その部屋を覆うのは、時を止めてしまうほどの静けさに、懈怠に微睡みすらも抱く淡い色彩であった。
人心を安んずる暖かみの木目と、清浄を旨とする純白で作り上げられた空間のなか、真白の布に包まれて、そのウマ娘は横たわっていた。
「あ、みんな……」
少しばかり起き上がったベッドの背に身体を預けて、顔がゆるりと動いてこちらに向けられる。そしてそれが、ふと緩んだ。
桜色の入院着に身を包んで、どこか掠れ気味な声で以て、明るい鹿毛のウマ娘が、
栃木県は宇都宮、URAウマ娘総合研究所付属病院の一室には、そこに臥せるウマ娘の、ラインクラフトの同期が集まっていた。
言わずもがなの面々だ。シーザリオにディープインパクト、そしてダイナファントムである。
彼女たちは「ラインクラフト倒れる」の報を聞くや、誰とはなしに互いに連絡を取り合い、そして自然とその流れの中で、ラインクラフトへの見舞いを決めた。ダイナファントムはアイルランドへの出発の前日というスケジュールであったが、それでもなお彼女は、ラインクラフトの現状に気を配ることなくこの国を発つということを、自らに断じて許さなかった。
結論から言えば、ラインクラフトの今の体調には特段の問題はなかった。
トレセン学園は多数のウマ娘を預かる施設であり、これまでに起きたいくつかの痛ましい事故や不幸から、彼女たちのトレーニング中に起こりうる様々な異変に対して即座に対応できるような仕組み作りがされている。
そしてその対策の歴史の中で、ウマ娘という種族が、人類と同じ姿かたちをとっていながらもともすれば物理法則に反するほどの身体的強度を誇る存在が、それでも生物として持っているボトルネック、或はウィークポイントというのは、凡そ二つであるということが理解されていた。
即ちそれこそが、脚部と、そして循環器である。
脚部の故障に関しては、トレーナーたちが自らの担当に対して常日頃から細心の注意を払っているところである。故に最低でもここ五十年の歴史において、骨折やその他脚部の故障を起因とするウマ娘の死亡事故というのは、幸運なことに起きてはいない。最低でも、トレセン学園やURA所管のレース場内部においてはそうであった。
しかし厄介なのがもう一つの方、循環器、つまり
ウマ娘がその強力な身体能力を下支えするために、現生人類とほぼ同じ構造をしていながらも顕著に発達した心肺機能を保有しているというのは、有名な話である。そしてその代償故か、ウマ娘は現生人類と比べて心臓機能に急性の不全症状を呈する割合が、優位に多いのだ。つまりそれは、「心房細動」と、「心室細動」である。
心房細動の場合は、まだよい。一時的に、そして著しく心肺機能が低下するものの、心臓がその機能を停止してしまうわけではない以上、安静にしていれば回復する。
しかし心室細動のほうは、そうはいかない。現生人類と同じく、その発生後数秒で意識を喪失し、そして十分以内の一次救命措置を行わない限り、死は免れえない。ウマ娘であっても、それは同じであった。
故にURAが抱えている設備は
そこでもし仮に少しでも心肺機能に異常が見られたら、そのウマ娘は出走することを許されない。それによって当日に競走除外となったウマ娘は、枚挙にいとまがないほどだ。ダイナファントムは、そのことを知識としては知っていた。
兎も角それほどまでにURAは、ウマ娘のいわゆる「急性心不全による突然死」に、細心の、ともすれば神経質と表したくなるほどの注意を向けているのだ。
そしてそのURAの体制こそが、ラインクラフトを救った。
彼女のトレーナーと、そして監視カメラによる合宿所全体のモニタリングによってラインクラフトの異常は三十秒以内に検知され、それから二分もしないうちにAEDが彼女のもとに到着、倒れてから凡そ四分後、ラインクラフトはAEDと胸骨圧迫による蘇生処置によって心臓機能を回復した。
同時にその素早い措置によって、ラインクラフトの運動機能に後遺症が出てしまうような事態は見事事前に阻止された。
その辺りのいきさつを、ラインクラフトは見舞いに訪れた三人に語っていく。
「だから、わたしは大丈夫。元気……かどうかはちょっと微妙だけど、でも身体は動くし。安静にしてろって、言われちゃったけどさ」
言って、どこかバツの悪そうな笑みを浮かべた。
それを聞くばかりの三人は、発するべき言葉を持てずにいる。それでもその中でダイナファントムは、自らが受けた一報よりも、それによって想像したよりもはるかにラインクラフトが危険な状態であった、瀬戸際であったことを理解する。
何かが一つ違っていれば、ここでこうしてラインクラフトと対面することも、或は叶わなかったかもしれないのだ。そのことを、どうしても強烈なまでに、彼女は意識せざるを得なかった。
