ディープインパクトが、未勝利戦を突破した。
――あ、そう。というのが、ダイナファントムの感想の全てだった。
とは言え、こればかりは仕方がないだろう。そもそもあれほどのウマ娘がメイクデビューで勝ち上がれなかったこと自体がおかしいのだ。尤も、彼女を未勝利戦送りにしたのはほかでもないダイナファントム自身であるのだが、それはともかくである。
そう、それはともかく、である。彼女にとってはその次の週の土曜日のことのほうが、よほどに大事であった。
つまり、チームメイトであり同時に
彼女はその週の金曜日から、自らのトレーニングもそこそこにシーザリオのメイクデビュー戦の作戦会議にトレーナーと参加して、そして自らも前入りの形で会場となる阪神レース場に出向いた。当然、最前列で応援をするためである。それほどまでに、ダイナファントムにとってはシーザリオのメイクデビュー戦というのは自分ごとであったのだ。
そして迎えた土曜日、阪神レース場第六レース、芝千六百メートルで施行されるメイクデビュー戦にシーザリオは出走して――そして見事勝った。
この時期のメイクデビュー戦にしてはやや速い、前半千メートル六十一秒八のペース故に上がりこそ多少かかったが、それでも道中四番手という先行ポジションから直線抜群の脚色を発揮し、上がり三ハロン最速の三十四秒六でまとめて悠々の優勝を決めた。そこには危なげなどどこにもなかった。
はっきり言って、拍子抜けであった。ダイナファントムとしては、もう一波乱二波乱ある中で、手に汗握りながら彼女の勝利を祈り、応援する気満々でそこにいたのである。ただ実際のところの彼女は、道をこちらから向こうに行くような気軽さでメイクデビュー戦を勝ってみせていた。
ウイニングライブの前、ダイナファントムは出走ウマ娘控室で福井トレーナーと合流する。
そして体操服にゼッケン姿のままのシーザリオをその目に留めて、すぐに祝福の言葉をかけた。
――おめでとう、ザリオ。随分楽に勝ったから、びっくりしたよ、と。
「それは、そうでしょう。ファンさんのように初手から魔王城に殴り込みをかけるようなメイクデビューの仕方をするウマ娘なぞ、そう多くはありませんもの」
それに対する彼女の返しというのが、これである。澄ました表情で、何でもないようなセリフであった。
というより、そこには揶揄いの色すらも含んでいた。
「そりゃご尤も。……まあ、発案は私じゃないんだけどね」
ダイナファントムとしては、ただそれに頭を掻くよりほかにはなかった。
「ともあれこれで、ウチのジュニア級はどちらも無事勝ち上がりというわけだね。めでたいめでたい」
そしてその元凶の片割れともいえる福井トレーナーがしれっとまとめるのを、思わずじっとりとした目線でねめつける。どの口が言うか、という意思の発露であった。
ただ当の彼女は、それにはなんの反応すらも示しはしない。気づいてすらいないかもしれなかった。
全く、とんだ図太さである。ダイナファントムは嘆息した。
とは言え実際のところ、実情はまさに福井トレーナーの言うとおりではあった。勝てば官軍、終わりよければ全てよしとはよく言ったもので、結果としてダイナファントムには「
今年のチーム《ポルックス》は、クラシック戦線における主役の一つとしてまさに今、世間に名乗りを上げるに至った。そういう見方は、確かにできた。
兎も角も、こうしてダイナファントムのジュニア級は終わりを告げた。
そしてその翌日のこと、ゼンノロブロイが年内総決算のグランプリレース、中山の有馬記念にてタップダンスシチーを半バ身差抑えて優勝を果たす。
それは同時に、テイエムオペラオー以来二例目となる秋シニア三冠という偉業が達成されたことを意味していた。
日本のウマ娘レース業界において、その出来事は確かに、かつ大変に重大なものであった。間違いなく歴史に大きく残るだろう功績でもあった。
しかしダイナファントムにとって、そしてクラシックへの準備に余念がないジュニア級のウマ娘の全てにとって、それがどこか遠い世界の話のように感じられていたのも、事実であった。
年が明けた。クラシック級の一年の、幕開けである。
