双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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待っていろ――4回京都4日11R・宝塚記念(GⅠ)(芝右外2200・雨・稍重)

『さあ残り六百を切って最後の直線、マイネサマンサまだ逃げて粘って、しかしその後ろオーゴンサンデー内から迫って半バ身、バ群一気に固まって末脚勝負の展開になった!』

 

 東京レース場に、クライマックスを告げる実況の声が響く。厚い雲の下、少しばかり前に降っていた雨が濡らすターフを踏みつけ、飛沫を散らしながらも十八人のウマ娘はただ直向きに最後の地を、勝利を目指す。

 この場に勝ちを望まないウマ娘などいはしない。しかしそれでもこのレースはとりわけ、参加するウマ娘にとって重要なものであった。

 

『さあ()()()()()()()()()、第一回の女王の座はもう目の前だ!』

 

 その意味するところを、実況が謳う。

 即ち五月も半ばに入ったこの日に開かれているのは、今年から施行されるティアラウマ娘向けのマイルGⅠ戦、記念すべき()()()()()()()()()()()()()()に他ならなかった。

 

 第一回目、初代の王者という存在は、記録においても記憶においても、永遠に残る栄誉である。負けられるはずもない。

 ティアラの一線級、マイル巧者が挙って集まった最終局面は、それ故に誰もが譲らない大混戦であった。

 そしてそこに、まず一人のウマ娘が名乗りを上げた。

 

『あと四百! ダンスインザムード、一番ダンスインザムード内ラチ沿い! 内ラチ沿いに強襲をかけてきた!』

 

 一昨年の桜花賞ウマ娘ダイスインザムードだ。道中バ群の中でじっと機を窺い続けていたその脚をここで爆発させるかのように、四百メートルから一気に先頭のマイネサマンサとオーゴンサンデーを脅かしにかかる。

 

『その外バ場の真ん中、デアリングハート伸びる! しかしその横、連れてラインクラフトも仕掛けたか! ラインクラフト上がってきた上がってきた!』

 

 当然、去年のクラシック組も負けてはいない。デアリングハートにラインクラフトも直線半ばで仕掛けに入る。

 

『更にその外、大外からディアデラノビアとエアメサイアが、バ体を合わせて伸びてくる! 前で粘るはコスモマーベラス先頭に変わって、しかしそこに襲い掛かるダンスインザムードがここで躱して先頭に立つか、あと二百!』

 

 内も外も仕掛けは慌ただしく、まさに大混戦と言っていい。しかしそれでも一足先に抜け出したコスモマーベラスとダンスインザムードが傍目にははっきりとしたリードを作って、優位に立っているように見えた。

 

 

 

 しかしそこで、最後の一人がやってくる。

 

『ダンス先頭、ここで押し切るか――いや、いや! バ場の真ん中、真ん中から()()()()()()()()()()()()! バ群を真っ二つにして、一人猛然と前に迫る! ()()()()()()()()()()()!』

 

 青毛の長い髪の毛をたなびかせ、一際身体を沈めた一人のウマ娘が、シーザリオが前で一足先に抜け出したダンスインザムードに、異常なほどの伸び脚で襲い掛かった。

 

『十か月ぶりのレース、久々のレース! 復帰戦でシーザリオ来る! シーザリオ異次元の追い上げ! 三番手! 二番手! ダンスを捉える! ダンスに並ぶ!』

 

 あっという間に外のエアメサイアとディアデラノビアを置き去りにし、内で粘るコスモマーベラスを一息で飲み込んで、そしてその一バ身先にいるダンスインザムードに、残り五十メートルで並んだ。

 否、並びもしなかった。

 

『――いや()()()()! 躱した! もう躱した! なんという脚! 桁が違う脚だ!』

 

 下手にバ体を合わせるようなこともしない。ダンスインザムードが伸びきったその瞬間を見計らったかのような一刺しは、ゴール前の攻防の中鮮やかに、シーザリオの勝利を決定づけた。

 

