ということでブリーフィング&箸休め回から。
午睡に年の計を編む
暮れの中山の激闘から、二週間ほどが経った。
あの場所に確かにあった燃え上がるほどの熱も、もはや今は余熱のみを残して過ぎ去り、その記憶すらもどこか遠い。
年が明けたトレセン学園の中、シニア級を中心としたウマ娘たちの心中を支配するのは、ある種の弛緩であり、そして停滞であるとも言えた。
そしてそれは、今年暦の上においてシニア級へと一つステージを進めたダイナファントムにしても、また等しいものであった。
意識の片隅に、ゆらゆらとした揺さぶられる刺激を覚える。輪郭を失い揺蕩う五感が、その知覚を核として凝り、引き上げられていく。
その末、そのウマ娘は、ダイナファントムは、微睡から醒めた。
身体全体を覆うような温感と、肩に置かれた手、そして屈んだような自らの姿勢を自覚して、少しずつ現状に思いが至る。
――ああ、寝落ちしていたのか、炬燵で。
顔を上げる。そこには、一人のウマ娘の姿があった。
ディープインパクトのものよりも明るい褐色、豊かな鹿毛の髪はボブに切り揃えられて、一房の流星と、桜色のイヤーカバーが目を惹く。身を屈めてこちらを覗きこむその胸元には、赤い組紐の先に川船の意匠の銀細工が光るペンダントが、静かに揺れていた。
「そんな姿勢、腰悪くするよー?」
どこか能天気で明るい声が、未だ薄靄の中にいるようなダイナファントムの耳に響いた。
「あ……うん」
身を起こす。少しだけ伸びをした。そして彼女は、自らに声をかけたそのウマ娘を見上げて、名前を呼んだ。
「ありがと、
呼ばれたそのウマ娘――ラインクラフトが、ダイナファントムを見下ろす姿勢のままに、朗らかな微笑みを浮かべた。
「なんか、新鮮? ファンがここでそんな感じなのって」
ダイナファントムのことを起こすだけ起こしたあと、ラインクラフトはその眼前、自らも等しく炬燵の中に入った。
この炬燵は栗東寮の冬場の時期だけ、寮生たちの交流のための共有スペースである談話室に置かれるものだ。特にこの年末年始の時期、何らかの事情で帰省しなかったウマ娘たちが、少人数でこの炬燵を独占しながら語らう光景というのは、毎年の栗東寮の一つの風物詩ともなっていた。
ならば今、当のダイナファントムはどうであるのかと問われれば、彼女は謂わば「早期出戻り組」、とでもいうべき存在だと答えることになるのであろう。
つまり彼女は、有馬記念勝利のあと、殆どトンボ帰りのような形で帰省して、年末年始の一族の、そして同じ千葉の名士たる
理由は、特にない。どちらかと言えば、年末年始のシャダイ本家の堅苦しさと、そしてデビューして早々にGⅠ競走を四勝した、更にイギリスのGⅠまでもを勝ったダイナファントムのことをやたらと持ち上げる雰囲気というものに、嬉しさを覚えつつもなんとなく居心地の悪さを感じていた部分が大きいかもしれない。
それは面映ゆさからくるものでもあり、しかし同時に今の彼女は、あの身を焦がすような熱戦の余韻に、ただ浸っていたかったのである。
「私だって、ずっと根詰めてるわけじゃないよ。……ま、クラシックの間は息つく暇なかったってのは、ほんとのとこだけど」
「そーなんだ」
言い訳のように口にするダイナファントムに、ラインクラフトが気のない様子で返事をする。
そして同時、炬燵の熱を全身に感じつつ解けたような表情をした。
んー! と声に出して伸びをしつつも天板の上に置かれたリモコンを手に取って、彼女はそのままダイナファントムから見て左の方、壁にかけられたテレビの電源を入れた。
程なく点いたテレビには、昼の報道番組が映し出されている。
丁度そのタイミングで、それは去年のトゥインクル・シリーズについての回顧を始めていた。
ん、という声が、二人重なる。互いに顔を見合わせて、思わず苦笑していた。
「分かっちゃいるけど、本当に『国民的娯楽』だよねぇ」
しみじみと言った風情で、ダイナファントムが口にする。
事程左様に、それはまさに実感であった。世にスポーツ、娯楽の類は数多あって、現代人の趣味嗜好の多極化は統一化された嗜好の存在というものを神話の中に押し込もうとしているというのに、この国におけるトゥインクル・シリーズの存在感は、時代の流れから隔絶されたかの如く、依然大きいものであった。
「まあでもそれで、わたしたちっておまんま食べられるわけだしぃ?」
いいことじゃない、と無邪気に言い放つのは、ラインクラフトである。
しかしそれは全く以て正鵠を射るものであった。特にシャダイの人間としては、グループの存在価値そのものが日本のトゥインクル・シリーズの人気というものに依拠しているようなものなのだ。その自覚というものは最も強烈に持っていた。
