双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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ふるさとは遠きにありて/「熾火」

 ダイナファントムが福井トレーナーから、一つの書類と共に衝撃的な一言を告げられた、その僅か一週間後のこと。

 チーム《ポルックス》の面々は、まさにその書類の示す通りの場所にいた。すなわち、日本という国の外である。

 

 具体的に言えば、()()()()だ。アメリカもカリフォルニア州、ロサンゼルスに、彼女たちの姿はあった。

 

 

 

 当然のことだが、物見遊山のためでなどありはしない。現役ウマ娘の彼女たちが異国の地を踏むというのは、当然にその場所に用事があるからに他ならないのだ。

 つまりそれは、レースであった。

 

 

 

 時は二週間前に戻る。ダービーのあと、福井トレーナーがダイナファントムにサプライズ気味に一つの書類(海外渡航届)を見せた次の日のことだ。

 トレーナー室の中、もはや恒例となったトレーナー一人にウマ娘二人の三人でのミーティングで、その話題は出てきた。

 というより、その日彼女たちがトレーナー室に集まったのは、寧ろその話をするためであった。

 

「シーザリオ。前言ってた話だけど」

 

 そんな前置きから、福井トレーナーは本当に何気なく、そのことについて切り出した。シーザリオに視線を向けて、テーブルの上にある紙の書類を指さして示す。

 

「あなたの()()()()()()()、考えたから。これね」

 

 驚愕の色を示したのがダイナファントムで、こともなげに頷いたのがシーザリオである。つまりシーザリオの方は自らの予定についてそれまでにある程度の計画というものを持っていたことを意味している。

 隣に座る「相方」の様子を傍目で見ていたか、彼女はそちらへと目を向ける。そして、頭を下げた。

 

「ごめんなさいね、隠していて。ファンさんのダービーが終わったら、言おうと思っていたのだけれど」

 

 それを聞いて、ダイナファントムは思い出した。

 二か月は前のことだ。桜花賞の始まる前、たしか自分が弥生賞でディープインパクトに負けた直後ぐらいに、これから先のことについてシーザリオに訊ねたはずで、彼女はその時そんな風なことを確かに言っていたな、と。

 なるほど、察するべきことはあったというわけだ。口の端に苦笑いを浮かべる。

 

「……それが、これだって?」

「ええ、そうよ。前も言ったけれども」

 

 ――もっといろんなところで輝きたい。もっとたくさんの人の前で、走りたい。

 唱和したその言葉を聞いて、シーザリオは微笑む。

 

「あら、覚えていてくれたのね」

「まあ、それはね」

 

 小さく笑い合って、二人示し合わせたように福井トレーナーの方へと視線を戻した。

 ほほえましげにそのやり取りを見ていた彼女が、自らに目線が集中したことを悟って、一つ咳払いをする。

 

「まあ、そういうこと。で、まあ実際に見てもらった方が早いんだけど……」

 

 そう言ってテーブルに置いてある書類をくるりと返し、ダイナファントムとシーザリオの二人めがけて差し出す。

 そこ書かれていたのは、これから彼女が向かうべき国と、そして目標とするレースの名前であった。

 

 乗り込むべき国の名前は、「US(アメリカ)」。

 レース場は、「Hollywood Park, CA(カリフォルニア州、ハリウッドパーク)」。

 そして彼女が臨むレースの名称は、「American Oaks Invitational Stakes(アメリカンオークス招待S)」である、と。

 

 

 

 つまり今回のアメリカ「遠征」の主役はシーザリオで、そしてダイナファントムはそれへの帯同である。現地でのトレーニングを進めるに当たっての併せの役割を、彼女は期待されていた。

 しかし、無論それだけではない。

 その時の集まりの最後、福井トレーナーはダイナファントムに向けて、一つの示唆を与えていた。

 

 ――あの場所で、アメリカで、シーザリオが走るところをすぐ近くで見るのは、あなたにとっても絶対に、無駄じゃないはずだから。

 

