双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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衝撃は三度――4回京都6日11R・菊花賞(GⅠ)(芝右3000・晴・良)

「症状自体は、軽かったわ。不幸中の幸いかしら」

 

 その日、学期はじめとなった夜の寮、自室の机で向かい合って、シーザリオはそう口にした。

 

「アメリカのレース前のトレーニングが、ちょっと無茶だったと言うことかしらね」

「ザリオ……」

 

 自嘲気味に口にする彼女に、ダイナファントムはそう言葉を漏らすことしかできない。シーザリオは何度か小さく首を横に振って、そして目線が合った。

 

「でも、私は後悔なんてしていないわ。前も言ったけれど。……それに、ファンさん」

 

 呼びかけて、身を乗り出す。膝に所在なげに置かれていたダイナファントムの手に、シーザリオの手が重ねられた。

 

「私たちは、掴めたのよ。『初めて』を、二人で。……それは、誉れではなくて?」

 

 見上げるように覗きこむその顔に、瞳に、ダイナファントムは何も言えなくなってしまった。

 そうやって割り切って、受け入れているシーザリオに、外から何かを言うことが、正しいとは思えなかった。

 ただ黙って、頷いた。

 

「……まあ、さっきも言ったけど、症状は軽かったから。PRP注射*1と経過観察でどうにかすることになるだろうって、信楽のお医者様は言っていたわ」

 

 けれど、と横を向く。カーテンの閉め切られた部屋の窓は、外の何をも映しはしない。彼女自身の顔さえも、見えはしなかった。

 

「まあ、今年のBCは無理ね。復帰は……早くても来年の大阪杯。でも多分、来年新設されるとかいう五月のマイル戦*2になるかしらね」

 

 それはどこか、自らに言い聞かせているかのようであった。

 今年のBCを諦める選択をせざるを得ない自分を、説き伏せるように。そして同時に、この故障を乗り越えて、必ずや来年に捲土重来を誓わんとするために。

 心を強く持ち、諦めることなく、またターフを走ることができる日を、待ち望むために。

 

 ダイナファントムは、言葉に悩む。それでも何も言わないという選択肢は、ありえなかった。

 

「ザリオ」

 

 呼びかける。逸らされていた視線が、戻ってきた。そして結局出てくるのは、その言葉しかなかった。

 

「……あの『約束』、忘れてないから」

 

 目が、瞬く。何かを探すように上へと彷徨って、しかしすぐに瞼が閉じられた。

 小さく、首が縦に振られた。

 

「そうね。私も、忘れてはいないわ」

「うん。……抜かされないように、たくさん勝っとかないとね」

 

 冗談めかして言ったそれに、シーザリオは口に手を当てて、小さく笑った。

 

「……ええ、そうね。精々、がんばりなさいな」

 

 

 

 そしてそれきり、二人の間にこの話題が上がることはなかった。

 互いが互いのなすべきことをする。それ以上の何かを互いの中に持ち込むことを、二人は良しとはしなかった。

 

 

 

 季節は、歩みを止めない。九月いっぱいまで続いた残暑も十月に入って一気に秋の空気へと変わって、ともすれば肌寒さすら感じるほどの陽気が、日本の空を覆う。

 その中で、チーム《ポルックス》は二人のウマ娘を新たに迎えていた。

 一人は今年の四月、新歓の時期に福井トレーナーがスカウトに成功した、今年がデビューとなるウマ娘、「()()()()()()()()*3」。

 そしてもう一人が、ひと月前に山元のシャダイの施設でダイナファントムが出会い、自ら志願する形でチーム入りした、ダイワスカーレットである。

 

 なぜかと言うかやはりと言うか、どちらもティアラ路線を進むウマ娘たるところに、福井トレーナーの福井トレーナーらしさがあると言えるだろう。

 シーザリオが暫く戦線離脱を余儀なくされている関係で、このチームの実質的なメンバーというのはそれにダイナファントムを加えた三人ばかりとなっている。相変わらず頭数(あたまかず)の確保できないチームであった。

 

 当のフサイチパンドラは、来月の第二週に予定されているメイクデビューに向けて準備に余念がなく、福井トレーナーは当面の間そちらの方にかかりきりにならざるを得ない。そう言うわけでダイナファントムはその次走、秋の天皇賞に向けて、一人でコンディションの調整をすることにしていた。

