一年の間に競争ウマ娘登録を行う日本のウマ娘は、凡そ七千人弱いると言われている。
そのうち、トゥインクル・シリーズ、つまりURA主催の「中央」への登録が、凡そ四千五百人。そしてNAU主催のローカル・シリーズ、「地方」への登録が、残りの二千五百人*1という内訳だ。
中央で結果を残せなかったウマ娘の地方移籍が毎年三千人ほど発生しているわけだが、しかしどのみちトータルでそれほどの数のウマ娘が、日本におけるレースの世界へと身を投じている。
そして今日は、そんな中から選びに選び抜かれた十八人の優駿が、その世代におけるたった一人の、たった一つの称号をかけて、争う日だった。
この日のために全てをかける。そう公言して憚らないウマ娘は、数多い。
結果としてそこがウマ娘としての最後の輝きになってしまう者も、残念ではあるが、少なくはない。
キャリアの一度でいいからこの頂を取りたい。それはトレーナーにとっても、一つの夢となる。
あの「天才」奈瀬文乃が、トレーナーになって三年目で中央の最多勝利トレーナーに輝いた生ける伝説ともあろう者が、現役を始めてから十一年もの間、その座を掴むに至らなかったというほどに、このたった一つの勝利というのは、どこまでも重い。
渇望、希望、夢、祈り、そして願い。
その全ての通い路が、想いの交差路が、激情の坩堝が。
――日本ダービーが、やってきた。
通常、メインレースはラスト前、十一レースに組まれるのが、トゥインクル・シリーズの慣例だ。
しかしこの日だけは違う。東京優駿、日本ダービーの開催は第十レース、つまり最終競走の二つ前に設定されている。
それでも出走時間は、メインレースとしてお馴染みの十五時四十分だ。故に最終競走として設定されている目黒記念は、夕暮れ時、薄暮競走となっている。
つまりそれほどまでに、この日は、この日だけは、人流の整理が必要になるほどに、大勢の観客が詰めかけることになるのである。
ダイナファントムは、それを知識としては知っていた。それでも今、その意味することが一体なんであるのかを、まさにその身をもって体感していた。
彼女はこれまでいくつかのレース場をターフの上から見上げてきたが、しかしこの日の府中の景色は、異様というよりほかにはなかった。
――満員電車か、これは。
そうとすら、思ってしまう。地下バ道から上がってきて、光の中に浮かび上がる情景と歓声は、完全に、どうしようもないほどに、想定の上を行っていた。
皐月賞の日、自らがターフの上から仰ぎ見た中山のスタンドも、オークスの日、観客席の方からその場の盛り上がりを肌で感じたここ府中のそれも、等しくクラシックの、そして同じGⅠ舞台だ。故に詰めかける観衆の数も数多で、それだって十分に格別の空気を帯びていたと、彼女は思っていた。
が、今のこの様子を見ると、それは一段、いや二段はおとなしいものであったと、そう感じざるを得ない。
これは、もはや別の何かだ。普段自らが目にしているウマ娘レースの在り方とは、まるで違う。
幼い頃、家の行事として幾度となく参加したレース観戦の記憶は、シャダイの一族としての功労者席からの眺望しかない。ダービーとてそうだ。
だからこれは本当に、真の意味で初めての経験だった。
「ウマ娘の、祭典……」
自然と、そのフレーズが口をついて出てくる。
かの言葉が持っている意味を、今この場に立つことで、ダイナファントムは初めて理解した。ようやっと、それが腑に落ちた。
そこに、一人のウマ娘の影が差す。或は彼女が呟いたそれを、拾ったのだろうか。
くい、と袖が引かれた。反応して振り向く。ダイナファントムは自らを呼び止めた者の正体に、けれどもそうする前から気づいていた。
故に向き直ると同時、声を出す。
「どうしたの、ディープ」
果たしてそこには、いつもの暗褐色のウマ娘が見えた。
こうやってレースの前、彼女と連れ添って話をするのは二度目であるはずなのに、昔からずっとそうやってきたような、そんな奇妙な既視感すら、ダイナファントムは覚えた。
彼女が、ディープインパクトが、発バ機の方を指さす。
「……いよいよ、だ、ね」
だからこそ、その言の意味するところも、ダイナファントムには手に取るように分かった。
もう、訊き返す必要もない。頷いて、返した。
「そうだね。もう、始まる」
「ん」
時刻は十五時半、そろそろ全員が返しウマを終わらせて、発バ機の前へと集まる頃合いだ。
隣の彼女もまた同じく、スタンドも前に鎮座するそれへと身体を向けながらも二度三度と軽くジャンプしていた。
