その年の夏は、日本のトゥインクル・シリーズの中で、間違いなく一つの、そして随一の画期になった。
それを成し遂げたのは、たった一つの、そしてあまりにも小規模な、ウマ娘レースチームであった。
チーム《ポルックス》。一年前までそこは、ティアラ路線のクラシックに向けて有力なウマ娘をコンスタントに送り出すものの、シニアでの実績はいまいち物足りない、中堅上位ではありつつも上の方に突き抜けるには決め手に欠ける、そんなどこか「惜しい」チームと見られていた。
しかし今年、そこに所属する、そして実質的にはそのメンバーの全てである二人のウマ娘が、七月のたった三週間で、何もかもを塗り替えた。
七月第二週日曜、シーザリオ、アメリカンオークス招待ステークス、一着。
続いて七月第四週土曜、ダイナファントム、キングジョージ六世&クイーンエリザベスダイアモンドステークス、一着。
凡そ、奇跡の親戚であると思われていた。不可能の類義語であると考えられてきた。
日本で生まれ、日本でトレーニングを受けたウマ娘が、アメリカのGⅠを、イギリスのGⅠを、勝つ。
それはいつか来る未来かもしれずとも、まさか今であるなど、だれも考えてなどいなかった。
故に最初、その報を立て続けに受けた日本のトゥインクル・シリーズのファンは、それを現実のものであると、俄には信じられなかった。時差の関係で真夜中となったそのレースのテレビ中継を、眠い目をこすりながら、或は無理やりに早起きして、その目でしかと見た少なくない数のファンですらも、それが本当に起こったことだと認識できずにいたほどだ。
しかし一夜明け、二日が経ち、一週間が過ぎる頃には、厭が応にも気づく。
そして彼らは、熱狂した。
日本のウマ娘たちが、一度の遠征の中、二つの国で勝利を得たことに、それを一つのチームが成し遂げたことに、全力を以て快哉の声を上げた。
故にその時まさしく、彼女たちは英雄であったのだ。英雄となったのだ。
取材対応や賞金受け取りの手続き、そしてイギリス側が割と本気で仕掛けてきた
この時期のトレセン学園は、実のところあまりウマ娘がいない。というのも、重賞からGⅠ戦線で活躍できるような有力なウマ娘たちは大体の場合URA保有の合宿施設で長期間の夏合宿に入っていて、逆にそうでない、あまりレースでの活躍が見込めないようなウマ娘は、上がりウマ娘を目指せるような素質を持った者以外は、夏の間にそこまで根を詰めることもないと、実家に帰ってしまっていることが多いからである。
さらに言えば、昨今隆盛を極めている外厩施設の存在が、その傾向に拍車をかけていた。つまり合宿所の使用を許されないデビュー前やジュニア級のウマ娘も、そうした学園の外の施設でトレーニングを積むために、そのかなりの数が寮から姿を消していたのだ。
斯くなる情勢にあっては、ダイナファントムにせよシーザリオにせよ、学園の中にいる理由はあまりない。
帰国後の報告を兼ねた記者会見を開いたあとは、彼女たちもまた各々の夏を過ごすべく、この場所を離れることになった。
シーザリオは次走、十一月にアメリカで施行されるBCフィリー&メアターフに再度の遠征を果たすべく、九月二週までの六週間を、外厩での調整に充てる。
そしてダイナファントムはと言えば、千葉にある実家へと帰省して、まずは今回の遠征、或は春クラシック戦線を戦ったことに対する報告をすることになっていた。
更にその二週間後、八月も半ばに入ったところで、ダイナファントムの姿はまた別の場所にあった。
宮城県は山元町、シャダイレーシングクラブの施設の中でも特にジュニア級ウマ娘の予備育成を主眼に据えた設備を揃える、「山元ジュヴェナイルパーク」である。
ダイナファントムが千葉の実家に自らの戦果について報告に上がったとき、彼女の両親はまず何よりも己が娘の無事の帰宅を安堵した。自らもウマ娘である母親は、まさに一年と半年ぶりとなる我が子をその胸に迎え入れて、ただひたすらに口にする。
――元気そうで、よかった。