 それが可能であると、福井トレーナーに見込まれたということでもある。彼女はアメリカからイギリスの遠征のなかで、トレーニングのスケジュールをある程度自主的に作成してこなす能力があることを、自らのトレーナーに示していた。

 

 加えてもう一人、ダイワスカーレットの方も、ダイナファントムの方が面倒を見ることになっている。何となれば彼女のデビューは本格化の進行度合いから見ても一年以上先とするべきであって、それまでの間に進めるべきトレーニングというのは、極論でいえば教官によって提示されるものであっても充分であったからである。

 トレーナーが独自にメニューを組むにはまだ至らず、ならばシャダイのノウハウを持ったダイナファントムにダイワスカーレットを預けるという選択は、むしろトレーナーとしては合理的な判断にも近かった。ある意味において、ダイナファントムはサブトレーナーにも似た役回りを期待されていたのである。

 

 

 

 そしてその日も、ダイナファントムは横にダイワスカーレットを伴っていた。この一月もの間に、彼女たちは随分と意気投合していたのである。

 しかし今日のそれはトレーニングのためではない。二人のウマ娘の姿は、京都レース場にあった。

 トレセン学園関係者のために用意されているいつもの最前列のブースで、ダイナファントムとダイワスカーレットの二人は、その時をただ待っていた。

 

 

 

「やっぱり、盛り上がってますね」

 

 辺りを見渡して、ダイワスカーレットが同意を求めるようにダイナファントムに向けて語りかける。

 

「まあ、ね。やっぱり、()()()()()()()()だから」

 

 ちらりと横を見て、ダイナファントムが頷く。

 つまり今これから始まらんとしているのは、トリプルクラウン競走の最後、三冠目である菊花賞だった。

 

「あいにくと三冠ウマ娘は出なかったけど、でもあいつが、ディープが二冠を獲れるかどうかは、みんな気になってるし」

 

 目線をホームストレッチの方へと向けて、ポツリとこぼす。

 既に本バ場入場は終わっていて、出走するウマ娘たちは各々発バ機の方へと足を向けている。ただ京都の三千メートルは向こう正面発走ということで、いつもどおりターフビジョンの方から、そちらの様子を確認するよりほかにはなかった。

 そちらにぼんやりと目を向けて、小さく笑う。

 

「私があそこにいたら、『ダイナファントムとディープインパクト、二冠目を獲るのはどちらか!』、みたいな煽りもあったんだろうけど、さ」

 

 その響きは自嘲をも含んでいた。ダイナファントムとしては秋の初戦の選択を秋天に設定したことに悔いはないが、それでも未だこの場所でディープインパクトと競えなかったことに、忸怩たる思いを抱えているのは事実であった。

 同時に、少数のものではありつつも、「ダイナファントムはディープインパクトから逃げた」という言説が確かにトゥインクル・シリーズのファンの中から出てきていることも、彼女は知っていた。

 

 それはダイワスカーレットの知るところでもある。そう言うわけでやや大げさに、彼女は首も手も横に振って、ダイナファントムのことを窘めた。

 

「気にしちゃだめですよ! 私、秋天をクラシックで挑戦するのだって、すごいことだと思いますし!」

 

 ねえ? とわざわざ、身を乗り出して覗きこんできたダイワスカーレットに、思わずダイナファントムは微かな苦笑を浮かべた。

 

「……ありがとう」

 

 小さく頭を下げる。しかしそこですぐに、ダイワスカーレットはその顎に人差し指を当てた。思案顔で、小首をかしげる。

 

「それにしても、どうしてファントムさんはここまで菊花賞を見に来たんですか? チームの誰かが出走するわけでもないのに」

 

 なるほど、当然と言えば当然の疑問である。しかし同時に、「それをこの子(ダイワスカーレット)が言うか」、と、一瞬ダイナファントムは思った。

 と言うのも、彼女は先週に引き続いて、この京都レース場に来ているのである。

 

「それを言ったらきみだってそうでしょう? 先週、同室の子と秋華賞を見るためにここに行ったって、言ってたじゃない」

「それは……っ!」

 

 言われたダイワスカーレットが、表情を変える。何というか、いつもの優等生然としたおとなしいそれではない、眦の吊り上がった様相である。

 

「それはアイツがっ……あっ」

 