そして止まって、またダイナファントムを見る。
「ずっと、待ってた」
「
ディープインパクトは、暫くの思案のあとに、しかし首を横に振る。
「それも、ある。……けど、そうじゃない」
ぐるりと辺りを見回して、また隣のウマ娘へと視線を固定する。見上げるように、覗きこむように、続きを言葉にした。
「ファン。あなたと、また走るのを」
「私と……」
真っ直ぐ向けられたそれに、呟きが漏れる。
一緒に走る。それだけであれば、結局皐月賞のあと、以前交わした約束を果たすように、ダイナファントムは何度かディープインパクトと併走をやっていた。無論、トレセン学園のトラックを使ってである。
勝ち負けは相半ばだ。ただ逃げウマ娘と追い込みウマ娘では、なかなか追い比べのような形にはなりにくい。「やっぱり本番で競ってなんぼだね」というのが、両者の間の結論になっていた。
つまり、そう言うことなのだ。ここは一か月ぶりの
それを今、ディープインパクトは強烈に意識している。どこか客観視するように、ダイナファントムは感じていた。
一歩一歩と歩みを進めて、二人ゲートへと近づく。
「……むずかしい」
その手前、はたとディープインパクトは立ち止まった。眼前には思い思いの準備を進める十六人のウマ娘が、勝負服の花を咲かせて枠入りを待っている。
それを見て、彼女はそう言った。
「二回負けて、一回勝った。だから次は――でも」
首を振る。今までならば、そこに続く言葉は、きっと一つだった。
――次は勝つ。
されど、違うのだ。
「そうじゃ、ない。……私は
今日の彼女は、いつになく饒舌だった。
勝つでも、負けるでもない。今のディープインパクトの心中にあるものは、きっともっと透明で、純粋な意思に相違ないのだと。
そう、主張していた。
「だからあなたも――」
向けられる瞳の光も、だからいつものそれよりもどこか少し深みを帯びている。
今までのような、冷気すら発するほどの透徹たる闘志ではない。物理的な力を錯覚するほどの、威圧感でもない。
ただただ、惹きこまれた。それほどに今のディープインパクトは、一段違う何かをその身に纏っていたのだ。
それをダイナファントムは、美しいと思った。どうしても、そう思ってしまった。
「――そう、するよ」
つられるように、頷く。
同時、晩春の薫風吹く府中の空気の中、GⅠファンファーレの生演奏が、大きく響き渡った。
ダイナファントムは、運には嫌われやすいウマ娘である。
これは幼少のころからそうだった。じゃんけんは弱いし、くじ引きでは残念賞以外を引いた記憶がない。
おみくじを嫌うのも、結局はそれから来ていた。
――ダービーは、最も運のあるウマ娘が勝つ。
この格言はかつてこのレースが二十八人立てなどという狂気の枠数だったころの名残ではあるものの、しかし今週の木曜日、抽選の結果として自らが割り当てられたウマ番を見て、ダイナファントムはさすがに笑うよりほかになかった。
何せ、八枠十六番*2である。大外ではないにせよ、逃げウマ娘にとってはあまりに厳しい枠だった。ここぞというところでこういう巡り合わせになる辺り、やはり自分は運に頼って何かをするのは避けるべきに相違ないと、そうダイナファントムは何度目か分からない確信を新たにしていた。
ゲートの前、その時のことを思い出して、彼女はまたわずかに苦笑する。
偶数枠は、枠入りとしては後入れになる。そして大外が十八番ということは、入るタイミングは最後の丁度一つ手前だ。
ゲートを嫌うウマ娘にとっては都合のいいことなのかもしれずとも、しかしゲートの中で気息を整えることをルーティンの一つとするダイナファントムにとって、これもまたどうにもうまくないところであった。
同じ外なら、一つ外であっても十七番がよかったと、そう彼女は思わざるを得なかった。
が、嘆いていても仕方がないことだ。与えられたカードの中で最善を尽くすのが、彼女たちウマ娘に求められることであるのに相違はないのだから。
奇数番のウマ娘がするすると中に納まり、そして次いダイナファントムもその身を枠に潜り込ませる。
直後に二つ隣、大外のウマ娘が静かにゲートの中へと納まり、係員が離れた。
前走、皐月賞よりも心持ち長く感じる静寂がやってくる。
スタンドのざわめきが鎮まって、全員の体勢が整うのを待つ。
その時間は十秒ほどの長きにわたって続いて――
『クラシック級ウマ娘全国七千人の頂が今こそ決まる、東京優駿日本ダービー十八人立て体勢整って――スタートしました!』