『これは抜けた! シーザリオ突き抜けた! 差し切って半バ身、今ゴールイン!』

 

 

 

 つまりそれは、シーザリオが靱帯炎発症で休養を決めてから九か月、前走アメリカンオークスで勝利してからは十か月という長大な休養期間を経て、復帰戦にいきなりのGⅠを据えた彼女の選択の正しさを満天下に示すものであった。

 

『十か月のブランクがなんだ! 「中距離が適性」なんて知ったことか! シーザリオまさに今、華麗なる復活ッ! オークスで見せた鋭い脚、アメリカンオークスで見せた確かな速さ、どちらも未だ健在なり! 府中千六ヴィクトリアマイル、初代王者はシーザリオ! シーザリオです!』

 

 ディープインパクトとダイナファントムの両巨頭の争いがシニア戦線の注目となる中、しかしこのシーザリオの華麗なる復活劇は、それに対してもう一軸の存在というものを印象付けた。

 彼女たちの世代は、二人だけのものではない。まだ注目すべきウマ娘は存在すると、シーザリオのその勝利は強く主張するものであったのだ。

 

 

 

 しかしその一方で、このレースは一つ気がかりな結果を残してもいた。同じレースに出ていた桜花賞ウマ娘、ラインクラフトが、そこまで着差は離されていないとはいえ、なんと九着に敗退していたのである。

 前走の高松宮記念、二着と惜敗していたものの、抜群の末脚で猛然と追い込んでいたはずの彼女の差し脚が、今日は不発だった。直線の半ばで広がったバ群の中央から一瞬抜け出そうとする見せ場を作ったものの、横を一気に抜けていったシーザリオとは完全に対照的に、そこから全く伸びを見せることができていなかった。

 今年の単距離マイル重賞戦線を担う主役級の一人と目されていたラインクラフトの振るわない結果は、どこか不穏な予感というものを、トゥインクル・シリーズのファンの中に懐かせることにもなった。

 

 

 

 とはいえチーム《ポルックス》からすれば、この結果というのは言うまでもなく朗報である。

 これで年度明けからの二か月の間において、ポルックスの二枚看板、ダイナファントムとシーザリオの二人がそろってシニアシーズンにGⅠを勝ったことになる。つまりその強さは未だ健在であるということを内外に向けて示したとも言えた。

 そして次代のウマ娘、フサイチパンドラも、その翌週のオークスにおいてカワカミプリンセスの二着に入り、クラシック戦線における存在感を示す。三冠目の秋華賞、そしてその次のエリザベス女王杯と、彼女がGⅠを取ることのできる日はそう遠くないだろうというのがもっぱらの評判であった。

 

 更にそれに加えて、これから夏を超えてジュニア級となるダイワスカーレットの前評判もまた、ウマ娘レース界隈には広く知れ渡っている。つまりこれから向こう三年ほどの間は、チーム《ポルックス》はトゥインクル・シリーズにおける話題の中心に立つ資格を十分に有していると言うこともできた。

 

 

 

 

 

 そんなチーム《ポルックス》にとって次なる大レースというのは、トゥインクル・シリーズの上半期における総決算、宝塚記念である。

 彼女たちにとってそれは、シニア級の二つ目のGⅠレースであるのと同時に、そこからの海外遠征に向けた布石という意味も多分に含んでいた。

 つまり、三千二百メートル戦を戦ったダイナファントムと千六百メートル戦を戦ったシーザリオの二人からしてみれば、これから海外においてそれぞれに戦うのことになる中距離戦に向けての調整として、宝塚記念というのはこの上ない条件なのだ。

 

 無論、調整だからといって勝ち負けを度外視するつもりはない。二人とも、間違いなく勝利だけを見据えていた。

 さらに言えば、これは二人が同じターフの中で争うことになる初めてのレースでもあった。今までそれぞれが別々の目標へ向けて進むに当たって、ただ横でそれを応援していればよいだけの関係性であったものが、初めてその道が交差することになる。

