曰く、領域/それは誰かのためでなく
「トレーナー」
ダービーの終わり、二分二十二秒の激闘の
その日の勝者を称える歓声を背に、二人無言で戻る。
「福井トレーナー」
寒々しい灯りだけが照らす薄暗い道をただ進んで、小一時間ほど前に彼女を見送ったその場所に、控室に帰る。
横に並んで、声を交わすこともなく。
「私の、力不足でした」
そして戻った部屋の中、待っていたシーザリオをちらりとだけ見て、閉じられた扉を背に彼女は、ダイナファントムはぽつりぽつりと言葉を零した。
それはただひたすらに、自らのトレーナに、福井裕香に、向けられていた。
「甘かったです、ツメが。勝てると、思ってしまいました」
彼女は悔いていた。自らの不甲斐なさを愧じていた。
けれどそれはどこまでも、己のためではありはしなかった。
「励まされて、応援されて、期待されて。……でも私は、応えられなかった。裏切って、しまいました」
一つ、大きく呼吸の音がする。裕香の姿を正面に見据えて、身体をむけて――そしてダイナファントムは、まっすぐに腰を折った。
「――ごめんなさい、福井トレーナー。ダービートレーナー、お母上の代からの悲願であると、知っていたのに」
詫びていた。
彼女は詫びていたのだ。
「叶えられせんでした。それだって
けれどもそれは、福井裕香という一個人にとって、あまりに正視に堪えなかった。
きっと己はひどい顔をしているのだろうなと、そんなことを考える。そしてその横、シーザリオの方も、ダイナファントムのことを苦虫を噛み潰したような表情で見つめていた。
ダイナファントムは、顔を上げない。合わせる顔がないと、そんなことも考えているのか。
右手を、反射的に後ろ側に回す。そこに見える感情の発露を、裕香は誰にも見られたくなかった。
目を瞑る。滾り始めている激情を、胸に手すらも当てて抑えにかかる。十秒か二十秒か、それほどの時をかけて何とか胸の底にそれをしまい込んで、彼女は自らの唇を開いた。
「顔を上げて。……上げなさい」
びくりと、目の前の少女の肩が震える。思ったよりもはるかに冷たい声が、喉から吐き出されていた。
上げられた顔、視線は揺れて、そこには
――もう、自らを偽れはしない。裕香は、この現状の全てに、どうしようもなく腹が立って仕方がなかった。そんな態度でこちらを見るダイナファントムのことが、許せなかった。
それでもその彼女を見て心中に広がる苛立ちを、ともすればそちらへとぶつけてしまいそうになる自分のほうが、もっとずっと度し難かった。
彼女を前にして、そんな声しか出せない己が、本当に許せなかったのだ。
だから裕香はどうにか声音を引き上げる。努めて柔らかく、続きを口にした。
「今日のレースのことは、確かに残念だったけど、私は気にしてない」
息を呑む音がする。ダイナファントムは、その裕香の台詞を、どういう方向に理解しているのか。
ただ彼女は確信していた。今彼女に投げかけるべきは、解釈の余地など存在しない、ただの事実であるべきだった。含みなど一つとして、持つべきではないのだと。
「ディープインパクトは強かった。でも、あなただって弱くなかった。勝ち負けなんて誰にでもある。今日のあなたを、私は否定しない」
けど、とにかく、それよりも。
二つ三つと前置きを挟んで、裕香はダイナファントムの肩に手を置いた。
「これから、ウイニングライブだから。だからとにかく、切り替えること。……それと」
こくりと頷き、顔を上げてその先を待つダイナファントムに、裕香は何とか、声を絞り出す。
それはまさしく、覚悟だった。
「明日。終業後にトレーナー室に来て。
今こそ自分は、ダイナファントムに正面から向き合うべき時が来ているのだ。そうしなければならないのだ。
これからの彼女が、更に前へと進むために。自らがトレーナーとして、彼女と一つ上の階梯へと昇るために。
だからきっと、いつか必要になることだった。そしてそれが、今になったのだ。
裕香はこの瞬間に、ただそのことを己の心の中、強く強く定めた。
週明けの月曜日は、等しく誰にもやってくる。
トレセン学園は、そしてその外、日本の津々浦々もまた、昨日のダービーの話題で持ちきりだった。
――世紀の名レースだ。そう、誰もが評した。
皐月賞も、日本ダービーも。その二つどちらも、今までのトゥインクル・シリーズの歴史を全て覆してしまうほどに素晴らしい、意地と意地のぶつかり合いであったと。
ディープインパクトとダイナファントムの二人は、かのウマ娘たちは、まさに互いが互いのレベルを引き上げることのできる、近年でも稀にみるライバル関係であると。
