それは、彼女にとっては雪辱の機会でもあった。
しかし同時に、自らの念願を遂げるための最初の好機でもあった。
ダイナファントムは、決して忘れることはない。
早春の夜、二人きりの部屋、静けさの中に滲んだ後悔と、託された願いを。
仲春の宵、宴の席、互いに交わした約束を。
その内に秘めていた、己が朋友の覚悟を。
そして同時に、信じていた。
予てより掲げていた彼女の夢は、未来は、誓いは、その思いの強さゆえに、いつかきっと叶うことになるのだと。
それこそが今、この大舞台の中で、花開くことになるのだと。
彼女の舞台、その第一幕の開演は、きっともう、すぐそこにある。
時は晩春に至り、トゥインクル・シリーズの一大イベント、クラシック戦線も、いよいよ佳境を迎えようとしている。
ダイナファントムがチーム《ポルックス》としてGⅠというイベントに携わるのも、今回で三度目を数えるに至った。
つまりそれはティアラ路線クラシックの二冠目、ティアラの中のティアラを決めるレース、オークスである。
シーザリオの勝負服姿も、そういうわけで二回目となっていた。一回目ほどしげしげと眺めるでもなく、緊張を含めた勿体ぶったやり取りを交わすでもなく、全員がどこまでも自然体で、しかししっかりと控室から彼女を見送った。
シーザリオ自身も、一度目とは打って変わった落ち着きで、堂々とした立ち居振る舞いで、控室からパドック、パドックから本バ場までを歩んでいた。
府中名物のガラス張り地下バ道の中でも、外界のことなど意に介さぬとばかりの優雅な足取りを崩すことはなかった。
そして、今日この場に生まれる今年の樫の女王を見守るべく集まった大勢の観衆の中、彼女は躍り出る。
確かに、ダービーよりはその人出は少ないかもしれない。されど今彼女が浴びる注目というものは、それまでのキャリアのどのレースよりも段違いに多い。
自らに向く有形無形の期待を、圧力にも似た視線すらも肌で感じるシーザリオと、それを関係者ブースの中から見守るダイナファントムと、二人のウマ娘の間で、言葉も、視線すら交わすことなく、しかし彼女たちは同時に確かな一つの理解へと至った。
――始めるならば、今だ。ひと月前に届かなかった夢も、その先に拡がる眺望も、今日この場に立つ
断然の一番人気、一着支持率五割越えの強い期待に推されて、彼女は今発バ機の中、二枠四番のゲートに納まった。
フルゲート十八人、ティアラの頂点たる女王を決める競演の場は、大外十八番のジェダイトが枠入りして、その準備が整う。
そこからゲートが開くのには、三秒とかからなかった。
ダービーとオークス、同じ府中二千四百メートル条件での開催ではありつつも、そのレースとしての特徴は大きく異なる。
府中は五百三十メートル近い長大な直線を持つ大箱のコースである。故にその直線での勝負に持ち込むために中盤までは溜めに溜めて、最後によーいドンのレースになる傾向が強い、という風に考える者が多いが、それは必ずしも正しくない。
実のところダービーは、行きがかりのハナ争いが落ち着くまでにやや時間がかかる関係で、前半戦のペースが二千四百メートル戦にしては速くなりやすい。特に数年前から、ダービー開催の週はCコース替わりになることからも内前有利のバ場となり、先行勢が勝ちやすい展開となることも決して少なくない*1。そういうわけで後方のウマ娘もそれなり以上の追走力が求められ、結果二千メートル戦や千八百メートル戦のように最速の上がりが三十三秒台前半だの果ては三十二秒台だのといった常軌を逸した三ハロン戦になることは、ほとんどない。というより、ないと断言していい*2。事実、昨年のダービーにおいてレコード決着での優勝を果たしたキングカメハメハは、その上がり三ハロンに三十五秒四もかかっているのだ。四コーナーカーブ時点で後方二番手の位置から猛然と追い込みつつ二位に入って見せ場を作り、上がり最速を計測したハーツクライでさえも三十四秒三であったというのだから、そもそもレースのタイプとしてそういうものであるのだということが分かろうという話である。
しかし翻ってオークスはと言えば、こちらの方がいわゆる素人のトゥインクル・シリーズファンの想像に近い。つまり、道中スローからの直線よーいドンのレースになりやすいことが知られている。*3
その理由としては結局、ティアラ路線のウマ娘がその距離適性に自信を持てないから、というところに帰着することになるだろう。
