全ての始まり――5回京都5日6R・メイクデビュー(芝右2000・晴・良)
『双子星の
宿命。
そう呼ぶことすらも、陳腐だった。
いつも、一緒だったんだ。初めてターフに降り立った、あの日から。
どこまでだってついていった。どんな場所でもついてきた。
距離の壁も、国の壁も、互いの間には何一つ意味を成さなかった。
勝っては負け、負けては勝つ。
戯れに交わる影は、世界を二人だけのものにした。
二桁度にわたる激突にあって、他の全ては目にも入らなかった。
三冠の夢を語る声は、雑音にも等しく。
優駿の門の前に堆く積もった祈りと願いすらも、きっと取るに足らない些事に同じ。
なぜならば。
勝利の凱歌を唄うのは。頂点の栄冠を掴み取るのは。
いつだって。いつだって。いつだって。
――そう、
「私と、あなただけ。」 「私と、きみだけ。」
名バの肖像 Vol. XXX
【英雄の名を冠すもの】 【ダイナの忘れ形見】
十一月第三週の土曜日、秋深まる京都レース場には大勢の観客が詰めかけていた。
これは普段のこの場所からすれば、大変に異例なことだった。何となれば時は未だ正午も半ばを過ぎた辺り、メイン競走が予定されている午後四時前は遥か先のことであったし、そのメインにしたところで、ダート千八百メートルのGⅢレースとそこまでの注目を浴びるべきものではなかったからだ。
故に彼らの目当ては、今まさに始まるこのレースにこそ存在していた。
――京都レース場第六レース、メイクデビュー戦。
芝の二千メートルで行われるそれは、彼らからすれば今日のメインよりも余程に目をつけるべき価値を持っていた。
九人立てで施行されるそこに、ある一人のウマ娘が出走するからである。
本バ場に入ったウマ娘たちの中で、かの存在は衆目をまさに一身に集めていた。
ターフの緑に映えるやや暗い鹿毛の髪は、艶めく光を放ってその状態の良さを辺りに示している。
体つきは少し小柄で、緩さもやや見え隠れしているか。しかしそれは同時に、将来に花開く大器の片鱗そのものであるように感じられた。
小柄な体格にしても、レースの中においては弱点たり得ない。寧ろ長い距離を走る上では間違いなくプラスに働くだろう。ゲートインの前、
そして何よりも、彼女の瞳に宿る輝きこそが、観衆を大いに引き付けていた。遡ること三十分前、お披露目となるパドックで見せた立ち姿の中、そのアイスブルーの瞳の放つ煌々たる光は、内に秘める静かなる闘志を何よりも強く表しながらも、それを見る全てのものを内に引き込んでしまうほどの強烈な引力をも同居させていた。
――なるほど、確かにこれはモノが違う。
彼女を一目見た者の、それが共通の認識になるまで、そう時間はかからなかった。
事程左様に、この場に立つかのウマ娘は別格たる風格をその身に纏っていた。そして調子もまた万全のものであった。本来であればそのデビューは一か月後、阪神レース場にて予定されていたところを、斯くの如き状態の良さからひと月の前倒しを決め、彼女をこの場に立たせることを担当トレーナーが決めたほどである。
斯くなる期待を背負いこの場に立つ、そのウマ娘の名前は、
レースの余興としてURAが実施している事前の順位予想投票では、ティープインパクト一位の予想が全体の実に七割以上を占めている。まさに「ディープインパクトか、それ以外か」、このレースはそういう類のものとして誰の目にも捉えられていた。
否、もはやこのメイクデビュー戦に対する観衆の関心は、将来の三冠バとも称される彼女がどのような勝ち方をするか、ただそれだけに向けられていると言っても、全く過言ではなかった。
そんな中でも、発走の準備は着々と進められていた。京都レース場一般競争ファンファーレが秋の空に高らかに鳴り響き、九人のウマ娘が、順序良く発バ機の中へと納まっていく。ジュニア級故の不慣れが何人かのウマ娘のゲート入りに影響を及ぼしていたが、それにしてもよくある
そして最後、大外九番の番号を振られた
訪れた一瞬の静寂が、緊張を否応なく高めていく。
ウマ娘にとってはこれもまた一生に一度、そのキャリアを勝利によって始められるのはこの九人のうちただ一人だけしかいない。
二千メートル、たった二分間のお披露目の舞台、痛いほどの沈黙の末――スターティングゲートの開く音が、その号砲となった。
それは、ある種の波乱から始まった。ゲートをぶち破ったとしか思えないほどの異常なスタートの良さで、一人のウマ娘がポンとターフに躍り出たのだ。ゼッケン九番、大外に納まった、青鹿毛のウマ娘だった。