 彼女の言わんとするところを、ダイナファントムはある程度察してはいた。つまりそれは、ダービーの翌日に話したことと地続きだ。

 自らがレースを走る理由を、自らの中に探す。そのために今回の遠征を利用しろと、そう己のトレーナーは言っているのだ。

 そのことについては、よく理解していた。それでもダイナファントムは、未だそれへの当事者意識とでもいうべきものを、持てていなかった。

 故に今このアメリカの地においてダイナファントムが考えているのは、どこまでもシーザリオの成功を祈る気持ちと、そしてそれを後押しするのだという義務感、ただそれだけしか存在していなかった。

 

 

 

 シーザリオの現地でのトレーニングは、アメリカ入りの二日後、つまり六月第二週の水曜日から始まった。

 

 アメリカのウマ娘育成は、一つの中央教育機関によってなされるものではない。これはアメリカ合衆国という国が、所謂「自由の国」であることによる。独立独歩の気風が強い国民性が原因だ、と言い換えてもいいかもしれない。

 例えば日本の場合、URAという組織は基本的には()()()()()の外郭団体であり*1、したがってそれは公的機関に連なるものである。

 しかしアメリカは違う。そもそもの成り立ちがウマ娘の野良レースと、その場を貸し出して支援する地主との緩いつながりから出発しているかの国のウマ娘レースの歴史は、基本的にはレースの場、文字通りレース場を用意している民間の企業ないし地主が主体となって、レース体系の整備や育成機関の設立、運営を行っている。乱暴な言い方をすれば、日本のウマ娘レースの教育機関は公立の学校しか存在しないが、逆にアメリカには私立しかない、ということだ。

 

 ちなみに、かねてよりアメリカのウマ娘レース業界と関係の深いシャダイ一族が、自らの資金で以て外厩設備を作ってウマ娘の事前育成を事業化することを考えたのも、実のところこのアメリカの「民間育成」というアプローチに着想を得たところは大きい。民間の事業者が切磋琢磨の中でトレーニング施設の改善やメソッドの改良に取り組み、それが結果として国のウマ娘育成そのもののレベルの底上げにつながるというあり方を、シャダイ一族は好ましいものとして捉えたのである。

 ただ結果として日本においてそのアプローチは十分に根付いたとはいいがたかった。彼らの外厩設備というのは専らトレセン学園の育成カリキュラムの補助的役割を担うようになって久しく、それはある種日本独自のウマ娘育成のメソッドとして定着しつつあるともいえるだろう。しかしそれでも、そのやり方で日本のウマ娘の実力は確かに向上しているのだから、シャダイレーシングクラブの企業努力というのも決して無駄にはなっていないというのは、また一つの事実であった。

 

 

 

 やや、話が逸れただろうか。兎も角そういうわけで、シーザリオはアメリカ滞在中、どこかアメリカで運営されている「トレセン学園」様の教育機関に預けられるというわけではない。今回のレースを主宰する「ハリウッドパークレース場」の設備を間借りする形で、彼女のトレーニングは進められることになっていた。

 

 平日、レースもなく少数のウマ娘レース関係者の姿がまばらに見えるばかりのレース場の中、ダイナファントムとシーザリオはただ二人、芝コースを併せで走っている。

 当然、互いの顔つきは真剣そのものだ。ダイナファントムが五バ身ほど前を走るのを、シーザリオが置いて行かれぬようにと追走する。

 

「前半千、六十一秒二! ちょっとペース遅いぞー!」

 

 それをストップウォッチ片手に見ながら、福井トレーナーがペース展開について拡声器で呼びかけた。

 見ているのはシーザリオのペースについてである。ダイナファントムはその五バ身前、つまりコンマ八秒ほど速く走っているが、それでも彼女としては緩いペースであった。

 無論追い切る前の調整だからあまり全力で駆ける意味もないというのは確かなのであるが、ただ「遅い」と言われてしまえば、逆らいたくなるのがウマ娘というものである。

 

