双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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乾坤一擲――3回京都4日11R・天皇賞(春)(GⅠ)(芝右外3200・晴・良)

 寒さの冬が過ぎて、また春がやってきた。

 桜舞う季節の中、チーム《ポルックス》のGⅠ戦線がスタートする。阪神ジュベナイルフィリーズで三着と好走し、世代上位としての力を示していたフサイチパンドラが、その一番手としてティアラの一冠目、桜花賞に挑んだ。

 しかし彼女は荒れ模様のバ場の内を先行して進んだことが災いし、外差しのトラックバイアスに見事に飲み込まれる形で着外に沈んでしまう。それでも()()()()()()()()()()*1ことは、やはりティアラに強い《ポルックス》の、或は福井トレーナーの面目躍如といったところなのであろう。

 

 そしてその次こそが、ダイナファントムの春の天皇賞であった。

 

 

 

 巷の評判のみで語るのならば、「ダイナファントムはディープインパクトに対してやや分が悪い」というのが、今回のレースへの展望であった。

 理由は比較的単純である。つまりそれは、ダイナファントムとディープインパクトのバ格に起因する。

 ダイナファントムの身長は概ね百七十センチ程度、バ格は雄大で、それ相応の体重もある。翻ってディープインパクトは身長百五十センチ程度とダイナファントムのそれよりも二十センチ低い。体重も当然、随分と軽い。

 ウマ娘、特にレースに挑む直前のウマ娘において、体重の源泉とは骨であり、そして筋肉である。脂肪ではない。そして筋肉量の多いウマ娘は、それ相応にその筋肉を稼働させるのにエネルギーを使う。重い身体を駆動させるという方向であっても、そうである。

 当然、筋肉の差が作り出すパワーの差というものはあるわけだが、しかし長距離レースにおいてはそれよりも、その消費するエネルギーや、供給されるスタミナ量がものをいう。

 つまり余程に並外れた心肺能力を有していない限り、バ格の大きさは長距離戦では不利になる。前走の阪神大賞典におけるダイナファントムの――彼女からすれば――やや物足りない敗戦も、その言論に一定の信憑性を与えるものであった。

 

 しかし実際のところは、それは正しくない。ダイナファントムの陣営もそうであるし、またディープインパクトの陣営も、ダイナファントムをして「長距離を走る適性を持たない」とは、露ほども考えていなかった。

 なんとなれば、三千メートル戦以降の超長距離戦というのは、スタミナ勝負であると同時に、「知識と頭脳の勝負」であるからだ。

 

 「長距離戦はトレーナーの腕次第」というウマ娘レースにおける格言の裏にあるのもそれで、長距離を勝てるウマ娘というのは、「優秀なトレーナーの下で、そのトレーナーの戦略をレースの間において常に冷静に遂行できるウマ娘」でもあった。

 

 そして福井トレーナーという人物は、ティアラウマ娘に素質ウマ娘が多く集まる巡り合わせから長距離レースで結果こそ出せていないが、基本的には優秀なトレーナーである。彼女の母親である洋子女史のような天性の直感とひらめきによる戦術立案ではない、データとその分析をベースとした手堅く、そしてクレバーなレースプランの組み立てには定評がある。

 同時にダイナファントムも、逃げという脚質をこれ以上ないほどに戦術的に活用することを指向するウマ娘であって、故にこの二人の相性というのは非常によかった。

 軽く見ることなど到底できない。相変わらずディープインパクトにとっての最大の警戒対象というのは、ダイナファントムであった。

 

 尤も、当人たちはレース当日までの間、互いに張り合うダイワスカーレットとウオッカの二人を連れながらもたびたびの併走と洒落込んだりしていて、決して緊張感のある時間を過ごしていたわけではなかった。しかし事実として互いのファン達の、そして或は奈瀬トレーナーと福井トレーナーの二人の間には、なまじ阪神大賞典から一か月もの時が経ってしまっていたからこそ、どこか張り詰めた空気というものが確かに漂っていた。それは事実であった。

 

 

 

 斯くして、本番の日がやってくる。

 四月末、五月の連休も近くにあって、初夏に近いほどの暖かさが京都レース場を覆っている。最高気温は二十五度、夏日に達しようかどうかというほどであった。

 その中、青々としたターフの只中にあるゲートに、いつものようにウマ娘たちが集う。

 

