双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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AC=Anticlockwise(左回り)
アメリカ英語におけるCounterclockwiseと意味は同じです。


光の轍を刻んで――Newbury; King George Ⅵ and Queen Elizabeth Diamond Stakes (Group 1)(12T, AC, GF)

 イギリスという国は、その一年を通して晴れの日というものが少ないことで知られている。そしてその中でも特に、このニューベリーレース場のあるバークシャー州一帯は一年丸通しでほぼ曇りか雨かという有り様であり、この日、七月第四土曜日のレース場の上にも、塗りこめたような曇り空が広がっていた。

 ただ雨そのものは今日の朝に一瞬だけ通り雨のようなものがやってきたぐらいで、それが芝の路面に何らの影響を及ぼすと言うこともない。レースの運営サイドは、今日のバ場状態については「堅良(Good to firm)」であると発表していた。

 

 時刻は午後四時十五分、予定では残り五分ほどでの発走となる、金曜日から続いていたダイアモンドウィークエンド二日目の最後を飾る第十二レース(メインレース)、キングジョージ六世&クイーンエリザベスダイアモンドステークスは、ざわつくスタンドの空気からかけ離れた清廉なる静寂をターフの上に広げて、その開始の時を迎えようとしていた。

 

 この場に集ったウマ娘は十三人、そのうちダイナファントムが割り当てられたのは、幸運にも最内枠であった。彼女は昨日の宵の宴席とは打って変わった、今回で三度目となる漆黒の勝負服を身に纏って、一人気息を整えるように目を瞑り、ゲートの前に佇んでいた。

 

 昨日、自らが満座の欧州ウマ娘たちに向けて切った啖呵を、思い出す。言葉遣いこそ場に適したものではあったが、それでもあれは確かに宣戦布告であった。いや、そもそもこの場、このレースにおける勝者など一人しか生まれはしないのだから、もともとそれは正しい心構えに相違ないのだろう。

 されども確かにあの瞬間、自らはその退路を断った。逃げ道など、もはやない。言い訳も、保険も、捨て去った。

 故にあとは眼前のゲートに納まって、ただ一つの勝ちを目指すより道はないのだ。あまりにも当たり前のその認識を、もう一度新たにする。

 

 

 

 周りを見る。欧州のレースというのは得てして一つのトレーナーが、後援者の支援する複数のウマ娘を率いる形でレースに臨む。特にこのキングジョージであるとか、チャンピオンステークスや凱旋門賞といった大きなレース、多人数で競われるレースはその傾向が顕著で、故に欧州のウマ娘レースは時にチーム戦の様相すらも呈する。

 しかしこの年は違った。十三人立てと欧州のものとしてはどちらかと言えば多い人数で競われる――下手をすれば三人立てということすらもあるのだ!――はずのこのレースも、しかしそれぞれの陣営は各々一人ずつのウマ娘のみをこの場所へと送ってきていた。それは多分に、今年のキングジョージが開催場所をニューベリーに移していて、チーム戦でこのレース場の二千四百メートル戦を戦うノウハウ自体が彼らの中にあまりないという事情も、あったのかもしれなかった。

 

 ただいずれにせよ、ダイナファントムにとってはそれもまた間違いなく追い風である。枠番としても最内を引けたことと合わせて、彼女には本当に珍しく、ツキというものが向いてきていた。

 

 

 

 ターフの上、ウマ娘たちの間に会話はない。ただ黙々と、思い思いにゲートに納まって、その時を待つ。

 日本のものとは違う、緑色に塗られた発バ機からは、ガチャガチャという金属同士のぶつかり合う音がやけに大きく聞こえる。日本のそれよりもフレームの構造が際立って、どこか簡易なつくりにも見えるそれに、改めてダイナファントムはこの場所が異国であることを、今から挑むのが異国のレースであることを、意識した。

 目を閉じる。呼吸を二つ、吸って、そして吐いた。

 

 ――全員収まったぞ!

 ――出走用意!