 二人とも、それに対する意識は強く持っていた。故に当日までの一か月と少しの間、ダイナファントムとシーザリオ、二人の間にはどこか緊張感というものが横たわっていたのは、確かであった。

 

 

 

 そしてまたその傍らで、宝塚記念にそれと同じか、あるいはそれ以上の熱意をもって当たろうとするウマ娘がいた。言わずもがな、ディープインパクトである。

 

 彼女は年始の一線、阪神大賞典においてダイナファントムに対して勝利を上げたものの、次の「本番」たる春の天皇賞ではダイナファントムの渾身の大駆け、大逃げ戦術の前に差し届かずのレースで敗北を喫している。

 

 尤もあのレースにおけるディープインパクトのパフォーマンスというのは決して悪いわけではないし、かの敗戦が彼女の評判を落とし、今年に予定されている海外遠征に影を落とすなにがしかの影響をもたらすわけでは間違いなくない。

 というよりも、どちらかといえばあれはダイナファントムの一世一代ともいうべきレースであった。一度しか切れない切り札を晒してでも、ダイナファントムはあの日の春の楯を全力で以て取りに来ていたのだ。

 それに対して、有記念から見せ始めた「捲り」という新たな武器を手に一バ身差にまで迫り、更には三千二百メートルという長期戦の中でありつつも、ラストの四ハロンが世界における四ハロンタイムの世界レコードに到達するほどのハイパフォーマンスを発揮した事実は、ディープインパクトがまさに世界レベルで見て類まれなる競争能力を持っていることを、それこそ全世界に示していた。

 ダイナファントムのキングジョージ制覇から日本のトゥインクル・シリーズに対する興味関心が俄に高まり始めていた欧州のウマ娘レース関係者の中では、むしろあの春の天皇賞においてはディープインパクトの側にこそ警戒すべき材料が多いと判断する者の数のほうが多かった。それほどに、ディープインパクトの走りというのは評価されるべきものであったのである。

 

 しかしそれは外野の理屈でしかない。ディープインパクトにとってみれば、あのレースは純粋に「負けのレース」であった。彼女のトレーナーである奈瀬文乃にとってもである。

 というよりは、あのレースは厳密に言えば()()()()()()()であった。福井裕香に対して、否、「福井裕香とダイナファントム」という()()()に対して、と表するのが恐らくは的確であろう。彼女たちは明確に、ディープインパクトを通して奈瀬文乃を見ていた。奈瀬文乃を出し抜くことこそが、ダイナファントムが春の天皇賞を制するために絶対的に必要となる条件だということを、この上なく理解していた。

 而して、彼女たちはそれを遂げた。

 

 そうなれば、黙って引き下がれないのが奈瀬文乃である。彼女としては負けっぱなしの状態で海外遠征に挑むなど、絶対にごめんであった。

 そして実のところそれは、ディープインパクトもまた同じであった。

 

 

 

 ディープインパクトは、走ることが好きである。大好きである。

 それだけではない。「誰かと走る」ことこそを、何より好ましいと感じる性質を持っていた。だからこそダイナファントムの存在というのは、彼女の心をずっと満たし続けてきた。

 しかしそれは、ダイナファントムに対して先着を許しても構わないと考えていることを意味しない。断じて、である。

 皐月賞にせよ有記念にせよ、そして無論さきの天皇賞にせよ、ディープインパクトはダイナファントムとの戦いに敗れるたびに、内心でそれを大変に悔しがっていた。メイクデビューの時から、ずっとそうであった。

 だからこそ彼女は、必ずダイナファントムに負けた次のレースにおいて、絶えずその借りを返し続けてきた。弥生賞もダービーも、そして阪神大賞典でもそうだった。

 

 それは今度の宝塚記念にしても、何一つ変わらない。「海外遠征前であるから」とか、「国内外へのアピールのために」とか、そういったある種()()()情報というのは、前提というのは、今このときのディープインパクトにははっきりと何の意味もなさない。

