八月も下旬となったこの日、ダイナファントムはこの年の欧州遠征における最初の目的地、アイルランドに到着した。
ダイナファントムにとってアイルランドという国は、正直なところあまり馴染みがない場所である。当然ながら、降り立つのも初めてだ。
ただし日本のウマ娘業界においては、かれこれ五年ほど前にかの国から一人のウマ娘を受け入れたことが大変に記憶に新しい。ダイナファントムもまた、そのことについてはとてもよく覚えていた。
つまるところそれはファインモーション、もとい
平素からかの国のウマ娘レース業界とURAとは、たしかに提携関係にはある。アイルランドはその国民感情は兎も角としても、ウマ娘レースの世界においてはイギリスとは大変に近しいのだ。イギリスのそれと同じように、アイルランドのウマ娘レース管理団体とつながりを持つというのは、URAとしては至極当然の活動方針であった。
ただ、それとこれとは話が別だ。つまりかの国から、わざわざ王族ともあろう者が日本
とはいえそれを「どうしても」と切望までされてしまったら、我が国としては受け入れるよりほかにない。その時のファインモーション
結局、まわりまわってそれはアイルランドのウマ娘レース管理団体たる
しかしいずれにせよ彼らがファインモーションの現役期間中に強いられることになった苦労の数々というものは、その時は未だ入学からデビュー前の時分であったダイナファントムからしても、随分と印象に残るものではあったのである。
とまあ、そんなことばかりが思い起こされるこの国ではあるのだが、しかし同時にダイナファントムは、このアイルランドという国に対する関わりというものを何も持っていないわけではなかった。ただそれはあくまで「シャダイ」の人間としてであって、一人のウマ娘としてではない。
つまりこの地に存在する、世界で最大ともいえるウマ娘私塾の企業グループとの関わり合いのことである。
彼らの触手はイギリスやそのほかのヨーロッパのみならず、アメリカやオーストラリアにも伸びている。それぞれの地においてもウマ娘私塾を開くことで、そこここに強い影響力を及ぼしているわけだ。
すなわちダイナファントムは、というよりはシャダイの人間は、国際的なウマ娘ソサエティの交流の中において、かのグループとは常より親交を持っている。
それはある時は人材交流の形で現れ、また或は海外レースの場において互いの出身ウマ娘同士で雌雄を決することもよくある。
そして今回は、それでいうところの後者であった。
アイリッシュチャンピオンステークスとは、れっきとしたGⅠ競走である。国際格付けを与えられているという意味では、現在の日本の殆どのレースよりもその格は高いといっていいだろう。何となればジャパンカップや宝塚記念といった国際GⅠとして指定されている限られた競走を除いて、日本のグレード付けは国際的な承認を得ていないから*1である。
ただしその賞金額は日本のGⅠ競走と比べればはっきり少ないし、同時にこのレースはこれ以降に施行される二つの有力な芝レースへの、実質的なステップレースとして見られていることも確かである。
その一つが、この競走が範とした元たるイギリスのチャンピオンステークスであり、そしてまた一つが、凱旋門賞であった。
とは言え今年のアイリッシュチャンピオンステークスを凱旋門賞へのステップとして使おうとしているウマ娘は、実のところダイナファントムだけであったが。
しかしそんなことなど関係ないとばかりに、クラシック級ながらも有力なウマ娘がもう一人、このレースに出走を表明していた。当然にして、彼女はファンから高い注目を集めている。
名を、「
今回、ダイナファントムは自身のアイルランド遠征に際して、帯同を連れてきていない。
というのも、海外遠征における帯同のウマ娘というものは、基本的に同じチームに属していて、同じ日の別の路線のレースに参加する者が割り当てられるのが通例である。昨年のように遠征において別々の国のレースに参加するウマ娘同士で帯同を組むというのは相当な例外なのだ。