故にそこに、昨日のレースでは二着に甘んじたダイナファントムの走りを貶そうとする者など、どこにもいはしなかった。
負けて猶、遥かに強し。今からシニア級との対戦が、楽しみであると。或は果ては海外でも、ディープインパクトとダイナファントム、両者が頂の座につくことをも、十二分に期待できると。
そんな根拠なき熱狂の余韻が、世の全てを覆っていた。
その午後、夕方の手前のことだ。ダイナファントムが、トレーナー室へとやってきた。
一人でという指示の通り、彼女は僚友たるシーザリオを、そこに伴ってはいなかった。当然にシーザリオのほうもその辺りの事情は慮っている。先んじでこの部屋に来るようなこともなかった。
正真正銘、この部屋には福井裕香とダイナファントム、ただ二人だけが存在していた。
「来たね」
控えめなノックに次いで現れた影を見て、裕香は作業机の前から立ち上がる。そして、いつものようにダイナファントムを、談話ブースへと誘った。
眼前に佇むダイナファントムは、それでも昨日よりは随分とマシな顔色をしている。どうやら今日、トレセン学園での一日の中で、彼女自身の評判というものを耳にする機会はいくらかあったらしい。
結構なことだ。何の含みもなく、裕香はそう考えていた。
手にはラップトップを持つ。そしてテーブルに置く。しかし今日それを使うのは、ダイナファントムとしっかり
斜向かいに互いの姿を認め、そして裕香が先陣を切って、口を開く。
「まずは、だけど。これだけはどうしても言っておきたくて」
それは、ダイナファントムとの間で絶対にはっきりさせておくべきことだった。
「なん、でしょうか」
居住まいを正し、傾聴の姿勢を見せる彼女に、裕香はあの日の感情の昂りを思い起こした。
つまり、ダイナファントムが裕香に向かって詫びた時のことだ。
沸々とわいて出る憤りを、漉き濾していく。その奥底に眠る純粋なる思いというものを彼女は拾い上げて、そしてぶつけた。
「ダイナファントム。敢えて言うよ。……私の夢を、勝手に背負わないで」
それは、そんな言葉になった。
正面に座る少女は、何も答えない。反応をも示しはしなかった。
なるほど、ここで下手な反応を示さない辺り、躾が行き届いている。流石はシャダイの娘だ。裕香はそう内心で考えた。
「確かに、ダービー制覇は私の夢だ。うちの母が七回挑んで、どうしても実現できなかったことでもある。それはそうだよ」
だけどね。言って、彼女は身を乗り出す。こればかりは強く、伝えなければならなかった。
「だからと言ってそれを、自分の担当に押し付けようなんて、私は思わない。これまでも、これからもだ」
じっとこちらを見るダイナファントムの瞳を、まっすぐに見た。
その向こう、それでも微かに、瞳が揺れているのを見て取った。
「……いや、いいんだ。私の夢を背負っても。それを叶えてくれるのも。皐月賞を私に持ってきてくれたことは、はっきり言ってとっても嬉しかった。あなたがそうしようとする態度は、私は否定しない。絶対に。だけど」
息を吸い込む。腕を伸ばして、右手を彼女の左肩に、静かに置いた。
「それが叶えられなかったことで自分を責めようってなら、初めから私の夢なんて背負わないでくれた方が、ずっとましだ。だってそれは、私の責任なのに。勝手に持って行こうなんて、そんなのはおかしいでしょ」
半ば説き伏せるように問いかける。彼女は、言葉を発さない。
いや、正確には何か、言おうとしていた。膝に置かれた右手がもぞもぞと動く。そして息を吸い込む音も、裕香には何度か聞こえていた。
それでも、何も言わない。つまり、言葉が出ないのだ。裕香はそこに、ダイナファントムの内心を慮った。
――ダイナファントムは、夢を背負って走るウマ娘だ。
いつか思ったその事実が、リフレインする。
「……でも、そうか。それが、あなたがレースを走る理由なのか」
小さく、目の前の彼女が頷いた。
その態度が、何よりの答えであった。
つまり彼女は今、逆に言えばそれ
それ以外に、ダイナファントムは自らのことをトゥインクル・シリーズを走るウマ娘として定義する理由を、持てていないのだ。
裕香はダイナファントムから手を離す。そして、背もたれに深く腰掛けた。嘆息が、ため息が、口からは漏れ出ていた。
それは、ある意味では歪みであるのだろう。そう裕香は直観する。
ダイナファントムの生育環境は、恵まれたものだ。彼女の両親は、確かに彼女に対して惜しみない愛を注いでいるのだろう。それは彼女の普段の態度からもよくわかる。