 彼女は自らの両肩にかけられている期待というものは十分に理解して、しかしそれよりもただ目の前の、「ダイナファントムと競う」という事実にこそ、重きを置いていた。そういうものの考え方をする、ものの考え方ができるウマ娘であった。ある意味でそれは、ダイナファントムと対極に位置する価値観ともいえた。

 

 とにかく、ダイナファントムに勝つ。それをこそディープインパクトは次のレースにおける至上課題として、果たして奈瀬文乃も、奈瀬トレーナーもまた、彼女のその考えに同調した。

 

 

 

 そんな三者三様の思惑が交差する先にて、六月がきた。宝塚記念の日が、やってきた。

 

 

 

 

 

 その日の京都レース場は、雨が降っていた。

 時は六月の末である。西日本は梅雨入りして久しく、故にこの日の雨天というのは珍しいものでもなければ、不運でもない。

 例年の阪神レース場から開催替えとなっている宝塚記念は、そういうわけでディープインパクトとダイナファントム、そしてシーザリオの遠征前の国内最終戦であるのにもかかわらず、人出という意味では例年よりやや少なかった。昨年の有記念とは、比べるまでもない。

 

 しかしそれであったとて、出走するウマ娘たちからしてみればやることに変わりなどあろうはずもない。十五人のウマ娘*1は未だ降り頻る雨の中、それでも臆することなく枠へと入っていく。

 バ場の発表は稍重で、しかしこの降り続く雨の中、恐らくは重バ場に近いほどに路面は水を含んでいる。前年クラシック組の三人、つまりダイナファントムやディープインパクトにシーザリオにとって、このコンディションというのはみな初めてのことであった。

 

 海外遠征前最後のレースにしてまたしても未知の道を行くことになった彼女たちの試練のゲートが、そこで開いた。

 

 

 

 基本的に雨のレースというのは、加速がつきづらい。土が泥のようになって足抜きが悪くなる、つまり足を取られてしまうから、という要素も一つあるが、それ以上に問題となるのは、芝についた水分である。

 つまり、芝が滑るのだ。もしそれで転倒するウマ娘が出ようものなら、そのレースは地獄と化す。走っているウマ娘もそのことについては殆ど本能的に理解していて、故に前も後ろも出足が鈍るのが、今日のようなコンディションのレースの常であった。

 

 それは普通ならば、前目につけるウマ娘にとって利となる。何となれば逃げのウマ娘は出来る限り速度を落として走りながら脚を溜め、最後のスパートをいい位置から全力で走りぬくことを理想とするからである。芝の状態によって強制的にペースが落ちる道悪のレースというのは、そういうわけで得てして前残りの展開になりやすい。後ろのウマ娘も前のウマ娘と同じように、悪い芝のコンディションで余計なスタミナを使わされて脚が残らなくなるという事情も、それを後押ししていた。

 

 しかしそれは一般論である。ディープインパクトというウマ娘にとって、今回の道悪という条件は、特にダイナファントムとの勝負という意味では確実にプラスに働くものであった。それは今日持ってきたディープインパクトの作戦が、宝塚記念の荒天を織り込む形で組まれたものであるからに他ならない。

 

 七枠十二番のダイナファントムと同じく七枠十三番のバランスオブゲームが先行争いに飛び出していくなかで、ディープインパクトはいつものように後方二番手ほどの場所に控えた。

 今回の彼女が見ているのは、実のところダイナファントム()()()()。マークというほどぴったりとついていこうとしてはいないものの、彼女が、あるいは奈瀬トレーナーが今日のレースにおいて展開の中心軸に据えているのは、()()()()()であった。

 一か月前の前走、復帰戦でもあるヴィクトリアマイルを豪脚で以て差し切り勝ちしてその復活を強く印象付けた彼女は、今中団バ群のやや後ろ、ナリタセンチュリーの内に入れるように中で脚を溜めようとしている。それが最低見える位置で以て、ディープインパクトは前半を後ろで追走するようにと奈瀬トレーナーから厳命されていた。

 