 ダイナファントムは今回、六枠十二番*2を頂戴していた。フルゲート十八人、すべてが埋まった*3中では、真ん中より外目とはいえそこまで悲観すべき枠でもない。むしろ()()()()()()()()()()()()()からすれば、ある意味歓迎すべき枠であると言えなくもなかった。

 

 シニア級、現役生活も足掛けで三年目に入れば、枠入りの前にウマ娘同士で言葉を交わすこともなくなってくる。四枠七番のディープインパクトにせよ、先入れとなる中でおとなしくゲートに入り、それまでの間も誰かと会話をすることなどありはしなかった。

 

 

 

 ダイナファントムはゲートの前、ひと月前のハーツクライのことを俄に思い起こした。

 

 自らが挑むこれからの()()()というものは、確かにかのウマ娘の挑戦からすればほんのささやかなものだ。それでもどこかで、あの日の彼女と今の自分を、ダイナファントムは重ねていた。

 今年の大目標ともいえる「凱旋門賞」挑戦への景気づけに、ここは何としても自らのライバルに、ディープインパクトに勝っておきたい。あちらもまた同じことを思っているのだろうが、それでも自分は、譲る気はなかった。

 

 そしてそれと同時に、ダイナファントムは自らとトレーナーが練った戦術で、凝らした趣向で、奈瀬トレーナーとディープインパクトの二人に対して()()()()()()()という構図そのものにも、静かな興奮を感じていた。これまでの大舞台での衝突にもその趣は決してゼロではなかったが、しかし今回は特にそこへの意気込みが大きかった。

 

 パシン、とダイナファントムは両手で頬を叩く。気合を入れ直した。そして、しっかりとした足取りでゲートへと納まる。

 

 果たしてそれから二十秒と経たずに、春の楯の頂を目指す十八人の前、ゲートが開かれた。

 ダイナファントムはそこに何一つの遠慮もなく、飛び込んでいった。

 

 

 

 いつものように抜群のでの良さでもってスタートを決めたダイナファントムは、しかしそれと同時に今日この時だけは、ゲートから出たその瞬間に()()()()()()()()()。どうしてもそうする必要があったからだ。

 そして覗いた後ろの視界、ディープインパクトがはっきりと出遅れた姿を、一瞬ではあるものの目に入れる。恐らくは最後方一バ身から二バ身ほどの遅れとなるだろう。そう、彼女は予想した。

 

 その瞬間、ダイナファントムがこのレースのために用意していた二つの作戦のなかで、取るべきものはただ一つに定まった。

 故に彼女は――そこで一気に()()()()()()()()ことになった。レースが始まったその瞬間、早々にである。

 

 

 

 ウマ娘レースに、速度計の表示はない*4。したがってターフの、或はダートの上を走るウマ娘のみならず、それを見る観客たちの間にも、走っている最中のウマ娘が出している速度について正確に知る方法はない。

 しかし特にレースを走るウマ娘たちは、主に自らの脚の回転によって、現在出している速度をいうものを何となく知ることができる。つまり「異常に速い、あるいは遅い」ペースというものは、彼女たちは察知することができた。

 どういうことか。つまり彼女たちの集団の中で、一気に先頭に躍り出たダイナファントムが、はっきりと異常な速度を出してハナを切ろうとしていたことに、二百メートルほど追走した先行勢のウマ娘たちが気づいたのである。

 

『さあ飛び出した勢いで一気に先頭に立った十二番ダイナファントム、後ろ一バ身差ビッグゴールド、その後ろトウカイトリックがいるが外から大外枠のブルートルネード併せて二番手に上がろうかというところ。その後ろシルクフェイマス五番手トウカイカムカム六番手。しかしここでダイナファントムどうやら三バ身四バ身のリードを取ったか』

 

 ダイナファントムは瞬く間に、そしてとてつもないスピードを伴って先頭を取り、最内に切れ込む。「10」のハロン棒を通過したその辺りで一周目の第三コーナーの登りへと入るが、その後ろで三人横並びで番手を競おうとしているビッグゴールド、トウカイトリック、そしてブルートルネードの三人は、先頭の明らかにオーバーペースとしか言いようのない爆走には絶対に付き合わないとばかりに、ペースの調整に入った。