――勝つことも大事だけど、それでもやっぱり、健康一番、無事が一番だから。
それを言ってからやっと、二人はダイナファントムが成し遂げた偉業を祝した。
ともすれば十年以上の時を経て、この家にクラシックの冠を持ち帰ったことを。
今まで誰一人として成し得なかった、ウマ娘レースの祖国イギリスでのGⅠ勝利を。
その二つはまさしく一族の、シャダイの悲願とも言えた。成し遂げたダイナファントムのことは、まさしく彼らの中の誇りとして称えられるべきではあった。
そしてそうであればこそ、ダイナファントムには今からやらねばならないことがあるのだと、彼女の両親は言った。それを示した。
つまり、感謝の行脚である。現役はまだ序盤ではあろうものの、しかしこのタイミングを一つの区切りとして、今までダイナファントムの育成に当たってきた人々にあいさつ回りをするようにと、促した。
今彼女がいるここというのは、つまるところその一環であった。
山元ジュヴェナイルパークは、ダイナファントムが三女神から名前を戴いたあと、トレセン学園に入学するに値する競争能力を醸成するために一年間を過ごした場所だ。つまり彼女にとっては凡そ二年ぶりの来訪であり、「第二の故郷」ともいうべき場所への帰省であり、そしてこの場所でお世話になった人々に対する、感謝を伝えるための凱旋でもあったのである。
トレセン学園とよく似た施設が揃うこの場所だが、それでも確かにその重心はジュニア級、というよりもデビュー前のウマ娘への育成に割り当てられているなと、久方ぶりに見たパークの様子にダイナファントムは思わされる。
角バ場の一角に並ぶゲートや、コースの真ん中に真っ直ぐ線が引かれたポリトラックコースも見える。これは走るときに左右へヨレる走行姿勢を矯正するためのコースだ。記憶が確かならば、あのトラックの周りにはハイスピードカメラが何台も置かれていて、まさにコマ送りでの走行フォームの補正をもできるようになっていたはずである。
自分も、世話になったものだ。たった二年かそれ未満ほど前のことに過ぎないのに、彼女はどこかそんな懐かしさすらも、そこには覚えていた。
育成場を通り過ぎて、屋内訓練場が併設されている事務棟の前へとやってきた。既に彼女の来訪は伝えてあり、場長とのアポイントメントは取れている。
ただ幾分か早く来すぎたせいか、その約束の時刻まではまだ遠かった。三十分あまり、時間には余裕があった。
さて、どうしたものか。そんなことを思いつつもぼんやりと出入口の近くで佇んでいたところに、不意に後ろから声がかかった。
「あ、あの!」
少しだけ緊張の色が含まれた、甲高い声だ。
それはダイナファントムにとっては、聞き知らぬ声だった。びくりと肩を震わせて、誰何しようと振り向く。
そこには一人の少女が、ウマ娘がいた。
声と同じく、見知らぬ姿かたちをしている。バ格は平均的で、ダイナファントムからすれば頭半分ほど低い。
しかしそれを補って余りあるほどに目を惹くのは、赤銅色、栗色の髪の毛だった。豪奢とも評すべきほどに豊かなそれをツインテールの形で分けて、膝下の辺りにまで垂らしている。それが彼女をその実体よりも大きなものに見せていると、そんなことすら思ってしまった。
そのウマ娘が、また口を開く。
「えっと……『ダイナファントム』さん、ですよね?」
「え? ああ、はい。そうですけど」
戸惑いを帯びた声を返しながら、ダイナファントムはその顔を見る。そして、目を瞠った。
ウマ娘というのは誰も彼もその見た目という意味では美しい。
しかしダイナファントムは今、自らをやや上目遣いに見ている眼前の少女の顔立ちを、その中にあってもなお格別のものだろうと感じた。
やや釣り目がちの、意思の強さを感じさせる目の中、
鼻筋も高く通っていて、全体的に華やかさを印象付けるような、そんな容貌であった。
その頭に輝くティアラのような銀の髪飾りも、恐らくはそのイメージに色を添えていた。