しかしそれは、必ずしもレースにおける在り方の如何には関わらない。
なぜなら彼女は、シャダイの娘であるから。そうあれかしと自らを、強く律しているから。
そしてそれが、彼女の今の「可能性」をも狭めてしまっているのなら。「限界値」を不当に低く定めてしまっているのなら。
それを取り除くのは、まさしく自らの、トレーナーとしての福井裕香の役目に相違ない。何となればそのために、私はいるのだから。
ぴしゃり。乾いた音がする。肩を震わせて、ダイナファントムが音の主を、裕香のことを見た。
そこで彼女は、自らの頬を両手で叩いたのだ。言うまでもなくそれは、己に気合を入れるための、謂わば気付けであった。
よし。そう小さく声すらも発して、彼女は改めてダイナファントムに語りかけた。
「なるほど、分かった。なら、単刀直入にいこう」
そして今一度大きく息を吸って、そして端的に一つの事実を、ダイナファントムに伝える。
「あなた、今のままだと、
まさしくそれは爆弾発言だった。
裕香の向かいで、ダイナファントムがはっきりと大きく目を見開いた。
唇が震える。そして、小さく開けられた。
「……どういう、ことですか」
そこから問われたそれに、裕香は内心でガッツポーズをとる。
――かかった。
まさしくそれは、突破口に相違なかった。彼女は今一度身を乗り出して、そして手元のラップトップを開く。
そして、自らの真意のほどを、ダイナファントムへと説き始めた。
――これから、ディープインパクトに勝てなくなる。永遠に。
その言葉は、ダイナファントムにとって到底受け入れがたいものだった。何よりもそれが、自らのトレーナーから放たれたと言うことが、あまりに信じがたかった。
それでも、彼女は理解する。それをトレーナーが、福井トレーナーが自らに伝えたのならば、そこには必ず根拠が、理由というものがあるのだと。
だからダイナファントムは、訊ねた。「どういうことですか」、と。
それに、福井トレーナーは応じる。彼女が開いたラップトップは、その中にダービーの映像を映し出していた。
つまりは、敗因分析か。そう考えたダイナファントムだったが、しかし目の前、トレーナーからはそれとは少し違う言葉が降りてきた。
「あのね、ダイナファントム。まずはこれを、見てほしい」
福井トレーナーが、その画面に映されていた動画を、再生する。それはダービーではあっても本当に最後の攻防、直線二百メートルからの映像だった。
真横からの画角、左から右に流れていく先頭の二人のウマ娘、つまりダイナファントムとディープインパクトだが、この間には二百メートル時点で二バ身から二バ身半の距離が空いている。
片方がバテているならまだしも、両者の脚色は共に衰えていない。前の一ハロンでディープインパクトが詰めた距離が精々一バ身と少しなことを考えれば、やはりこの時点においてはどう考えても自らが勝利するはずであったと、ダイナファントムはそのときの記憶を呼び起こす。
しかしその直後のことだ。ディープインパクトが、
それはまるで滑るような走りだった。足が動いているはずなのに、上体は一切ブレることがない。まるで前進するための脚の回転運動を、そのまま横のベクトルに全て変換していると錯覚するほどの挙動だった。そしてあっという間に彼女は加速する。異常としか評価しようのない末脚の爆発によって、瞬く間に先頭を、ダイナファントムを捉えた。
そのあとの展開は、ダイナファントムの知っている通りだ。故にそこで、映像が止まる。
「走法が、変わってる……」
ダイナファントムは、呆然と呟く。まさか、これこそがディープインパクトの持っている「第二のギア」だと、そう言うことなのか。
しかし福井トレーナーは、彼女の言に首を振った。
「まあ、確かにそうなんだけど。でも注目すべきはそこじゃないんだよ」
そしてそこで、また別のファイルをディスプレイに映し出した。
そこにあったのは、ダービーのレースラップやペース、各ウマ娘のトラッキングシステムからの情報である*1。その中、福井トレーナーはディープインパクトに関するラップ情報の場所に、その指を置いた。
具体的には、ラストの三ハロンだ。
「これを見て」
ダイナファントムもそちらへと目を向ける。そこにあったのは、まさに到底信じることのできない数字であった。
――11.3-11.3-10.9。
「三ハロン合計で三十三秒五、というだけなら、まあ速いけれど、普通の数字だ。でもね」