新年の行事と言えば、何を最初に頭に思い浮かべるだろうか。
年賀のあいさつ。たしかにそうだ。
おせち料理。それもあるだろう。
中山金杯。頭がトゥインクル・シリーズに支配され過ぎである。
――初詣だ。最低でも、ダイナファントムにとってはそれこそがまず第一であった。
そういうわけで、彼女は府中、トレセン学園近くの神社までやってきていた。
そんな彼女に連れ添っているのは、二人のウマ娘である。
一人は、シーザリオだ。言わずもがなだろう。
しかしもう一人は、ダイナファントムの予想の外からやってきた存在であった。
「あけましておめでとうございます!」
神社の入り口で、そのウマ娘はダイナファントムとシーザリオの到着を待っていた。
黒鹿毛、暗褐色の髪色に大きく入った流星の白が映え、髪の中の白色の部分を撚って三つ編みにして、後ろでまとめている。
葵色の虹彩はつぶらに開かれていて、その人物の人懐っこさを前面に押し出しているようにも感じられる。声色も、そして振る舞いにしてもそうだった。
まさに、見慣れぬウマ娘である。
だたダイナファントムは、彼女のことを知っていた。名のあるウマ娘だからだ。
そして彼女が、わざわざ自分とシーザリオの初詣に同行するということも、前もって知らされてはいた。
「こちらこそ、あけましておめでとうございます。それで……あなたは、
――スペシャルウィーク。押しも押されぬ伝説級のトレーナー、
「はい、スペシャルウィークです! よろしくお願いしますね!」
しかしそんな御大層な肩書に比して、今ダイナファントムの目の前に立つ少女はどこまでも純朴な存在に見えた。
屈託のない笑顔を浮かべる目の前の彼女が、ふとダイナファントムの横を向いた。そこに立つのは当然にして、シーザリオである。
「ザリオちゃん、この子があなたの言ってた子ですか?」
頷く。どうやらというかやはりというか、彼女は目の前のスペシャルウィークとは面識があるらしい。なんでも、入学当初からふとしたことで知り合い、以降何かとお世話になっているのだそうだ。
かのレジェンドウマ娘と自らのルームメイトにそんな繋がりがあるなど、随分な巡り合わせもあるものだ、とダイナファントムは妙な感慨を懐いていた。彼女はシーザリオと縁を持ってこれで二年近くになるわけだが、それでもその人間関係やバックグラウンドについて、仔細に知っているというわけではなかったのである。
それはさておいて、見るべきは今だろう。そう彼女が思い直した視線の先、シーザリオは相変わらずのすまし顔で、その問いに答えていた。
「ええ、その通りです。お名前、憶えてらっしゃいますよね」
「当たり前じゃないですか!」
心底心外だといった面持ちでそう声を上げ、スペシャルウィークはまたダイナファントムへと向き直る。
「『ダイナファントム』さん、ですよね? ……ダイナちゃん、でいいですか?」
それを聞いて、彼女は思わず苦笑していた。
トレセン学園入学時も、ダイナファントムはクラスメイトからそう綽名されようとしていた。その記憶を思い出して、どこか懐かしさをも彼女は覚える。
それと同時、きっとこの現状こそが、うちの実家が変えたがっているものなのだろうなと、彼女には一つ察するところがあったのも事実だった。これもまた、ダイナファントムにとっては過去の記憶である。
「……略すなら、ファントムと。何せ、うちの実家に『ダイナ』はたくさんいるものでして」
その言葉を聞いた瞬間に、スペシャルウィークが顔色を変えた。あからさまに『しまった』という表情であった。ダイナファントムが自らの返答に込めた意図というものを、きっと彼女は正しく受け取っていた。
しかしそうであるにせよ、とダイナファントムは考える。
スペシャルウィークのことだが、本当に表情がくるくると変わるウマ娘である。その裏表のなさは間違いなく美徳だろうというのが、それに対しての彼女の率直な感想であった。仮にも先輩に対して受ける印象としてそれが相応しいものであるかどうかは、いまいち自信のないところではあったが。
「あ、ごめんなさい……」
「いえ、お気になさらず。ザリオも最初はそうでしたし」