 声色も変わって、言葉遣いもどこか刺々しくなる。それでもそれが口の端に出てきたその瞬間、何かに気づいたように両手で口を塞いだ。

 

「いえ、その。……ごめんなさい、アタシったら」

 

 そう言って、軽く頭を下げる。その振る舞いに、ダイナファントムは察した。

 同室の子――たしか「ウオッカ」とか言ったはずだ――とは、どうにもよそから口を挟むのは難しい関係を築いているのだろうな、と。

 尤も、二人でわざわざ京都くんだりまで出向く当たり、良い悪いでいえば、間違いなく「良い」関係ではあろう。ただその一方で、一言で表せば恐らくは「張り合ってしまう仲」でもあるのだ。「ケンカするほど仲がいい」とも言うだろうか。

 兎に角、これ以上足を踏み入れようとするならば、最低でも彼女の片割れ、ウオッカの方とも面識を得なければ話にはなるまい。そう思ったダイナファントムは、それ以上の追及をやめる。

 そして、自らのことについて、口を開いた。

 

「私はね。あいつに頼まれたんだよ。()()()()()

 

 目線をまたターフビジョンに戻す。場内の実況が、その時ちょうど、今日の圧倒的一番人気たるディープインパクトをフォーカスしていた。カメラもまた、そちらの方へと向かっている。

 

「ディープインパクトさんに……」

「うん。まあ、ちょっと前にあいつに謝りに行ってね。『菊花賞、出れなくてごめん』って。『楽しみにしてたんじゃないかと思って』って」

 

 ダイナファントムは、その時のことを思い返す。

 

 

 

 

 

 確かそれは十月に入るかどうか、ディープインパクトが菊花賞の前哨戦たる神戸新聞杯を快勝した次の週あたりのことだった。

 帰国してすぐと言うことで、日本の芝に感覚を合わせるための芝コース周回の調整が大詰めに入っていたころに、奈瀬トレーナーを伴ったディープインパクトが同じレーストラックにやってきた。

 そして自らのトレーナーに対して「少し二人にさせてほしい」と伝えて、彼女はダイナファントムのことをトラック横のベンチへと誘った。

 

 

 

「最初に。……おめでと」

 

 辿り着いたベンチの上、互いにスポーツドリンクを横の自販機で買ってから、ディープインパクトはそう切り出した。

 何がか、とはさすがに聞く必要もなかった。

 

「ありがと。きみにそう言ってもらえると、嬉しいよ」

 

 つまりは今回の海外遠征の結果についての話である。ディープインパクトもまた表情に小さく喜色を浮かべて、こくりと頷いた。

 

「私も。来年、同じことをしたい」

「キングジョージ?」

「いや、それは決めてない、けど」

 

 腕を組んで、首を傾げる。小柄な体格とあわさって、そのこじんまりとした在り方はどこかかわいらしかった。

 彼女は考え込んでいるようだが、しかしダイナファントムには明確な答えがあった。それ以前にどこか別の海外のレースに挑戦することはあるかもしれないが、そうであっても来年の自らの、そしておそらくはディープインパクトの秋の大目標というのは、一つしかありえないのだと。

 

「まあでも、多分来年はあそこでしょう」

 

 続けた言葉は、ぴたりと合った。

 ――凱旋門賞。

 

「ディープも、行くんでしょ」

「ん、多分。来年、日本のGⅠを一個勝てたら、絶対」

 

 控えめな言い方である。ただそれも宜なるかなではあった。何となれば同期として、来年もGⅠの座を奪い合う関係にあるウマ娘が、今まさに目の前に座っているからだ。

 当然にそれに気づいたダイナファントムは、なんとも微妙な表情を浮かべざるを得なかった。

 

「まあ、それは、ね。……けど、その前に」

 

 故に、話題を逸らす。そしてそれは間違いなく、ダイナファントムがディープインパクトに対して、己がライバルに対して済ませなければならない禊だった。

 

「次走のことだけど。……聞いてる?」

「ん」

 

 返事はすぐだった。す、と目線が合わされる。

 

「秋天」

「うん。それで、ね」

 

 立ち上がる。そして腰かけたまま不思議そうにダイナファントムを見上げたディープインパクトに向けて、彼女はまっすぐに頭を下げた。

 

「――ごめん! 菊花賞、出れなくて」

 