 第三コーナーから始まる上り坂を、ゆっくりと登り始める。その後ろにつけているウマ娘たちは広がった先行勢に視野を塞がれて、それより前、つまりダイナファントムの様子を窺い知ることは殆どできずにいる。したがって追走するそのほかのウマ娘たちも、先行のウマ娘たち三人とほぼ歩調を合わせるようにペースを抑えることになった。ディープインパクトも結果として後方から二番手の位置のままに、落ち着いたペースでレースを進めることになる。

 

 結果起きたことは、彼女たちよりもむしろ観客や実況の方が端的に見えていた。

 

『一周目第三コーナーの上り坂、中団リンカーンとローゼンクロイツ、ナリタセンチュリーは外から少しばかり位置を上げにかかっているか。その後デルタブルース続いてその辺り中団、一発が侮れないファストタテヤマが中団から二バ身ほどの位置につけて、その後ろにまた三バ身ほど離れてディープインパクト、後方二番手という体勢です。しかしご覧ください! 先頭ダイナファントムはもうすでに二番手との間に十バ身以上の差をつけています! 前半の四百メートルほどでもうこれほどの差だ! これほどの差!』

 

 レース場、観客席が異様な雰囲気に包まれる。それはきっといつかどこかで見た春天の逃げ切り劇の再現にも見られたからであった。

 二年前、イングランディーレが渾身の大駆け、大逃げで以て当時の有力ウマ娘全てを退けた春の京都の残像が、今のダイナファントムと重なる。しかしそれよりも今の彼女の姿は更に苛烈であった。イングランディーレであっても、この最初の四百メートルほどでこれだけの異常な差をつけて先頭に立つなどありえなかったからだ。

 

『これはダイナファントム、ダイナファントム()()()だ! この春の楯本番、大一番でダイナファントム、乾坤一擲の大博打に出たぞ!』

 

 しかし最低でも確実なのは、ダイナファントムが今この場において、途轍もないギャンブルを仕掛けているということであった。

 彼女自身が去年の秋、同じ天皇賞の中で見せた大逃げとは違う、正真正銘の()()()()()()()()()()()()だと、実況者をも含めた観衆たちは認識していたのである。

 

 

 

 ただ、ダイナファントムは無策でこのようなことをやってのけたわけでは、もちろんない。

 彼女は当然、このペースを最後まで続けられることなどありえないことはよくわかっている。故に最初の四百メートルで一気に後続との距離を稼いだダイナファントムはその場所、つまり坂の頂点から下っていくタイミングで、一度ペースを落とした。

 

 それは急ブレーキと言ってもいいほどに急激なペースダウンである。つまり彼女はここで、()()()()()()()()()()()()()()。最初の二ハロンをマイル戦、否スプリント戦の如きスパートで駆けた分の息を、そこで入れようとした。

 これもまた、福井トレーナーと取り決めていたことであった。

 元々ゆっくり下りることがセオリーになっているこの京都の坂の中、十バ身以上という目視の難しいレベルの大きなリードを確保した場合、そこでこちらが一気にペースを落としてもそのことには気づかれづらい。後続もそれにつられてペースは速くはなりにくく、結果としてペースダウンによって本来詰められるはずの距離を、多少誤魔化すことができる。

 

 果たして前のラップからはなんと一秒半近くの、もはや挑発的と言ってもいいペースダウンを見せたのにもかかわらず、後続のラップもあまり変わることなく、そこで詰められた距離は精々が三バ身といったところであった。この辺りの機微を見抜くのに長けているディープインパクトはそれでも未だ後方二番手であり、故にバ群の遥か前で何が起こっているかを知ることは、彼女の小柄な背格好も相俟って難しかったのである。

 兎に角その瞬間、ダイナファントムは一つ目の賭けに勝っていた。

 彼女のテンの三ハロンは、つまりその最後の一ハロンの十三秒ラップによって、破滅的とは言えないレベルのペースに落ち着く。そのまま一度下げたペースをミドルへと戻しながら一周目のホームストレッチにたどり着くタイミングでは、はっきり十二バ身程度は差のついた先頭ダイナファントムと二番手集団の構造が、完全に固定化されることになった。

 