 

 係員の呼びかける声に身を屈めて、ゲートの向こう、先を見据える。

 そしてそのほんの少しあと、平静と緊張、鎮静と高揚の入り交じる只中で、ガタンと音がする。

 それはダイナファントムにとっては自らの選択の、答え合わせの時間の始まりを告げる音であった。

 

 レースが、始まった。

 

 

 

 いつものようにポンと飛び出て、ダイナファントムはすぐにそれに気がついた。というより、改めて実感した。

 つまりヨーロッパのウマ娘は、ゲートの出があまりよくないということにである。ダイナファントムとしてはいつも通りぐらいの出で、せいぜい他のウマ娘に半バ身ほど差をつけられればいいかなと思っていたところが、はっきり二バ身ほどの差になってしまっていた。

 

 ゲートにおけるスタートの技術を職人芸のように磨くのは、日本のウマ娘ぐらいのものである。いつかどこかで聞いた話が、改めて思い出された。ただいずれにせよやることは変わらない。いつものようにそのままの勢いでハナを切ろうと考えて、足を強く踏み出す。

 しかしそのとき同時に、彼女の頭の中、何かが思い浮かんだ。

 

 それは悪戯心にも似ていた。そして、あまり自分らしくない考えだった。

 ――ちょっと、かき回してみようか。

 ダイナファントムがこれまでやってきたレースのやり方とは、まるで別の思考だ。でもなぜか、それを彼女は自然に受け入れていた。

 身体が無意識のうちに、それに従って動き始める。

 意図的に足を緩めて、外側から大きく内の方に切れ込んでくる白い勝負服、ガメットなるウマ娘よりもほんの少し先んじることを意識しつつもハナだけを主張した。

 

 それはダイナファントムとしては随分と抑えめな、序盤の立ち上がりであった。

 

 

 

 一般にヨーロッパのウマ娘レースは、逃げという戦法が成立しないとすらも言われる。一番前を走るウマ娘はそのレースのペースを決定づけるのみで、最後の直線では用なしになって最後方に沈む。故にその役割を担う専門のウマ娘がチームの中で運用されることも、多人数出しの陣営では常套手段であった。

 理由はいくつかあるのだろうが、きっとそれはヨーロッパのレース場の構造と、それが作り出したレースのセオリーが、逃げという戦法のウマ娘の勝ち筋を悉く摘んでしまうからなのだろうと、ダイナファントムは踏んでいた。

 つまりそれは直線の長いコースレイアウトであり、また或は自然の地形をそのまま切り出して作ったことによる、極端なまでのアップダウンである。

 

 ただ、当然にしてダイナファントムはそんな程度で動じることはない。彼女はこのヨーロッパのウマ娘レースに、「勝つための逃げ」を引っ提げてやってきた。

 いやむしろ、逃げというポジショニングで勝ちに行くためのやり方を知らないこの地のウマ娘に対して、それを教えてやろうという不遜な考えすらも、心中には広がっていた。

 

 

 

 二番手のガメットのほんの半バ身ほど前、ギリギリで内へと進路取りができない位置関係を徹底しながらダイナファントムは先頭を進む。そうしていればその外、まるで業を煮やしたかのように、青と白の二色が映える勝負服のウマ娘、四番の枠番に入っていたムブテイカーが被せるようにペースを上げてきた。このままの隊列でコーナーに入ったら、彼女は二人分も外を回されることになる。それは勘弁してほしいと、そういうことであろう。

 

 その彼女の割り込みが、二ハロン目のスピードを一気に引き上げる。ダイナファントムも当然に応戦し、半バ身先行を保ったままの状態を維持した。なにせ一ハロン目が、彼女にとっては散歩もかくやの速度だったのだ。むしろそれぐらいはやらないと張り合いがないとしたところであった。

 

 結果としてほぼ一団に固まったバ群の先団、先頭を三人のウマ娘が争う構図が形作られる。それが、レースの初め二ハロンの出来事であった。

 

 

 

 ダイナファントムはそんなテンの攻防の中、不思議な感覚を懐いていた。

 まずは、足元だ。彼女はこれまで、野芝の匍匐茎を利用した、反発力のある路面でスピードを出す能力に、自分は長けていると思っていた。洋芝が作る土の感触がダイレクトに伝わるコースは、適応自体は出来るものの必ずしも得手ではないのだと考えていた。

 