 前にウマ娘の壁を据えて走るというのは、ディープインパクトにとってどこまでも見慣れた景色であった。しかし彼女はその実のところは、前進気勢が強い。最低でもジュニアやクラシックの時期において、併せのウマ娘と走る稽古の中においてでさえ、最後の一ハロンで前に出る調整で走れと言われているにもかかわらず、それよりもはるか前にエキサイトして僚バを抜いてしまうことはよくよくあった。

 それでいでゲートの出自体は悪いというディープインパクトの性質は、本来的には相反する二つの要素を抱えているに等しい。よって少し扱いを間違えればディープインパクトが競走ウマ娘として今の強さを発揮する未来というのは来なかったかもしれない。それほどまでにディープインパクトは、持てる素質に比して扱いの難しいウマ娘であった。

 それをここまで育て上げ、世代の、否日本における現役のウマ娘たちの中で双璧と謳われるほどの実力にまで育て上げた奈瀬文乃という人物は、やはり不世出の天才そのものであるとしか評価のしようがなかった。

 

 それが分かっているディープインパクトは、ことレース本番においては自らのトレーナーの指示にはどこまでも従順だ。第一第二コーナーを抜けて向こう正面に入った辺り、彼女からダイナファントムの姿は到底見ることができず、降り続ける雨の音色と数多の蹄鉄が芝を踏みつける鈍い衝撃音ばかりが、ディープインパクトの知覚には残り続けている。

 昂る気を落ち着かせるように、ディープインパクトは静かに呼吸を重ねる。まだ千メートルも経っていない。自分が仕掛けるべき場所ではない。そう言い聞かせた。

 そしてそれと同時、奈瀬トレーナーにスパルタじみた特訓で植え付けられたペース読みの感覚が、そこからすぐにやってくる前半のトータルタイムというものをディープインパクトに意識させた。

 その感覚を信じるならば、それでもペースはそこまで遅くない。カーブの途中でちらと見えた先頭は、見慣れた黒い勝負服のウマ娘は、後ろに二バ身差程度だけつけて悠々と逃げている。そこから自らの走っている位置までは二十バ身はないぐらいだが、ディープインパクト自身の通過ラップは恐らく一分二秒の後半ぐらいである。つまり前を走るダイナファントムは、五十九秒台の後半から一分丁度ぐらいのペースで先頭を牽引していることになるだろう。重バ場に近い稍重という今のバ場状態から考えれば、それは恐らくハイよりのミドルであると表現するのが適当であった。

 

 ディープインパクトの心中に、じわりと歓喜が広がる。それでこそのダイナファントムであると、見当違いの誇らしさすらも胸の中に沸きあがった。

 この道悪の条件であるからといって日和ってペースを落とす溜め逃げ戦術など、あのウマ娘は取らない。いや、むしろこれぐらいのペースでなら十分終盤にいい脚を残せるのだと、ダイナファントムはきっとその走りによって宣言していた。

 

 そしてそうだとするならば、ディープインパクトが取るべきプランも自ずと定まる。後続を擂り潰しながら自分だけいい脚を使って逃げ残ることを目論んでいるのが今のダイナファントムであるのならば、それに対する仕掛けのタイミングというのは、恐らく一瞬しかありえない。

 故に彼女は残り千メートル、第三コーナーの上り坂に入ったタイミングから、じわりじわりと位置を上げ始めた。目標は中団ど真ん中、ナリタセンチュリーを躱して単独で九番手から十番手の辺りにつけたシーザリオである。

 

 ディープインパクトが敢えて被せるように、その到達を報せるように、シーザリオの横にバ体を併せようとする。その音を、そして空気というものを知覚して、シーザリオが横を見る。そしてまた前方、逃げるダイナファントムの方へと目配せをした。

 そうすれば程なくして、かの青毛のウマ娘は動き始める。三コーナーからの坂を登り切った残り八百のその地点で、シーザリオはつられるように外に出し、先団目指してゆっくりと進出を開始した。

 