 ダイナファントムがペースを上げる。六バ身、七バ身と差が開く。シーザリオは何とかそれを詰めて、五バ身を保とうと努力しているようだが、しかし完全に追走に手いっぱいで、それ以上ペースを上げることは厳しそうであった。

 最終的に残り三ハロンから更に突き放しにかかったダイナファントムにシーザリオは全くついていくことができず、ゴール板を通過するころには、凡そ二十バ身近い差がそこには生まれてしまっていた。

 

 

 

「ダイナファントムの方が、一分五十八秒八。で、シーザリオが……二分二秒七、か」

 

 アメリカ到着後の初時計ということで、全力とは言えずともそこそこ気合を入れて走ったその後、二人切れていた息を回復させながら、福井トレーナーの声に耳を傾ける。

 

「ダイナファントムのほうは、いつものことだけど流石だね。適応も速い。本当にあなたは、バ場も条件も不問だよ。惚れ惚れするぐらい」

 

 そう言って二度三度と頷くが、その顔にはあまり喜色というものはなかった。

 しかしそれは当然だろう。何となればこれからアメリカンオークスを走るのは、ダイナファントムの方ではないのだから。

 

「まあ、シーザリオも初時計だったら十分と言えはするんだろうけど……」

 

 ストップウォッチとにらめっこをしながら、福井トレーナーが続ける。

 それを見るシーザリオの方も、表情は険しい。もう息は整ってきてはいるものの、何にせよ自らの出したタイムというものに、全く納得は出来ていない様子だった。

 

「でも、仕方ないと思いますよ。私は兎も角、ザリオはちょっと『ガレ』ちゃってましたから」

 

 二人の間、助け舟を出すようにダイナファントムは口を挟む。

 

 ――ガレる。つまりアメリカに着いて、そしてバッファとした昨日の一日の時点で、シーザリオははっきりと体重を落としてしまっていた。具体的に言えば、二キロは軽く痩せてしまっていたのだ。

 これには、ウマ娘特有の事情というものが作用していた。

 

 ダイナファントムにしても当然そうであるが、ウマ娘はホモ・サピエンス(現生人類)と同じく二足歩行で動き、ほぼ同じ身体的特徴を有する。染色体上の遺伝情報も殆ど一致していて、故に現生人類との「交雑」が可能な種族でもある。こういう表現の仕方は些か生々しいが、とにかくそれが生物的な特徴だ。

 しかし同時にウマ娘というのは、「走る」ことが領分の生物でもある。地に足をつけて、それを踏みしめて駆けていく。そういうあり方というのは、すべてのウマ娘にとっての根源的な心象風景であり、ある種本能でもあるわけだ。

 だからこそ逆に、「その足が地についていない」状況には、非常にストレスを感じる種族でもあった。

 

 またこれと同種の、或は類似した種族的特徴として挙げられるのが、「狭いところが苦手」という性質である。狭いところ、というよりは、身動きが取れないところが苦手、と言った方が正しいかもしれない。

 兎も角ウマ娘の中に少なくない数の「ゲート嫌い」がいるのは、つまりそこに原因があるわけだ。ちなみに同じ理由で、ウマ娘は満員電車を嫌う傾向があるとも言われている。

 

 「それの何が問題なのか」と言われれば、一言で言い表せる。

 つまり、国外遠征のために用いる移動手段であるところの「飛行機」というものは、ウマ娘にとってはいかなる意味においても()()であるのだ。

 

 大地は遥か一万メートル下にあり、足で踏みしめることなど到底できない。

 そして内側から決して開けることのできない閉じられた空間で、ずっと過ごすよりほかにない。逃げ場など、当然どこにもない。

 

 これでパニックになるなという方が難しい。そうでなくても、その環境というのはウマ娘に対して多大な、いや甚大な心理的負荷をかける。

 結果、飛行機から降りたウマ娘の内かなりの者は、心身ともに弱ってしまって、体重の低下や食欲の減退を引き起こす。そうなると、もはや現地でのトレーニングどころではなくなってしまう。