そして現状ダイナファントムを初めとする四人、デビュー済みであれば三人のみで構成されているチーム《ポルックス》において、その条件に合致するようなウマ娘はいなかった。よって、ダイナファントムには帯同が用意されていないのは必然であった。
同時にそれは、併せの相手になるようなウマ娘がいないということでもある。
しかしながら、一年と少し前に経験したとは言えど、この地域一帯の洋芝の感覚というものは取り戻さなければならない。そういうわけで彼女は、アイルランドの首都ダブリンから南西へ四十キロほど離れた場所に位置する、ERI保有のウマ娘トレーニング施設のお世話になっていた。
つまりそれは言うまでもないが、カラレース場とそこに併設されたカラトレーニングフィールドのことである。
イギリスにおけるニューマーケットと同じように、このカラ、あるいはその施設の存在する都市であるところのキルデア県ニューブリッジはアイルランドにおけるウマ娘レースの聖地である。アイルランドにおけるGⅠレースのほとんどはこのレース場において行われているし、基本的にアイルランドのウマ娘はここにあるカラトレーニングフィールドにおいてトレーニングを重ねることになる。
というより、ERI保有のトレーニング施設というのはここにしか存在しないのだ。その他には例えば件のウマ娘私塾グループが自らの本拠地として保有している「バリードイル・トレーニングフィールド」というトレーニング場があるが、そこはあくまでも私有地である。ダイナファントムが乗り込んでいくのは不可能としたところであった。
兎も角彼女はカラに乗り込み、そしてその次の日から早速といった調子で調整を始めた。
一年と少しというブランクこそ空いているが、しかし彼女にとってその芝の、そして土の感触とは
故に出てくるタイムも上々である。こと終い重点で追う時の上がりの三ハロンに関しては、はっきりこの地で出す時計の方が速い。場合によってはダイナファントムは自らの信条を枉げて控えるレースをすることすらも選択肢に入ると、福井トレーナーが太鼓判を押すほどであった。
そしてそんな直前の芝追いの日々の中で、そのウマ娘は訪れた。
時期はレースの直前、当週追い切りを終わらせ、いよいよ本番に向けたコンディションのピーキングも済んだ頃のことである。
一度クールダウンのためにトラックから外へと出ようとしたところで、ダイナファントムは出入口に一人の鹿毛のウマ娘の姿を認めた。
ウマ娘としては王道の褐色の髪が、風に靡く。着ているダークグリーンのブレザーとタータンチェックのスカートは、カラに併設のウマ娘寄宿学校の制服であろうか。
いずれにせよ、そこに立つウマ娘はダイナファントムの見知った顔ではなく、格好からも恐らくは地元のウマ娘だ。しかしその顔は真っ直ぐにダイナファントムの方を向いていて、自らに用があることは明白であった。
自らの傍らで歩く福井トレーナーに目配せする。意図を察した彼女が暫くといった風情で自らの横から離れたことを認知して、ダイナファントムはそのウマ娘のもとへと歩み寄った。
時をおかず、ダイナファントムはそこへ、彼女のもとへとたどり着く。目鼻の先で立ち止まり、二人のウマ娘はしばし無言で見合った。
「Ah……コンニチハ」
どうしたものか、こちらから声をかけるのがよいか。ダイナファントムがそんなことを思った辺りで、むしろ向こうの方から、どこかおずおずと、ぎこちない様子で声がかけられた。
欧米の女性らしい、落ち着いた声色ではある。しかし同時に出てきたそれは、片言の日本語だった。つまり、やはり目の前のウマ娘はダイナファントムの存在については予め認知している。その上で、声をかけてきていた。
ダイナファントムは、表情を緩める。そして口を開いた。
"……英語で構いませんよ"
目の前の少女が、露骨に安心した表情をした。
"そうか、ありがとう。ミス・ダイナファントム……でいいのかな"
"勿論。お名前をお聞かせいただいても?"