 しかし、違う。いざ勝負服を身に纏って、このターフの上で一歩を踏み出すたびに、図らずも自覚した。

 ――土が、掴める。

 土を掴み、踏みしめ、そして蹴り出していく。この工程を自分自身の力のみで行うこの芝の環境が、なぜだろうか、異常なまでにしっくり来ているのだ。

 野芝の路面の反発力は、踏み込みの時のわずかな脚のベクトルであらぬ方向へと跳ねていってしまう。それを股関節と太腿の筋肉で制御しつつ、前傾姿勢で倒れるように進んでいく日本のレースよりも、この自分のパワーがダイレクトに推進力になるバ場の方が、なんというか、「持久力を削られない」のである。スタミナを消費せず、速度を出せるのである。

 つまり三ハロン目に差し掛かって欧州のウマ娘レースにあるまじきミドル気味のペースに移行しつつある今回の展開も、ダイナファントムの中にははっきりとした余裕が生まれていた。

 

 それは今この瞬間まで分からなかった、新たなる発見だった。これまで散々トレーニングの中で努力に努力を重ねていたものが、今ここで花開いたのか。それとも自身の纏っている勝負服が、そこに宿る「何か」の力が、働いているのだろうか。

 

 

 

 いや、それだけではない。むしろそれ以上に、今ダイナファントムの中に沸き立つのは、内なる声にも等しい、一つの示唆であった。

 レースの初め、自らのこれまで取ってこなかった戦術すらも取らせたその小さな違和感が、今ひとたび胸の中から囁いてくる。

 ――少し、ペースを上げよう。

 己の意思から離れたようなその情動は、まるで自分が自分でないかのようだ。自分の中に、「何か」が潜んでいるかのようだ。それでもそれは、ダイナファントムにとっては快かった。まるで()()()()()()()()()()()()かのようであった。

 

 大丈夫か。そう自問する。それでも、きっとそれは言うまでもなかった。なんとなれば三ハロンから四ハロンにかけて、追走をあきらめて下がっていくガメットとムブテイカーに対して、彼女はこれ見よがしに、わざと歩調を合わせるように減速していたからだ。結果としてコーナー入り口時点までの二ハロンの区間タイムは、もはや助走にも近いほどの緩いペースにまで落ちていた。ダイナファントムの感覚が確かであれば、その間は二十五秒である。つまり純粋に二で割って、ハロンタイムはそれぞれ十二秒台半ばと言ったところだろう。

 二ハロン分もこんな緩い流れをもらってしまえば、上がりは十二分に出せる。ならばもはや、ためらう理由などない。じわりじわりと、足を速めていく。前半三分の一、八百メートルを通過したところで、ほんの僅かに身を前へと傾けるようにして歩幅を取った。

 

 そしてそれから暫く、コーナの出口付近にて千メートルを通過する頃には、前の一ハロンから比べれば一バ身以上のペースアップを果たしていた。千メートルの通過タイムとしては、それでも一分三秒ぐらいだろうか。

 助走距離がなくゲートが開いたところで計時を始めるイギリスのウマ娘レースとしては、そのタイムは平均ペースに近いとも言えよう。このあたりのレース場には珍しく、起伏のない構造をしているニューベリーレース場の特性が、或はそこには作用しているのだろうか。

 そして後ろの十二人のウマ娘たちはといえば、比較的緩みのないペースで先陣を切るダイナファントムのことを、それでもしっかりと追走してきていた。コーナーを抜けて一ハロンと少しほどの直線、着かず離れず後方半バ身の距離だけは保つように、白と青、ガメットとムブテイカーが並んでついてくる。その後ろのバ群もまた固まり切っていて、最後方までは恐らく八バ身ほどしかなかった。

 

 その辺りで前半戦六ハロン、千二百メートルを通過した。ペースはもう一段早くなる。いつものダイナファントムの巡航速度に、十二秒フラットに近づいてきた。つまりハロンタイムはまたコンマ二秒ほど早まった計算になるだろう。

 しかし彼女にはまだ余裕がある。脚は溜まり続けている。

 ただそれと同時に今の自分の動きというのは、つまりハロンごとにコンマ二秒ごとのペースアップは、気づかれて当然の変化であると考えていた。

 何となればこの二ハロンで合計コンマ四秒、つまりバ身換算では二バ身半ほど足を早めているのだ。追走している側からははっきりとした違和感となって表れるはずだと、確信していた。

 そしてそれこそが、ダイナファントムの狙いでもあった。

 