『一周目のホームストレッチ、二百の標識を過ぎたところが前半の千メートルです。先頭ダイナファントム後ろを大きく、大きく突き放して逃げていますがその通過タイムは五十九秒か五十八秒九かといったところ、後ろ大きく離された二番手のブルートルネードが一分一秒と少し。一番人気ディープインパクトは相変わらず後方二番手の位置、後方バ群からもやや離れた場所でレースを進めています』

 

 一周目のゴール板を通過した辺りで、基本的にレースのペースは一度緩む。京都のコース設計は三コーナーから四コーナーにかけての長い距離を使ったアップダウンを除けば、非常に平坦なものとなっている。つまり地形を起因とした明確な仕掛けどころというものが存在しない。「淀の坂はゆっくり上ってゆっくり下る」との格言の通り、どの距離であっても坂を下りきる四コーナー中間地点、つまり外回りであれば残り五百メートルほど、内回りならば四百メートルほどからが実質的なレースの始まりともいわれるほどだ。故に卓越した京都巧者というのは、たまに()()()()()()()()()好走を示すことがある。内回り千六百メートルのマイルCSも、最長距離である春の天皇賞も、同じように好走するウマ娘というのが現れるのである。

 

 そういうわけで、この一周目のホームストレッチまでで大きいリードを取ることさえできれば、あとは二番手とほとんど同じようなペース運びで走ることさえできれば、仕掛けどころの第三コーナーほどまでは差を詰められることを意識しなくてよい。それが、逃げウマ娘にとっては一つの利点であった。

 

『一周目ゴール板を過ぎて二周目へと入ります。初夏の薫風を掻き分けるように悠々と先頭を進むのはダイナファントム、落ち着きつつある流れの中でもリードを広げることも縮めることもなく淡々と、そして飄々といった様子で逃げています。それでもまた少しだけ差が開いたか? 二番手ブルートルネードとは十五、六バ身ぐらいの差がついて、そこにトウカイトリック外からバ体を合わせに行く。二番手ここで変わるか変わらないかといったところだがその後ろリンカーンは早めに上げて五番手六番手の位置につけている』

 

 逆に後方のウマ娘からしてみれば、流石にここまで差が開いてしまうと誰かがダイナファントムに対して鈴をつけに行ったほうがよいということは分かっている。しかし同時に実のところ、彼女たちははっきりとその機を逸してしまってもいた。

 中盤というのは、長距離レースにおいては息の入れどころである。前半において巡航速度を出すための加速で使った速筋を休め、終盤のスパートに備えるための重要なプロセスともいえる。そんな中、十五バ身以上、つまり秒数にして三秒近くの差がついた前のダイナファントムに追いつこうとすれば、どうなるか。

 言うまでもなく潰れる。例えばダイナファントムがハロンを十二秒で走っているとして、その彼女に追いつくためには、三ハロンほどぶっ通しで十一秒の脚を使わなければならない。つまり三ハロン三十三秒であり、それはラストスパートの上がり三ハロンでもそうは出ない数字だ。有り体に言って、無茶である。

 誰も他のウマ娘を助けるために自らが犠牲になりたくはない。欧州のチーム戦とはわけが違うのである。そうなると必然的に、この展開の中でダイナファントムは放置されることになる。あとは精々、ダイナファントムが息を入れるためにペースを落としたタイミングで無理せずにその差を詰め、或は彼女がペースを保てなくなって落ちてくることを期待するより、ほかにはなかった。

 

 つまり先行集団のウマ娘が本来取るべきだったのは、たとえ前半三ハロンで共倒れになるリスクがあるのだとしても、全力でダイナファントムを追走することだったのだ。そうすれば三ハロン目のペースダウンのタイミングで一緒に息を入れつつ、ダイナファントムに楽をさせない展開へと持って行くことができた。

 しかしそれはただのたらればであって、言葉を変えれば後知恵である。だからこそダイナファントムはこの時点で、自らが勝利を得るために必要な第二の賭けに勝った、と言えた。

 

 後ろのペースが緩みそうだと見れば、緩める。早まったと思えば、やや差を縮められることを許容しつつも少しだけペースを上げる。第一、第二コーナーを超え向こう正面、残り千四百メートルほどの地点において、ダイナファントムは更に二度の十三秒ラップを踏んでいた。コーナーを利用して、うまい具合にペースを落としていたのである。