息が漏れる。自然に、胸に手を当てていた。それをぐっと握りしめて、少しだけ目を瞑る。制服の胸元が、くしゃりと音を立てた。
今の自分たちは、過去の積み重ねと、得難い幸運の上で、こうして向き合うことができているのだ。それに思いが至ったときに、唇がどうしようもないほど震えた。
声にならない声が二度三度と漏れて、しかしどうにか、ダイナファントムは言葉を絞り出す。
「……それでも、よかった。きみが、無事で。……本当に」
無言の病室の中、しかしそれは、ダイナファントムを除く残り二人の心中のものと、同じであった。
どうしようもないほどに、泣いてしまいそうなほどに、そこには安堵の情が、静かに横たわっていた。
しかし、話はそこで終わってくれるほどには簡単ではない。それはつまり、まさにラインクラフトの命を救うに至ったURAのウマ娘に対する保護措置に起因するものであった。
ラインクラフトは今回心室細動、つまり急性不整脈によって一瞬ではあるが心肺停止の状態に陥った。これは客観的事実である。
したがってURAが制定しているウマ娘の健康管理のルール上、彼女は「直近において心臓を始めとする循環器系に重篤な問題を抱えている、ないし問題が起こったウマ娘」というカテゴリに入れられることになる。これもまた、当然の帰結であろう。
問題はここからである。URAは自らの主催するレースにおいて、また提携を行っている海外のウマ娘レース管理団体の主催するレースにおいて、「過去半年以内に前述の問題を起こしたウマ娘は、その出走を認めない」処置を取っていた。その主な対象は、「過去半年以内に心室細動などの急性不整脈を引き起こしたウマ娘」と、「持続性心房細動や、その他遺伝性不整脈の所見が強く認められるウマ娘」である。
今回のラインクラフトは、そのうちの前者に対応する。したがって彼女はこれから六か月、つまり来年の二月下旬までの間、レースへの出走を実質的に禁止されることになった。その上で、彼女はここから凡そ二月ほどを目安として、この病院併設のウマ娘総合研究所のなかでの定期的な検診と経過観察を義務付けられることになった。
すべては、ラインクラフトという一人のウマ娘の命を守るための、正しい、そして配慮ある措置である。しかしそれは同時に彼女にとって、今年のこれ以上のレースへの出走を認めない決定であるのと同義だった。
スプリンターズステークスも、香港マイルも、彼女は出走を許されない。最低でも、今年中はそうである。
本格化に入ったウマ娘の一年というのは、重い。ウマ娘によってまちまちではあるものの、本格化の始まったウマ娘は、そこから基本的には四年、長くて五年ほどしかその全盛期を保つことができない。場合によっては、三年と持たない者もいる。
そんな中、半年もの間レースに出ることもできず、無為に時間を過ごさざるを得ないという事実は、ラインクラフトにとってどれほどに重いものであるのか。
ダイナファントムはそれを慮ろうとして、しかしできなかった。今まで何らの怪我にも、不調にも悩まされてこなかった彼女がそれをすることは、あまりにも烏滸がましいことなのだと、そう思わざるを得なかった。
「まあ本当は、ヴィクトリアマイルの時に考えとくべきだったんだと思うんだよね、今から考えたら。……九着、負けすぎだって言ったら言い訳かもしれないけど」
「そんなことは……」
自嘲気味に放たれた台詞を、反射的にシーザリオが遮ろうとする。共にあの日、府中を走ったものとして、眼前のウマ娘の物言いというものは受け入れ難かったと、そういうことなのだろう。
それを負け惜しみと謗る者は、いまここにはいはしない。勝者であるシーザリオでさえも、そうであった。
それでも、ラインクラフトは首を振る。
「いや、負けは負けだよ。あの日のザリオちゃんは強かった。わたしは追いつけなかった。それは、絶対。けど……」
布団の中から両手を出して、その掌をじっと眺める。その顔は笑んでいても、瞳に浮かぶ情念を、隠し切れてなどいない。醸し出す空気が、その空虚な内心というべきものを、どこまでも雄弁に語っていた。
両手が、握られる。軽く力を込めたそれをまたベッドの上に投げ出して、ラインクラフトは外を見る。
ダイナファントムたちとは反対の方、悪態の一つすらも吐きたくなるほどに、抜けるほどの青さが広がる窓が、そこにはあった。そしてそこに半ばかかった紗のカーテンが、空調の冷風にあおられて、静かに揺れていた。
それにぼんやりと視線を向けて、ポツリとラインクラフトが零す。
「もうちょっと、考えておくべきだったのかもね、わたしは……」
力ない声色だ。彼女がどんな目で、表情で、そちらの方を眺めているか、ダイナファントムには窺い知ることはできない。
それでも一つだけ、強く意識した。
