お茶の間を沸かせ、物議を醸し、しかし最終的には好意的に受け止められた、そんなダイナファントムの「宣戦布告」会見――とマスコミは書き立てた――から、三日が経過した。
実のところ当のダイナファントムは、あの異様なテンションでぶちかました会見から正気に返るや否や、全力で後悔していた。
極端に卑近な言葉で表現するならば、
何となればあの日のダイナファントムの物言いというのは、はっきり言ってケンカを吹っかけているも同然だったからである。確実にそれまでの空気の中で、自らを除いた上位出走者が片っ端からダイナファントムのことを強く意識する言葉を口にしていたことで、魔が差してしまったのだ。
そういうわけで会見から一夜が明けた金曜日、ダイナファントムはトレセン学園のなか、どこか縮こまった振る舞いを余儀なくされていた。彼女自身の心情が、そうさせていたのである。
しかしそこに、そんな彼女のありかたをよしとしないウマ娘が、一人いた。
ただしそれは、ディープインパクトでも、ダイワスカーレットでも、ましてやシーザリオでもない。
それでもその人物は、ダイナファントムにとってよく見知った存在であることは、間違いがなかった。
クリスマスイブが明け、いよいよ日本という国が年の瀬に向かって突き進み始めたこの頃合いに、十六人のウマ娘たちが中山のターフの上へと集結する。
中山第九レース、トゥインクル・シリーズにおける一年の締めくくり、ダービーをクラシック組の祭典とするならば、全世代のウマ娘にとっての祝祭の一番、有馬記念の到来である。
第九レースというのがやけに聞き慣れぬ響きを持つが、例年のこの日、つまり第五回中山開催の八日目は最終レースが第十レースとなっていた*1。つまり第九と言えど、メインレースが最終レースの一つ手前という慣習には変わりない。
時刻は午後三時、出走までは残り三十分を切っている。そのただ中にダイナファントムは、いつものように一人佇んでいた。
中山レース場に集まっている観客の声が、地鳴りのように響いている。一つ一つは未だ歓声の如く張り上げられていなくとも、十万人を優に超す、否二十万人に届くかというほどの、凡そダイナファントムが経験したことのない人出となったスタンドは、ひとりひとりの話し声の積み重ねですらも、それほどの激烈な大音声となってこの空間を揺るがしていた。
発走位置は、中山外回りコースの向こう側、つまり今ダイナファントムが立つスタンド前からは大きく離された場所にある。あと十分もすれば、彼女はそちらに向けて歩を進めなければならなくなるだろう。
それでもダイナファントムは、目の前のスタンドから降り注ぐこの喧噪を、それが齎す非日常感というものを、全身で感じたかった。今この時は、この時ばかりは、そうしていたかった。
しかしそこに、声がかかる。
「ファーンちゃん!」
気安い声だ。肩も叩かれた。瞑目しながらも観客たちの出す音の津波に浸っていたダイナファントムが、その瞼を開く。そして声の主の方へと振り向いた。
葡萄茶と黒をベースとして、そこに黄色がワンポイントに入った舞踏服のような意匠の勝負服を纏い、青いイヤーカバーをつけているウマ娘だ。
ダイナファントムはその姿に、見覚えがあった。
「
「そんなかしこまらなくていいでしょー、私と君の仲なんだからさ!」
正面に回って両肩を掴むように、ダイナファントムを覗きこんでにんまりと笑む。暗褐色の髪の中に、大きな菱形の白い流星が映えていた。
彼女の名は、ハーツクライ。ダイナファントムにとっては、デビュー前に滞在していた山元パークにおけるエルダーとして、何度か併せを担当してもらっていた、先輩格の人物であった。
「どうよ、ファンちゃん、今日。ブルってる?」
そういうわけでというべきか、かのウマ娘がダイナファントムに向けてかけるのも、そこかフランクさを帯びた台詞である。
ダイナファントムのほうも、それをまたよしとしていた。
「ブルってる……いや、そんなことはないです。というか、ありがとうございました、
「え? あぁ、
暫し思案顔をしたハーツクライが、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。