 ――トレーナーの言った通り。

 ディープインパクトは、そう舌を巻く。

 つまり彼女のトレーナーは、奈瀬文乃は、ディープインパクトに対して一つの推測を伝えていた。

 

 

 

「君の今回のライバルはダイナファントムとシーザリオということになるんだろうが、それはあの子たちも同じだ。特にシーザリオは、間違いなく君を意識する」

 

 数日前、枠番が確定した後の方針決めのミーティングの中で、ホワイトボードにウマ娘たちの位置取りを示すマグネットをぺたぺたと貼りながら、奈瀬文乃は滔々と語る。

 

「つまりシーザリオは、まず君よりも前に位置取りを構えながら、君の仕掛けを待ってダイナファントムを捉えに動くつもりだ。これはほぼ間違いない。なぜならシーザリオには、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 当然、チームメイトにしてルームメイトであるシーザリオは、ダイナファントムのレースぶりについてはよく知っている。それは確かだ。しかしいざ敵として彼女を打倒するためにどういうプランを組むかとなれば、むしろダイナファントムとこれまでずっと闘ってきたウマ娘の経験に学んだ方が、遥かに効率的だ。

 

「だからシーザリオは、言ってみれば()()()()()()()()()()ような走り方をする。そのはずだ。ならば君は、()()()()()()()()()()

 

 

 

 その言葉を、そのいきさつを思い起こす。つまり今、ディープインパクトはシーザリオに対して打診をかけたのだ。行くか行かないかはともかくとして後ろから行く素振りを見せて促し、シーザリオに仕掛けを誘発させた。

 これに乗らなければ、それはそれでよい。シーザリオをマークしつつ、彼女が抜け出そうとしたタイミングで一緒に動くことに問題はなかった。

 

 しかし事実としてシーザリオは動いた。彼女もまた、ダイナファントムを捉えるためにはおおよそこの辺り、あと八百メートルぐらいから先団に向かって進出しなければどうにもならないと考えたのだろう。

 ならばディープインパクトは、それに倣ってしまえばよい。動き出したシーザリオの外、斜め後ろの位置に、ディープインパクトはぴったりとつける形で追走を始めた。

 当然、走るのは大外である。距離のロスは大きい。しかしディープインパクトの身上は、小柄なバ格に比してすさまじく恵まれた心肺機能から繰り出される長大なロングスパートと、それでも長時間にわたって維持できる一級品のトップスピードである。故にその程度のロスなど、彼女からすれば何の問題にもなりえなかった。

 

 内側のウマ娘たちを、捲り上げるように躱していく。下り坂で乗るスピードも活かして、大外故のカーブの緩さも全力で活用する。そのまま六百の標識を通過するそのころに、ディープインパクトはダイナファントムを視界の中、射程に捉えた。位置にして前から五番手ほど、距離にして凡そ六、七バ身先、差し切れるかどうかはギリギリのラインである。

 しかしそれでも、ディープインパクトは奈瀬文乃のいうことを信じた。「今回ばかりは必ず勝てる」と、そう言った彼女の言葉を、純粋に信じた。

 故に彼女はその位置から、いつものスパート体勢に入った。

 

 

 

『ダイナファントム先頭で四コーナーカーブ、京都の坂を駆け下りて後ろとの差をやや離した! 前走天皇賞春に引き続きこの淀で今年二度目のGⅠ勝利なるか! 後ろ四バ身五バ身差でダイワメジャー追走するがこれは届かないか、しかし外から二人、連れて上がってくるようにシーザリオとディープインパクト強襲をかける! あっという間に二番手集団が変わる! シーザリオ! 半バ身差ディープインパクト! ダイナファントムに迫る迫る!』

 

 ダイナファントムとしても、その展開は春の天皇賞と似ていつつも、しかしどうして濡れた芝で脚が滑って思ったようなトップスピードに至れないのは確かであった。

 まだ息は上がらず、脚も疲れを訴えてはいない。だからこその歯がゆさはあるものの、だからといって勝ちを譲るつもりはなかった。

 