「……その通りだ」
故にダイナファントムは、おっしゃる通りとラインクラフトめがけて頷くばかりだった。
対する彼女は、それにまた朗らかに笑んだ。
テレビへと視線を戻す。そこで言及されているのは、去年一年間のトゥインクル・シリーズの決算、評価についてのことだ。
つまるところ、賞レース――URA賞の行方についてであった。
「URA賞」という言葉は、実際のところトゥインクル・シリーズのファンにとってはそこまで聞きなじみがない。というのも、彼らはその存在を、殆ど別の言葉として認識しているからだ。
即ち、「年度代表ウマ娘」、である。
この両者の関係は、正確には一対一対応ではない。URA賞には、まず大きく分けて二つの部門があった。
その一つは当然にウマ娘部門であるが、そのまた一つというのが、「トレーナー部門」である。
ウマ娘にもその年度における傑出度について顕彰する仕組みがあるように、トレーナーの方にもその功績を讃える賞というものがあった。
ただこちらは「最多勝利」や「最高勝率」、「
今彼女たちの見ているテレビの中、ニュースとして取り上げられているのは、まさにその「トレーナー部門」として、奈瀬文乃トレーナーが通算八度目となる「トレーナー部門」総なめを達成し、「トレーナー大賞」に輝いたというトピックであった。
「はー、やっぱあのトレーナーすごいねぇ……」
感心したように、或は半ば呆れたような口調で、ラインクラフトが言う。どこか他人事のようでもあった。
「いや、きみたちの路線にだってエアメサイアがいたじゃない」
思わずダイナファントムは、同期のティアラ路線のなかで奈瀬トレーナーが担当しているウマ娘のことを持ち出した。
その彼女、エアメサイアはオークスでシーザリオの一バ身差二着に敗れたあと、秋華賞にて見事その雪辱を果たし、ティアラ三冠のうちの一つを手にしていた。直後のエリザベス女王杯はスイープトウショウの五着に敗れていたが、それでもその実力というものは十分に示していた。
ただそれについて言われたラインクラフトの方は、あまりピンと来ていないらしい。
「んー、ま、そうなんだけど? でもほら、わたしってこれからはもう基本マイルのほうだから」
ま、秋華賞は負けちゃったけどね、とあっけらかんとした様子で言い放つ。
らしいという意味では、ラインクラフトらしい反応であった。人当たりよく楽天的で、同時に快活だ。
同期組の中では、恐らく素の性格としては最も社交的なのがこのラインクラフトであろうなと、ダイナファントムは常日頃からそんなイメージを彼女に対して持っていた。
そのことを思い起こして、しかし同時に、ダイナファントムは今のラインクラフトの言葉に引っかかるところを覚える。
――これからはもう、マイル。
言うまでもなくそれは、ラインクラフトが今年のローテーションについて明確なビジョンを持っていることを意味していた。
一度懐いた引っかかりは、解消したくなるのがダイナファントムである。
「ねえ、クラフト」
「ん?」
呼びかけて、どうしたのとばかりに首を傾げたラインクラフトめがけて、彼女は問うた。
「いや、『これからはマイル』って言ってたから。……今年のローテ、決まってるんだな、って」
ラインクラフトは、目を二度三度とぱちぱちさせる。言わんとすることを咀嚼するように何度か小さな頷きを繰り返して、あぁ、と小さく声を上げた。
「そだよ。マイルCS勝てなかったけど三着で、結構手応えあったし。だから今年はがっつり短距離マイル路線で行こうって、去年ね」
そしてそのまま指を折りながら、自らのローテーションの計画について言及していく。
まずは三月、高松宮記念に挑む。
次に五月、今年新設が発表されているティアラ限定のマイル戦、ヴィクトリアマイルへ。
そこから中二週で安田記念に参戦して、秋シーズンはスプリンターズステークスから、BCマイルか、香港マイルに向かう。
「まぁそんなだから、一年……五戦? まあ、それぐらいで十分な感じかなぁって」
「なるほどねぇ……」
随分としっかりした計画を持っているな、とダイナファントムは思わされる。
対して彼女の方はと言えば、とりわけ去年、ダービーまでは兎も角としてそれ以降はその場その場、どうにも場当たり的な目標設定のもとにレースを進めていた。
そこには事情もあったし、得られたものも多かった。しかしそれとは別のものとして、ラインクラフトの、と言うよりはラインクラフト「陣営」の周到さというものは、特にシニアに上がった今のダイナファントムにとっては見習わなければならないものだろうと、自ら感じていた。
「私も、そろそろトレーナーと話さないとかなぁ」
「ん? ローテのこと?」