 そしてダイナファントムは向こう正面に入ったところで、そこまでのレース運びで稼いだバ身差を貯金にもう一ハロンだけ息を入れた。レースの中で都合四度目、そして三ハロン連続の十三秒台ラップである。

 

『さあ向こう正面中ほどに入ってここからレースが動こうというところ、先頭ダイナファントム未だリードを保っているもその差は確実に縮まってきている。二番手集団はブルートルネードを初め一団となって位置を上げていく、ダイナファントムを捉えんと言う勢いだ』

 

 しかし同時にそれは後方勢にとっては好機とも言えた。向こう正面の残り千二百メートル地点、つまり一周目におけるスタート地点というのは、それまで緩んでいたペースが慌ただしくなり、レースが動き始める場所でもある。そこへと向けて後方のウマ娘が加速し始めるのと、ダイナファントムの緩い一ハロンのラップが合わさり、目測で十六馬身ほどはあった差はみるみる縮まって、向こう正面中ほどに入った辺りでは既に二番手集団はダイナファントムとの差を十バ身を割り込むかどうかにまで詰めてきていた。

 それはダイナファントムにしてもそれ以外のウマ娘にしても、ある程度想定の範疇に入った展開である。故にダイナファントムもまたその次のハロンから、終盤に向けてのペースアップを始めた。彼女にとって必要な分の脚は、その時点で十分溜まっていたのである。

 

『しかしここでダイナファントム、ダイナファントムもどうやらペースを上げたか、あと千の標識にさしかかっていよいよ勝負どころの第三コーナーへと入ろうかというところ、仕掛けるか控えるか、ウマ娘たちは各々選択を迫られることになります。先頭ダイナファントム未だ九バ身十バ身ほどのリード!』

 

 ダイナファントムの走行姿勢もまた、それを物語る。それ以上は誰一人として近寄らせないとばかりに、その十バ身前後のリードを死守する動きへと、終盤の攻防へと、彼女の立ち回りは変化していた。他の先行勢はもはやそれ以上、ダイナファントムとの差を縮めることは能わない。最低でも最終盤、直線に入るまでは彼女たちの位置関係にそれ以上の劇的な変容は起こりえないと、誰もが思った。

 

 

 

 しかしそこで、景色が変わった。

 

『いや、しかし! しかしその後ろ!』

 

 今までその存在感を一切見せてこなかった一人のウマ娘が、とうとうこの春の天皇賞の勝負に対して名乗りを上げたのだ。それまでダイナファントムの大逃げ劇とそれに対して追走を仕掛けるか否かの先行勢による駆け引きが話題の中心であったこのレースの中に、その横っ面を殴りつけるがごとく後方から、そのウマ娘はやってきた。

 言うまでもなくそれは、ディープインパクトであった。

 

 

 

『動いた! 残り千メートルの標識を通過して()()()()()()()()()ここで動いたぞ! 外に持ち出して後ろから二人目の位置、凝縮されるバ群の中更に更に一気に位置を上げにかかっているディープインパクト! 後方からもう中団へと取り付いて、一人するする、するすると前に進む!』

 

 観衆からまた一度、どよめきが上がった。淀の坂のセオリーに真っ向からケンカを売りながら、ディープインパクトは残り千メートルからの超々ロングスパートを仕掛けている。

 ダイナファントムが一世一代の大逃げならば、ディープインパクトのこれは常識破りの大捲りである。どこまでも対照的な二人が見せる全力をかけた異次元のレース展開は、それを見る者の中に強烈な違和感と、そして高揚感を生み出そうとしていた。

 

『ダイナファントム未だ後続を寄せ付けず七バ身ほどのリード、しかし八百標識を通過してなんとディープインパクトここでもう()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! あっという間だ、あっという間にディープインパクト先団に取り付いた!」

 

 その瞬間、この春の天皇賞で勝敗を争う資格を持つ者は、ダイナファントムとディープインパクト、ただその二人へと絞られた。

 この四百メートルほどの間にダイナファントムとの距離を凡そ十バ身ほど詰めてみせたディープインパクトだが、その足は全く、完全に衰える様子を見せない。超々ロングスパートをかけてなお、ディープインパクトの脚は残り三ハロンを全力でスパートできるだけのスタミナを残していた。

 故に、彼女はなおも加速する。

 