 そしてそれを理解して、それをも踏み越えて、ディープインパクトは迫る。未だシーザリオの半バ身後ろの位置を保って、しかしじりじりとダイナファントムとの差を詰めていった。坂でつけることのできた加速の差を使って、残り二百メートルで後ろの二人、シーザリオとディープインパクトはダイナファントムにあと一バ身と少しの位置まで迫った。

 

 

 

 しかしそこで、ダイナファントムの動きが変わる。身体を沈め、左脚から大きく前へ踏み出した。ディープインパクトの視界が、そこから伸びてゆく()()()を、一瞬だけ捉える。

 直後、詰め寄られていたはずのダイナファントムが、再度の加速を見せる。脚色が豹変した。

 

『あと二百! しかしここで、しかしここでダイナファントム二の脚つけて加速する! 一バ身差詰め寄ったシーザリオをディープインパクトを近づけないか! 粘り切るかダイナファントム逃げ切れるのか! 逃げ切るのか!』

 

 

 

 それはつまり、ダイナファントムが切り札を切った(領域に潜った)ことを意味する。

 そしてそれこそが、ディープインパクトにとっては最後の勝利のためのピースだった。

 

 心は凪いで、まっすぐに静かに、ディープインパクトは「内側」へと潜る。

 いつのころからか、彼女は意識的に()()に触れることができるようになっていた。恐らくは有記念のあの日、咲き誇る願いと心のぶつかり合いを、そのイメージを視界いっぱいに感じてからのことだ。

 そしてそれを、ディープインパクトのトレーナーは、奈瀬トレーナーは、新たなる武器へと昇華させてみせた。彼女に対して、その「内側」から()()()()()()()()()()()()()()()術を、身につけさせたのだ。

 

 果たしてディープインパクトは、今まで()()()()()最後の脚を開放して、そこに「内側からの力」を載せる。その心象風景が生んだ純白の翼が、一気にディープインパクトの動きを押し上げた。

 

『シーザリオ苦しい! シーザリオ苦しい! しかし外から! しかし外からディープインパクト! ディープインパクトここでシーザリオを躱して二番手! ダイナファントムに迫る迫る迫る! ダイナ! ディープ! 並ぶ! ディープインパクト捉えた! 並んだ! 並んでダイナ、ディープ、これはどっちだーッ!?』

 

 そのまま、二人はもつれ込むようにゴール板を超えた。一バ身遅れるようにシーザリオも決勝線を跨ぐ。そして三人、余力のままに走って、第一コーナーに差し掛かる手前の辺りで揃って立ち止まった。

 

『際どい! これは際どい! 内ダイナファントムと外ディープインパクト、外ディープどうか指し切ったか! 体勢微妙です!』

 

 どよめく観客席に、実況が興奮混じりにアナウンスをかける。

 しかしダイナファントムにせよディープインパクトにせよ、今回のレースの勝者というのは、実のところそのゴールの瞬間にはわかっていた。

 

 ダイナファントムが振り返る。ディープインパクトのことを覗き込む柘榴の瞳は、内に抱える悔しさと感心の色が相半ばしていた。

 

「負けだね、私の」

 

 あっけらかんとした言葉だ。ディープインパクトは答えない。一瞬だけ首を傾げて、そしてその後に小さく頷いた。

 目の前で小さく笑んでいるダイナファントムを見上げて、彼女は小さく口を開く。

 

「差、つけられると思ってた。もうちょっと」

 

 それは事実であった。

 ディープインパクトが、そして奈瀬トレーナーが立てていたのは、ダイナファントムが領域に潜って最後の一伸びをかけたその瞬間に、()()()()()()()シーザリオの陰から一気に伸びて、抵抗されることなくかわし切るというプランだった。つまりダイナファントムに対する目晦ましに、シーザリオを利用するということである。

 これはダイナファントムが、初対戦となるシーザリオの動向にどうしても目を配らざるを得ないからこそ使える技であった。春天におけるダイナファントムの大逃げと同じく、恐らく今回の一度しか使えない切り札であった。