 反応はない。そもそも内面としての性格は兎も角、リアクションという意味では薄いのがディープインパクトだ。そこへ来ていきなりのこれは、或は面食らってしまっている可能性もあるだろうか。

 ダイナファントムはたっぷり三十秒ほど頭を下げ続けて、そして顔を上げる。

 その先、ディープインパクトは目を閉じていた。

 

「ホント、ごめんね。『一緒に走るの、楽しみ』って、前言ってくれてたのに、それを――」

「いい」

 

 そこに続けた謝罪の文句は、彼女によって遮られた。

 目が開けられる。そこにあったのは、いつかのダービーの時のような、底知れぬ深さを湛えた瞳だった。

 ダイナファントムが、小さく息を呑んだ。

 

「私と、あなた。一緒に走るのは、これからいくらでもあるから。一個でも多い方がいいけど、でも、それでいい」

 

 いつも以上に饒舌な口ぶりだ。ディープインパクトが座面を叩く。戻って、座れと言っていた。黙ってそちらに戻り、また同じ高さで、目線が合った。

 

「レースの映像、見た。キングジョージ」

 

 見たのか、ディープも。内心で小さく呟くダイナファントムをよそに、言葉は続けられる。

 

「やっぱり、すごい。……また、強くなってた」

 

 小さく、何度も頷く。手許のペットボトルのふたを開けて、一口中身を飲んだ。

 

「だから、ファン」

 

 そう言って一息ついて、またダイナファントムの方へと視線を向けた。

 

 

 

 そして、言った。

 

「……次のレース。私のレース。見に来て、絶対」

 

 有無を言わせぬ目線だった。

 

「あなたにも、今の私を、見てほしい」

 

 誓いのようでいて、宣言のようでいて、縋るような言葉にも思えた。

 ダイナファントムはそれに、ただ黙して頷く以外の何かを、持っていなかった。

 

 

 

 

 

「……なるほど、そんなことが」

 

 一部始終を聞いて、なんとも言葉にしづらい顔つきで頷いたダイワスカーレットを横目に、ダイナファントムは三度前を向く。

 

「そういうわけだから、どうしてもね。……さ、そろそろだ」

 

 丁度その時に、ターフビジョンにはスターターが振る赤色の旗が大写しにされた。

 関西GⅠファンファーレの軽やかな旋律が、秋の空に響く。

 それを合図に十六人のウマ娘たちが順序良くゲートに納まっていく。四枠七番のディープインパクトも、いつもの通りの平静さで以てするりと枠に入った。

 

 そして偶数番のウマ娘たちも次々に発バ機に納まって、準備が整う。

 クラシックの最終戦、観客席からの熱気も立ち上る中で、それでもいつもと変わりなく、菊花賞のゲートが開かれた。

 

 

 

 その時、ダイナファントムは、「おっ」と思った。或は口にすらしたかもしれない。

 

『菊花賞、今スタート! おっと、今日は四枠七番ディープインパクトすっと出た! いいスタートを切りましたダービーウマ娘ディープインパクト!』

 

 そうなのである。メイクデビューから直近の神戸新聞杯まで、ゲートの出という意味でははっきりと劣等生だった彼女が、今日はほとんど先行勢もかくやと言うほどの出の良さで中段前目に飛び出していた。

 ダイナファントムからすれば、それは小さくない衝撃であった。特に前走の神戸新聞杯は出足で大きく躓きかけて右側に大きくヨレたスタートを見せていたことから、それからあまり時をおかずにここまでゲートの出を改善させたことは、はっきりと驚きだったのである。

 まあ尤も、皐月賞で見せたように五分の出*4ができないウマ娘ではないのだ。どれほどの練習を加えたかは分からないが、これができると言うことそのものを驚きをもって迎えるというのは、逆にディープインパクトに失礼な態度かもしれないと、ダイナファントムは思い直した。

 

『さあ先行争いですがやはりアドマイヤジャパン内からすーっと前に出していく、しかし八番シャドウゲイトやっぱりやってきた、先頭譲らないと一気に外から被せて行って、二バ身ほど離した形での逃げ態勢です。二番手アドマイヤジャパン』

 

 序盤、京都レース場外回りの緩い上り坂だが、そういう形で先頭争いはあっさり決着した。

 元々アドマイヤジャパンは先行するタイプのウマ娘ではありつつもハナは取りたくないタイプであったし、シャドウゲイトは逆に何としても逃げたいウマ娘であった。その利害が一致した形だ。シャドウゲイトの単逃げの構図があっさり現れたこのレースは、必然的にペースという意味では一分を超える、ミドルからスローペースのものになることはその時点ではっきりした。