一生に一度の二分三十秒が、始まった。
いつものことながら、ダイナファントムの出はこの場の誰よりもいい。しかしさすがに、あの皐月賞のような全てを置き去りにする会心の出とまではいかなかった。
故に出足を使ってでもぐいぐい前へと押し上げてくる十番コスモオースティンとは、内に切れ込むコースロスと合わせてほぼバ体を合わせる形でのレースをダイナファントムは強いられることになった。
そしてその後ろ、八番のシャドウゲイトがつけて、枠一つ隣のシルクネクサスと十三番ダンツキッチョウも前へ前へと詰めかけてくる。テンの一ハロンから誰もが前の争いを譲らない、大きく前掛かりの展開となっていた。
やはりダービー、一筋縄ではいかないということだ。脚を使って前を取るか、番手に控えて頃合いで前へ出るかと、ダイナファントムは思案する。そしてその一瞬の判断の末、彼女は控えた。
先頭コスモオースティンが譲らないとばかりに一段大きく加速したそのタイミングですっと内へ切れ込み、内々を経済コースで回ることを優先した。
そして第一コーナを、縦列を組みながら通過していく。後ろにぴったりとつけてくるシャドウゲイトが少し前をつつこうとする素振りを見せるも、ダイナファントムのペースが変わらないと見て諦めていた。
そんな中、ダイナファントムは後ろの動向へと耳を配る。やはりスタートの時点で他のウマ娘の動向に気を配るのは不可能に近いが、それでもディープインパクトが前団へやってきている感じはしなかった。
ここからの距離も、小柄なバ格をも合わさって存在感はあまり感じられず、ただその瞬間、後方の空気が粟立ったのを感じ取った。
つまり、ディープインパクトが動きを見せたのだ。
ディープインパクトは、追い込みウマ娘だ。それは間違いがない。ただ彼女は、割と早い段階である程度位置を上げたがる。隊列が決まるまでのごちゃごちゃがすんだ当たりで、シンガリからするすると後方の好位につけるのが彼女の十八番であった。
そして彼女が位置を上げると、後方はどうしてもざわつく。なぜならばディープインパクトが上げた位置取りの後ろに位置するウマ娘は、ディープインパクトが、そしてその背後の奈瀬トレーナーが、末脚勝負で絶対に負けないと宣告しているのに等しいからである。
その揺らぎは漣となって、前方の集団へも伝わる。つまり、やや後ろが差を詰めてこようとするのだ。先頭コスモオースティンがそこまで離した逃げを打っておらずバ群が比較的固まっている今回のレースの隊列の中では、その影響は先団側にも否応なしに伝わってきていた。
先頭は二コーナー半ばごろ、あと百メートルもすれば向こう正面に入る。本来ならばそこへ向けて一度流れが落ち着くタイミングであるところ、しかしダイナファントムは後ろ側の動揺に押し出されるようにやや外に持ち出して、コスモオースティンに並びかけに行った。
いやむしろ、その後ろ側の動揺をうまく使った形だ。そして先頭でペースを落とし始めている逃げから、レースの制御を取り戻すことにしたのだ。
並ばれたコスモオースティンが、ちらとダイナファントムを見る。競りかけられている、否、前に行かれようとしていることはさすがに明白で、対抗してペースを上げようとしてきた。
しかしすぐに理解する。これに付き合ってはつぶれる、と。
つまりそれまで先頭を走っていたコスモオースティンはハナを取り切ったあとはハロン十二秒一から三のペースを維持して流れを落ち着けようといていたが、しかしダイナファントムはそれをよしとしなかった。ハロン十二秒から十一秒九のペースで隊列を牽引しようとしていたのだ。
理由は、一つしかない。この府中のレースで純粋な上がり三ハロン戦をディープインパクト相手に仕掛けては、ダイナファントムは勝てる自信が全くなかった。恐らく完全によーいドンで三ハロンを走ると、ダイナファントムとディープインパクトの脚は三ハロン合計で一秒は違う。
これは皐月賞のあとの何度かの併走勝負の中で、ダイナファントムが自然と学んだことである。トップスピードのみで比べては、勝ち目などないのだ。
故に追走で脚を使わせる。せっかく後方とは言え中団にまで出てきてくれているのだ。バ群の中で位置取りを保つために脚を使わざるを得ない位置にいるディープインパクトに、せいぜい多少のハイラップには付き合ってもらおう。つまりそれは、そういう狙いを秘めていた。
ハナを諦めて下がっていくコスモオースティンに代わり、ダイナファントムが先頭に躍り出る。一度一バ身の距離を取ってから早々に内々に切れ込み、そしてペースの制御に入った。