「あの、私。……この間の、見てました! イギリスの、キングジョージを」
その少女が、なおも口にする。ダイナファントムはその双眸の中に、こちらが面映ゆくなってしまうほどの強い憧れの光を見た。
「すごかったです、本当。それで、何というか……」
言葉を探すように口ごもる。自らの中からどうにか言葉を絞り出さんと、手を何度か握っては開く。
そしてその末に頷いて、そしてまた目を合わせてきた。
「そう、『カッコいいなぁ』って、思って。イギリスのウマ娘にも、フランスのウマ娘にも、ずっと先頭を、『一番』を譲らなかったから」
そのまま何か浮かされるように言葉を発し続けていた彼女が、そこで気づく。あ、という声を上げて、口を塞いだ。
「ごめんなさい! アタシったら自分の名前、まだ言ってませんでした……!」
そそくさと言った様子で居住まいを正して、ガバリと頭を下げた。
「初めまして! 私、『
あまりに怒涛の展開に、ダイナファントムただ呆気にとられるばかりだった。
それほどまでに眼前の少女は、「ダイワスカーレット」を名乗ったウマ娘は、猪突と言えるほどの押しの強さで、ダイナファントムに畳みかけてきていたのである。
そこで一度、場が落ち着く。頭を下げたままのダイワスカーレットは、ダイナファントムが何か言うまで動く素振りもない。
言葉を選んで、口を開いた。
「えっと……ダイワスカーレット、さん?」
「はいっ!」
声をかけた瞬間に、跳ねるように頭があげられる。おおう、と面食らったように、ダイナファントムは小さくのけぞった。
兎にも角にも、押しというか、圧が強い。容貌の活発さ、或は勝気さに比して口ぶりや態度は真面目そのものではあるのだが、それでもどこか気後れしているところのある自分を、ダイナファントムは自覚していた。
「今年の四月ってことは、まだデビュー前だよね」
「はい、そうです。本格化はそろそろなので、多分デビューは来年になると思っています」
「そっか」
はきはきとした返事に、ただ頷く。
そして再び、ダイワスカーレットの姿を上から下まで眺めた。なるほど、確かに今の彼女はトレセン学園指定のジャージ姿だ。あの学園の生徒だというのは、本当なのだろう。
「……とにかく、応援してくれてたのはありがとう。まあ、勝つ気で行ったからね。何とか面目は、保てたかなって」
「そんな、面目だなんて……!」
とんでもないとばかりに、首が振られた。垂らされている栗毛のツインテールが、ぶんぶんと揺れた。
そして今度は燦然と輝く瞳で、真っ直ぐにダイナファントムのことを覗きこんできた。
「初めてなんですよ? 『一番』なんですよ!? 日本のウマ娘が、イギリスのGⅠを、しかもシニア級も混ざったレースなのに、王道の距離のGⅠを勝つなんて!」
「あ、うん……」
どうやらまた彼女のスイッチを踏んでしまったらしい。僅かに身を乗り出してくるその姿に、ダイナファントムは無意識に目を細めていた。
直視するのが、なんだか憚られた。なぜかそれが、どうしようもなく眩しく映ったのだ。
「だから私、ダイナファントムさんみたいなウマ娘になりたくて!」
それはきっと、ダイワスカーレットというウマ娘が自らに対して向ける感情が、つまり今までダイナファントムにはどこまでも縁のないものであったからだろう。
「ずっと『一番』を譲らない、海外でもずっと。そういうウマ娘に、なれたらなって」
「あなたのようになりたい」などという、そんなどこまでも直向きな憧憬の情を、まさか己に直接向けられる日が来るとは、ダイナファントムは今の今まで考えていなかったのだ。
しかし何であれ、自分に向けられたその言葉には、答えなければならない。
「それは、ありがたいけど。……スカーレットさん、でいいかな」
「はい!」
「そっか。じゃ、スカーレットさん。来年から、どっちに進むの? やっぱり、クラシック?」
問うたダイナファントムに、ダイワスカーレットは首を振った。
「いえ、ティアラにしようと思ってまして」
「ティアラに……なるほど」