一般にジュニア級のウマ娘は、スタートが下手なものだ。これは脚質がどうであるかとは何の関わりもない。ゲートの出の良さというのは才覚もあるが、その基本は慣れによるものが大きいからである。当然にトレセン学園内で、トレーナーたちは実際の発バ機を使ってのゲート練習を盛んに担当ウマ娘に施しはするが、しかしそれはあくまで練習の範疇を出ない。本番における緊張状態を経験することはあまりないし、それが経験の浅さになって表れるのは当然のこととも言えた。
翻ってかのウマ娘を見れば、そんな「普通」なぞ彼方に置いてきたと言わんばかりの完璧なスタートを決めている。シニア級スプリンターの一流どころと遜色ないどころかそれすらも上回るほどの反射神経で以てゲートから飛び出た彼女は、他の先行勢から優に二バ身ほどの差をつけて、大外から内へと切れ込む。そして内々の経済コースを確保し、余裕を持って先頭に立った。
ただその彼女はともかくとして、他のウマ娘のスタートは概ね普通のジュニア級ウマ娘のそれである。とりわけ、その中で注目を浴びる鹿毛のウマ娘――ディープインパクトは五分よりやや遅めの立ち上がりでレースを始めることになっていた。彼女の数少ない欠点のうちの一つが、そのゲートからの出の悪さであった。
京都レース場の最初の直線は、三百九メートルほど続く。本来ならばそれは直線としては短い部類に入るものの、九人立てとURA主催のレースとしては比較的少人数での実施となったこのレースにおいては、隊列を概ね決定づけるのには十分に過ぎる長さだった。
先頭はゼッケン九番、青鹿毛を後ろにたなびかせ、意気揚々とばかりに先陣を切って進んでいる。その身体はほかの八人に比べて顕著に大柄で、そこから繰り出される大跳びの走りもまた雄大なものに映った。
そのあと三バ身ほど後方に番手の先行勢が三人ほどごちゃっと固まる形で続き、その後ろにゼッケン四番、ディープインパクトがぴったりとつけて走る。そのやや外目からゼッケン五番がマークするように追走し、そこからはばらばらと三人が続いて後方集団を形成する。概ねそのような形で二コーナーへと入っていった。
このレースにおける次の異変は、その辺りから始まった。
先頭を行く青鹿毛のウマ娘は、ひたすらにハナを主張し続けている。ハナを主張し
基本的に逃げの手を打つウマ娘というのは、自らも勝利するためにはどこかである程度のセーブを利かせなければならない。息を入れなければならないのだ。そうしなければ後半、最後のスパートで十分な速度を確保するための脚が残らない。垂れて、そして負ける。それが当たり前の理屈だった。
翻って見ればどうだ。かのウマ娘はその速度を落とそうという素振りがまるでない。レースのセオリーなど忘れたと言わんばかりの行いだった。それはある種、自爆のようにすらも見えた。
結果として番手集団から彼女はぐんぐんと差を広げていき、向こう流しに入る辺りでは十バ身を優に超えるほどの差が二番手との間には出来ていた。
まさに異常事態だ。レース場、観客席からどよめきが上がる。
――まさか、メイクデビューで「大逃げ」を打つウマ娘が現れるとは。
――いやこれは、先頭の娘は掛かりに掛かり倒しているばかりではないのか。
それはそういう類の動揺であった。
大逃げというのは一世一代の大博打である、というのが一般的な価値観だ。そして基本的には、
一方でこのジュニア級のメイクデビュー戦というのは、公式戦であると同時に、ウマ娘に対する教育の意味も多分に含んでいる。初めての本番レースとして、レースの組み立て方からハロンラップタイムの設計、体内時計の整備、仕掛けどころや勝負術に至るまで、それを実地で学ぶということにこのレースの意味はあった。特に将来有望とみられる素質ウマ娘はその傾向が強く、故にメイクデビューにおいては、その全区間を全力で走ることをトレーナーから禁止されるようなウマ娘が、そこそこの数存在するのも事実ではあった。
そういう意味でも、かのウマ娘は異質そのものに映る。その気性を抑えることなく全力で走っているように見えるそれは、今回の結果がどうであれ、もはやレースにおける教育というものを放棄している姿にしか思えない。最低でも外形的にはそうである。
これまでのトゥインクル・シリーズの歴史の中でも、そういった形でレースにおいて「暴走」するウマ娘は多くいた。そのレースにおいての結果は相半ばするもので、それがジュニア重賞における良い結果につながる例も少なからずあったが、しかしそれは同時に、そしてほぼ確実に、一つの弊害をウマ娘に齎すものであった。
つまり、気性が抑えられなくなるのだ。言い換えるならば、脚質として向いているか否かにかかわらず、それ以降そのウマ娘は「逃げ」の戦術以外を取れなくなってしまう。
当然に、脚質として向いていないウマ娘はそれ以降のレースで結果を出せなくなる。結果、その育成の