 この現象のことをウマ娘レース業界においては一般に、「輸送ガレ」と呼んでいた。

 

 

 

「まあ、確かに。コンディションがちょっと戻り切ってないかな、シーザリオ。どう?」

 

 福井トレーナーにそう問われたシーザリオは、少し悩むような素振りを見せた。

 どう答えようかと、迷っているのだろうか。暫く黙って考え込んだのちに、彼女は一つ、首を縦に振った。

 

「……確かに、それも理由としてはあるのでしょうね。まさか本格化して、こんなことになるとは……」

 

 ――もっと子供のころは、何度も海外に行っておりましたのに。シーザリオが零す。

 これもまた、ウマ娘の不思議な生態だろう。つまりウマ娘の「飛行機嫌い」、あるいは「閉所・高所恐怖症」は、本格化を迎えてから発現することが多いと言われているのである。

 逆にそうではないウマ娘、例えば三女神から名前を授からなかったウマ娘や、或は幼少のウマ娘は、そうした環境に対してそこまでの強い恐怖感を持たない。というより、普通の人類とほぼ変わることはない。その一方で、「子供のころは大丈夫だった飛行機が、トレセン学園に入ってから急に無理になった」と証言するウマ娘は数多くいるのも、この傾向を裏付けるものであるだろう。

 そしてシーザリオもまた、そのタイプのウマ娘であった。実際彼女は飛行機の中、どうにも気丈に振る舞っているようではあったものの、しかしその顔色というのは明らかに悪かったのである。

 

「まあでも、ウマ娘の飛行機嫌いは慣れの問題もあるから。何度かやったら、多分慣れる、はず」

「そう、だといいのですが」

 

 福井トレーナーのフォローに曖昧な調子で答えて、しかしそうではないのだと、シーザリオは首を振る。

 

「いえ、そうではなくて。確かにその影響はあるのかもしれませんが、ですけどやはり思った通りに足が動かないのは、確かですから」

 

 そう言って、不満げな表情を崩さない。つまり彼女は現状の自らの走りに、まるで納得していなかった。

 ただ、それもまた仕方がないことだろうと、福井トレーナーはさらなるフォローを重ねる。

 

「それも、慣れだよ。やっぱり環境が変わっても走りのクオリティがずっと変わらないなんて、まずない。()()()が例外なだけでさ」

 

 「そこの」呼ばわりされたダイナファントムが、思わず苦笑する。しかし実際、それは事実であった。

 

 日本のウマ娘が遠征をするとき、まず最初にぶち当たる困難というのが、この海外の芝と日本の芝との差異であり、それに対する戸惑いであるという。

 つまり野芝、或は高麗芝主体*2の日本と、ライグラスやブルーグラスをはじめとする西洋芝を主な組成とする欧米のレーストラックは、どうしても足でコースを踏みしめるときの感触に大きな差が出るのだ。

 

 一応、このカリフォルニアというアメリカの中でも南に位置する一帯におけるレース場は、それでも日本のものと植生が近いタイプの芝をレース場に植えていた。つまりバミューダグラスを始めとする、所謂「暖地型芝」と呼ばれるものである。それは福井トレーナーがシーザリオの海外遠征の場としてこのレースを選んだ理由の一つにもなっていた。

 が、やはり違うものは違うのである。もっと言えば、芝の植生が似通っているにしろ、その下の土壌の組成が日本とアメリカで違うことによる差異というのは、決して小さくない。

 そしてその違いは、二分、二千メートルという距離においては、これほどまでに大きなタイムの差となって表れるのだ。そのことを、シーザリオにせよ福井トレーナーにせよ、いまこの時においてまざまざと見せつけられていた。

 

「まあ、地道にやっていくしかないね。だから三週間も前に現地入りしたんだ、これから頑張っていこう」

 