「うん」
それが自然と口をついて、しかしラインクラフトはくすりと小さく笑う。
「真面目だねぇ、ファン」
しみじみとした口調だった。そう言って伸びをして、ばたりと後ろに倒れる。しかしすぐに起き上がって、またテレビの方を向いた。
「年明けてすぐなんだし、もうちょっと
言いながら、チャンネルを変えていく。そしてその中で、どうやらお気に召すものを見つけたらしい。
毎年新年恒例の、ウマ娘アスレチックの番組だ。トゥインクル・シリーズの障害上がりのウマ娘も結構な割合で参加しているそれを見ながら、ステージに挑むウマ娘たちの様子に一喜一憂の歓声を上げ始めたラインクラフトの横顔を見て、ダイナファントムの顔にも小さな笑みが浮かんだ。
レースの喧噪から離れた今このときのトレセン学園は、確かに弛緩した空気が漂っている。
しかしそれはダイナファントムにとって、どこか居心地の良さを感じさせるひとときでもあった。
それからダイナファントムとラインクラフトは、夕食のチャイムが寮の中に鳴り響くまでの間を、炬燵の中で二人のんべんだらりと怠惰に泥んで、ただ過ごすばかりであった。
正月の休みが明ければ、時の進みは一気に速くなる。
実績あるウマ娘は兎も角として、自己条件を走って昇格を目指すウマ娘の中には、一月第一週の土日からレースを走る者も多いから、という事情もある。
また或は中山や京都の金杯で重賞を得ようとするものも、年末年始の休日を返上してのトレーニングの成果の見せ時であると張り切って、そんな彼女たちの振る舞いもトレセン学園の空気を引き締める要因の一つとなっていた。
ダイナファントムもまた、その流れには添うウマ娘である。学期明け早々に福井トレーナーと合流して、まず彼女が最初にやったことと言えば、まさしく正月休みの最中に得た気づきについてである。
即ち、彼女はまず「仕事始め」として、自らのこの年のローテーションのプランを、自らのトレーナーと組んだ。
その場所にいたシーザリオも、同じように今年の復帰の時期について福井トレーナーと合わせた。
シーザリオに関しては、どうやら思ったよりも靱帯の快復が速いらしい。彼女は既にウッドチップコースをキャンターで周回しても違和感を訴えることはなくなっていた。
ただローテーションは大事をとって当たらなければならないということで、その復帰戦は五月中旬、今年から始まるティアラ限定のマイルGⅠ競走たる「ヴィクトリアマイル」で本決まりとなった。
彼女にとってそれは実に十か月ぶりの実戦であり、そしてぶっつけの形でのGⅠ挑戦である。しかしそれでも勝負になるという強い信頼のもと、福井トレーナーは次戦のこのレースを選択していた。速い流れとなるであろうここでレース勘を取り戻し、調子を上向かせて、そしてその次こそが、本当の意味でのシーザリオにとっての本番である。
即ち今年のシーザリオの最終的な目標となるのは、十一月中旬にあるアメリカのウマ娘レースの祭典、BCのティアラウマ娘限定競走、フィリー&メアターフであった。
つまるところそれは、去年果たせなかった彼女の夢のリベンジである。その成就と言うのは当然にシーザリオにとって、そしてそれと同じぐらいにダイナファントムにとって、切に叶うことを願うべきものであった。
あの九月の初め、彼女の前に降りかかった冷酷で明白な挫折を、否応なしに思い返す。
身体の末端から冷えていく感覚を、どうしようもなく強烈に懐いたことも、思い出した。
斯くしてあの日からのシーザリオの奮戦にしても、ダイナファントムはずっとずっと、側で見てきたのだ。
だからこそどうしても、ダイナファントムは思わずにはいられない。
――どうか、シーザリオの心願が、持っている夢が、叶ってほしい。アメリカの地で今ひとたび輝くあの青毛の姿を、どうしても見たいのだ、と。
それをダイナファントムは、ダイナファントムにしては本当に珍しく、三女神に祈っていた。
神頼みなどしても仕方がないと、誰か何かに願を掛けることにどこまでも冷めた考えを持っているはずの彼女が、それでもただそれだけは成就してくれと、切なる思いを持って、祈っていたのだ。
そんなダイナファントムの方も、自らのこの年の予定として掲げたものがなんであるかを世に広く知らしめられる機会は、そう時をおかずしてやってきた。
一月の末、その初旬に決定していたトレーナー部門に引き続いて、URA賞のウマ娘部門が発表される。
新聞・報道関係者のなかで、トゥインクル・シリーズを担当する記者たちによる投票によって選ばれるウマ娘部門の各賞は、その年もっともトゥインクル・シリーズの盛り上がりに貢献し、活躍をしたウマ娘たちに与えられる。