つまりティアラのウマ娘は、デビューからレースの施行距離が短距離から長くても千八百メートルに集中していて、それ以上の距離の経験があるウマ娘はほとんどいないのだ。むしろ千八百メートルですら若干長く、ティアラ路線でありながらも中距離以遠をその守備範囲にせんとするウマ娘たちの登竜門と定義されているほどだ。
そんな中、一冠目の桜花賞、一マイル戦からオークスに至っては八百メートル、つまり一気に一、五倍の距離延長を彼女たちは求められることになるのである。
まともな実戦例すらもない、完全に未知の世界に何の保証もなく飛び込むことなど、できようはずがない。結果として誰しもがスタミナを誤魔化そうとし、道中をちんたら走りたがる。そして分かりやすく最後の最後まで脚を溜め、府中名物の長い最終直線で決着をつけようとするわけだ。
これは言ってみれば、トリプルクラウンの路線での最後の一冠、菊花賞におけるレース展開と似ていなくもない。あちらは京都レース場のコース形状が、最後の坂の下りまで仕掛けを遅らせるインセンティブとなって働くという別の事情もあるところ、それでもやはり距離延長というファクターが緩みない展開をウマ娘たちに嫌わせる理由の一つとして確かにあるのは事実だった。
ともあれ、なんにせよ、今回のオークスである。
『さあ逃げウマ娘不在の今年のオークス、しかしここで押して押して前に行くのはなんと前走桜花賞で後方からのレースを選択した十一番エイシンテンダーです! このレースペースが緩くなると見たか、しかしそこに大外十八番のジェダイトが果敢に被せて行ってこの二人の先頭争いになりそうだ、バ体を合わせて上がっていく十六番ビッグフラワーは内八番アスピリンスノーと内外で三番手争い、この四人が先頭集団を形成する展開になりました』
実況の言う通り、明確な逃げウマ娘不在と見られていた今回のオークスは、もともとスローの上がり勝負になりやすいレースの特性と合わせて、牽制の果てにとんでもないスローになるかと思われていた。が、実際のところはこれである。先頭を十一番と十八番、外枠の二人が争う形になった影響で、テンのペースは一気に加速した。
これには今年のオークスが例年とは違ってCコース替わりの週となっていたことも作用しているかもしれない、とダイナファントムは推測する。つまり速いところ内前を確保することも、今年ばかりは戦略の一つになりえたのである。
恐らくこれに困ったのはシーザリオだろう。出負けこそしていないが、内に猛烈に切れ込んでくる十一番と十八番のウマ娘のあおりを食らい、ゲートから出たウマ娘たちが一気に内側に押し寄せてくる。それによって脚を使ってでも前目につけるか、無理せずに後ろに下がるかの選択を迫られたシーザリオは、結局バ群後方へと納まる選択をした。ただそれは自主的な選択というばかりでなく、一つ外の枠にいたエアメサイアがシーザリオの前に位置取りながらも一気にペースを押し下げたことも少なからず作用していた。
約めれば、前走では出足がつかず、即ちスタートのしくじりによるところの多かった結果のあの位置取りを、今回は内外の環境の影響はあるとはいえ、自分から選び取ったというわけだ。
が、正直なところそれが奏功したかどうかは微妙だった。というのも、最初の直線四百メートルあまりで先頭争いは落ち着きを見せ、早々に十一番エイシンテンダーがハナを取り切ってしまったからである。
これが逆に大外のジェダイトが先頭をとれば、それでも前走前々走と先行策を取り続けてきた関係である程度ペースも早まってくれる可能性があった。しかし実際のところは逆である。つまり先行バでもない、本来ならば差しウマのポジショニングを得意とするウマ娘が押して押して前を陣取った場合、起こる事態は一つしかないのだ。
『先頭争いが落ち着いて各ウマ娘一コーナーを回っていきます。やはりハナに立っていますのは十一番エイシンテンダー、これに競りかけてくるウマ娘はいません。二番手十八番ジェダイト二バ身後方、そこにするするっと内から上がったアスピリンスノーが追走して三番手、ビッグフラワーと二番ブリトンが四番手内外、抜けた一番人気四番シーザリオはというとそこからぐーっと後ろに下がって後方四番手の位置につけています。比較的
つまり、そういうことである。先頭の十一番エイシンテンダーが、ぐっとペースを落とした。恐らくはテンの三ハロン目のラップというと十三秒台になるだろう。それは二コーナーに入った四ハロン目、そして向こう正面に入ってもなお傾向として続いていた。