「はい。……それで、なんですけど」
そこで俄に、ダイワスカーレットが居住まいを正す。胸に手を当てて、なにか気を落ち着けんとするような仕草をした。
目を瞑って、何度も呼吸を整えて、そして、言葉が発せられた。
「あの。せっかくここで、ダイナファントムさんに会えたんです。だから――」
背筋を正して、また一度、頭が下げられた。
「ダイナファントムさんのチームに、《ポルックス》に、私を入れてくださいませんか!?」
それを聞いて、ダイナファントムの動きが止まった。
「ウチに……」
口の中、つぶやきが漏れる。
チーム《ポルックス》は、チームとしては小規模だ。ダイナファントムがあのチームの門を叩いたのは、殆どあの福井トレーナーの母親、不世出の天才と呼ばれた元トレーナー「福井葉子」女史との、言ってしまえばコネによるものであった。だからそこに正面から、しかも自分を経由した加入の志願がやってくるなどとは、想定してもいなかった。はっきり言って、衝撃だったのだ。
そしてそれ故に、今までのダイワスカーレットが言っていた、ともすれば歯が浮くような賞賛の言葉も、間違いなく本気のものであったのだと知った。
「はい!」
顔を上げて、ダイワスカーレットが首肯する。
「元々福井裕香トレーナーはティアラ路線のウマ娘を得意としておられますし、海外遠征も大成功なんて、私からしたら『ここしかない』って思って」
一気にまくし立てて、そこで「あっ」、と何かに気づいたかのような声を上げた。
「もしかして、選抜テストとか、やられてます……?」
今度は一転して、やや不安げな様子で問いかけてくる。
ダイナファントムは、苦笑していた。やはりなんであれ、このウマ娘はどうにも押しが強い。言葉遣いや物腰は優等生然としていることは確かでも、内に秘める気性はきっと苛烈で、そして強気なのだろう。それにはすこしばかり戸惑いを伴ってはいたものの、それでもダイナファントムにとっては心地よさすらもあった。
――意外とこの子とは、波長が合うかもしれない。そんなことを思い始めていた。
ダイナファントムが、ダイワスカーレットと目線を合わせるように、少しだけ屈む。
「いや、そんな話は聞かないね。こないだの新歓のときも、結構なりふり構わずメンバー募集してたらしいし。まあ、あまり結果にはつながらなかったけど」
その時のことが思い出されて、彼女の口からは少しだけ思い出し笑いの声が漏れた。
きょとんと首を傾げるダイワスカーレットの方を見据えて、「つまり」と続けた。
「そんな大仰な試験がー、みたいなのは、ないよ。だから『ウチに入りたい』というのは、大丈夫だと思う。けど」
今一度姿勢を直して、ポケットのウマホを取り出す。そこに見える時刻は、アポの時間がまだ十五分以上先であることを示していた。
ならば、いいか。そう思って、一つのアプリを起動する。そのまま、ウッドチップのトラックの方に、指をさした。
「スカーレットさん。一応、あなたの走りを、私に見せてくれないかな」
そして手に持つウマホを、アプリの画面を、
対するダイワスカーレットは、小さく息を呑んだ。ダイナファントムの手許、ウマホを見て、横を指す指を見て、その先のトラックを見た。
視線が戻る。ダイナファントムの方を、再び覗いた。
果たしてそこに見えた表情に、ダイナファントムはダイワスカーレットというウマ娘の本性を見た。
「……ぜひ!」
それはどうしようもなく負けん気の強い、ともすれば挑戦的な、そんな顔つきであった。
それから十分もの間、ダイナファントムはダイワスカーレットのトラック走を、それがたたき出すタイムを、見続けた。
七ハロン入り、二ハロンキャンターからの五ハロン追い、終い重点。
六ハロン追い通し。
そして最後、実戦形式の十ハロン、終い仕掛け。
ダイワスカーレットはまるで見せつけるように、その立て続けの三本で自らの走りをダイナファントムめがけてデモンストレーションした。