「いやぁ、ファンちゃんのあんなとこなかなか見ないもんね」
「まあ、でも実際、肩身狭かったので……」
困り顔で答えたダイナファントムのことを、その肩を、ハーツクライは二度ほどパシパシと叩く。そのまま、スタンドの方を向いた。
「まあ、しょーがないよあれは。私もずいぶん煽ったしね、あのとき」
言って、流し目で思わせぶりな笑みでダイナファントムのことを見返す。
対するダイナファントムも、小さく笑った。
つまり木曜日の抽選会のあと、どこか寮の中でもトレーニングコースの中でも居心地悪そうな顔をしていたダイナファントムのことを気にかけたのが、何を隠そういまダイナファントムの目の前にいるウマ娘、ハーツクライであった。
そして彼女のとりなし――とはいってもシニアのウマ娘たちは別にそこまで気にはしていなかったものの――もあり、ダイナファントムはその後の二日を平静な態度で過ごすことができていたのである。
ダイナファントムが今口にしている礼というのはつまりはそのことで、そしてハーツクライはそれについては気にするなと、そう答えていた。
しかしそこでハーツクライが、表情を凛としたものに変える。そのままダイナファントムに向き直り、背筋を正した。
「まあ、でも。私はね、まあ秋天で君にボコられたわけじゃん」
「ボコられたって……」
「いーや、あれはボコられたね。まあ二着にもなれなかった私が何を言うんだって話だけど」
その言い分に困った表情をまた浮かべたダイナファントムめがけて、ハーツクライがまたニヤっと笑む。
「まあ、それで君も、あと『ディープインパクト』とかいう君のライバルも、まあ手ごわいよねってみんな思ったのは事実だ。私もそう。ま、私はもともとファンちゃんの強さはよくわかってたけど」
ハーツクライが一度言葉を切る。自分のことをそうとまで正面から賞されることに未だ面映ゆさを隠しきれていないダイナファントムのことを微笑ましくも見つめて、しかしそこでその表情を改めた。
「まあそういうわけだから……」
そして、グイっとその顔をダイナファントムに寄せる。正面から睨むように見据えて、その言葉を放った。
「『今度は、ああはいかないぞ?』」
凄むような調子だった。口角が上がり、笑んでいるようで、しかしそれは攻撃的と言い表すべき表情でもある。
ダイナファントムは、眼前の先輩ウマ娘の豹変に、一瞬だけ目を瞬かせる。それでもそこからすぐさま、似たような表情を浮かべて笑み返した。
「望むところですとも。あの時はああ言いましたけどね、私はディープにだって負けるつもりはないですよ。もちろん先輩にだって」
額がくっつくほどの距離で、威嚇するように視線を向け合う。
暫し無言でそれを続けて、しかし唐突に、耐えきれないと言った風情でハーツクライが吹き出した。それに続いてダイナファントムも笑い声をあげる。
中山の空の中、喧噪に交じり合うように、二人のウマ娘のその声が響いて、そして溶けた。
一頻りそうやって笑い合って、ハーツクライが一歩、ダイナファントムから身を離す。そしてその場でくるりと回れ右して、スタート地点の方へとその顔を向けた。
「んじゃ、行きますかね」
ダイナファントムは無言で頷く。そこからは二人黙したままに、返しウマがてらに発バ機へと向かっていった。
互いに宿る闘志はそのやり取りによって昂り、彼女たちはこの有馬記念に臨む自らの想いというものを、新たにした。
それと同時、ダイナファントムの胸中には、また一つの感慨というものが、俄に浮かび上がる。
まさにこれから始まるのは、ウマ娘の祭典である。その誰もが、少なくないファンからその活躍を望まれる形で、あの場に立っているのだ。それほどの功績を積み上げて、それほどの力を持ったウマ娘が、
そして当然に、その中にはダイナファントムの最も数多く戦ってきた、そしてこれからもそうなるであろうウマ娘の影がある。
ディープインパクトが、そこにはいる。
ゲートの前、三々五々に集まるウマ娘たちの中、小柄なそのシルエットは、ダイナファントムにはぽっかりと浮き上がって見える。