画面の上に置かれている指が、一つだけ左にずらされる。
「これの一個前のラップは、
それを聞いて、目の前に座る自らのトレーナーが何を言いたいのか、ダイナファントムは薄々理解した。
「だけど、こんなことは
そこで福井トレーナーは顔を上げる。画面を見るダイナファントムの方を、じっと見つめた。
目線を向けられたことを理解して、ダイナファントムもそちらの方を見る。
そこで、彼女は問うた。
「ねえ、ダイナファントム。あの時、あの最後の一ハロン、
「それは……」
それを聞いて、ダイナファントムは思い出した。あの最後の十秒と少し、あの一ハロンの中、彼女が目にしたイメージのことを。
その反応だけで、福井トレーナーにとっては充分であったらしい。一つ、二つ、頷いて、そして言葉がやってきた。
「見たんだね。何かを」
確信を下敷きにした台詞だった。故にきっと彼女は、トレーナーは、あの時己の目にしたものの正体を知っているのだ。
ならばダイナファントムとて、それを秘している理由などありはしなかった。
言葉を選んで、口を開いた。
「……翼が、生えていました」
「翼が?」
「はい。あいつに、ディープに。それで、目の前が輝いて、羽が散って、飛び立って……」
どう考えても、それ以外に表現のしようがなかった。
ターフの上、酸欠が見せた幻視にしか思えずとも、それにしては、あまりに鮮明とし過ぎていたのだから。
「それで、気が付いたら、並ばれていた、と」
「……はい」
福井トレーナーは、二度ほど頷く。なるほど、そう言って、一度ラップトップを閉じた。
向き直る。目線が合う。そして重々しく、口が開かれた。
「私はね。もしかしたらあなたなら、家の人から聞いていたこともあるんじゃないかと、思ってたんだけど」
何のことだろうか。ダイナファントムが訝しむ目つきをしたのを見て、トレーナーは少しその表情を崩す。
「……なるほどね、
小さな咳払いを聞く。それで以て一度言葉を区切った彼女は、居住まいを正した。
「あなたたちウマ娘は……いや、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘は、明らかに何かどこかの『思い』を宿してる。それは、知っているよね」
「……はい」
語りだしは、そんなところだった。
神妙に頷くダイナファントムを見て、トレーナーもまたよろしいとばかりに頷き返す。
「そしてそれは、恐らくは『名前』に含まれているんだ。あなたたちが三女神から授かった名前に。あなたの名前にも、『ダイナファントム』という名前にも、明らかに一つの方向性を帯びた『思念』のようなものが、織り込まれている」
それはともすればオカルト話の類であるのかもしれない。けれども、それはトレーナーたちの間で、そしてウマ娘の生物学的研究の中で、かねてより大真面目に唱えられている話だった。
そうでなければ説明のつかないことが、ウマ娘にはあまりに多いからであった。
「それを『魂』という人もいる。私は、正直あまり信じてはいないんだけど……けど、あなたたちはその『思い』に、ある程度の束縛を受けている。良くも、悪くもね」
一度話が途切れる。ここまでが、前提だった。
いまいち話の流れが読めないと少し首を傾げたダイナファントムに、福井トレーナーが身を一つ、乗り出した。
「『思い』、『名前』、『魂』……なんでもいいけれども、でもあなたたちは現役生活の中で、ずっとそれと向き合い続けている。無意識のうちに。そしてたまに、それを『理解』するウマ娘が出てくるんだ。『同調』、と言ってもいいかもしれない」
「同調……」
「そう、同調」
少しずつ、話が核心へと近づいていく。彼女の口ぶりが、熱を帯び始めた。
「自分に課された『思い』を、自分の中から湧き出てくる思いと重ねる。いや、重なる、というのが正しいのかな。とにかく、それができるウマ娘というのが、時折出てくるんだよ」
それは日常のふとした出来事がきっかけだったりもするし、トレーニングの最中のことであったりもする。
「けれどもそれが一番発現しやすいのは、
興味を惹かれた目の色で話に聞き入るダイナファントムの姿を認めて、そしてとうとう福井トレーナーは、話すべき本題へと切り込んだ。
「それで、それを実現できたウマ娘は、
「ああ、なる」
「そう。……あなたも見たんでしょ」
「……つまり、羽が生えると?」
福井トレーナーは、小さく笑う。
「まあ、そればかりじゃないけど。でも、まあそういうこと」