 そうでなくても菊花賞と言うレースは、クラシック級限定戦ということもあって距離不安があっても出てくるウマ娘が多く、流れが緩くなりやすい。この現状はそれに拍車をかけていた。

 そしてそれを見逃さないのが、ディープインパクトである。

 

『一周目の第三コーナー、三番手ヒサノパテックから四番手コンラッド五番手ローゼンクロイツに十四番フサイチアウステルが続いて一団、そこからは二バ身ほど離れて六番手がアドマイヤフジ、そして! そしてここ、なんと中団前目にディープインパクトがつけています! 今日はディープインパクト好位で進めようということか、先頭から七番手、バ群の丁度中間の辺りにいるぞ!』

 

 今までずっと、再序盤は最後方、そこからじりじりと位置を上げつつも仕掛け始めるまではずっと後方でレースを進めているはずのディープインパクトが、完全に中団のポジションでレースを進めていた。今までの彼女のレースの在り方からすれば、それは掟破りにもほどがあるやり方であった。

 

「どうしたんでしょう、ディープインパクトさん」

 

 横からダイワスカーレットが問うてくるが、それについてはダイナファントムは当然に答えを持っていた。

 

「まあ、前半千まで進めば多分わかると思うよ」

 

 言いつつ、またレースの方へと注意を向ける。

 四コーナーを抜けて、一周目のホームストレッチにすべてのウマ娘が入ってきた。観客席は歓声を以てそれを迎える。

 そして丁度ゴール板を通るか通らないかと言うあたりが、前半の千メートルであった。

 

『前半千メートル通過、先頭シャドウゲイト一分一秒ほどで前半をまとめました。やや後続を突き放しているが、それでもペースはやや遅めか』

 

 正確に一分一秒コンマ二である。いずれにせよ、流れとしては速くない。それに加えて、そのペースで先頭を行くシャドウゲイトと二番手追走のアドマイヤジャパンの二人の後ろには、既にじりじりと開きが出始めていた。位置関係から逆算するに、未だ七番手の位置を保ち続けているディープインパクトの通過時間は、それでも一分と三秒ほどになるだろう。

 

「まあ、こういうことだよね」

 

 ダイワスカーレットの方を向く。彼女は真剣な様子でターフビジョンと目の前のレースの様子を見ていた。

 

「スローになる上に、距離不安がありそうな他のウマ娘もペースを落としそうだから、差し損ねないように早めに上がっていた、ということですか……」

「そう。流石だねスカーレットさん」

「いえ、そんな……」

 

 謙遜するように顔の前で手をひらひらさせているが、実際さすがの読みだ。レース展開に関する勉強は欠かしていないということらしい。優等生然とした振る舞いは、確かな裏付けあってのものであった。

 

「もっと言うと、多分このあと後ろのペースはもっと落ちる。今の感じだとね」

「そうなんですか?」

「まあ、恐らくは。だっていま、先頭のペースは結構しっかり落ち気味なのに、差が開いてるから」

 

 四角出口から一周目のホームストレッチ、前半千メートルまでの四百メートルで、ペースははっきりと落ちている。その一つ前までは概ね十二秒ペース、千メートルを一分で通過しようかといった勢いだったのが、この直線だけで一分一秒である。つまりこの二ハロンで六バ身の差が生まれるほど減速していた。そしてその次、一コーナー中間までのもう一ハロンで、目分量でさえも通過が十三秒前後になっていた。

 それにも関わらず、もう二番手アドマイヤジャパンと三番手ヒサノパテックの間には五バ身もの開きが出来ているのである。

 

「奈瀬さん、天才だわあの人」

 

 思わずダイナファントムの口から、そんな言葉が零れていた。或はディープインパクト自身の考えによるものなのかもしれなかったが、ペースがこういった方向に転ぶことをスタート地点で、否スタート前から読み切っているのだとすれば、もうそれはそう評価するよりほかにはなかった。

 

 兎も角、レースは二周目に入る。

 