自らは、あなたのチームに入るに相応しい資質を持ったウマ娘であるのだと、それを絶対に認めさせてやると、その全身が語っていた。
そのレースに対する姿勢にせよ、それを実現する強烈なまでの根性にせよ、それはいちいちダイナファントムの、今まで一度たりとて意識してこなかった琴線に触れた。
このたった三十分にも満たない交流の中で、ダイナファントムはダイワスカーレットというウマ娘に、有り体に言えば惹かれたのである。
才覚にか、性格にか、走りにか。それは分からずとも、間違いなくその瞬間、ダイナファントムは彼女のことを「買った」。
故にその終わり、そしてアポイントメントの時間がやってきたことでこの場から立ち去らざるを得なかった別れ際に、ダイナファントムはダイワスカーレットに、こう告げた。
――スカーレットさん。もしあなたがよければ、是非ともウチのチームに参加してほしい。
――トレーナーには伝えておくから、学期が明けたらウチのトレーナー室に顔を出してくれると、助かるよ、と。
「――はいっ!」
それに返ってきた満面の笑顔と、喜色を前面に押し出した声に、ダイナファントムもつられて微笑む。
「……じゃ、その時に。待ってるよ、スカーレットさん」
そして彼女は、踵を返す。後ろ手に手をひらりとさせて、事務棟の入り口へと向かった。
――ありがとうございました!
その背中に、張り上げられた声を受ける。その気持ちの良い挨拶を聞いて、ダイナファントムは晴れ渡るような気持ちにさせられた。
口の端に、笑みが浮かんだ。
その日、チーム《ポルックス》に事実上新たなチームメンバーが加わった。
そのことは彼女にとって、そしてチームの誰にとっても喜ばしいことであるに、きっと違いなかった。
そこから二週間と少し、山元パークで休暇がてらに調整を済ませたダイナファントムは、新学期の始まりに合わせてトレセン学園へと戻った。
学業もさることながら、目指すところはイギリスからの凱旋レースである。つまるところ秋初戦をどこに据えるかというのが、目下の彼女の懸案事項であった。
九月が始まってすぐのこと、二学期の始まるその前日に、彼女はトレーナーとの話の場を持った。
シーザリオはまだ寮には戻ってきておらず、当然にここにもいない。純粋に、トレーナーとのマンツーマンであった。
主題は、単純だ。
「まあ、今更叩きをする必要も、ないとは思うけど」
福井トレーナーが切り出す。散々イギリスの芝に慣れたこともあって、こちらの芝路面への感覚を取り戻す必要があるのは確かであったが、それがレースである必要まではない。
ダービーからキングジョージという、ほぼ三か月もの間隔があいたローテーションでも一着になった以上、ダイナファントムは使い詰めしないと走らないタイプのウマ娘ではないことは明白であった。いわゆる、「鉄砲駆けするタイプ」である。
となると自然に、次のレースもGⅠとなる。しかしそこにこそ、問題があった。
「まあ、順当に行くなら『菊』なんですが……」
ダイナファントムの言葉が、そこで途切れる。そしてそれを、福井トレーナーが継いだ。
「『これ』をね、どうするかという話がね」
言いながら、徐にラップトップPCのディスプレイを示す。
それは即ち、ダイナファントムの実家――シャダイからの、次走に対する要望書であった。
そこにあった内容は、端的には一言で表現できる。
――ダイナファントムの次走を、
ダイナファントムはそれを、彼らにしてはどうにも珍しい振る舞いだと思った。
シャダイの一族は、確かにダイナファントムに大きい期待をかけている。その重さというものも、ダイナファントムは理解している。
ただそれは、彼女の自由意思そのものを縛ろうというタイプのものではなかった。それがウマ娘の精神にプラスの影響を及ぼすこともなく、したがって良い結果につながらないと言うことを、彼らは十分に理解していたのである。
しかしそれでも、そこを押して彼らは、ダイナファントムに菊花賞ではなく、こちら側のレースを走ってほしいという主張を持っていた。