そうすれば程なく、向こう正面入り口から少し、前半千メートルを通過する。こちらからは実況のアナウンスは聞こえず、ペースは己で判断するしかない。ただそれは、ダイナファントムにとって大の得意とするところである。
――前半千、恐らくは五十九秒四か五。
彼女は、そう結論した。コスモオースティンに任せるままではペースは一分丁度辺りを記録していたことだろう。ミドルと言えばミドルだが、テンのやたらと速い展開からのペースダウンであることを踏まえると、そのままハナを切らせていれば道中延々と十二秒前半台のラップで後ろに緩い流れを許し、ディープインパクトの脚を溜めさせてしまうところであった。
当然に、そうはさせない。ダイナファントムはそこから、ペースを一定に保って巡航を始めた。
一ハロン、十二秒フラット。それを徹底する。向こう流しの直線五百メートルも、そしてそこから三コーナーへ入る辺りまで、ペースを上げもしなければ、下げもしなかった。
このペースを守れば、最後の三ハロンで三十五秒台前半の上がりを出せる。現状のダイナファントムとディープインパクトの間のバ身差は凡そ十バ身前後と言ったところで、これを秒数換算すると大体一、六秒だ。つまり最後、ディープインパクトが上がり三十三秒台前半を繰り出してこない限りは、まず負けにはならない。そしてバ群でポジションの維持のために多少の脚を使わされているはずの彼女は、いくら鬼のような差し脚を持っていようが、その速度は出ない。
自らの計算と、そして脚の残り方に狂いさえなければ、勝つ。現状の展開は、それをダイナファントムに示していた。
とはいえ、気を緩めていいわけではない。そのまま三コーナーへと入り、コース取りと温存のためにほんの少し、ハロンコンマ一秒ほどのペースダウンをしつつ、一人先頭でコーナーを曲がる。
後続も本来のペースを乱されているはずのところ、それでもしっかりとついてきていた。彼女たちも、ダイナファントムが演出しようとしている消耗戦に真正面から付き合う気、満載であった。或はここでダイナファントムを一人ぽつんと残せば、確実に逃げ残られるという危機感が働いたか、また或はそうやって追走のための脚を温存してディープインパクトを楽にすると、今度は後ろから一気の脚で全員をごぼう抜きにされ、それはそれで勝ち目がないと見たか。
――気の毒な話である。ダイナファントムは少しばかり他のウマ娘に同情した。
先頭を走るダイナファントムと、後ろから虎視眈々と差し切り勝ちを狙うディープインパクトと、その両方に挟まれてしまっている彼女たちは、自らにレースを、盤面を動かすフリーハンドを失っている。
せめてどちらか一方に脚質が偏っていればやりようはあったところを、と。それは傲慢な考えかもしれなかったが、しかしダイナファントムは譲る気などなかった。
ディープインパクトこそが、最大のライバルである。それは、畢竟あのメイクデビューの時から、不変の真理であり続けているのだから。
そしてとうとう、最後の勝負の時がやってくる。三コーナー終盤から四コーナーで、後ろから強烈なプレッシャーが放たれたのが分かった。
その主など言うまでもない。ディープインパクトだ。
そろそろ勝負を仕掛けなければ、最終的に十一から十二バ身を維持している差を、つまり秒数にして一、八秒ほどある差を詰めて勝つなど難しい。それはまさにその通りで、しかしそのロングスパートは必然的にディープインパクトに消耗を強いている。途中まで中団後ろ、内につけて走っていたのをわざわざコーナーで外に持ち出しているのだ、当然の話である。
故にダイナファントムは、ただ待った。ペースを一切落とすことなく、しかし上げることもなく、最内、内ラチ沿いの経済コースにぴったりとつけて、こすりつけるかのような軌道で走りぬいた。
真後ろにはインティライミが先団前目からやってきていて、期を見て内を掬うか、或は外からダイナファントムを抜かそうと仕掛けの準備に入る。
それが、最終直線の入口だった。
残り五百メートル。
ダイナファントムはまだペースを動かさない。ディープインパクトは大きく外に寄った。バ場の真ん中に持ち出して、いよいよ前を捉えようと加速を始める。
他のウマ娘もダイナファントムをどうにか捉えて前へ行こうとする。差が、少しだけ縮まった。けれどもダイナファントムは焦らない。まだ動く時ではない。後ろを走るインティライミも、外に持ち出してこちらを躱そうと言うほどには、速度を上げられない様子だった。