 果たしてその辺り、最後のカーブに入らんとするところで、後ろは気づく。

 先頭を走る逃げウマ娘(ペースメーカー)が、どうやら途中で加速を始めていたことに。

 

 それははっきりと、悪辣なタイミングであった。何となればここから二百メートルほどのカーブを抜けた先は、もう最終直線であるからだ。つまりその辺りから後ろのウマ娘はペースを上げつつ最後の仕掛けに備えなければならないし、前のウマ娘は粘り込みのためにどこかで息を入れなければならない。

 

 しかしもはや前のウマ娘は、息を入れるには遅きに失していた。このコーナーで減速すれば、後ろのウマ娘はこれ幸いと仕掛け始め、あっという間に置いてけぼりにされる。或は自らがチームの中でラビット(先導者)役となっているのであればそれでもよかったのだが、あいにく今日の先行勢は全員単独陣営として参加していて、その全てが勝ちを目指さなければならなかった。よって、彼女たちはそうやすやすとペースを落とせないのだ。

 

 ならば後ろはどうか。こちらはこちらとて、明確に相反する二つの選択肢を、難題を突き付けられていた。

 まずこのまま前の逃げウマ娘にペースを握らせたまま先行を許すことは、リスクである。何となれば途中でペースを速め始めたと言うことは、それが()()()()()()()()()である可能性が、強いからだ。つまりそれを指をくわえて見ていて、最後の直線から加速を始めても、それまでの間でつけられたリードを確保されたままに逃げ切りを許す可能性は、考えねばならなかった。そこには当然、その後ろ、二番手集団のウマ娘がペースについていけずに垂れてくる場合の、バ群を捌くために必要な距離も勘定の中に入れる必要があった。

 

 しかしここで追走を始める場合、必然的にコーナーで位置を上げざるを得ない。それは分かりやすい形での距離のロスであり、そしてそこで追走に脚を使うことで、今度は最後の仕掛けで十分な脚を使うことができないという別のリスクを、受容する必要があった。

 

 そしてそもそも、この先頭を進むウマ娘のペース上げが完全に「ブラフ」であって、後ろを警戒させ、無為に控えさせることでギリギリの逃げ残りを狙うような「トリック」を仕掛けている可能性もある。そう言う意味では彼女の、ダイナファントムなる日本のウマ娘が仕掛けているのは、伏せ札すらもちらつかせた三択の問題にも、彼女たちには感じられていた。

 

 ――なるほど、これが日本のウマ娘の戦い方か。

 誰ともなく、この場を走るダイナファントムを除いたウマ娘たちが、心中で呟く。それは彼女たちにとっては全くなじみのない走りであった。しかし同時に、なるほど確かに一つのタクティクスであった。

 彼女たちは思う。「その意気やよし」と。「前で目立つための、見せ場づくりのリードなどではなく、まさに今、我々はあのウマ娘に挑戦状をたたきつけられている」と。

 

 ならば、それには応えるだけだ。我々の、我々欧州のウマ娘が、これまで永年にわたって紡いできたやり方で。それが、総意になった。

 

 

 

 ダイナファントムは、気づく。後ろのペースが、カーブに差し掛かって一気に落ちた。恐らくは後方のウマ娘が先に息を入れて、その素振りに気づいた先行勢もこれ幸いと減速しているのだろう。

 つまりこの直角ともいうべき曲がり角を無理しない形で通過しながら脚を溜めて、そして最後の直線、残り四ハロン付近から一気に仕掛けようという魂胆に相違ない。そう、推測する。

 しかしそれは、そして当然にして、想定の範囲内であった。無論、ダイナファントムがあの位置からペースを引っ張り始めた時からの、である。

 

 こちら側のペースアップと、後ろのウマ娘たちのペースダウンによって、差が一気に三バ身から四バ身ほど開く。ダイナファントムはそのまま十二秒フラット程度のペースを維持することを心掛けながらカーブを曲がりきり、そしてぽつんと一人先頭の形で五ハロン、千メートルにもわたるこのニューベリーのホームストレッチへと入った。

 

 遠くから、歓声のようなものが聞こえてくる。そんな気がする。それと同時、後ろに聞こえるウマ娘たちの足音が、一気に横へとばらけて広がったことを察知した。

 振り返るまでもない、恐らくは最後の仕掛けのため、各々が自らの進路を確保し始めていた。しかし未だ、その音は遠くにある。五バ身ほど後ろだろうか。

 