立ち止って空を見上げて、一人思惟の中に沈んでいるようにすら見えるその姿が、しかしそこでピクリと動く。まずその耳がなにかを探し当てるかのようにくるりと動き、そしてそのすぐあとに、天へと向いていた顔が正面へと落ち着いて、そのままにダイナファントムを向いた。
半身のような形で、顔だけが合う。五メートルほどの距離を経て、ダイナファントムとディープインパクトの二人は、互いに動くこともなく、言葉を交わすこともなく、静かに向き合った。
芝を踏む雑踏が、どこか遠くに聞こえる。視界のほかはどこか霞んで、目の前の互いの存在以外は、何者も目に入りはしない。
その中で、それ故に、互いに何かを言う必要は、きっとなかった。
それはこれから始まる二分と三十秒の中、言葉よりもなお饒舌な五感の全てで、伝え合えばよいのだから。
二人の間、その認識が共有される。ダイナファントムが頷き、そしてディープインパクトが頷いた。互いに視線を逸らし、ゲートの方へと身体を向けたその時に、視界の隅で、スターターの赤い旗が振られる。
程なく響くファンファーレが、この年最後の芝レースの、ウマ娘たちの祝典の始まりを、高らかに謳った。
『今日のこのレースにて、今年のトゥインクル・シリーズ、東日本開催の芝レースは最後になります』
ウマ娘たちの枠入りを背景として、実況が情感を込めて語る。
『この年もまた様々な物語が、この国のターフの、或はダートの上を駆け抜けていきました。そして今年はこの国すらも飛び出して、日本の夢を、世界に届けてくれたウマ娘もいました』
六枠十一番にするりと入ったウマ娘に、カメラがズームする。
『願うならばもう一人、世界を制したウマ娘も、この場で走る姿を見たかった。しかしそれは、また次の年の夢に、取っておくことになるのでしょう』
――ファンさん。
広い中山レース場のスタンドのどこか、観戦に来ていた一人の青毛のウマ娘が、それを聞いて口の中で呟く。掌が、ぎゅっと握りこまれた。
『この場に集う十六人の優駿たち、その中心に立つのは二人のクラシック級ウマ娘です。この両者のライバル関係も、この年のトゥインクル・シリーズのシーンを大いに沸かせてきました。そして今、その二人は同じゲートの中、五度目の激突の時を迎えようとしています』
大柄な青鹿毛、小柄な鹿毛。逃げと、追い込み。そのコントラストが生み出してきたドラマを想起しながらも、観客たちは徐々に、歓声の音量を下げていく。
『そしてそれを迎え撃つは十四人の歴戦の猛者たちです。クラシック級の新星二人が新たなる時代の幕開けを謳い上げるか、それとも他十四人の誰かがそれに待ったをかけるのか。――さあ、今全てのウマ娘が、無事にゲートインを終わらせました』
斯くして、そこには静寂が訪れた。痛いほどに張り詰めて、それでも隠し切れない興奮をその薄皮一枚下に漲らせて、誰もがその始まりの時を、固唾を呑んで見守る。
『ここから始まる夢の二分三十秒、十六人が描き出す未来を、一緒に見届けましょう。……中山一年総決算、グランプリ有馬記念、体勢整って――スタートしました!』
それが臨界点へと達したその場所が、レースの始まりであった。
序盤の展開というのは、誰もが予想した通りのものとなった。
『全員揃った出となりましたが、やはり、やはりポーンと飛び出して十一番ダイナファントム前へと行く。そこにこちらも逃げの座は譲らないと内で九番タップダンスが、タップダンスシチーが上がって行って二人並ぶ、さらに外オースミハルカこれはちょっと行ってしまっている感じで上がっているが大丈夫そうか、一方六番ディープインパクトはググっとペースを落としつつほとんど最後方へと下がっていきました』
ダイナファントムが先頭、そしてディープインパクトが後方、いや最後方である。それはこの二人のこれまでのレースでの戦いぶりを象徴するものであった。
『やや出足を使うようにして半バ身リードしていたダイナファントムが一バ身リードを取って内々に入ったか、これで先頭ダイナファントムに二番手タップダンスシチーという構図、そしてオースミハルカとなんとその後ろ四番手には十番ハーツクライ! ハーツクライ今日はなんと先行策! これはこのレースのためにとっておいた秘策かハーツクライ!』
