聞きたかったのは本音だった。
ちなみに、モモというのは彼女の苗字、
「べっつに、違う場所に行こうがそんなに今日とやってることは変わらんと思うぜー? ショッピングに行ってあれが欲しいこれが欲しいって言いながらぶらぶらしたり、ゲーセンでクレーンキャッチャーに一喜一憂したり……これだって、その成果だしー?」
得意げに見せびらかしてくるのは、彼女がずっとその腕に抱えていたサメのぬいぐるみ。彼女の顔ぐらいの大きさはあるデフォルメされたそれは、水族館のお土産屋近くにあったクレーンキャッチャーを俺が何の気はなしに眺めていたら、隣にいた彼女が100 円硬貨を何枚か投入するだけで瞬く間に取ってしまったものだ。
サメのぬいぐるみなんて興味あったのか、とは疑問だったのだが、どうやらシンプルにクレーンキャッチャーの腕を披露したかっただけらしい。
「いつもだったら周りにいる女の子にあげりゃ良かったんだけどさー、お前と二人だけだったのすっかり忘れてたわ。まぁ、帰って姉貴にでもあげりゃ済む話だけどさー」
「……お姉さんがいたのか」
「え、言ってなかったっけ?」
サメのぬいぐるみを顔のそばに掲げながら、きょとん、とした顔をするモモ。デフォルメされたサメのぬいぐるみのつぶらな瞳が、彼女と一緒にこちらを見つめてきた。
「まぁ、姉貴とは特別に仲良い訳でもなかったからなぁ……二個上なんだけど、積極的に話すようになったのは最近だよ。髪のブリーチの仕方とか色々教えてくれてさー」
くるくると、先端だけが黒く染まった髪を片手で弄びながらモモは言う。
ちなみに、先端以外の部分の彼女の髪色は、目に鮮やかな桃色だ。T S病にかかってから初めて登校した時は、その現実離れした色でクラスメイトの話題の中心になっていたっけ。
「メイクの仕方だの服の選び方だの、こっちが聞く前から色々教えてくれてさー。これから女の子として生きてくんなら、これぐらいは覚えなさいって。いやー、ありがたいありがたい……」
笑顔でなんでもないことのように、変わらない調子で言葉を紡いでいた彼女。
しかし、夕日に照らされる彼女の影の動きがピタリと止まったことに、間もなく気がついた。
「………………」
「…………モモ?」
振り向いて、モモに視線をやると。
モモは、サメのぬいぐるみに顔を埋めていた。ギュッと顔の前で力強く抱きしめて、彼女が今どんな表情をしているかはサメのみぞ知る状態だ。
モモは、俺の問いかけには答えない。
足を止めたまま、身動き一つせずその場に佇んでいる。
「…………モモ」
もう一度、彼女の名前を呼ぶ。今度は、答えが返ってくるのを期待してはいなかった。
けれど意外なことに、ぬいぐるみ越しでくぐもったか細い声は、それでも返事をしてくれた。
「……………………見んな。見んじゃねぇ、こっち」
「……分かった」
彼女に言われるがまま、俺は振り向いてモモを視界から消した。
ただ、それ以上は彼女から離れる気はない。一定の距離を保って、夕日に照らされる彼女の影がギリギリ見える位置で、俺はただ彼女を待っていた。
「……んで、こんなこと……女の真似なんて、いつまでしなきゃ……」
震える声。鼻水をすするような音。しゃっくりのように、乱れた呼吸。
俺はそれら全てを、気づいていないフリをする。仮に気づいたところで、俺から彼女にかける言葉なんて何もない。俺は彼女にとってただの沢山いる友達の一人で、それ以上でも以下でもないからだ。そして、彼女が今日を楽しんでくれたのはきっと、俺がその立ち位置を徹底したからだ。女の子になってしまった彼女を内心で彼と呼ぶことはもうできなかったけれど、友達でいることはまだ俺にできることだから。
「……っ、………………っ。っは〜……ふぅ……」
夕日に照らされながら、どれ程の間そうしていただろう。やがてぬいぐるみの隙間から、小さく深呼吸が聞こえてきて。
「ははっ、悪い悪い。待たせちまったな」
女になっても何も変わらない、笑顔のモモがそこにいた。
「さ、もう帰ろうぜ。早く帰らねーと、閉館ついでに出口閉められて帰れなくなっちまう」
「そんな大変な仕組みがあるのか!? 恐ろしいな、水族館は……」
「ばーか、冗談だっての。なんでこんなの信じちゃうかね、ナツは」
「そ、そうか……」
モモの口の回転は一度の休憩を経て、絶好調になったようだった。