「つられてトウカイトリック抵抗するも関係ないとばかりに躱してここで単独二番手! ディープインパクト単独二番手で六百標識を通過! 先頭ダイナファントムとの差は四バ身五バ身といったところ! 更にその後ろからはリンカーンもやってきて三番手だ! そしてここで最後の直線! ダイナファントム最後の直線に入った!』

 

 ディープインパクトの脚は、衰えない。すさまじい勢いで前へ進み、ダイナファントムを捉えんとする。しかしダイナファントムも、負けてはいなかった。

 彼女もまたこの最後の直線、今まで溜め続けていた脚を、そこで一気に解き放つ。

 

『さあ最後の攻防、ディープインパクト一気に前を捉えるか、ダイナファントムを捉えるか差を詰めようと猛烈な追走! ダイナファントム大逃げはここで力尽きるか! ……いや!? いやこれは詰まらないぞ!? 直線に入ってダイナファントムまだ伸びている! ダイナファントム二の脚をつけて粘る! ()()()()()()()()()()()()()!』

 

 故にそこに現出した光景は、並みいる観衆の予想というものを真正面から覆した。

 ディープインパクトとダイナファントム、確かに今のスパートの速度には差がある。それは確かである。しかしダイナファントムの出している速さは、ディープインパクトに対して詰め寄ることを許していない。あれだけ序盤、半ば自爆のような逃げで二番手集団を大きく引き離していたはずなのに、脚など残っていないはずなのに、それでも今ダイナファントムはディープインパクトに対して抵抗できている。捉えられるまでには至っていなかった。

 それはどこまでも不可解に映る、ありえないはずの景色であった。もしそうならば、客観的に見える情景が確かなのであれば、ダイナファントムは大逃げしておきながら、最終盤で差しに行っているのだ。三千二百メートルの超長距離レースにおいて、堂々と「逃げて差している」のだ。あり得ていいはずがない。

 

 そしてあり得ていいはずがないということは、どこかに細工があるということである。

 今回のレースにおいて、ダイナファントムは()()()()()()()()()()()()()()()。それこそが、タネであった。

 

 彼女は阪神大賞典の敗戦後、春の天皇賞までの準備期間の中で、福井トレーナーの一つの検証を続けていた。即ちそれは、「三千二百メートルで二回スパートをするためには、どこでどれぐらいの息を入れればよいか」、ということである。

 以前よりダイナファントムは、レース後やトレーニングのウッドチップ併走のあと、ほかのウマ娘よりも息が整うまでの時間が明らかに早かった。本人の資質と、本格化前のシャダイの外厩での妥協のないトレーニングが、それを形作っていた。つまりそれは、彼女の心肺機能がほかのウマ娘よりも明らかに、過剰なまでに優れているということを示している。

 福井トレーナーは、そこに目をつけた。つまりダイナファントムは、ディープインパクトのような「いい脚を長く使う」スパートは出来ずとも、長距離戦に限って言えば、「有酸素運動の範疇で走る区間を増やして心肺機能を回復させれば、多段スパートが可能である」という仮説を立てた。

 そしてそれへの実証というのがその検証であり、そして福井トレーナーとダイナファントムは、一つの結論に至った。

 即ちそれこそが、「中で四ハロン分息を入れられれば、前二ハロンと後ろ三ハロンで全力スパートが可能」という事実である。その実践が、まさに今の春天であった。

 

 「開幕の全力ダッシュで周囲を大逃げのペテンにかけ、後ろのペースに合わせつつもその貯金を活かして息を入れ、最終的なスパートのタイミングでディープインパクトから六バ身以上前にいれば、勝てる」。

 それは今回の春天でしか使えない使い捨ての手札で、しかしそれ故に、絶対にこの一度だけは破られることのない、最強の切り札でもあった。ダイナファントムが自らの現役中に、二度と春天を走るつもりがないからこそ、とることのできる手段でもあった。

 

『あと四百! ダイナファントム三バ身四バ身離して未だ先頭! ディープインパクト必死に追う! ディープインパクト必死に追う! 三番手リンカーンはもうすでに大きく離されて五バ身ほど後ろ! しかし詰まらない! 逃げる逃げるダイナファントム!』

 

 二百メートルに差し掛かる。ここ数度のディープインパクトは、この残り二百メートルの地点から「爆発的な加速」を見せていた。観衆はそれをよく覚えていた。だからこそ或は、この二百メートルの間で更に差を詰めて、今二バ身ほどの距離となったディープインパクトがここから最後の一伸びでダイナファントムを差し切る可能性が残っていると考える人もいた。