そこで、実況が少し驚愕の色を滲ませた声で現況を伝える。一周目の三コーナーの攻防の中、確かに青のイヤーカバーに黄色のワンポイントが眩しいウマ娘、ハーツクライはタップダンスシチーの後ろ一バ身につけたオースミハルカの更に一バ身後ろ、単独の四番手の位置につけて序盤戦を進めていた。
その驚きには当然に理由がある。何となればかのウマ娘、クラシック級であった去年からずっと、差し、否、どちらかといえば追い込みの位置からレースをすることがほとんどであったのだ。彼女のダービーもまた、壮絶な消耗戦となる中先行から押し切りを図るキングカメハメハをほぼ最後方から上がり最速の脚で猛追して、二着という結果を残している。
それほどに「いい脚」を使うウマ娘が、今日のところはなんと十六人のうち四番手、想定外に上がってしまったオースミハルカを除けば前には逃げウマ娘二人を置いたのみと、実質的には先行勢の先頭とも言っていい位置でレースを進めている。それはともすれば博打のようなレース運びと言えた。それ故の、先の実況であった。
観衆も、少なからずざわついている。しかし当のレースを走るウマ娘たちには、焦りの色もなければ動揺も生まれていない。流石は経験豊かな一線級のウマ娘たちと、それに伍する才覚や能力を持った二人のウマ娘という構成である。隊列は比較的早いうちに安定し、そして第四コーナーを回って一周目ホームストレッチにやってきた。
『さあここで西日が照らすホームストレッチに一団となってウマ娘たちがやってきた。一周目の二百のハロン棒を通過して正面スタンドの影へと潜り込んでいく。先頭やはりダイナファントムだがこれは少し隊列を引っ張ろうとしているかやや後方とは差が開いた、恐らくは四バ身五バ身ほどの差、後ろタップダンスシチーは二番手でマイペース、そこにもう四バ身ほどの差がついてオースミハルカこの位置で落ち着いたか。後ろはハーツクライそれをマークするようにつけているが、一枠一番マイソールサウンドもそこに負けじと前を狙う体勢、その後ろに北海道の星コスモバルク中団じっくりと追走の姿勢だ』
実況がその辺りまでの隊列を読み上げている間に、トップストレッチを通過して第一コーナーへと差し掛かった。その辺りが、前半千メートルである。いつものように実況が、その通過タイムと流れについて言及した。
『一コーナーに入ったところで前半千メートル、通過タイムは一分とコンマ三ほど、一分とコンマ三ほどです。遅くもなく早くもなく、先頭ダイナファントムはどうやら得意のペースに持ち込んだか』
それはこのレースの隊列の構造からすれば、やや意外なものであった。ダイナファントムが一分丁度で逃げている後ろ、五バ身の位置でタップダンスシチー、そしてその後ろにまた四バ身ほどの差がついて先行勢となっている。通常であればこの程度のミドルの逃げには後続がかなり食らいついておかなければならないところ、しかし後ろは実質的には九バ身も離された位置にある。
これはつまるところ、ダイナファントムの
それにはまさにその一走前のことが、ある種の布石として作用していた。つまり件の秋の天皇賞のなか、ダイナファントムが常軌を逸した大逃げを打ったことで、「彼女のペースアップには大逃げの意図がある」とこの場のウマ娘たちに印象付けた。あの秋天に出ていたウマ娘のかなりの部分が、今回の有馬記念にも出走していることから出来た芸当とも言えた。
構図としては、かつて大逃げ戦術の多用で多くのトゥインクル・シリーズのファンたちから愛された個性派の逃げウマ娘、ツインターボのそれを彷彿とさせるものがあるだろう。つまり彼女が七夕賞とオールカマーで立て続けに逃げ切り勝ちを収めた戦略の、それは焼き直しであった。
一戦目、無理やりな大逃げで後ろの脚を壊滅させて強引に逃げ切る。
そして二戦目、それと同じようなペースアップをちらつかせることによって後ろがペースを誤認するように仕向け、警戒して無駄に控えた追い込み勢の脚を溜め殺しの状態に置きながらも自分だけは十分な脚を溜めて、更に安全距離まで稼ぐ。