 ダイナファントムはそこで、自らの脚と、そして呼吸の乱れに意識を向けた。

 ほぼふた月前、ディープインパクトに敗れた日本ダービー、距離は恐らく第三コーナーの入り口付近、大欅の辺りとほぼ同じである。しかしそれに比べても、圧倒的に今の方が身体が軽かった。息も静かだった。信じられないほどに。

 慣れない環境で、初めての国で、重いはずの芝で、それでも確かに今ダイナファントムは、どこまでも軽やかにその道を走っていた。

 

 残り四ハロンのマーカーを通り過ぎる。後ろが慌ただしく動き始めた。それまで自らの後ろを走っていたであろう二人のウマ娘は、追走できずに落ちてゆく。代わりに外から猛然と、差し切りを狙う後方勢のウマ娘たちが上がってくるのを感じた。

 ならば、こちらも動くべきか。そう思って身体を沈めようとして、しかしそこに()()()()()()()()

 

 ――まだだ。焦るな、最後まで引き付けろ。

 また一度己の内から、そんな声がした。

 

 

 

 そしてそこでダイナファントムは、はたと気づいた。唐突な、それでも必然の理解だった。

 

 

 

 思えば今日のレースは、初めからその違和感が共にあった。

 自分でない自分が。自分の中にいる自分が。自分を俯瞰する自分が。

 それがずっと、形容できない己のどこかに、佇んでいた。

 

 途中から囁くようになった「声」が、いつもよりも軽やかに動く己の身体が、そのただ一つを指し示す。

 そこに「ある」自分は、まるで裏打ちするように、(たす)けるかのように、支えるかのように、寄り添っていたのだ。

 きっと、今日が初めてではない。三女神から名前をもらったその日から、この身の傍に、それはいたのだと。気づいていなかっただけなのだと。

 

 

 

 だからこそ識る。解る。ならばその正体は、きっと自らが、今の今まで待ち望んでいた「何か」に、きっと相違ないのだと。

 

 なぜならば今日、このターフの上に降り立って、ただひたすらに考えていたのは、勝利だけであったから。

 どこまでも透き通って、それ以外の何物でもない、純粋な意思であったから。

 

 だから()()()。だから()()()。だから今、()()()()()

 

 

 

 そのことを知覚した瞬間、自らの視線の先に、そこにある道に、薄ぼんやりとした()()()()が、微かに浮かび上がってきた。

 何がそれを見せているのかなど、もはや問う必要すらもなかった。「光」の作り出す道に沿うように、強く足を踏み出した。

 

 

 

 あと三ハロン。後ろのほど近くに、気配を感じる。

 「絶対に抜かしてやる」。そんな意思が、叩きつけられた。

 それが誰であるか、ダイナファントムには何故か分かっていた。フランスからのウマ娘の一人、去年の凱旋門賞の覇者、バゴだ。

 更に横からは、道中四番手ほどの位置でずっと好位を維持していたアイルランドのウマ娘、エースが上がってきている。

 そしてその更に後ろから強烈な存在感を放って、もう一人のウマ娘が迫ってくる。道中最後方でこの最後の直線に賭けていた緑の勝負服のウマ娘、アザムールだった。

 

 敵意にも似た闘志が、ダイナファントムを一息に飲み込んでやろうと一気に押し寄せる。五バ身あった差は瞬く間に二バ身ほどになって、残り二ハロンに達するころには己のことを抜き去っていくだろう。そう、直感した。

 

 そして、問われた。内なる囁きに。

 ――それでいいのか、本当に。

 

 

 

 ……いいわけ、ないだろう。

 断言してみせる。そうだ、断言するとも。

 なぜなら、私は。

 

 

 

「勝つんだから、絶対に……ッ!」

 

 それを口にしたのと時を同じくして、後続のウマ娘の一人がダイナファントムに並ぶ。しかしその刹那、彼女は確かに何かを()()()()()。その感覚を、はっきりと懐いた。

 知覚の全てが、そこで暗転した。

 

 

 