「まあ、間違っても『ディープインパクトに勝てるか分からないから』、みたいな話ではないのは確かだね」
「それが理由でそんなことを言ってきたら、実家とは言っても無視しますよ、私は」
冗談を飛ばしつつ、その目論むところを読み進めていく。
そこには、こうあった。
きっかけは、ダイナファントムが夏の遠征でクラシックでありながらシニア混合のイギリスGⅠを勝ってしまったことにある。
彼らにとってみれば、青天の霹靂であった。一応、トレーナー経由でダイナファントムの次走報についてはシャダイの人たちに報告されてはいたらしいが、それにしてもこの時期での遠征に、勝算というものは持っていなかった。好走が精々であろうと、そう言う見積もりをしていたのだ。
それを、勝ってしまった。あり得ないはずのことが、起きてしまったのだ。そしてそれは、一つの大きな夢へと彼らを駆り立てた。
つまり、シンボリ家の「先導者」、海外志向の草分けたるスピードシンボリが挑み、以降日本のウマ娘レースに関わる全ての者たちが夢見て、未だ届いていない頂を。
もはやそこに堆く積もっている願いが、呪いにすら変わろうとしている、一つの到達点を。
「凱旋門賞、ですか」
その文章を見て、ダイナファントムは呟く。
出立の前、彼女を送り出すために開かれた一族挙っての壮行会の宴席の中で、しかし彼らはその意向をおくびにも出すことはなかった。
そこで直接期待をぶつけることをよしとしない、奥ゆかしさがあったということなのだろうか。しかしこのような形でトレーナーに向けた文書を共有されると、そこに意味はあまりないように思ってしまう。一応はワンクッションと言えるのかもしれないが。
ただ何にしても、そのレースに挑むことに確かな価値を置くのは、ダイナファントムとて同じであった。
「誰も成し遂げたことのない場所へと至りたい」という、見つけたばかりの自らの願望を充足しうることも、間違いなく理由ではある。
しかしそれ以上に、もしそれに来年挑むとすれば、自らの最大のライバルたるディープインパクトを伴ってのものになるだろうと、ほぼ確信していたからでもあった。
彼女にとってそのビジョンは、あまりにも心躍るものであったのだ。それもまたきっと、ダイナファントムというウマ娘の中に起こった、一つの変容であるのだろう。
一人頷いて、先を読む。
つまり彼女が来年の秋シーズンに凱旋門賞に挑むとなると、シニアの秋戦線、九月から十月にかけては海外に滞在することになる。
即ち、その周辺から十一月の頭にかけて施行される日本のレースには出られなくなるのだ。そしてそこに編成されているシニア王道のGⅠ戦というのが、まさに秋の天皇賞であった。
恐らくは来年以降、ダイナファントムはその現役の期間中全てにおいて、秋シーズンを海外レースに捧げることになる。
よしんば凱旋門賞をシニアの一年目に勝ったとて、その時期にはイギリスのチャンピオンステークス、また或はBCターフと、彼女が挑むに値するレースは数多いのだ。
したがって彼女が秋シーズンを日本で過ごす最初で最後のチャンスが、今年である可能性は非常に高かった。
秋天に挑む機会が何度もあるようなら、生涯で一度しか走ることの叶わないクラシック最終戦、菊花賞へと向かうのはむしろ当然の選択ではあったろう。しかし等しく秋天も今年挑むのが最後のチャンスとあれば、その両者は一つの天秤の上に載る。
そしてその対比において、シャダイは、ダイナファントムの実家は、秋天の方を価値が上だと考えた。それもまた、彼らの海外志向の強さの表れであるのだろう。即ち欧州やアメリカのレース体系は昨今明らかに中距離からマイルに寄り始めていて、もはや二千四百メートル戦ですらも長いという扱いを受け始めているのだ。それよりも長い長距離戦、三千メートルなど何をか況やといったところであった。
ウマ娘レースは、十ハロン、つまり二千メートル戦が至高。そこで強さを発揮できるウマ娘こそが、優れたウマ娘である。