ツインターボは二千メートル戦からの二千二百メートル戦という形でそれを行ったわけだが、ダイナファントムの場合は前走二千メートル戦からは五百メートルの延長である。ペースの誤魔化し方という意味では距離区分が変わってしまう今回の方がより難しさを抱えているのは確かではあったが、それでも今このタイミングにおいては、その戦術的組み立てというのはどうやら奏功しているようであった。
『ここから向こう正面へと入っていきます、依然ダイナファントムが先頭で気持ちよく逃げている。その後ろタップダンスシチーも五バ身後ろをマイペースに追走といったところだがこうなると後ろにはやや厳しい流れになるか? コスモバルクが前に前に上がってきてハーツクライも躱してここで四番手、オースミハルカを外において内で並びかけようという体勢か、ハーツクライは自分のポジションを守ったまま五番手につけています』
抑えきれない感じで進出を開始したコスモバルクのほかは、どことなく我慢比べの様相を呈している今年の有馬記念だが、結局のところそれは全体が先頭の、ダイナファントムのペースを「ハイペースだ」と誤認しているところに原因がある。つまりこの差を詰めようとダイナファントムに対して仕掛ければ、ペースに潰されてレースにならなくなってしまうと後方勢が漏れなく考えているからこその展開であった。
しかし、その中でただ一人、ダイナファントムのペテンを見抜いている者がいる。その正体とは、やはり言うまでもなかった。
『そして後ろ、あ、いや、ここで動いた! 向こう正面中ほど、ゴールまでまだ千メートルほどの場所で、ディープインパクトが動いた! バ群後方につけていたディープインパクトが大外に持ち出して、一気にするするっと中団、六、七番手まで上がってくる!』
ディープインパクトは、前半千メートルほどの地点を通り過ぎたその時点で、このレースの真のぺースについては理解していた。ただそこはコーナーの真っ最中である。その途中で位置を上げようとすると、どうしても大外に持ち出してからの動きである以上距離のロスが大きい。さらに言えばその時点でまだゴールまでは一マイル近くあり、スローなペースからの位置取りの調整を図る必要をそこまで感じてはいなかった。
故にこそ、彼女はそこで仕掛けた。残り千メートルを通過したその時点、ゴールから五ハロンの位置から、ディープインパクトは超々ロングスパートを開始する。それはディープインパクトにとっても初めての試みであった。
この戦術を所謂、「捲り」と言った。
そうなると、どうしても反応せざるを得ないのが他のウマ娘たちである。彼女たちは、ディープインパクトのその挙動を見て大きく二つに反応が分かれた。
その一つは、「掛かった」と見做すものである。つまりクラシック級故の若さが出て、先頭を走るダイナファントムがはるか遠くにいることへの我慢が利かず、ここで無駄に脚を使っていると考えたのだ。
ただその傍らで、ディープインパクトの挙動に強烈な危機感を抱くウマ娘もいた。それは今回のレースに出てきている中でも、秋の天皇賞でダイナファントムに圧勝逃げ切りを許した者たちである。
これまでの四戦、ダイナファントムとディープインパクトはその勝ち負けは兎も角としてもついた着差はわずかである。最低でも、先の秋天のような「大差」などという事態にはなっていない。つまりダイナファントムに対しての仕掛けのタイミングを最も知悉しているのがディープインパクトであるのだ。その彼女が、ここで仕掛けた。
それの指し示すところを理解したその瞬間に、バ群は一気に慌ただしくなる。
『ディープインパクトに合わせるように前のウマ娘が動き出したぞ! ゼンノロブロイ、ディープインパクトに並ばれて今じりじりと前へ押し上げる! リンカーンもつられて上がってその辺り一団! 向こう正面から第三コーナーで一気に展開が動いた! 二番手タップダンスシチーとの距離が縮まっていく!』
それは、ある意味において恐慌にも似ていた。急に変わったレースのペースに追走できないウマ娘は三列四列ほど広がったバ群から少しずつ落ちていく。
そう言う意味では、ディープインパクトはこの状況を
しかしそれは彼女の身一つでどうにかするのは困難なところであろう。差し、追い込みの難しさと言うのは、そう言う他のウマ娘の動向にどうしようもなく左右されることにあるのだから。