残り四百メートル。L2だ。
そしてここで、先頭を走る青鹿毛が、すっとその身を沈めた。
脚を踏み出す。速度が変わった。つまり、ダイナファントムがスパートをかけた。後ろからくるはずのウマ娘と変わらない脚色だ。否、それより顕著に脚色がいい。彼女につけて捉えようと期を窺っていたはずのインティライミでさえも、じりじりとその距離を放されていく。
スタミナ勝負の果てに、それでも溜っていた脚で、ダイナファントムは逃げ差しを図ろうとしていた。
残り三百メートル。
しかしそうは問屋が卸さない。ただ一人、先頭のダイナファントムと対照的な一人の影が、小さな鹿毛のウマ娘が、違う脚で彼女を追い詰める。後方バ群からはっきり離脱しようとしているダイナファントムでも、そのウマ娘だけは逃す気はなかった。
ディープインパクトだ。他の全てのウマ娘より、そして当然にダイナファントムよりも速い上がりを使って、今先頭を捉えんと単独二番手から更に前へと詰めてきていた。それでも先頭ダイナファントムとの間は、未だ四バ身から五バ身ほど開いている。
残り二百メートル。
差はまだじりじりと詰まるが、けれども未だ三バ身ほど残っている。L2からL1で詰められたバ身差はせいぜいが一バ身半から二バ身といったところで、終盤のコーナー周りの攻防で思いの外脚を使わされているディープインパクトは、ダイナファントムよりもいい脚を使ってはいても、その姿を捉えるには至らない。
故に、ダイナファントムは勝つ。最大のライバルを下し、二冠をここで達成する。
――そう、誰もが思っていた。
ダイナファントムがそれに気が付いたのは、何故だったか。ディープインパクトの存在を常に後ろに感じて、その距離を測るために神経を使っていたからなのか。
酸欠に白む視覚、研ぎ澄まされていく世界への感覚、自らの他にはただ唯一意識する、斜め後方の小さくも大きな存在感ばかりが知覚の全てであったところで、何かが
そうとしか表現しようがなかった。思わずダイナファントムは横を向く。
その発生源は、右斜め後ろだった。つまり、ディープインパクトだった。彼女を中心に、何か強烈なイメージのようなものが、叩きつけられる。
世界が塗り替わる。視界が暗転した。レースを走っているはずなのに、足元で確かにターフを踏みしめているのに、ゴールまでの残りは精々十二秒ほどしかないはずなのに、そこに体感する時間が、無限とも思われるほどに引き伸ばされていく。
その中で、かのウマ娘は、ディープインパクトは、
幻覚か、錯覚か、或は何か他の心理的作用なのか。何も分からない。けれどもその瞬間に、ディープインパクトは
五感が、現世へと立ち返る。我に返って、ダイナファントムは自覚する。
自らのペースは落ちていない。いや、まだ少し加速の余地すらある。
それでも今、百メートルを切って、
――あり得ない。どこにそんな脚が。
しかしそれを考える間もなく、ダイナファントムは自らの体勢不利を自覚した。
故に何とか差し返すべく、抵抗すべく、彼女は懸命に足を動かす。根性の果てを絞り出し、ディープインパクトの猛威を凌ごうとする。
それでもその瞬間、決定的なまでの勢いの差で、ディープインパクトが一歩前に出た。
一完歩ずつ、少しずつ差が開く。ハナ差がアタマ差に、アタマ差がクビ差に、クビ差が、半バ身差に。
そして両者の間を隔てる距離が決定的になったそこで、レースは決着した。
ゴール板を先に越え、世代の頂点に上ったのは、ディープインパクトだった。
ダイナファントムが策を練り、手を尽くし、最後の最後、一ハロンまで優位に進めた勝負であっても、結果最後に演じられた猛烈なまでのたたき合いに、観衆が二人への賞賛を絶やさなくても。
それでも最後、彼女はディープインパクトに先着を許した。
それだけが、事実として残った。
レース結果:3回東京4日10R・東京優駿(GⅠ)(芝左2400・晴・良)
一着・ディープインパクト
二着・ダイナファントム 1/2身
三着・インティライミ 7身
上がり3F: 34.9 (12.0-11.6-11.3)
なお、ダイナファントム: 35.0 (12.0-11.6-11.4)
ディープインパクト: 33.5 (11.3-11.3-10.9)
レースタイム: 2:22.5R*3
レースラップ: 12.5-10.9-12.1-11.9-12.0-12.0-12.0-12.1-12.1-12.0-11.6-11.3