そして右手を差し出す。そのまま、彼女は名乗った。
"
「oops」と言いたいのはこちらの方だ、とダイナファントムは内心ひとりごちた。
まさか今回のレースの前夜祭よりも前に、その名を持つウマ娘と顔を合わせる機会があるとは、今の今まで思っていなかったのである。
改めて、その様子を見る。
欧州の中距離路線ウマ娘にしては珍しく、バ格が大きい。特に上背が高く*2、ダイナファントムといい勝負である。その一方で全体的な体型としてはすらりとまとまっていて、その辺りは無駄な筋肉の付き方をよしとしない欧州流のウマ娘育成のなせる業であろうと感じさせられる。
総じて、なるほどこれは確かに欧州最大のウマ娘私塾の手になるウマ娘に相違ないと、ダイナファントムは内心感服した。
ただ何にせよ、求められている握手を拒む理由はない。
"こちらこそ初めまして。ご存知のようですが、ダイナファントムです"
そう言ってにこやかに手を取る。がっちりと互いに手を結ぶ握手を交わした後に、向こうの、ディラントーマスの方から、改めて言葉が続けられた。
"去年のキングジョージ、お見事だった。我々の中にはない勝ち方だった。先頭を走って、最後ギリギリまで引き付けた後に、突き放す。アメリカのダートレースのようでもあるが、それともまた違う新鮮さを感じたよ"
実直そうな声に、そして声色だ。そしてダイナファントムはその言葉にやや驚く。
このウマ娘は、今年がクラシック級の年であるはずだ。つまり彼女はデビュー前の身空で、去年のダイナファントムのキングジョージを見に来ていたことになる。それもまた、彼ら私塾の教育方針ということなのであろうかと、益体のないことがちらとダイナファントムの頭を過る。
が、それはいかなる意味においても詮無い話である。表情に出すことなく、代わりに小さく頭を下げた。
"それは光栄です。それでミス・ディラントーマス、今日はどのようなご用件でしょう"
"いや、用件というわけではないんだが"
問われたディラントーマスが、やや言葉を濁す。しかし暫くの後に、意を決した様子で答えを口にした。
"いつもはバリードイルの方にいるんだが、当日が近いからここに来ていてね。ミス・ダイナファントムがここにおられるとは知っていたから、ご挨拶をと。それと"
そこで一度言葉を切って、ニヤリと笑う。
"直接、見定めて来いと。私のトレーナーが"
ダイナファントムは、目を瞠った。
目の前の彼女がそれを言ったということは、その発言者というのは必然的に一人に絞られるからである。
"トレーナー……ミスター・マクブライアンがですか"
「トレーナーのマクブライアン氏」とは、つまりディラントーマスが所属しているウマ娘私塾の出身ウマ娘を専属して担当する世界的トレーナーである。その威光は文字通り世界中に鳴り響いていて、まさかそれほどの人物から名指しで注目されるとは、ダイナファントムからしてみれば予想外としたところであった。
そして自覚する。「クラシック級のウマ娘」が、「クラシック級の
"それは、光栄な話ですね。ではミス、あなたは最初の方から?"
"そうだ。とはいっても最初の方は、クラブハウスの上の方から
言いつつも胸元にぶら下げていたオペラグラスを指で叩いて見せたディラントーマスが、真剣な表情を作り直した。
"しかし、日本のウマ娘とは思えないな"
そんな言葉から唐突に評を始めたディラントーマスだが、直後に言葉をつけ足した。
"いや、貶しているのではない。知識では知っているが、日本のバ場というのは我々の国のものとは勝手が違うのだろう? だからここに挑みに来るたくさんの日本のウマ娘たちが、走りで苦労させられたと聞くが"
それがない、と彼女は続ける。
"走りがノメっていない。自然体だ。まるで私たちと同じに、最初からずっとこの土地の芝で走ってきたかのようだ。……美しいフォームだ。最低でも、私のトレーナーならそう言う。間違いなく"
心底感服したような言葉遣いであったが、しかしそこで「
"それでも、私とて負けるつもりは毛頭ない。挑戦者としてではなく、対等に、真っ向から私は、ミス・ダイナファントム、貴方と戦う"
強い意志を秘めた言葉遣いである。ダイナファントムからしてみれば、目の前の彼女は言いたいことだけ言って自ら自分のことを鼓舞して気持ちを上げているばかりのようだが、しかしそれでもそれは歓迎すべきことであった。
なぜならここに、ディープインパクトはいないのだ。競ってくれる誰かがいなければ、張り合いというものがない。