ラインクラフトに、今の空気は絶対に似合わない。もっと無邪気でいるべきなのだ。屈託のない笑顔を、浮かべているべきなのだ。
そうあってほしい。そうでなければ。
気づけばダイナファントムは、だらりとおろしていた自らの右手を、強く握り込んでいた。
それきり広がった沈黙の中、かけるべき言葉は失われて、何か言うことすらも憚られる空気が、場を支配する。
見舞いにやってきた三人は、今のラインクラフトの苦しみというものを、真に理解することは難しい。
敢えて言えば靱帯の故障で一年近い休養を余儀なくされたシーザリオには共感しうる点はいくらかあるのかもしれずとも、それでもなお、
故に、何も言えなかった。誰も、何も言わなかった。
「終わってない」
しかしそこで、ポツリと声がした。静かで、澄んでいて、しかし隠し切れない情動を内包した声だった。
ダイナファントムはその声の主を、右の方を見る。
「クラフト。終わってない。
ディープインパクトだ。ディープインパクトが顔を上げて、まっすぐにラインクラフトを見ていた。その双眸が、アイスブルーの輝きが深みを増していた。
ダービーの日のことを、その時に向けられた透徹した決意のことを、ダイナファントムは思い返した。
静かな一歩で、ディープインパクトが前に出る。ベッドサイドに立って、向けられたラインクラフトの顔を、瞳を、射抜くように覗きこむ。
「生きてる。走れる。戻ってこれる。……まだ、走れてない。
ラインクラフトが息を呑んだ。その小さい音が、それでも大きく部屋の中に響いたように、ダイナファントムは感じた。
「ディープ、ちゃん……」
「なら」
唇を震わせて、か細く名前を呟いたラインクラフトのことを遮るように、ディープインパクトが言い募る。
「生きてるなら。動けるなら。私は、私
言い切って、ディープインパクトがダイナファントムとシーザリオの方へと目を向ける。
「私も」。言い切ったその意図を、ダイナファントムにせよシーザリオにせよ、読み違えたりなどしない。
それはきっと、ディープインパクトにとっては最大級の激励だった。そして祈りだった。
俄に翳り、ともすれば鎖されてしまったと思える未来の絵図も、しかし可能性が残っているのならば、諦めてはならないのだと。
倦んでしまってはいけない。倦むことは、腐ることだ。追っている夢があるのなら、抱えている願いがあるのなら、まだ立ち上がることのできる足があるのなら、投げ出すことなどできはしないだろう。
何よりこの私こそが、それは嫌だと言っているのだ。
――だからどうか、諦めてしまわないで。
――いつかきっとここにいるみんなで、一つのターフの上を駆ける夢を、消し去ってしまわないで。
そう、ディープインパクトは語っていた。短い単語の羅列であっても、彼女の心情というのは実のところどこまでも明け透けに吐露されていた。
故に彼女たちは、向けられた視線に大きく頷く。そしてダイナファントムはシーザリオと二人、ラインクラフトへと向き直った。
「お医者さんは、なんて?」
慰めも、共感も、鼓舞も、全てを排して、ダイナファントムはそれだけを訊ねる。今のラインクラフトには、それが最もあるべき問いの姿であろうと、そう確信していたからであった。
問われた彼女の視線が、ダイナファントムに向く。ゆっくりとその瞼が閉じられて、そしてまた開かれた。
「まずは精密検査だって。
淡々と語る。つまり彼女がレースに出るためには、そういう病気がある場合はまず治してからになるということだ。当然といえば当然の話である。
ただトレセン学園入学時の身体検査で、そういった類のチェックはまず学園生は受けている。それをクリアしたからこそ、彼女たちはトレセン学園への入学を許可されているのだ。ダイナファントムもそうだし、ラインクラフトもそうである。
よってその必要をラインクラフトの担当医が認めたというのはつまり、今回のことで何か表面化した症状があるかどうかを調べる必要が出てきたからなのだろうと、ダイナファントムは推量する。
「あとは、経過観察だね。なんか、わたしみたいに前触れ一切ない感じでこういうことになる子って、再発する場合は結構短期間で起こるんだってさ。だから、それを診るのに半年、だって」
なるほど、とダイナファントムは頷いた。何もURAの人間は、そしてこの病院の人間は、悪意や意地悪で以てラインクラフトの競走ウマ娘としての活動を阻害しようとしているわけではないのだ。
彼女を生かす。死なせない。そして無事に競技者として復帰させる。そのための措置としては、それはたしかに道理に適うものであった。
「そっか。……なら、それが大丈夫だったら」
「うん。また、わたしは走れる」
それを口にして、ラインクラフトは小さく頷く。
そしてそこで彼女は何かに気づいたかのように、目を少しばかり瞠った。そっか、とそんな呟きも漏れ聞こえてくる。