 故にこそ必殺を期していたし、だからこそゴール手前でダイナファントムを捉えつつも半バ身ほどは躱してゴールするというのが、事前の奈瀬トレーナーとの展開予想であった。

 

『今ターフビジョンに写真が映っていますが……これは外! 僅かに外です! ディープインパクトが差し切っている! ディープインパクト、春の天皇賞の雪辱果たし、宝塚記念を制しました!』

 

 しかし結果は()()である。写真判定にもつれ、恐らくはスリット一本分程度のハナ差での勝利に落ち着いた。ディープインパクトにとってそれは予想の範疇を超えるものであり、同時にダイナファントムの強さというものを、改めて認識することになった。

 

「まあ、意地があるから、私にも。……でも次は、負けないよ」

「次」

「うん。だからつまり――」

 

『海外遠征前の三人、上位独占の形で決まりました! アイルランドよ、フランスよ、アメリカよ、待っていろ!』

 

 続きを口にしようとしたダイナファントムに、実況が被せる。意図してのことではないだろうが、ダイナファントムはそれに苦笑いをせざるを得なかった。

 ディープインパクトもそれにつられて、小さく笑う。

 

()()()()……凱旋門賞か、次ぶつかるのは」

 

 感慨深げに続けたダイナファントムが、自らの横に所在なげに佇むシーザリオの方も見て、手招きする。

 そしてそこで三人が並んだ。真ん中にディープインパクト、その右にダイナファントム、左にシーザリオがそれぞれ一線となり、スタンドの方を向く。

 

 そのまま、頭を下げる。わっと歓声があがった。

 

 

 

 

 

 結果として今回の宝塚記念は、海外遠征組の壮行レースとしてこの上ない結果となった。

 それからの日々の中で、それぞれのウマ娘は次走のための、遠征に向けての準備に身を投じることになる。

 

 ダイナファントムは最も早く、九月上旬のアイリッシュチャンピオンステークスへ。

 ディープインパクトはそのまま凱旋門賞へ。

 そしてシーザリオは、昨年志すも叶わなかったアメリカの大レース、BCフィリー&メアターフへ。

 

 三者三様の臨戦過程はそれでも皆順調で、各々外厩に戻る形で進む用意の中、まずダイナファントムが海外に向けて出立の準備を整える。アイリッシュチャンピオンステークスの開催まで、丁度三週間となった日のことであった。

 

 

 

 

 

 斯くしてその日、翌々日に出発を控えていたダイナファントムであったが、しかしそんな彼女のもとに一つのニュースが、どこまでも突然にやってきた。

 

 

 

 トレセン学園保有の合宿所において、次走のスプリンターズステークスに向けた調整を続けていたラインクラフトが、()()()

 一時昏睡状態で近くの病院へと運ばれ、何とか一命はとりとめたものの、適切な処置がなければ彼女は助からなかったという。

 しかしともあれ、どうにか命を拾った彼女は今、宇都宮にあるURAのウマ娘研究所保有の病院へと移送中である、とも。

 

 そしてラインクラフトを襲った症状の正体も、その報せのなかに明記されていた。

 曰く、「()()()()」。発作性の心疾患であった。

 

 

 

 ダイナファントムは、その通知が映るウマホの画面を、茫洋な目で見つめるよりほかにはなかった。

 

 彼女の心の中で、日常の崩れ去ってゆくその音が、確かに聞こえた。

 

 

 

 


 

 レース結果:4回京都4日11R・宝塚記念(GⅠ)(芝右外2200・雨・稍重)

 一着・ディープインパクト

 二着・ダイナファントム ハナ

 三着・シーザリオ 1身

 四着・ナリタセンチュリー 5身

 

 上がり3F: 35.6 (11.9-12.0-11.7)

 レースタイム: 3:12.6*2

*1
史実は13頭。そもそも宝塚記念は開催時期の関係で馬場が安定せず、フルゲートになることがほとんどないレースである。

*2
史実における本レースのタイムは2:13.0

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