そして同時に、ダイナファントムは内心で決意を固めた。
"いいでしょう。私もチャンピオンではなく、あなたと同じ、一人のウマ娘ですから"
そこまで言って、胸元に右手を当てる。その中、ジャージの下にある
その存在を確かめ、そこにかけられた思いを想起して、ダイナファントムは続きを言い切った。
"それでも、私は譲らない。誰にも"
思わず浮かんだ笑顔をそのままにディラントーマスへとぶつければ、対する彼女もまた、再び好戦的な笑みを浮かべた。
どちらともなく再び右手が差し出され、そしてまたひとたび、ダイナファントムとディラントーマスは握手を交わした。
それは、無言の合意であった。互いに宣戦布告を叩きつけ、そしてそれを正面から受け取った。
"では、ミス・ディラントーマス。ミスター・マクブライアンによろしくお伝えください"
"承った。それでは、また前夜祭で"
"ええ。壮健で"
そのまま最後、ディラントーマスが踵を返して去っていく。
その姿を見送りながら、ダイナファントムはいよいよその日が、レース当日が近づいていることを、改めて意識していた。
まるで嵐の如くな、二人のウマ娘の邂逅の時であった。
そして時は流れ、土曜日の午後がやってくる。
場所を変え、ダブリン中心部から南南東に僅か十キロ、ダブリン都市圏の郊外の辺りに位置するレパーズタウンレース場が、その日のダイナファントムにとっての戦場だった。
アイルランドにおける平地ウマ娘レースの総決算、締めくくりに当たるのがこのアイリッシュチャンピオンステークスであるが、今年の出走ウマ娘はなんと六人しかいなかった。日本のレース番組の在り方からしたら、なかなか衝撃的な光景であろう。
とはいえ例年このレースに関しては七人か八人が主流で、十人も出走すれば大盛況である。良くも悪くもそれこそがアイリッシュチャンピオンステークスであり、そしてこれほどの少人数レースというのは、一切の運や巡り合わせを排して純粋な実力勝負とするには、これ以上ないほどに適しているとも言えた。
遠く見える山々が霞に覆われるアイルランドらしい天候の中、それでも上天は陽の光を確かにターフの上に届かせて、鮮やかな緑が一面に映えている。平地競走のクライマックスというこの場にふさわしいコンディションであった。
今回ダイナファントムが入った枠は、三番である*3。六人立てのど真ん中ということで、極端な有利もなければ不利もない。ただどのみち六人しかしない今回のレースにおいては、どの枠順に配されようが大した違いがあるともダイナファントムには思えなかった。
枠に入る直前、大外の六番に入ろうとしているディラントーマスと、ダイナファントムは目が合う。
彼女は、ダイナファントムのことをじっと見ていた。枠入りの直前、ゲートの目の前で、横目で視線を送り続けていた。
そこに込められた意味は、ダイナファントムには分からない。ただそれでも、彼女が自らのことを強く意識していることは、理解した。
そちらへと会釈を返して、言葉を発することなくゲートへと入る。
六人の枠入りは本当に一瞬で、故にダイナファントムの目の前、スターターが振った赤旗と同時にゲートが開け放たれたのは、そこからすぐのことだった。
相も変わらず、欧州のウマ娘レースのスタートというのは何の情緒もない。しかしそうであるにせよ、ダイナファントムがレースにおいてすべきことというのは、何の変わりもなかった。
ただ、勝つ。それだけを、彼女は見ていた。
欧州のウマ娘レースは、時にチーム戦の趣を持つ。それは去年の遠征のタイミングで既に意識していたことだったが、今年はまさに一組の「チーム」が、このたった六人のレースに参加してきていた。
言うまでもなく、マクブライアン氏のチームである。彼はこのレースに、二人のウマ娘を送り込んできていた。
一人は昨年ダイナファントムがキングジョージにて戦った白い勝負服のウマ娘、エース。
そしてもう一人こそが、ディラントーマスである。
今回のレースにおける彼女たちの扱いが、はっきりとディラントーマスを勝たせるためのフォーメーションであるというのはダイナファントムは理解していた。つまりそのために、エースは一つの狙いを持ってこのレースに挑んでいる。
ダイナファントムがいつものようにすさまじい出の良さで以てゲートから飛び出し、スタート直後の下り坂を活かしながら一気に加速してハナを取ろうとした辺りで、隣に一人のウマ娘が猛然と競りかけてきた。