「ちょっと、ファンさん!?」
と、そこで思わぬ流れ弾にシーザリオが目を剥く。放ったのは無論、ダイナファントムである。
当然敢えて狙ったボールではあるのだが、それでもいつも取り澄ました態度で余裕を崩さない彼女の突然のリアクションに、思わずダイナファントムは吹き出してしまった。
釣られてスペシャルウィークもくすくすと笑い始めるのを目にして、シーザリオは眦を吊り上げる。そのまま、我慢ならぬとばかりにダイナファントムの方へと詰め寄った。
「ファ~ン~さ~ん~?」
全身で不満を表明している彼女を、ごめんごめんと手で謝りながら宥める。そしてスペシャルウィークに向けて、軽く目礼した。
「まあ、こういうことですので、本当にお気になさらず」
「……わかりました! なら、私もファンちゃんと呼びますね!」
返ってきたそれにダイナファントムが首肯すれば、満面の笑みでスペシャルウィークも頷き返す。
それでその場はどうにか収まり、そして彼女たちはそろそろ時間が惜しいと、一路境内へ向かった。
当然その入り口、鳥居に対して深々と礼をすることはみな忘れない。
スペシャルウィークはともかくとして、残りの二人はそれ相応の教育を受けている。そういう一つ一つの作法の積み重ねを、忘れる立場のウマ娘ではなかった。
長い行列の向こうでお参りを済ませ、彼女たち三人は神社をあとにする。
スペシャルウィークはそのついでにというか、境内でおみくじを引いていた。シーザリオも先輩後輩の仲ということでそれに付き合いつつも互いにきゃいきゃいとやっていたわけだが、ダイナファントムはそこから一歩引いて、おみくじを引くこと自体遠慮していた。
彼女は昔から、運頼みで何かをすることが大の苦手であった。
「ザリオちゃん、何をお願いしてたんですか? 結構長めにお祈りしてましたよね!」
その帰り、スペシャルウィークがシーザリオへと訊ねる。それはダイナファントムにしてもやや気になっているところではあった。
彼女たちは三人並んで本殿の前へとやってきていたのだが、シーザリオだけやけに長く祈りの時間を取っていた。具体的には、スペシャルウィークとダイナファントムがお参りを済ませてから、更に二人ほどの参拝客が彼女の横を通過していったほどである。
二人の物問いたげな視線を受けて、シーザリオが彼女たちの方を向く。しかしすぐに、その視線がふいと外された。
「……別に、当たり前のことですわ。『今年のレース、みんなが怪我なく走り切れますように』、『
逸らされた顔の中に浮かぶ表情を、ダイナファントムは窺い知ることはできない。けれどもシーザリオの祈っていたことというのはどこまでも純粋でかつ無垢なもので、それをああも長々と続けたそのいじらしさを、彼女は揶揄う気にはなれなかった。
スペシャルウィークも、それを聞いて目を輝かせている。両手を合わせて、身を乗り出した。
「素敵ですね! ザリオちゃん、やっぱりいい子です!」
「ちょっとスペさん、そういうことは……!」
純度百パーセントの好意と称賛の目線が、どうやらあまりに面映ゆいらしい。背けた顔、視線が行き所を探して、最終的にはその隣、ダイナファントムの方へと向かう。
「そ、それより、ファンさん、あなたはどうだったのかしら? 何かお願いしたのでしょう?」
そのまま、無理やりに矛先を擦り付けた。慌てたような言葉遣いに、余裕のなさが感じ取れた。
それに驚いたのはダイナファントムの方である。まさかこの話の流れで自らにターゲットが向かってくるとは、思ってもいなかったのだ。
何か言おうと口を開くも、しかしいきなりのことに呆気に取られていたその一瞬を縫って、スペシャルウィークが先にシーザリオの言に食いついた。
「確かに! ファンちゃん、あなたは何をお願いしましたか?」
放たれたのは、明るい、そう、底抜けに明るい問いである。それを真っ直ぐに向けられて、彼女は咄嗟にその手を己の頭へとやった。
時すでに遅し。ダイナファントムは、スペシャルウィークから向けられた質問への対応を余儀なくされた。
「それは……」
言って、口ごもる。スペシャルウィークがその小首を傾げた。