はっきりとわかるレベルで、ペースが緩い。平均してハロン十三秒というところか。その答え合わせは、すぐにやってきた。
『さあ二コーナー抜けて向こう正面、エアメサイア絶好の位置取り、丁度バ群中段に位置しています。二番人気ながら逆転なるか、その後ろ十番ライラプス十三番ランタナが内外で続いて三番コスモマーベラスと九番ディアデラノビア、更にそこに十四番十五番と七枠の二人がいてその後ろ! その後ろにいますシーザリオ、やはり後方バ群、後ろから三番手といったところでしょうか。さあここで向こう正面中間地点、前半千メートル通過ですが一分三秒! これはかなりのスローペースだ。後ろのウマ娘が差し切れるかどうか気になる展開となっています』
「おっそ! 遅すぎるぞこれ」
アナウンスがされたその瞬間に一人呟いてしまったダイナファントムだが、しかし致し方のないところであろう。
ここまで遅いと、実際にレースを走っているウマ娘たちも自らのペースというものがどういったものか、さすがに気づく。そういうわけで、前半千を通過してから、それまで二十バ身近くあった先頭からシンガリまでの隊列が、徐々に徐々に圧縮されていった。
そこで、ダイナファントムは気づいた。
つまり恐らく、シーザリオはこうなる展開を読んでいたのだ。
縮んでいくバ群は、そうであるがゆえに必然的に横へと広がる。そのなか、初めから内外でいえば中ほどにつけていたシーザリオは、自らの行く先を自由に選択することができた。流れに身を任せていても先頭からの距離はこのまま十バ身程度まで縮み、それは彼女の差し脚を考えれば十分に射程圏内となるが、ここで一段前からのレースを選択することも、当然にして可能であった。
つまりそれは、自らの一つ外を走る十四番ジョウノビクトリアとの位置関係をどう処理するか、そういう話でもあった。
彼女の内で走ると言うことは、コーナーの攻防の中で内に閉じ込められ、直線で走路が空かないリスクを背負うことと同義である。これは前走、ラインクラフトにいいようにやられた展開と同じ負け方をしてしまう可能性をも意味している。
しかしそうとは言え、ここで一段前からのレースをするために脚を使うことが、果たして勝利に結びつくかというと、それも難しい。このままバ群は恐らく最終直線に向かって更に圧縮され、最後には大きく横に広がりつつの直線勝負、スパート戦となることはほぼ間違いがない。そうなった場合、最後の最後まで適度な追走で脚を溜めることができれば大きく優位となる。
――どうする。ザリオ、きみは。
ダイナファントムがそう内心で問いかけたその瞬間。彼女は決断した。
つまり、ペースを
それは、言ってしまえば挑発である。故にターフビジョンの中、外を走るジョウノビクトリアがシーザリオのことをちらりと見たのも、ダイナファントムは視認した。
――絶対、外になんて出させるものか。
そう、彼女は決心したことだろう。
その辺りで隊列は第三コーナーへと向かい、勝負は中盤から終盤へと移り替わる。
『さあいよいよ終盤戦第四コーナーへと差し掛かる、未だ先頭エイシンテンダー、その後ろジェダイト、十三番ランタナ位置を上げて三番手、その内にビッグフラワー入って更に内々にはアスピリンスノーといった体勢で流れていく、エアメサイア中団中央の辺りでいよいよ仕掛けどころを窺うか、シーザリオはさらにその後ろ! ジョウノビクトリア被せるように進路を塞ぎにかかっているがこれは大丈夫なのかシーザリオ!』
その実況に、観客席からどよめきの声が上がる。この位置、終盤も終盤で進路を失うことになれば、桜花賞のような惜敗はおろか完全に行き場を失って着外に吹っ飛んでいく危険性すらもある。実際ターフビジョンにおいては外を走る十四番ジョウノビクトリアに詰め寄られて次第に自らの前の進路が狭くなりつつあるシーザリオの姿が映し出されていた。
故に上がっているその声というのはもはや悲鳴に近い。バ群から抜け出せずに右往左往し、有力ウマ娘がもがきながら沈んでいく光景というのは、見ている側からしたら悪夢でしかないのだ。
ただその瞬間、ダイナファントムは、そしてきっとその横、福井トレーナーは理解した。
――シーザリオには、勝ち筋がある。
というより、ハナからその勝ち筋しか見えていない。
彼女の見る先には、一人のウマ娘がいた。自らのど真ん前を走り続けている、十二番のピューマカフェである。
そのウマ娘は、第三コーナー入り口の辺りからバ群への追走に苦しんでいた。走りはややふらついていて、足取りは心許ない。