即ちそれこそがエースである。彼女はつまり、逃げであるところのダイナファントムに楽をさせないように常に競りかけつつ、自らを道連れにオーバーペースを演出してダイナファントムを終盤に垂れさせようとしていた。或はそれをよしとしないダイナファントムが先頭を譲れば、エースは後ろのディラントーマスが勝ちやすいペースを作りつつダイナファントムの進出をブロックする意図を持っていた。
つまりエース自身に勝つ気がなければ、対抗と目したダイナファントムのことを諸共に潰すのは不可能ではない、という見立てである。その図を描いたのは、確実に彼女たちのトレーナーたるマクブライアン氏に相違ない。
日本のウマ娘レースの在り方からすれば、それは正々堂々たる戦い方ではないと言えよう。しかしところ変わればルールも変わる。ヨーロッパのレースは、そう言う「チーム全体での勝ちを目指す」戦い方というものもまた一つのレースの在り方であると肯定されていた。
そのことを、ダイナファントムは理解している。そして同時に、彼女のなかにはそれに対する勝算があった。
レパーズタウンレース場は、その最初の三ハロン近くが下り坂で構成される。六百メートルで六メートル、勾配は一パーセントである。京都の下り坂よりは若干緩やかで、助走から弾みをつけて速度を載せるにはもってこいの区間だった。
よってダイナファントムは全く妥協しない。その入りの三ハロン分を思い切ってぶっ飛ばし、当然競り合うことを厳命されているエースのことを強引に引っ張った。入口からすぐの緩やかなカーブを抜けて長大な向こう正面の直線に入っての三ハロンを、ダイナファントムは自らの肌感覚においては三十五秒を切る勢いのラップで駆けた。助走距離なしの欧州流のタイムでいえば、三十六秒と少しといったところであろうか。
こうなると困るのはその後方である。
確かにウマ娘の運動能力の性質から考えれば、ゲートを出てからの一ハロンは徐々に加速していくことが、一般には望ましい。
何となれば、静止状態からの急加速は普通のウマ娘にとっては急激な無酸素エネルギーの消費を招くからだ。平たい言い方をすれば、最後のスパートにおいて全力で走るよりもエネルギーを使うのである。よってゲートはそろりと出て、ちんたらとした追走でエンジンを温めながら有酸素エネルギーを使って走り、最後の直線で貯蓄された無酸素エネルギーを放出して一気のスパートをかける欧州流のレース運びは、普通のウマ娘の身体的特性から見て理にかなっているのだ。
故に彼女たちは、その最初の一ハロンにおいてダイナファントムがかっ飛んでいった時に、そのことについては全く意識すらもしていなかった。どうせラビット役のエースが鈴をつけに行くだろうとしか、考えていなかった。
そして二ハロン目、追いついたエースとダイナファントムが競り合いながらペースを一切落とさずにハナを主張し合っているのを見て、「これはあの先頭は沈んだな」と考えた。実質的にダイナファントムはエース諸共このレースから脱落したとすら思った。
しかし三ハロン目、未だ全くその勢いを緩めることなく遠慮なく後方と差を広げ続けるダイナファントムの姿を見て、流石におかしいと思い始めた。
何となれば、彼女たちから見るダイナファントムは、むしろ隣で必死で食らいつくエースのことを
結果としてこの下り坂を使い切った六百メートル余りの間に、ダイナファントムとそれについていったエースを除いたバ群の先頭、つまり三番手のウィジャボードとの間にはなんと十八バ身ほどの差が開いていた。
これは欧州のウマ娘レースにおいてははっきりと異常な事態である。そしていくらエースが競りかけていったとしても、何の勝算もなくダイナファントムが、前年のキングジョージを勝利したウマ娘があそこまでの爆走を見せるはずがない。
つまりあのダイナファントムというウマ娘にとって、この序盤戦のペースというのはオーバーではないのだ。だとするならば、今結果として猛烈な勢いで先頭を突き進んでいるかのウマ娘に行った行ったで独走を許しているこの事態そのものが、むしろあちらの術中ということにはならないだろうか。
それに気づいた先行勢、つまりウィジャボードとディラントーマスには、いきなりの二択が突きつけられることになった。
即ち、ここから前でぶっ飛ばしているダイナファントムとの間を詰めるために持続的なペースアップを行うか、それとも最後の直線勝負まで今のペースを維持し、ダイナファントムがこの十八バ身差というリードをはたきながらペースを落としてくることに賭けるか、どちらかである。