すたすたと俺を追い越して歩き出した彼女は元気を取り戻したようで、俺を冗談で振り回してきたことにむしろ安心しながら後ろを歩き出す。
やがて、閉まる前の水族館の出口を潜り抜けて、俺たちの足は水族館の最寄り駅にまで辿り着いた。
まあ俺たちは徒歩で来たので、ここからまた更に自分の家まで歩かなければいけない。
そのため、ここに着いたのはあくまで帰路の途中経過でしかなかったはず、だったのだが。
「…………なぁ」
「…………どうした?」
モモにとっては、駅に着いたことは別の意味を持っていたようだった。
軽妙な調子からはトーンがいくらか下がった真剣な様子で、彼女は俺に声をかける。
「ありがとな。今日、遊びに誘ってくれて」
「……そんなことか。別に、今更言わなくたって、」
「でもさ……これ以上は、今は無理だわ。しばらく、学校行けそうにねー」
「………………そうか」
気持ちが顔に出ないように意識しながらでは、一言呟くのが精一杯だった。
彼女は。百瀬 羽美は。
一ヶ月前から、学校に来なくなっていた。
その理由を、俺は知らない。
三ヶ月前、TS病にかかったとクラスで紹介された時、確かに彼女は笑ってた。
その朗らかな笑顔を見てあぁこの子は百瀬羽美なのだと思ったのは、きっと俺だけじゃなかった筈だ。
クラスメイトは最初こそ戸惑っていたものの女の子になったモモを受け入れてくれていて、笑顔で談笑する男女の輪が彼女の机の周りにまた出来るようになるまでそう時間はかからなかった。
俺はと言えば、その輪を遠巻きに見ながら、やっぱりモモはすごいなと呑気に眺めていた。
口が達者じゃないから既に形成されてしまったグループには入れない俺と違って、明るく器用なモモはどんなグループの輪の中にもするりと入って馴染んでしまう。
だからTS病にかかろうとも彼女はへっちゃらで、やがて彼女は元から女だったかのようにクラスの中に溶け込んでいくのだろう。
昔からモモを知っていただけで彼女の全てを知った気になっていた俺は、彼女が学校に来なくなる一ヶ月前まで、本気でそう思っていたのだ。
だから、今日遊びに誘うのは本当にドキドキしたし、誘いを快諾してくれただけで本当に嬉しかったのだ。
勿論、今日一日遊んだだけで何もかも解決するなんて、思っていたわけではなかったけれど……それでも僅かな期待はしていたから、内心にショックは広がっていた。
結局俺は、モモではないのだ。肝心な時には黙ることしかできないし、今だって彼女にかける言葉は何も思いつかない。
わざわざ面と向かって「学校に行けない」なんて言い出したのは、何か彼女の機嫌を損ねてしまったせいではないかと、嫌な想像すらも浮かんでくる。
「ただ……これだけは、言わせてくれ」
何も言えず黙っている俺を見上げて、彼女は言う。もう構ってこないでくれ、という断罪の言葉でもかけてくるのだろうか。何もできずにいた俺に、冷たい言葉をかけてくるのだろうか……
「ありがとう、何も聞かないでくれて。何も聞かないで……ただ、オレの『友達』でいてくれて」
そう言って彼女は深く、頭を下げた。
――――彼女が頭を下げるなんて、彼女が彼だった頃を含めて初めてだ。
彼女らしからぬその行動に俺の目はしばらく点になったままだった。
「オレ、本当に今日は楽しかったし、それ以上に嬉しかったんだ……だから。今はまだ、話したくないけど……次、聞いてくれないか。オレの、話……」
「……え。それは、どういう……」
「あぁもう、だから……また遊びに誘ってくれってことだよ!! 言わせんな鈍感!!」
ポコっと細腕で殴られて、衝撃とも呼べないような振動が腕から伝わってくる。夕日に照らされているせいだろうか、彼女の表情はいつもより赤く染まって見えた。
その赤く染まった顔に、いつも浮かべている笑顔ではなく怒ったような顔を浮かべていたことが、俺の胸にじんわりと温かい気持ちを浮かべさせてくれる。
――――あぁ、いいんだな。お前をまた、遊びに誘っても。
悲しいかな、結局この後色々と話をしながら帰ったはいいものの、次にどこに行こうかなんてことはさっぱり思いつかなくて。
それからも、どこへ行けばいいのかはその日に決める、なんて無茶なスケジュールで二人で遊びに行くのは、俺たちの関係性が友達以上に進展するまでのは続いた訳だが……それはまた、別の話だ。