このタイプのウマ娘は、カーブの中で、そして直線への出口で大きく二つの行動をとる。
つまり、内へ刺さるか、外へヨレるかである。そのどちらを取るにせよ、シーザリオの前を走るそのウマ娘は、早晩彼女の目の前から退くのだ。
そして大体の場合において、この二択であれば後者、外へヨレる方向に倒れることが多い。何となれば追走力不足、スタミナ不足で垂れていく場合、自らの走る速度が生み出す遠心力に、その身体が耐えられないからである。
それを彼女は、シーザリオはしっかりと見据えていた。その瞬間こそを、狙っていたのだ。
バ群が、第四コーナーを抜ける。府中の長い直線コースへと、全員がたどり着いた。
而してその時、まさにその一瞬で、シーザリオの命運が開けた。
がくん。そんな擬音すら聞こえるほど、彼女の目の前、ピューマカフェの姿勢が崩れる。ほとんど蹴躓いたかのような挙動で、一気に身体三つほど外側へ激しくヨレた。
それは散々にシーザリオの行く先を塞ごうとし、その末に有利な位置から加速を始めようとしたジョウノビクトリアへも大きく波及した。
殆どもたれかかるような、ともすれば斜行失格を取られるほどの進路変更のあおりを受けて、彼女もまた外側へと退避せざるを得なくなる。
結果、シーザリオの目の前にはウマ娘三人が通れるほどに広い、どこまでも広い進路が、一気に広がった。
その場所、勝利への道筋が、まるでお膳立てされたかのように作り上げられていた。
それを視認して――シーザリオは、これまで溜めに溜めていた、この時のために用意していた自らの脚を、一気に解き放った。
『さあ最後の直線へと入った! 先頭エイシンテンダーがまだ逃げている、後ろジェダイトついていくが脚色変わらない! しかしその後ろ、いよいよと言った様子でエアメサイア仕掛けてきた! 二番人気エアメサイアが仕掛けてきたぞ! 六番手あたりから一気に位置を上げて、今四番手から三番手、ジェダイトを捉えようという勢い!』
前の争いはエイシンテンダーがうまくペースを落としたことで維持できていた足で逃げ残りを図り、それを一人だけ中団から脚色の違うエアメサイアが躱せるかどうかという情勢である。まずその先頭付近の攻防に実況の注目が向く中、しかし真打はその後ろからやってこようとしていた。
『いや、しかし、しかしその後ろ、狭くなっていたはずの進路が広がっている! その中から連れて上がってくるのが九番ディアデラノビアと――四番シーザリオ、シーザリオだ! 断然の一番人気シーザリオここでやってくる! 後方から一気に加速!』
実況のボルテージが一つ上がり、そして観客席の歓声もまた大きくなる。
後ろから何の抵抗もなく、並みいるウマ娘を尻目に圧倒的な脚色のまま矢の如く上がってくるシーザリオに、その一列前でレースをしていたディアデラノビアが食らいつく。隣に並び、しかしそこで少し息が続かなくなったか、走りがふらつく。
外側、シーザリオの方へとふらりよろけて、それはともすれば真っ直ぐ前を目指す彼女からすれば退避のために不利に働く可能性がある挙動だった。一瞬、ダイナファントムが右手を握りしめる。
しかし、しかし彼女は――そんなディアデラノビアのことを、
シーザリオは前を、ゴールのことだけを見ている。それ以外の外界の何もかもは、もはや彼女の意に介すべきものではありはしなかった。
そして彼女はそこでまた一度、一段と強く足を踏み切る。そのままに、更に加速した。
『あと二百を切ってなお粘る粘るエイシンテンダー、しかしその横、少しヨレながらもエアメサイアが迫る! この二人の一騎打ちか、先頭一騎打ちか! しかしここでエアメサイアエイシンテンダー捉えて先頭、先頭だ! エアか、エアメサイアか! あと百!』
その速度は、もはやそれを見るダイナファントムに、いや、すべての観衆にとって、このレースの勝者が誰であるかを自ずと理解させるものであった。
『しかしここで! しかしここで後ろから一気にやってきた! 一気にシーザリオやってきた! 前の争いを知らぬとばかりにまとめて躱す!』
それは数秒と経たぬうちに現実のものとなる。それがそのまま、結果になった。
『躱して躱して、躱し切ってゴールイン! ――シーザリオやりました! 後ろから一気の末脚で前のウマ娘全てを一息に飲み込みました! 二着は
場内が、また一段の興奮を以て湧いた。
まさに鮮やかな、見るものすべてを魅了する圧巻の差し切り勝ちだった。