ディラントーマスとウィジャボードは、しかし本能で理解していた。自らの取れる選択というのは、実質的にその前者しかありえないということをである。
恐らくダイナファントムは、これから確かに今ほどのペースは刻まないかもしれない。いや、間違いなくそうだ。しかしここから大きな失速を見せるとは到底思えない。十八バ身とは、つまり三秒である。このレース場の最後の直線は概ね二ハロンであるが、その二ハロンで三秒を詰められる自信というのは、流石に彼女たちにはなかった。
しかしそこからが、ダイナファントムの悪辣なところである。つまりこの前半の六百メートルを通過した辺りから、コースの性質が俄に変化する。勾配一パーセントの下りから、勾配八パーミルの上り坂へと、まさに百八十度の転換を見せるのだ。
当然、このレースに参加するウマ娘たちはコースレイアウトについて知悉している。というより、このレースに参加するものの大部分はアイルランドのウマ娘である以上、知っていないほうがおかしい。
そしてそれ故に彼女たちは、ここからゴールまでの全ての区間において、このレースコースには
つまり構造としてはアスコットのそれと似ている。後半の展開に足を残すのは、仕掛けのための十分な加速を得るためではなく、最後の直線で致命的なペースダウンを起こさないためでしかないのである。
兎も角、後ろのウマ娘達は多少の無理を押してでも追走しなければ勝負にならない。区間としては残り七ハロンほど、前を走るダイナファントムよりも区間平均でコンマ四秒と少し速く走れば最後には追いつく。
しかしそれは、ダイナファントムがもし仮にここから全ての区間を十二秒で走るのであれば、十一秒六の追走を最後まで続けなければならないことを意味している。
それは無謀にも近しい。ただ、そうしなければ勝ち目はないのだ。後続のウマ娘たちは、覚悟を決めざるを得なかった。
かたや先頭、ダイナファントムはぴったり内ラチ沿いを進んでいる。後方勢の予測通り、彼女はここから最後のスパートまでは最低でもハロン十二秒を徹底して刻むつもりであった。横を走るエースはそのオーダー故にダイナファントムと競り合わざるを得ず、相当に消耗している。しかしダイナファントムがハロン十二秒の態勢に映るためにややペースを落としたその瞬間に、好機とばかりに力を振り絞って前へ出た。つまりペースを落とすことは許さないと、ダイナファントムに対して共倒れを挑んだのである。
しかしダイナファントムは乗らない。ならばどうぞと、あっさりとハナを譲る姿勢を見せた。何となればダイナファントムはもはや、最初の三ハロンで十分なリードを確保しきれた時点で、今回のレースにおいてハナを進む必要は半ばなくなっていたからである。つまり、駆け引きやペースコントロールのために先頭を維持しなければならない理由は、ダイナファントムにはもはやない。あとは他のウマ娘に流されることなく、ハロン十二秒で最終盤まで走ることを意識さえしていれば、ほかのことはどうでもよかった。
そしてエースの方は、譲られたならば先に行かざるを得ない。ハナを取ったその瞬間に、彼女は後ろをちらりと見た。後続が追い付ける程度のペースへと、これから落としていく必要があるからである。
果たして彼女は見る。そして目を見開いた。自らがダイナファントムと競り合いを続けた区間の中で、後続とは見たことのないほどの差が開いていた。
これはまずい。そう、エースは判断する。流石にこの差を追いつかせるのは不可能だ。ならば、ハナを取った自らはペースを思い切って下げなければならない。
しかしそれと同時に、彼女は自らの完全な真後ろに、ダイナファントムがぴったりとつけていることを知覚した。安全距離の半バ身などではない。文字通りの真後ろである。距離にして五十センチあるかないか、双方の脚がぶつからないギリギリの位置で、ダイナファントムは自らのペースを維持しながら走り続けていた。
彼女の狙いの一つは、スリップストリーム効果を使うことにある。一般にウマ娘同士が前後に並んだ程度でスリップストリーム効果は発生しないと言われているが、しかしこれほどの真後ろにぴったりとつけば、風除けという意味では申し分ない。どうせハナを取って進んでくれるというのであれば、最大限利用させてもらおうという図々しさがそこにはあった。
そしてもう一つが、「ハナを取る気ならばペースダウンは絶対に許さない」という意思表示である。