「そう、だよね。走れるんだ、わたしは、まだ。なんか勝手に、『終わった』って、思っちゃってたけど」
言いながらもその表情の中、少しずつ笑みが戻ってくる。
その心情は、なんとなくではあるものの、ダイナファントムには察することができた。
合宿所の中で倒れて、ラインクラフトの主観ではそこからすぐに病院のベッドの上で目が覚めて、そしてきっと、ずっと孤独だったのだ。自らの身の上に何が起きたかに、たった一人で向き合わなければならなかった。
彼女の頭を超えて交わされる会話や、淡々と伝えられた症状に、己の今置かれている、色を喪った病室という世界が、きっと必要以上に彼女を追い詰めていた。弱気にさせてしまっていたのだろう。
それでも、今は違う。
「そうだね。ディープちゃんの言う通りだ。『まだ、間に合う』。間に合うんだよね、わたしは」
もはや言葉もいらない。ラインクラフトに見合っているダイナファントムたち三人は、ただ黙って、しかししっかりと頷き返した。
それを見て花咲く笑顔を浮かべた彼女の瞳を、そこに浮かんでいた光を、
そうしている間に、面会の期限の時間がやってくる。
そろそろお暇をしなければならないと、ダイナファントムたち三人はそれぞれに持ち寄った見舞いの品を、ラインクラフトのベッドサイドに紹介がてら置いていく。
それに一つ一つ礼を返していた彼女が、しかしその最後、何かに気づいたかのように声を上げた。
「そうだ」
そして徐に身を起こし、自らの両手を首の後ろへとやる。ごそごそとした音が響いてその最後、彼女は再びその手を自らの胸の前へと持ってくる。
そうすれば程なくして、彼女のそれぞれの手から何か紐のようなものがさがっているのが見える。やや遠目から目に映るそれは、鮮やかな紅の色彩であった。
そこで、ダイナファントムは気づいた。ラインクラフトの身に着ける紅の何かとは、なんであるかを。その正体を。
もはや遠い正月の炬燵の中、
果たしてその後、大事そうな手つきで
「あなたたちのなかで、一番最初に海外レース行くのって、だれ?」
問いに、両隣のウマ娘たちからの視線が集中する。それは無言のうちの答えであった。
「そか」
短くそう言ったラインクラフトが、改めてダイナファントムに向かって、更に両の掌を伸ばす。
そして開かれたその上には、まさしく彼女の首飾りが、紅色の組紐と銀細工のペンダントトップが載せられていた。
「なら、これ」
ダイナファントムをして自らに何を求められているのか察するのには、その仕草とその言葉で十分に過ぎた。それでも彼女はただ黙って、ラインクラフトの言葉を待つ。
「この、ペンダントね。おかあさんがわたしに、入学前にくれたものでさ。ペンダントトップの舟は、
一度だけぎゅっとそれを胸に抱きしめて、そしてダイナファントムを手招く。近寄った彼女に、ラインクラフトは今一度、両手を差し出した。
「だから……これ、預かってよ」
それの意味するところは、きっと一つだった。
「今年、外国で走れなくなっちゃったから。いや、日本でも無理なんだけど。……でも、だから、『これ』だけでも一足先に、
その気持ちの本当のところをは、その機微というものは、ダイナファントムには読み取り切れない。いや、誰にもできはしないだろう。
しかしそれは確かに、一つの願いだった。
「それで、無事に走り切れたら、わたしもなんか、力がもらえそうだから。……だから」
もう、それ以上の言葉は、きっと要らなかった。
ダイナファントムは、黙って頷く。そして恭しくもラインクラフトの傍で、両手を皿の形にした。
意図を汲んだ彼女が、摘まんだペンダントを静かにその手の上におろす。手の内に感じたのは、物理的な軽さよりも重みをもった何かであった。確かにそれを、ダイナファントムは受け取った。託された。
それを一度胸に押し戴いて、それからダイナファントムはそのペンダントを身に着ける。
ほどなくして、胸元に確かに揺れるその銀細工を目に留めて、ラインクラフトは頷いた。
「それじゃ。……その子を、よろしくね」
ダイナファントムは、黙って頷く。果たしてそれが、彼女たち四人の中における、約束となった。
そしてその翌日、ダイナファントムが一足先にアイルランドに向けて飛び立つ。
また一つの想いを背負って、ダイナファントムにとって譲れない戦いの季節が、再び始まろうとしていた。
史実におけるラインクラフト号の死因についてはあくまで「急性心不全」であり、その実際のところは不明です。本作では独自解釈となります。
また心室細動関連においては以下の論文を参考にしました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinzo1969/33/Supplement3/33_112/_pdf/-char/en