 福井トレーナーがそうやって、今回の初時計についての総評を述べる。

 それにウマ娘二人が頷いて、そこからシーザリオの、アメリカでのトレーニングは本格的に始まることになった。

 

 

 

 レース当日まで三週間あるとは言え、実質的には彼女に残されている時間は二週間ぐらいである。一週前追い切りまでにはベストコンディションを整えなければ、シーザリオは万全の状態でアメリカンオークスに臨めない。

 それを自覚しているシーザリオ自身も、トレーニングにおいては自らを強く追い込んでいた。

 

 いつものようにダートやポリトラック、ウッドチップベースの追いではなく、ひたすらに芝コース周回でフォームを矯正していく。

 自らが慣れ親しんだ芝の感触とはまるで違う路面を走るというのは、感覚としては「外国語の習得」に近いものがある。こういう喩え方はあまりトレーナーたちにはピンとこないようだが、しかしウマ娘同士の主観においてはそれがぴったりした対比であった。

 だからこそそれを二週間そこらの突貫で仕上げると言うことの難しさが、浮き彫りになる。

 

「ファンさん……もう一回、お願い、できるかしら」

 

 明けて月曜日、土日がレースで使えないためにこれでトレーニングを始めて三日目と言うことになるが、シーザリオはダイナファントムとの併せを依然ひたすらに続けていた。

 時間も午後三時と、休憩を適度には挟んではいるものの、練習を始めてから既に七時間ほどが経っている。

 それほどの時を、彼女はひたすらにトレーニングに費やしていた。

 

 それにつき合うダイナファントムも、少なくない体力を使っている。しかし――客観的には――持ち前のセンスでアメリカの芝路面に一瞬で適応したダイナファントムと、その適応に苦労を重ねているシーザリオでは、消費する体力はあまりにも違う。

 今ダイナファントムの前で大きく肩で息をするシーザリオの在り方は、まさにそういう「二人の差」ともいうべきものを如実に示していた。

 

「いいけど……でも、あまり根を詰めるのもどうかと思うよ。私たちの脚は、消耗品なんだから」

 

 そうでしょう、と福井トレーナーを見る。バ場の内側の方から二人の様子を窺っていた彼女は、しばしの間首を傾けて、その末にそちらへと近づいてきた。

 

「ちょっと触診させて」

 

 そう言ってシーザリオの方へと近づき、トモからふくらはぎにかけてを一通り触る。

 

「まあ……でも熱も、震えもあまりない、か。結構走り込んだけど、一応まだ余裕はありそうだね」

 

 そうやってシーザリオの脚の調子を確かめて、立ち上がりつつ福井トレーナーは双方に向かって伝えた。

 

「先週はこれぐらい走ったらもう大分限界だったけど、ある程度適応できてるのかな。タイムは……まあ、多少ぐらいだけど、縮まってるし」

 

 そう言って、ストップウォッチを見せる。

 そこに表示されているタイムを見たシーザリオは、すぐにダイナファントムの方を向いた。

 

「なら、もう二セット、六ハロンでやらせてもらえないかしら、ファンさん」

「まあ、私は別にいいけど……」

 

 言いつつも、二人でスタート地点へと歩いていく。

 福井トレーナーがそれを見てまた観測のための位置に戻っていくのを目の端に捉えて、ダイナファントムはシーザリオへと問いかけた。

 

「でも、ちょっと頑張りすぎじゃないかな、って思うんだよね。もう少し、ペースを落としてもいいと思うんだけど」

 

 それは無論、シーザリオの将来を見据えての言葉だった。

 慣れない路面で、脚を短期間に酷使し続けると言うことそれ自体が、ウマ娘のキャリアにとってプラスの方向に働くとは、あまり思っていなかった。

 それもまた、シャダイの価値観に基づいた考えであったのだろう。

 「ウマ娘が長く現役を送るために、どういう負荷のかけ方が望ましいのか」。それはトレーナーの領分に片足を突っ込んだ考え方ではあったのかもしれないが、しかしそれでも彼女は、それを常に念頭に置いたトレーニングを自らに心がけていた。それもまた、「シャダイの娘」としての、きっと矜持であった。