序盤中盤の雌伏の時に始まり、終盤にかけての攻防と、その先で一瞬迎えたピンチに、冷静な読みが導き出した最終直線の「奇跡のような進路」から、その果ての逆転に至るまで、それは筋書きのある一つの物語のようで、だからこそこのレースの主役は、間違いなくシーザリオだった。
『桜花賞の雪辱果たす鮮烈な差し切り勝ち! シーザリオが一番人気に応える圧巻の走りで、今この年の女王の座に君臨しました!』
東京二千四百、オークスという舞台の上、彼女はまさに自らの名前に相応しい名演にて観客全ての心を掴み、そして確かな実力によって樫の女王の称号を手にした。
チーム《ポルックス》クラシック世代は、ともに世代の頂点たる冠の一つを、頭上に戴くことになったのだ。
ウイナーズサークルから地下バ道へと入って、検量室から控室へと戻るその手前、パドック側出口の見える広場の辺りで、ダイナファントムはシーザリオを迎えた。
もはやそこまで迎えに行こうとするほどに、ダイナファントムは気が昂っていたのだ。
勝負服姿のままのシーザリオが、そこにいるダイナファントムの姿を目に留めて、困り顔と笑顔が相半ばするような表情を浮かべる。
「ファンさん……」
故に出てくる声も、「仕方がない人ね」と言わんばかりの含みがあった。
しかし、そんなことはダイナファントムからすれば知ったことではない。足早に近寄って、目の前にまで辿り着いた。
「ザリオ」
呼びかけて、しかし気を落ち着けるように胸へと手を当てる。
口をついて出てきそうな言葉の色々を整理して、本当にかけるべきものを選んでいく。
その結果ダイナファントムから出てきたのは、シーザリオがかつて彼女に向かって説いた、夢についてのことだった。
「今日の主役は、きみだった。みんな、きみだけを見てた」
あのターフの上、満座の喝采はまさに彼女のために向けられていた。
それを受けるに値するレースを、シーザリオはやってのけたのだ。
「そう、かしら」
「うん。……本当に、主人公だったよ、あのレース」
きっとそれが、今目の前に立つウマ娘が求めている、最大の賛辞に相違ないと、ダイナファントムは思っていた。
果たして彼女は、シーザリオは、ダイナファントムのそのダメ押しの言葉に、表情を緩めた。
「……なら、上々ね」
しかしすぐに、けど、と居住まいを正す。
「でもね。私の夢は、こんなものじゃないわ。まだ、始まったばかりですもの」
――しかも。そう言って、目を瞑る。
「まだ、『一対一』なのよ、私たち。忘れていて?」
何のことかと一瞬疑問を持つも、すぐに理解した。一か月近く前、皐月賞のあとの宴席で、彼女がぶち上げた
口の端に浮かぶ苦笑いを、押し止めることはできなかった。
「そう……だったね」
「ええ。だからファンさん、あなたも」
言葉を切って顔を逸らして、シーザリオは流し目でダイナファントムを見る。
そのままに悪戯っぽく、続きのセリフを口にした。
「来週のダービー、頑張りなさいな。じゃないとすぐに、私が追い越してしまうわよ?」
そしてそのまま、彼女の肩に手を置いて、シーザリオは控室へと戻っていく。
――どこまでも、らしい応援の仕方だ。
故にダイナファントムがそこで浮かべた笑みはきっと、そんなシーザリオの在り方に対する親愛からくるものに相違なかった。
去っていく彼女の背中を眺めて、そのままに呟く。
「そう、だね。……二冠の資格があるのも、私だけなんだ」
内心に抱えるように言ったその言葉は、果たして誰に向けてのものだったのか。
隧道の出口が長方形に切り取るパドックの遠景は、傾き始めた太陽の山吹色を映して、金色の輝きを放っていた。
レース結果:3回東京2日11R・オークス(GⅠ)(芝左2400・晴・良)
一着・シーザリオ
二着・エアメサイア 1身
三着・ディアデラノビア クビ
上がり3F: 34.2 (11.5-10.9-11.8)
なお、シーザリオ: 33.1 (11.4-10.9-10.8)
レースタイム: 2:28.6*4
とうとうシーザリオも史実越え。
史実はクビクビ差決着でしたが、それよりも0.2秒速く、一バ身差つけての勝利です。
ちなみに本話は、武豊TVの2005年オークスの回がyoutubeに落ちていたので、かなり参考にしました。
騎手たちが何を思ってレースをしているのか、いろいろと窺えるところがありますね。
東京競馬場の地下馬道と計量室とパドック辺りの位置関係を探るためにかなり色々調べたのはここだけの話。