『さあレースも後半、向こう正面に入りました。先頭変わらずシャドウゲイト、そこに一バ身半ほどの位置でアドマイヤジャパンが追う、そこから三番手ヒサノパテックはぐーんと離されて六バ身ほど後ろ、隊列は変わりません。ディープインパクトは相変わらず七番手ぐらいの位置、先頭からは十バ身ほど離れているでしょうか』

 

 菊花賞のような長距離のレースは、一度決まった隊列が入れ替わることはほとんどない。そのために脚を使って、スタミナを削られるということが純粋に損であるからだ。実況もそう言うわけでしがいというものがない。先頭からシンガリまでのウマ娘の名前を呼ぶのは、これで三回目になろうかというところであった。

 そこで、スタート地点を通過する。つまり残り千メートル、勝負は終盤に入ろうとしていた。

 

『さあここから二回目の淀の坂、お互い見合いながら、仕掛けどころを窺いながら登っていく。先頭の二人と三番手以降には相変わらず大きな差がついたまま、後ろは、ディープインパクトはどこで仕掛けるか』

 

 実況はそう囃し立てるが、実際問題として六バ身前にいる二人のウマ娘は走りから見ても最後の直線の中で脚が残っているかは微妙なところであった。シャドウゲイトはもうすでに限界が近く、アドマイヤジャパンはそれでも余裕はあれど、今三番手以降に対して持っている一秒のリードを活かした状態で最後まで走り切れるかといえばなかなか難しい。特に十バ身後方のディープインパクトが、後ろ側のドがつくほどのスロー展開のせいで溜りに溜まった脚を解放したときにそれに抵抗できるかどうか、つまりディープインパクトの上がりに比して二秒弱程度遅いぐらいに自らの末脚の鈍りを留めつつ、それをあの位置、番手のところから繰り出せるかどうかは、正直なところなんとも言えないとしたものであった。

 つまりこれほど先頭から距離を離された場所を走っていようが、盤面の主導権はディープインパクトが握っているのだ。それほどまでに、あの暴力的な末脚というのは武器であった。

 というわけで、ディープインパクトはとにかく焦らない。彼女たちのバ群という意味では実質的に先頭となっている三番手のヒサノパテックが作り出す緩いペースをそのままに、位置を上げも下げもせず、七番手の場所をしっかりキープしたままに坂を登る。

 まさに「ゆっくり登ってゆっくり降る」淀の坂のセオリーに逆らわない、見事な、そして王道のレース運びだった。

 

 それで十分だと思っている辺りで、もうすでにダイナファントムはディープインパクトの勝利を確信していた。

 

 斯くてバ群の先頭が坂の頂点に達し、そこからゆっくりと下り坂に入る。そこでもペースが上がらない辺り、もう後ろのウマ娘たちは全員が三ハロン戦を演じる覚悟を決めたとも言えた。当然にディープインパクトも動くことなく、じっくりとしたペースでL3標識を通り過ぎる。

 果たしてそこで、局面は大きく動いた。

 

『残り六百を過ぎて、さあ一気にレースが動き始めた、後ろからウマ娘たちが一気に仕掛けて前の二人を捉えようとする! そしてここで二番手アドマイヤジャパンもシャドウゲイトを躱して先頭に立った! 一気にバ群が慌ただしくなり始めたぞ!』

 

 全員が示し合わせたように平穏に進めていた隊列が、ひしゃげるように圧縮され、乱れていく。まさしくそれは典型的な、四角よーいドンのレースであった。

 そしてそう言う類のレースは、まさしくディープインパクトの得意とするところである。

 

『そしてディープインパクトも上がる! 一気に上がる! 悠然と外に持ち出して、今五番手から四番手、四番手から三番手! 最後の直線へと入る!』

 

 絵に描いたような好位抜け出しのウマ娘のレース運びであった。道中七番手から最後のコーナーで外に持ち出し、先頭とははっきりと違う脚色を発揮しながら最終直線に入る。その時点で先頭とはおよそ四バ身ほどの位置、最終直線入り口がL2、残り二ハロンということを考えれば、もうそれは殆ど決まったようなものであった。

 しかしそこで更に、ディープインパクトは追い打ちとばかりに身体を沈める。歩幅が、ぐっと開いた。ダイナファントムはその走行フォームに見覚えがある。つまり、自らがダービーで敗れた時の、彼女の見せた姿勢であった。幾度となくダービーのレース映像で見た、その最後の一ハロンの動きを、彼女は今度は残り二ハロンの時点で始めていた。