 

 しかしシーザリオは、首を振る。

 

「いいえ。そういうわけにはいかないわ。だって」

 

 そこまで言って、立ち止まる。助走距離を含めた七ハロン目を示すハロン棒の辺り、つまりスタート地点に立って、シーザリオはダイナファントムに振り返った。

 

「これは、私の夢なんですもの。私が望んで、トレーナーに立たせてもらった、私の舞台なんですもの。……妥協なんて、できるはずもないでしょう」

 

 強い眼差しが、ダイナファントムを射る。

 

「夢……」

 

 それを正面に受けて、彼女は思わずそう呟いていた。

 

 夢である。望んだ舞台である。つまりそれは、シーザリオというウマ娘個人の、悪し様に言えばエゴイズムからくる意思の発露だ。

 即ち、ダイナファントムが今は持ち得ぬものであった。

 

 「シャダイの娘」たる自分が、言う。

 それは、ノイズだ。「ダイナファントム」というキャリアを完遂するにあって、それは必ず「予定外」を生む。過剰な労力、努力が必ずしも実を結ぶとは限らず、却って現役期間を縮めることすらも、ありうるだろうと。

 それを、自らが真似しても、得るものはあまり多くはないのではないか。そう、内なる自分が囁いた。

 

 しかし同時、また別の自分が、一つの強い情感を齎した。

 ――眩しい。今のシーザリオは、どこまでも眩しい。

 自らの夢を成就するために、その場を用意してくれたトレーナーに、そして自分のことでもないのに合わせに付き合っている僚友に、ダイナファントムに酬いるために、どれほどの努力をも惜しまない。

 将来(さき)のことなど考えない。ただ、輝ける現在(いま)を生きる。そしてその先にひときわ強く輝く己の「望み」に、何としても手を届かせようとしている。

 

 その在りようは、強い生の煌めきとでもいうべきものを放っていた。

 彼女の意思は燃え上がるほどに熱く、その心の杯は自らの希望と活力で満たされ、潤っている。

 

 それを、()()()()とすら、一瞬思った。思ってしまった。

 

 そんな己の心の向きを自覚したところで、シーザリオが併せの開始をジェスチャーで以て促してくる。

 応じるように同じスタートラインに立って、そしてそれから併せを進めていく中でも、胸中に懐きつづけていたその羨望という感情の動きは、ダイナファントムの中に確かに小さな火を残した。

 

 

 

 そしてそれから先、毎日のトレーニングの中で併走を重ねるごとにアメリカの芝に適応していくシーザリオのことを見るたびに、努力を重ねるその姿を、疲労困憊して、それでもなお前に進まんとする意志を見せつけられるたびに、ダイナファントムの心の中で、次第にその火は勢いを増していく。

 一週前追い切り、とうとう現地のコースに完全に適応して、完璧な走りを見せた彼女を前に、ダイナファントムは何か自らの中が決定的に変質していくその違和感を、とうとう抑えきれなくなった。

 

 しかし同時に、そんな自分のことを、悪くないと思った。

 そしてそれに対する答えはきっと、シーザリオの本番、このレース場で満座の観衆の中見せる走りにこそあるのだろうと、強く信じた。

 

 

 

 夢の舞台が、近づこうとしていた。

*1
現実のJRAは農林水産省の外郭団体。レースの主体がウマ娘になったことで、文科省、さらに言えばスポーツ庁の外郭団体とすることが自然であるため、このような変更を加えている。

*2
日本に野芝系の改良品種であるエクイターフが普及するのは、2008年ごろからである。この時期までは野芝・高麗芝を主体としていた。ちなみに90年代初め頃までは冬場におけるオーバーシードも導入されておらず、そのころの有馬記念の映像(例: オグリの引退レース)などで遠目にはダートにすら見えるほどに芝の路面が茶色いのは、野芝が冬枯れしていることによる。

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