これでは、シーザリオを笑えないだろう。そう彼女は思うも、咄嗟の動きは誤魔化せない。逃げるようにその目線を逸らしてしまっていた。
自らの脚を向ける先、彼女は空を見上げる。正月の寒空は、澄んでいながらもどこか褪せた蒼を一面に見せていた。
ダイナファントムというウマ娘にとって、元来願いというのは己の心の裡に持っているべきものではなかった。
というのも、彼女は生まれて来た時から、シャダイの一族にとっての唯一の希望そのものであったからだ。故に彼女には常に有形無形の期待がかけられ続けていて、だからこそ願いというものもまた、常に背負うべき何かでしかなかったのだ。そしてそれを、疑問に思うようなことは生来なかった。
当然、ダイナファントム自身もウマ娘という生き物である。当然の生物的欲求は持っているし、走ることはとても楽しい。勝つことだって大好きだ。けれどもそれは、彼女にとっては何かにかけるべき願いでは断じてありはしなかった。
彼女は望まれて生まれ、望まれて育てられ、そして望まれて今ここにいる。レース場のターフの上に立つ身分になっている。それこそが今のダイナファントムの全てであり、そして彼女にかけられている願いを成就するのは、彼女自身の力によってであるべきだった。そうでなければならないと、彼女は考えていた。
「……お願いは、特にしていません。ただ、『ありがとう』と、言いました」
気づけば、彼女はそんなことを口に出していた。
「去年一年、無事に健康にやってこれたことを、ありがとうと。無事に競争ウマ娘としてのキャリアを始められたことも、そうですけれど」
故に結局、初詣という行事については大事にしている彼女であっても、そこで祈ることと言えば、畢竟その程度のことでしかなかったのだ。
「そして……これからも見守っていてください、とも。私を含めて、みんなのことを。それこそあの、
結んだ言葉に、何の反応もない。どうしたのだと思ってダイナファントムが横を見れば、隣を歩く二人はどこか意外というか、面食らったような表情で、自らのことを見ていた。
しかしそうもじっと見つめられていては、ダイナファントムとしてはどうにも居心地が悪い。無言ばかりというのも頂けなかった。はぐらかすように肩を竦め、言葉を付け加えた。
「ま、私のことはいいじゃないですか。みんな無事これで初詣も済んだわけですし、今年もいい年になりますよ、きっと」
かなり無責任な物言いである。それは彼女自身自覚していた。
それでもそれを聞いて、二人の纏う空気が和らぐ。シーザリオが、くすりと笑った。
「……まあ、そういうことにしておくわ」
「……そうですね!」
それにスペシャルウィークが同調して、この話題は〆られる。
あとは日常のことや寮の色々雑多なことをぽつぽつと話しながら歩けば、トレセン学園へはそう時をおかずに辿り着いていた。
「じゃ、ザリオちゃん。ティアラ三冠頑張ってくださいね!」
「ええ、スペさん。ありがとうございます」
別れ際、スペシャルウィークはそうシーザリオに激励の言葉をかけていた。妹分というのは、どうやら本当のことらしい。
ダイナファントムがそれを横目に見ていたところ、スペシャルウィークが彼女のほうをも向いてくる。そして一歩歩み寄って、その位置で口を開いた。
「ファンちゃんも。クラシック頑張ってくださいね」
「はい。それは、どうも。ありがとうございます」
「それと」
そこで言葉を区切って、彼女は一度息を吸う。そして吐く息とともに、言葉を継いだ。
「
身を乗り出して、笑顔の中から飛び出してきたそれに、ダイナファントムは思わず固まる。
それは。口の中でそう言うも、彼女からその何かが音となって出てくるには、結局至らなかった。
スペシャルウィークと別れたその後にあっても、そして寮の部屋、シーザリオと一緒に眠りにつくその時に至るまで、ダイナファントムの胸中にはその言葉が居座って、そして消えてはくれなかった。
スペちゃんがここにいる理由は、つまり現実においてシーザリオがスペシャルウィーク産駒であることによります。
???「おみくじ引くために3000円貸してください!」
みたいなことはないです。
ないはず。