 

『さあ最後の直線入ってアドマイヤジャパン未だ先頭! 後ろはローゼンクロイツが追いすがるが足らないか! しかし、しかしその横、バ場の中ほどから一気にやってきた! 一気にディープインパクトやってきた! ダービーウマ娘ディープインパクト、やはりここで突っ込んできた!』

 

 まさに異常なまでの爆発力を持った末脚であった。三千メートルのうち、二千四百メートルを延々と内で溜めていればこういうことになるのだと、それはデモンストレーションのような動きでもあった。

 一完歩が、速い。そして広い。比喩でもなんでもなく、彼女の内側を走るウマ娘が、止まって見えた。

 

『ディープインパクトが、ディープインパクトがすごい脚! 内の方など全く問題にしない! あっという間に二番手、そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! たった二百メートルで四バ身詰めた! ディープインパクト先頭!』

 

 その鮮やかな一閃は、見るものすべてを魅了して、熱狂させる。

 立ち上がり、拳を振り上げ、観衆の普くが声を上げる。

 差は、どこまでも開く。最終直線が平板なこの京都のホームストレッチは、ディープインパクトのことを一つとして妨げることはない。

 

『伸びる伸びるディープインパクト、何という強さ! 異次元の差し脚だ! 二バ身三バ身、いやまだ突き放す!?』

 

 そのまま文字通りすべてを置き去りに、彼女はただ一人、抜けた実力を見せつけが如くにゴール板を通過した。

 

 

 

『追うものはもはやいない! 邪魔立てなど許さない! ディープインパクト圧勝でゴールイン! 日本ダービーに引き続き、菊花賞を制して二冠達成!』

 

 沸き上がった歓声が、ディープインパクトの勝利を讃える。

 どこまでも涼しい顔でゴール板を通過した彼女が、すぐに減速して、そして立ち止まる。そのままにきょろきょろと、誰かを探すような素振りを見せた。

 スタンドの方へと振り返り、向き直って、目を凝らす。ウイナーズサークルのほうから更にゴール板を踏み越えて戻って、一帯を眺めるように見回した。

 

 その姿に、ダイナファントムは気づく。

 ――ディープは、私を探している。

 

「ちょっと、ファントムさん……!?」

 

 横で戸惑ったように声を上げるダイワスカーレットを差し置いて、故にダイナファントムはその右手を大きく掲げた。

 果たしてすぐにディープインパクトは気が付く。足早に近づいて、しかし垣根が確かに隔てる距離を挟んで、二人のウマ娘は向かい合った。

 

 

 

 声は、届かない。それでもそこに、視線がぶつかる。

 ディープインパクトが見上げて、ダイナファントムが見下ろす。

 そこに見える瞳の光は、確かにダイナファントムに一つの意思を伝えていた。

 

 「次は、あなたの番」。そう、彼女は言っていた。

 

 ダイナファントムは、大きく頷く。そして親指を立てて、眼前にいるウマ娘に、しかと突き出した。

 任せておけ。そんな、意味を込めて。

 

 

 

 果たしてその意思は、ディープインパクトにも、確かに伝わったのだろう。

 微かに、しかし確かに、その口の端に、笑みが浮かんだ。

 

 

 


 

 レース結果:4回京都6日11R・菊花賞(GⅠ)(芝右3000・晴・良)

 一着・ディープインパクト

 二着・アドマイヤジャパン 5身

 三着・ローゼンクロイツ 4身

 

 上がり3F: 34.9 (12.0-12.1-10.8)

 なお、ディープインパクト: 33.0 (11.3-10.9-10.8)*5

 レースタイム: 3:04.3*6

 

*1
多血小板血漿注射。再生医療の一種で、筋肉や靱帯の自己修復を促す治療法。野球選手の靱帯治療術として有名だが、実は競走馬にも同一の治療法が適用されている例がある。ただ現実のシーザリオはこういった治療は受けていなかった。

*2
ヴィクトリアマイルのこと。当該競走は2006年から新設された。

*3
アーモンドアイの母。史実では角田晃一騎手が最初は主戦であった(優駿牝馬のタイミングで福永Jに乗り替わり)

*4
繰り返すがこの世界の話。現実においては躓いた。

*5
史実におけるディープインパクトの上がり3Fは33.3。

*6
史実における本レースのタイムは3:04.6。

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