故にこそそれはまさに
ダイナファントムは、実家の言い分を理解している。府中二千の勝ちを得られるのは、あるとしても今年しかない。それもまた、よくわかっていた。
しかし同時に、微かに心の奥が痛んでいた。なぜならそれは、帰国初戦に挑む相手が、ディープインパクトではなくなってしまうことを意味していたからだ。
彼女との対戦は、恐らく年末の有馬記念までお預けになってしまう。そのことが、ダイナファントムには少しばかり口惜しかった。どことなく、再戦を楽しみにしてくれているであろうディープインパクトへの裏切りを働いているような気後れすら、してしまっていた。
「一応、お訊きしますが」
そう言って口を開いたダイナファントムに、福井トレーナーが被せるように返す。
「『両方』ってのはあり得ないからね。分かってると思うけど」
「ですよね……」
言わんとしたことを当てられて、苦笑する。
当然の話である。ダイナファントムとて受け容れられると思ってはいなかったし、そんな自殺行為をするほどにまで、愚かになったつもりもなかった。ただの冗談の類であった。
しかしそれを口にしてしまうほどまでに、ダイナファントムは菊花賞に未練を抱えているのも事実であった。
ディープインパクトと競いたい。その気持ちが膨れ上がっているのは、間違いがなかった。
「まあでも、あの子と、ディープインパクトと戦うのは、これから先嫌になるぐらいできるわけだから。それ以外で『どうしても菊花賞に出たい』ってのがないなら、私も秋天がいいと思う。別に三冠狙えてるわけじゃないしね」
にべもなく言ってのける福井トレーナーだが、果たしてそれは正論であった。
だからそれは、ダイナファントムの中の気持ちの整理がつくかどうかという、それだけの話でしかなかった。
「……今度ディープにあったら、謝らないといけないかも、ですね」
果たしてダイナファントムは、それを受け入れた。
「まあ、それであなたの気がすむなら、そうしたら? 別にあの子は気にしてないと思うけど。走れりゃ何でもいいでしょ、ぶっちゃけあの子って」
対する福井トレーナーは、あまりにも身も蓋もない物言いだ。それにダイナファントムも、たまらず吹き出してしまう。
それでも確かに、彼女の心は軽くなった。だからこそ福井トレーナーの方へと向いて、居住まいを正した。
「……わかりました。それでは秋の天皇賞、出走登録の手続きを、よろしくお願いします」
そう言って椅子の上、ダイナファントムは深々と礼をする。その彼女の姿を見据えて、福井トレーナーもまた神妙に頷いた。
兎にも角にも、ダイナファントムの陣営は、そう言う積極的な理由を以て、菊花賞を回避した。秋の天皇賞への参加を、選択した。
そして――いや、しかし。
その翌日、トレセン学園にやってきたダイナファントムのルームメイト、シーザリオが、一つのニュースを持ってやってくる。
それは、一枚の紙の形をしていた。
――診断書。
そう書かれたプリントは、突然の凶報となってこのチームを揺るがした。
調整先の信楽のシャダイレーシングクラブの施設における検診で、シーザリオの足関節の靱帯に炎症があるとの診断が下った。
「足部靱帯炎」。ウマ娘のキャリアにとって、それは死すらも意味するほどの、深刻な響きを持っていた。
ダイナファントムはお祭り気分の延長な感じですが、シーザリオはそうは言っていられなくなってしまいました。史実通りの展開、ともいえるかもしれません。
ちなみに史実のシーザリオはここで繋靱帯炎を発症していますが、人体に「繋靱帯」などという組織は存在しない(人間には球節がないため)ので、人体に沿う形に読み替えています。
とはいっても、ウマ娘二期でマックちゃんが普通に繋靱帯炎の診断もらってましたけどね。あれはちょっと謎です。
そしてダイワスカーレット。
地味に史実を破壊しています。史実はアンカツが鞍上で引退までずっとそれでしたが、この世界では福井トレーナーのチームに身を寄せることになりました。