その中、この賞レースの中で話題の中心であったのは、やはりというか、クラシック級のウマ娘たちであった。
ダービーと菊花賞を勝利して二冠ウマ娘となり、ダイナファントムとの幾度もの好勝負を演じたディープインパクト。
桜花賞は敗れたもののオークスを取り、そして日本初のアメリカGⅠ勝利をもたらしたティアラの希望、シーザリオ。
そして皐月賞から日本のGⅠを三勝し、さらにはウマ娘レースの祖国とも呼ぶべきイギリスの、歴史と名誉あるGⅠレースを日本のウマ娘としてこちらも初めて勝利した、ダイナファントムだ。
しかしこうやって並べれば、記者の間でも前年度に最も活躍したウマ娘については、あまり異論というものは出なかった。
つまり彼らは、今回のURA賞ウマ娘部門の選出について、このように発表した。
最優秀クラシック級ウマ娘は、ダイナファントム。
最優秀クラシック級ティアラウマ娘は、シーザリオ。
最優秀シニア級ウマ娘は、この年インターナショナルステークスで二着好走し、シニア戦線で常に一線級の働きをした、ゼンノロブロイ。
最優秀シニア級ティアラウマ娘は、エリザベス女王杯を追い込み一閃で制してファンを沸かせた、スイープトウショウ。
その他ダートや短距離ウマ娘の最優秀賞はあるが、その中で選ばれた栄えあるURA賞年度代表ウマ娘は、即ちダイナファントムである、と。
つまりダイナファントムが自らのこの年の予定について話す機会を得たのは、そのURA賞の授賞式においてのことであった。
有馬記念の公開枠順抽選会とは違って、URA賞の表彰式というものは、ホテルの宴会場こそ貸切るものの、関係者のみが集まるささやかな規模のものとして行われる。
尤もその内部の様子や、そこへ発表したコメントなどは、「関係者」としてその場に同席している報道陣が何枚かの写真付きで報じるのが通例であり、よってそこで語られる諸々は、ある程度は外向き、一般のファン向きの発表という性格をその中に帯びるものであった。
故にその中で、表彰式の壇上で、ダイナファントムがやや掟破りのような形で発した言葉は、その日のうちにURA御用達のレース誌、月刊トゥインクルの一面を飾り、トゥインクル・シリーズのファン全員の知るところとなった。
彼女は、「今後の抱負は」というありふれた、どこまでもシンプルな質問に、こう答えた。
「私は今、二つ願いを持っています。一つは誰も見たことのない、新しい景色を、世界を、切り拓くことです。それは去年、私自身摸索の中でイギリスに、キングジョージに挑んで、その結果として自分の中に見つけたものでした。そしてもう一つというものが――」
――私の隣、ずっと競い合ってきたライバルと、友達と、
それは、凡そ掟破りにもほどがある言葉だった。具体的な個人名を出してまで、直接に特定の誰かを意識するような文句を、こういったオフィシャルな場で発するということに、その場に居合わせた記者はダイナファントムというウマ娘のディープインパクトにかける思いというものを、その覚悟というものを、強烈に意識した。
「ですから、私は今年、既に走るレースを決めています」
そう言ってダイナファントムは、この年目標とするレースの全てを、その取材の場においてぶち上げた。
一戦目、三月下旬、阪神大賞典。
二戦目、四月末、天皇賞・春。
三戦目、六月末、宝塚記念。
そして――。
「四戦目、九月上旬に、アイリッシュチャンピオンステークスを。これはしかしステップレースで、本番は、一つです。……十月の頭、私は、ダイナファントムは、フランス、ロンシャンレース場で開催される――
その後彼女が残りの二レース、ジャパンカップと有馬記念について出走することを表明したが、しかしそれよりも何よりも、記者たちはダイナファントムのその一言をこそ、大きく取り上げた。
「ダイナファントム、凱旋門賞への挑戦を表明」。
それが翌日のURA賞関連のニュースの、まさにヘッドラインを飾ることになった。
そしてその表明には、ディープインパクト陣営とて黙っていない。
彼女たちのサイドはダイナファントムが今年のローテーションについて発表を行ったその翌日、ダイナファントムの年度代表ウマ娘表彰を祝する文言と共に、また一つの発表を行った。
――ディープインパクトは今年のレース、アイリッシュチャンピオンステークスを除いたすべてのダイナファントムの登場するレースに、同じく出走する。
それは追随でありつつも、同時に一つの答えであった。
ダイナファントムが放った一つの願い、「ディープインパクトとどこまでも競い合いたい」というラブコールへの、正面切っての受諾通知であった。
連星の時代、その一年目は、まさに斯くの如き激突の予感、確かな興奮とともに始まることになった。