体を起こし、膝に軽く握った手をおいて、息を吸う。そして、告げた。
「あの現象は、色々な人が好き勝手に名前を付けてるんだ。『深化現象』、『同調現象』、『共鳴現象』。どれが正しい呼び名かも、まだ決まってない。……だけどあれを体験した子は、大体みんな言うんだよね」
――領域に至った、と。
領域。それをポツリと復唱したダイナファントムは、視線を手元に落として、そして目を瞑った。恐らくはあのとき己の「見た」ことを、頭の中に思い描いているのだろう。
「そして特に深くそこに
目を瞑ったままずっと聞いていたダイナファントムが、そこで確かめるように口にする。
「つまりあいつは、ディープインパクトは、至ったわけですか。その……領域に」
福井トレーナーは、まっすぐに頷いた。
「そういうことになるね。クラシック、ダービーでそんなところまで至るなんて、ちょっと考えづらいんだけど、まあ」
軽く頭の上に手を当てて、彼女は上の方へと目をやる。
確かに驚くべきことだからだ。奈瀬トレーナーの指導の賜物だから、という話は少なからずあるかもしれないが、ただそれ以上にそれはきっと、ディープインパクトというあのウマ娘の持てる資質が、そしてその
「でも兎も角、あの子が、ディープインパクトが領域に至ったのは事実なんだ。それで、なんだけど」
仕切り直すように、彼女は話題を引き戻す。
「さっきも言ったと思うけど、ウマ娘はなにがしかの『思い』を内包している。それと自分の中にある思いを重ね合わせられないと、そこへは絶対に至れない……で」
小指を一つ立てる。
「つまりそれって、自分の中に何か軸がないと、思いがないと、ダメなんだよ。それを見つけて、それをぶつけて、それで初めて『たどり着く』んだ」
いつの間にか目を開けてこちらを見ていたダイナファントムに、掌を向けた。
「ダイナファントム。あなたの中に、それはある?」
そして、問いを投げかけた。
しかし、それはほぼ同時にある種の断定でもあった。
――ないでしょ、あなた。
福井トレーナーは、言外にそれを伝えようとしていた。
「それは……」
ダイナファントムは口ごもる。そして同時に、彼女は察した。
だからこそか、と。この話の始めに福井トレーナーが言ったのは、そういうことなのかと。
今の自分は、自分自身で持っている、持つべき、そんな思いがない。
誰かの思いを、夢を借りて、それを背負って、そればかりを叶えるために走っている。
「誰かのために走る」。それは響きとしては美しいものかもしれない。けれども、ターフの上にベットする思念すらも外部化したままの今のダイナファントムは、
故に、それではいけない。それ
それを、ダイナファントムは理解した。
けれども、それは頭で、理屈で分かっただけだ。
だからと言ってすぐに、己の中に持つべき何かを見繕うことなど、できようはずもなかった。
「まあ、そうなるよね。分かってるよ、それは」
そしてそれは当然に、トレーナーたる福井裕香も理解していた。
故に彼女は、今一度ラップトップを開く。スリープから復帰したそれを少しだけ操作して、その末に一つのドキュメントを、画面の上に描画した。
「だから……」
そのままそれをダイナファントムの方に向ける。彼女は突然に示されたその画面に視線を吸い寄せられて、斯くて柘榴の双眸が、そこに記されている文章を読み取った。
一つの申請書だった。その表題に大書されているのは、たった五文字の漢字である。
即ち――「
「あなたには、これからそれを探してもらおうと思う。次にディープインパクトに会う、秋か冬までの間にね」
手に持つラップトップの向こう側、福井トレーナーはそう言って、朗らかな笑みを浮かべた。
色んなウマ娘二次で扱われていて、それぞれが解釈を提示している領域(あるいは固有スキル)関連の描写ですが、拙作はこのような設定で行きます。
あと、劇中でトレーナーが「4Fスパートしてるのに3F11.3-11.3-10.9はありえねーわ」と言っていますが、ディープインパクトは4歳春天で「5Fスパートで終い3F33.5」を出してます。
あの春天は狂気でしかない。レコードこそキタサンに抜かれましたが、日本の競馬史でもぶっちぎりでイカれたレースだと思います。
まあもっとも今回は、11.3-11.3で平行ラップで脚上がってそうなのにラスト1Fだけ10.9はおかしい、という意味合いでもありますが。
そして、実質ここまでがプロローグです。
ダイナファントムの物語は、ここからがスタートのようなものでしょう。