約めて言えば、メイクデビューをはじめとするジュニア級のレースにおいて、その気性を抑えずにひたすらに逃げさせる戦い方というのは、総じてあまり良い手ではない。観客のうち少なくない人数が、かのウマ娘の担当トレーナーの正気を疑うほどには、である。
しかしそんな観客席の動揺をよそに、レースはどこまでも淡々と進んでいく。先頭の娘は早くも向こう正面から第三コーナーへと差しかかった。
そしてその辺りで、実況が前半千メートルの通過タイムを告げた。
『前半千メートル、一分丁度! 前半は一分丁度で通過していきました!』
速い。それがこの場に集まるもののほぼ総意であった。ただしそれは、メイクデビュー戦に限るなら、という話ではある。それ以外のレースならば、この通過タイムはまさしく平均ペース、という程度の感覚ではあるだろう。
しかし、それでもこれはメイクデビュー戦である。二千メートルにおけるジュニア級メイクデビューの一般的な前半千の通過タイムが一分三秒前後であることを考えれば、やはりそれはどう考えても速すぎた。
――これは、垂れる。もはやそれは衆人の見解の一致するところとなった。
そうなると、観客の関心は先頭のウマ娘からは一気に薄れる。そして自然とその注目は、中段から前を窺う形でレースを進めている一人のウマ娘――即ちディープインパクトへと向いた。
こちらは、まさに優等生の走りだろう。遥か前方をぶっ飛ばしているウマ娘はもはや半分以上レースに参加していないようなものであり、そう考えれば「先頭集団」を形成する三人のウマ娘の後ろにぴったりとつけ、自らはしっかりと息を入れつつもその前を適度に突っついて息を入れさせない器用なレース運びは、ある種の芸術のようにすらも見えた。
事実としてその圧力に耐えきれず、一人のウマ娘が先頭の塊から脱落していく。第三コーナーから第四コーナーへと差し掛かり、L3標識を通過する頃には大外を回ってディープインパクトは先頭集団に取り付き、そして第四コーナーの半ばで悠々と先頭に立った。
そうすれば、後はもう勝つだけである。その
『いや、落ちない! 坂を下って最後の直線、先頭走る九番とはまだ十バ身ほどの差!』
そしてそこで、最後の、そして最大の異常事態が立ち現れた。
落ちない。落ちないのである。当然後ろから猛追するディープインパクトの脚色には大きく劣る。それは確かである。しかし思った以上にその速度が変わらない。
『抜け出た二番手、四番ディープインパクトが猛烈に追い上げる! しかしこれは行ってしまう、残ってしまうぞ! 九番なおも先頭で残り二百!』
L1標識を通り過ぎた辺りで、ディープインパクトはもう一つそのギアを上げた。差が更に激しく縮んでいく。七バ身、六バ身半、六バ身。
しかし、もう決勝線はすぐそこにある。
『差が縮む縮む、しかしこれは届くのか! あと百!』
そうだ。あと百メートルしかない。
観客は今や総立ちになっていた。二人の間を隔てる距離は、残り五バ身ほどにまで詰まってきている。しかしそれは残り百メートルではもはや縮めきれないほどの差であった。
斯くてそれから五秒と経たないうちに、その差は一つの結果となった。
『ディープ猛追、しかし粘る! 粘って粘って、九番半バ身差ゴールイン!』
「九番のウマ娘」が、先頭でゴール板を駆け抜けた。すぐ後ろ、二着にディープインパクトが入線する。
そのほかのウマ娘が決勝線を通過するのには、それから実に
『なんとなんと、抜けた一番人気ディープインパクトは二着、前を捉えることができませんでした! しかし三着との差は大差!』
――ディープインパクトが、敗れた。しかも、まさかまさかのメイクデビュー戦で、である。
誰もが想定していないことだった。ただこの瞬間、満座の観衆は二つのことを理解した。
一つは、ディープインパクトが
当然、次の未勝利戦は問題なく勝ちあがるであろう。その強さに疑うべきところは全くない。これは間違いのないところであった。
しかし同時にもう一つ、彼らは否応なしに理解させられた。
そんなディープインパクトに勝った「九番」が、その青鹿毛のウマ娘が、事前には全く予測がつかなかったほどの強さを誇っていた、という事実を。
斯くして、このメイクデビューを目撃した全ての者たちの頭に、かの青鹿毛の存在が鮮烈なまでに刻まれた。
『勝ったのは九番――』
そのウマ娘の名を――
『――
「ダイナファントム」、という。
それはこの二人のウマ娘が幾度となく繰り広げることになる壮絶なまでの激突の、そのほんの序章に過ぎなかった。
レース結果:5回京都5日6R・メイクデビュー(芝右2000・晴・良)
一着・ダイナファントム
二着・ディープインパクト 1/2身
上がり3F: 35.1 (11.7-11.8-11.6)
レースタイム: 1:59.0R (ジュニア級芝2000mレコードタイム*1)