 

『あと二百! ディープインパクト二バ身ほどに詰め寄ってさあここで差し切れるか! ダイナファントム粘り切るか! ダイナファントム粘りそうか! ダイナファントム粘りそうだ!』

 

 しかしその予想に反して、ディープインパクトはこのレースの最後にもう一段階の加速を見せることはなかった。

 その理由は、ダイナファントムとディープインパクトの二人のなかではよく理解できていた。

 

 つまりディープインパクトは今回、自らの領域の焦点を、大捲りの始動のタイミングに合わせていたのだ。その場所において、ディープインパクトは「飛び立って」いた。だからこその、五ハロン追い通しの凄まじいロングスパートが実現できていた。息が切れることも、バテて減速することもなかった。

 ならばそれは、最後の一押しのためにはもう残っていない。ディープインパクトはそこまでの間に、手札を切ってしまっていた。

 

 即ちその瞬間において、ダイナファントムは、或は福井トレーナーは、ディープインパクトと奈瀬トレーナー相手の知恵比べに勝利した。

 そしてその勝利はそのままに、レースにおける勝敗そのものとなって、ターフの上に現れた。

 

 

 

『阪神の借りは京都で返す! GⅠ一番乗りは私だ! ――ダイナファントム粘る粘る、粘り切って春の楯、頂に立ったゴールイン!』

 

 わっ、と上がった歓声の中で、ダイナファントムはゴール板を颯爽と踏み越える。

 下馬評を覆したそれは、間違いなく彼女の、心技体がそろったが故の会心のパフォーマンスであった。

 

 それと同時、ディープインパクトが見せた掟破りの大捲りとその後の勢い止まらぬスパートも、本来であれば「尋常ではない勝ちっぷり」と評価されるべき走りであった。

 その理由もまた、すぐに実況が口にする。

 

『ダイナファントム、これで秋春と続けて天皇賞の連覇を達成しました! そして、そしてなんと時計はレコード! 勝ち時計()()()()()()()はマヤノトップガンのレコードを、世界レコードをまさに一秒以上更新する驚愕の大レコードです! ディープインパクト一と四分の一バ身差二着、その後リンカーン五バ身差三着、この辺りまではレコードペースでの入線を果たしたということになります! なんというレースか!』

 

 故にこそまさにそれは、シニアになっても続くダイナファントムとディープインパクトの織り成す暴虐的なまでのレースレベルの高さを、この上なく証明していた。

 

 そしてそれと同時、この結果を受けたトゥインクル・シリーズのファンたちは、今一度思いを新たにした。

 

 この年の秋、ダイナファントムとディープインパクトの二人が挑む海外遠征は、凱旋門賞は、間違いなく近年で最も期待することのできる日本のウマ娘の挑戦になるであろう。

 いや、今年こそは勝てる。あの優駿の門の中に、日本のウマ娘の名前を刻み付けることが、きっとできる。もはやそう、彼らは信じ始めていた。

 

 

 

 長らく諦念に燻っていた彼らの心に、その日確かに、火が灯った。

 

 

 

 


 

 レース結果:3回京都4日11R・天皇賞(春)(GⅠ)(芝右外3200・晴・良)

 一着・ダイナファントム

 二着・ディープインパクト 1 1/4身

 三着・リンカーン 5身

 四着・ストラタジェム 5身

 

 上がり3F: 34.2 (11.4-11.4-11.4)

 レースタイム: 3:13.0R*5

 ラップタイム: 11.6-10.5-13.0-11.8-12.0-12.4-12.4-13.0-13.2-13.0-12.2-12.0-11.7-11.4-11.4-11.4

*1
史実では14着大敗。

*2
史実におけるシンガリ人気、ハイフレンドトライの枠番

*3
史実は17頭立て

*4
ウマ娘世界のトラッキングシステム(アプリの位置表示)には速度情報がないため。なお2023年現在、JRAのトラッキングシステムは時速を表示している。

*5
史実における本レースのタイムは3:13.4R。なお現在のレコードであるキタサンの3:12.5はこれより0.5秒、馬身差にして3馬身ほど速い。尋常ではない。

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