何にしてもそういうわけで、結局三、四コーナーにおいては外々を走らされることを余儀なくされたディープインパクトだが、それを代償にしてぐんぐんと位置を上げていく。つられて上がって行くのがゼンノロブロイであり、リンカーンであり、また或はそれよりも一足先に独自の嗅覚で以て先団に取り付いていたコスモバルクである。そしてそのあおりを食らったのが、その時点で彼女たちより前につけていたウマ娘たち、つまりオースミハルカやマイソールサウンド、そしてタップダンスシチーであった。
彼女たちは後ろから急にやってきた恐慌に巻き込まれて無駄に脚とスタミナを使わされる結果になり、三、四コーナーの中間、六百の標識の辺りで既に手ごたえをなくしていた。
しかし先行勢の中でただ一人、後ろの狂騒にも動じずに、静かに仕掛けを始めたウマ娘がいる。それこそが、ハーツクライであった。
『残り六百の標識を通過! さあバ群が入り乱れる中前目につけて抜け出しを図るのはハーツクライ! オースミハルカを躱して、タップダンスシチーに迫るコスモバルクの後ろからさらにその前を狙う! ディープインパクトは大外に持ち出して今四番手から五番手の位置、ハーツクライの一バ身半ほど後方から猛追の姿勢だ! しかし先頭はダイナファントム、未だ後続からは五バ身六バ身離したまま第四コーナー中間地点を迎える!』
それは例年の有馬記念に比べれははっきりとした早仕掛けである。それ故に途中までのスローな展開で溜っていた脚はある程度削られて、最初の方において予期されていた切れ味勝負の展望とは裏腹に、完全なる消耗戦の様相を呈し始めていた。
『残り四百、それでもじりっじりっと前との差が詰まり始めた、コスモバルクタップダンスシチーを捉えて二番手に上がる、そしてその後ろハーツクライ! ハーツクライやってきた三番手! ディープインパクトも外一気に上がってハーツクライに並びかける! この三人と先頭ダイナファントムの争いになるか、さあここで、さあここで最後の直線だッ!』
残り三百十メートル、夢の終着地が見え始め、ひときわ大きな歓声が、最後の攻防に臨むウマ娘たちに浴びせかけられた。
ダイナファントムは、自らが概ね想定していたプランの通りに最終直線まで至れたことを知る。後ろのペースを誤認させ、途中で気づいたディープインパクトの仕掛けが生み出す波紋で後方勢をかき乱し、その煽りを食らったディープインパクトに少しだけ脚を使わせることで、粘り込みを図る。
その思惑は達成されて、今まさにフィナーレの時へ辿り着いた。
しかし、それでも彼女の想定よりは、差が詰まっている。直線入り口で五バ身あればセーフティーリードだと思っていたところが、もう三バ身と少ししかない。
――ハーツクライ先輩だ。
ダイナファントムは直感していた。あの人が開幕から後ろではなく前につけていたことで、ディープインパクトが躱さなければならないウマ娘の数が一人減った。それが、最終的にこれほどの差になっている。
そして当のハーツクライも、今まさにその好位から始めたスパートによって、ダイナファントムのことを捉えようとしている。
「今度はああはいかない」。彼女の言葉が頭に浮かぶ。それはまさしく、斯くなる秘策をその手の内に持っている、そんな自信からくるものだったのだろう。今回ばかりは勝つのだと、そういう決意であったのだろう。
けれども幸い、まだ脚は残っている。どうにか粘り込むべく、ダイナファントムもまたスパートの体勢へと入った。
しかし彼女の影を追う猛威は、それでも止まることなどない。
最終直線に入ってから残り二百メートルを通過するまでは、六秒弱ほどだ。しかしその間に、残りは二バ身差となっていた。一馬身と少し、詰められたということになる。
そしてそこで、ダイナファントムは後ろに強烈な存在感が、
幾つもの幻影が場を満たしていくのを、否応なしに知覚した。
暗闇に剣を掲げ、振り下ろした先に拓かれた花園を望む、勇者の姿を見た。
北の大地の中に見えた一番星を追いかける、無垢な願いの結晶を見た。
ダンスホールの中、ピンスポットに浮かぶシルエットが、いつか満座の観衆の中に誉れを得る、そんな渇望を見た。