 その次の主観においてまず初めに彼女が知覚したのは、海だった。夜、月と星だけが照らす漆黒の水面だった。

 そこに、輝きを放つ二条の輝きが、光の線が引かれていく。目の前に燦然と、まるで待ち受けるかのように。

 ダイナファントムはそれを見て、自ずと気づいた。それはあの、ターフの上に見た朧気な幻影の光芒と、根を同じくするものだと。

 ただ、誘われるように足を伸ばす。そして彼女は、その上に乗った。

 

 それは水の上だ。本来ならば体重など支えようがない。なすすべもなく水の底へ、沈んでいくのが運命だった。

 しかし、違う。水の上に、いや、光の線の上に、己は立っている。そしてそれは先へ先へと延びてゆき、彼女のことを遠くへ導かんとしていた。

 

 さらに一歩を踏み出し、二歩を踏み出し、常歩は速歩に、速歩は駈歩に、そして駈歩は襲歩へと至る。

 駆ける、駆ける、どこまでも駆ける。道の示す先をひたすらに前へと駆け、いつの間にかそれは空へと伸び始める。

 先へ、ただ先へ。そしてその果て、(いざな)う線の途切れた先、故にこそダイナファントムは、()()()()()()さらなる一歩を踏み出した。

 

 

 

 彼女は、墜ちなかった。

 自らの踏んだ虚空に、足跡ができる。それが幾重にも連なって、いつか()()()()()()()()()()世界の全てに、光り輝く轍を刻む。

 

 

 

 ――そうか。それこそが、私自身の望みだったのか。

 

 それに気づいて、それを受け入れて、視界の全てが煌めき、輝く。

 その光源の中心へと一心に駆けた、その先で――ダイナファントムの認識は、現実へと立ち返った。

 

 

 

 それは、現実においては恐らくたった五秒と経たない間の出来事だったのだろう。目の前に残り一ハロンの標識が見える。ダイナファントムは未だレースを戦っていた。それは、自らをしてよくわかっていた。

 そして同時に理解する。今の己が、裡から湧き上がるすさまじいまでの力に後押しされて、前へ前へと進んでいることに。

 

 気づけば横で並ばれかけていたはずのウマ娘たちの姿が、はっきりと後ろにあった。そしてその差が、だんだんと開いていく。

 それでも、足は止まらない。止める気もない。

 残り一ハロンを通過しても、なおも力強く、後続を突き放す。胸中に懐くそれは、恐らくは()()だった。

 

 レースに勝てそうだからではない。「領域」の縁に手をかけて、ディープインパクトに追いつくことができたからでもない。

 己の望みを、見つけることができたから。それによって、己が己自身のことを、肯定できるような気がしたから。

 その夢の大きさを、誇らしいものとして受け入れることができたから。

 

 

 

 故にこそダイナファントムは、憂いの一つもない晴れがましい笑顔を、きっと浮かべていた。

 後ろをどこまでも突き放しながら、最後の瞬間まで加速を止めることもなく、そして彼女は今、ゴール板を通過した。

 

 

 

 斯くて最終的に、ダイナファントムは並ばれかけてからのたった二ハロンで後続に六バ身の差をつける劇的なレース運びで、レースに勝利する。

 その稲妻のような二の脚はターフを真っ直ぐに切り裂いて、日本のウマ娘レースの歴史に残る偉業へと、彼女を導いた。

 日本生まれ日本育ちのウマ娘として初めての、栄誉あるダイアモンドウィークエンドのメインレースの勝者としての座を、イギリスGⅠ初制覇の名誉を、彼女はその手中に収めた。

 

 

 

 そしてそこに刻まれた燦然たる蹄跡は、かのウマ娘が描き出す光の轍の、まさしく始まりであったのだ。

 

 

 


 

 Race result: Newbury; King George Ⅵ and Queen Elizabeth Diamond Stakes (Group 1)(12T, AC, GF)

 1st・Dyna Phantom

 2nd・Azamour 6.L

 3rd・Norse Dancer 3.L

 

 Last 3F: Unmeasured*1

 Total time: 2:26.97R*2

*1
イギリスは上がりの3Fなどを特に重視せず、よって計測も公表もしていない(この時点においては)。

*2
史実における本レースのタイムは2:28.26R。これもレコードタイムであるが、それを更に1.3秒縮めている。




今回開眼したダイナファントムの領域の正体は、これから描写していくことになります。
恐らく。
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