そしてその上を超え、純白の羽根を散らしながらも蒼天にその身を躍らせる、孤高のウマ娘の姿を、見た。
誰よりも高く、誰よりも疾く、誰よりも先に往かんとする、小さくも大きな、我が
『外と内、ディープインパクトとハーツクライ一気にスパート、一バ身の距離の先、瞬く間にダイナファントムを捉える!』
ターフの上にそれぞれが賭ける祈りの表象が、思いの具象が、極彩色の如くに輝いて、耳を聾し、目を灼く。
『並んだ! 並んだ! ディープインパクトか! ハーツクライか! ダイナファントムか! ディープか! ハーツか! やや外ディープか! 中ダイナファントムはちょっと苦しいか!」
このターフの上、それぞれに持ち寄った夢を叩きつけて、押し寄せる光の波はもはや洪水にも似る。
その燦然たる煌めきの中に身を揺蕩わせながら、それでもただ一つの思いが、そこに残った。
そうだ。それ故に、だからこそ、なんとしても。
――私だって、譲れはしないのだ。
『――いや、いや! ダイナファントム! ダイナファントムが!』
内にハーツクライ、外にディープインパクト、それぞれ横に並ばれて、今まさに抜き去らんとされたその瞬間に、中空に描き出された光の轍が、そこに挟まれる青鹿毛のウマ娘の存在感ごと膨張して、その全てを塗り替えた。
踏み出す足が、刻み付ける蹄跡が、夜すらも昼の如くに照らす真白の光点になる。放たれる光芒が今視界をも切り裂いて、全てを置き去りにする加速を生んだ。
残り百メートル、半バ身躱されていたダイナファントムの身体が、そこに宿るエンジンが、再点火する。斯くてその直後、前を走る二人のウマ娘を一瞬にして捉え返した。
『差し返す! ダイナファントムが
前三人が後続を一気に引き離して、死闘とも称すべき叩き合いを演じる。
観衆が、叫ぶ。自らの託した夢に、一着の栄誉をと、ただ声を涸らす。
しかしそれはたった百メートルのこと。終わりは、ほんのすぐ先にある。
果たしてそれを、その結末を、スタンドの誰もが、目に焼き付けた。
『ダイナだ! ダイナだダイナだ! ダイナファントム頭一つ抜け出した! 三人壮絶な競り合いの中一歩前に出て――今、ゴールイン!』
そしてその場所こそが、極光の如くに輝く夢の、果ての場所となった。
『勝ったのは、勝ったのはダイナファントム! 残り百メートルから見事な差し返し! 何と言う根性! 何と言う勝負強さか! ダイナファントムまさに今、十六人の描く夢の頂点、有馬記念を制して、年末の王者となりました……ッ!』
全てを出し尽くしたかのような、虚脱が身体を支配する。
あの時、秋の天皇賞のあとに体を覆ったそれよりも、なおも深い場所から、それは湧き出でてきた。
走るペースを落としながらも、スパートの間ずっと止めていた、やり方すらも忘れていた呼吸を取り戻し、燃えるが如くの熱を帯びた自らの身体を冷ましていく。
そしてダイナファントムは、第二コーナーの手前ほどまで走ったところでその足を止めた。
『二着は接戦も外ディープインパクト残している! ――新しい時代の始まりを告げる、
遠く、一際上がった歓声に振り返る。スタンドの方へと目を向けた。着順が決まった、のだろうか。
距離を隔て、小さく見えるスタンドはどこか遠い世界のようでいて、それでも今も耳に残るあの場所の賑やかさは、隣にずっと寄り添っている。
夢と現実の間にふわふわと佇む錯覚すらも抱いて、ダイナファントムは茫洋な目線を、ただ虚空へと向ける。
そこへ、二人のウマ娘が歩み寄った。
「ファン」
「ファンちゃん」
音が、被る。涼やかな落ち着きをもたらす声と、温かく心を奮わせる声が、同時にダイナファントムの耳朶を打った。
その源に目を向ける。果たしてそこにいたのは、鹿毛の二人のウマ娘だった。
ディープインパクトと、ハーツクライだった。
「あ……」
ダイナファントムは、言葉に詰まる。今回のレース、勝者が自分であるということは、何よりもよく理解していた。そうであるがゆえに、及ばなかった目の前の二人に、こちらから何を言うのが正しいのか、そもそも何か言うべきであるのかどうかさえも、彼女は分からなかった。
呆然と立ち尽くすその姿を見て、まずハーツクライが語り掛ける。
「いやー、やられたよ。今年……いや、キャリア始めてから一番いい走りだったんだけどなぁ……」
悔しそうな声で頭を掻いて、それでもその顔はどこまでも晴れ晴れとしていた。
「
そして歩み寄った目の前、ダイナファントムの肩に手が置かれて、揺さぶられる。二度三度とそれが続いて、視線を合わせたダイナファントム目掛けて、ハーツクライは笑顔を向けた。
「ま、次はこうはいかないよ。でも今日のところは……おめでとさん、ファンちゃん」
パンパン、と最後に二度ほど肩を叩いてから、ダイナファントムに背を向けて、ハーツクライが離れていく。
そしてそれと入れ替わりに、もう一人のウマ娘が、小柄な暗褐色が、ディープインパクトが、側へと近寄ってきた。
袖が引かれる。目線を合わせた。いつものように変化に乏しい表情でも、その瞳の奥にある光は強く、ダイナファントムの目の中へと差し込んでいた。
いつもの姿勢だった。ダイナファントムが見下ろして、ディープインパクトが見上げる。二人の間に言葉はなく、それでも互いに言いたいことが胸の中に渦巻いていることだけは、よくわかっている。
その末に、やっと声が響いた。
小さい声だった。ディープインパクトの声だった。
「……ファン」
表情を変えることなく、ただその瞳の煌めきだけが印象に残る。呼びかけて、言葉を切って、息を吸う音が聞こえた。
目が閉じられる。今までの時間を思い起こすかの如くに、ゆっくりとまた、唇が開いた。
「私も。……やられた。強かった。正直、悔しい」
訥々と言葉が重ねられる。
本当に正直な台詞だった。隠すところもない感情の発露だった。
ダイナファントムは、それに対すべき言葉を、持たなかった。
「けど」
しかしそこで、その瞼が開かれる。
薄氷の双眸が覗いて、そしてディープインパクトは、ふわりと、へにゃりと、笑った。
「楽しかった」
笑んだ表情のままに、その響きは真っ直ぐに、ダイナファントムの胸を射抜く。
覗く眼差しが、それを本当のことだと、何よりも正直に伝えていた。
「楽し、かった……」
繰り返すように、ダイナファントムは呟く。
それはディープインパクトとの幾度もの勝負の中で、いつもいつも聞いていた言葉だった。
いつかの河川敷でも。皐月賞を勝った日にも。
ダービで負けたあの時だって、遠慮がちではあっても、ディープインパクトはそのことをダイナファントムにしかと伝えに来たのだ。
楽しかったと。今日も一緒に走れて、よかったと。
そして今、ダイナファントムは初めて、ディープインパクトがずっとずっとかけてきたその言葉を、真の意味で理解できたような気がした。共感できたような気がした。
自然と、口角が上がる。胸の中に確かな温かさを感じた。その衝動の赴くままに、ダイナファントムはディープインパクトに、大きく頷いた。
「……そうだね。
その言葉が今、自らの中、どこまでも腑に落ちて、ダイナファントムには聞こえた。
宴は終わり、遠くに響く祝福の歓声は未だ彼女たちの上に降り注ぎ続けている。
冬枯れの中山のターフは、西日に照らされて黄金の輝きをも放っていた。
その上に、その中に立つダイナファントムとディープインパクトの二人は、この師走の一日、遍くウマ娘たちの祭典の中で、トゥインクル・シリーズにおける自らの立ち位置というものを、誰の目にも分かる形で証明した。
故にここからの、二人の優駿が紡ぎ織りなす物語が彩るトゥインクル・シリーズの日々のことを、のちの人々はただ一言にて評することになる。
すなわち――
――「連星の時代」、と。
レース結果:5回中山8日9R・有馬記念(GⅠ)(芝右2500・晴・良)
一着・ダイナファントム
二着・ディープインパクト クビ*2
三着・ハーツクライ アタマ*3
四着・コスモバルク 5身
上がり3F: 35.1 (12.0-11.7-11.4)
レースタイム: 2:30.5*4
第一部、完!
取り敢えずクラシックまではストック食いつぶさずに毎日投稿完遂できました。
ここから暫く書き溜めに入ります。大体一か月後を目途に、シニア級の話を書いていきたいと思いますので、どうぞお付き合いくださいますようお願いいたします。