流石に息遣いすらも分かるほどの真後ろにつかれては、どんなウマ娘とて心理的にも足を緩めることは難しい。ペースダウンをした瞬間に足を踏まれて転倒しかねないからである。そしてウマ娘レースの慣習においては、後ろから突っつく形で距離を詰める行為は、危険なものとは認められていなかった。無理に内から抜かそうとすれば失格もありうる危険行為であるものの、抜かそうとする意思がなければ問題はないのである。
つまりダイナファントムは、前を走るエースに向かって言外にこう伝えていた。
即ち、「ペースを上げる分には任せるが、私の想定するよりもペースを下げるならばハナを譲れ」、と。
ダイナファントムはたったこれだけの行いで、エースがやろうとしていた目論見の全てを完璧に潰していた。それは能力に飽かせた力業での解決策であった。
斯くしてエースは先頭を走る間においてダイナファントムに風除けに使われ続け、そして後ろから完全に自らにとってオーバーペースな形でせっつかれ続ける憂き目にあう。体力の問題と心理的負荷が重なったことで、向こう正面から長い長いカーブに入り、そして二ハロンのホームストレッチに入る直前のカーブ出口の辺りで、とうとう横に大きく膨れた。足がペースを刻む力を失って、ずるずると下がっていく。
そしてダイナファントムは、自ら何らの働きかけを行うこともなく、最内の経済コースに自らの進路を確保した。
そうなれば、ダイナファントムとしては勝ったも同然である。後ろではウィジャボードとディラントーマスが何とか食らいついて五バ身ほど後方にまで上がってきているが、そのほか二人のウマ娘は完全に追走を諦めている。そしてウィジャボードとディラントーマスの二人にしても、ここまでの間で十三バ身、つまり二秒のタイムを上り坂を走りながら縮めていく必要があったことで、もはや使える脚はほとんど残っていなかった。
最後の二ハロンにて勾配は一気に上がり、八メートルほどの高低差を登り切ることになる。
この最終盤に勾配にして二パーセントの坂というのは、急なアップダウンに慣れている欧州のウマ娘たちにとってもタフ極まる条件だ。ダイナファントムの脚にも、そこではっきりぐっと負荷が増したのが感じられた。
それでもここまでくれば、もう駆け抜けるだけである。ダイナファントムは歯を食いしばり、息を止めて、そして身体を沈める。籠めた力に値するほどの加速はどうしても得られないものの、それでも足から伝わる
もはや後ろのことなど頭にはない。戦前にあれほど自らのことを意識していると語っていたディラントーマスのことさえも、意識の中にはなかった。
ただ一人、己と向き合う。揺れる
眼前に「光の道」は現れず、それでも自らの内側に潜っていく心象を、確かにそこに幻視する。そしてその最後、潜った先で
意識が浮揚する。忘れていた呼吸が戻ってくる。光降り注ぐ緑色のほかには何も見えていなかった景色に、世界に、歓声が溢れた。
少しずつ減速して、そしてダイナファントムは立ち止まる。右手に見える見えるスタンドは、ホームストレッチからは随分と遠くにあって、それでも確かに観客たちの発する祝福の声は、ダイナファントムの耳に届いていた。
そこで不意に、彼女は気配を感じる。後ろを見れば、そこには一人のウマ娘がいた。
誰かなど、言うまでもない。
"……完敗だ"
半身で目を向けたダイナファントムに、そのウマ娘は、ディラントーマスは口を開いた。
"流石は去年のキングジョージをクラシックで制覇しただけのことはある。……理解はしていたはずなんだが、それでもまだ侮っていたようだ"
そう言って、会釈ほどでも頭を下げる。
ダイナファントムは目を瞠った。ヨーロッパの文化に生きるウマ娘が、そこまで言って、更に頭まで下げて見せたことにである。
"いえ、それは……気にしてはいませんが"
咄嗟に口にして言い淀み、それでもダイナファントムは、どうにかその言葉の継ぐ先を見つける。
"ミス、あなたの次走はアメリカでしたっけ"
"そうだ。アメリカの、しかもダートになりそうだと、トレーナが"
"そうですか"
彼女の言葉に頷く。芝のウマ娘をアメリカのダートに出すのは、欧州のトレーナーにはよくある選択だ。特にディラントーマスのいるところ、つまりマクブライアン氏のチームの場合はなおのことそうであった*4。
その決定について、ダイナファントムはとやかく言う口を持たない。故にこそ、ダイナファントムはそこから、ただ一言だけ付け加えた。
"なら、また会う時までご壮健で。お互いに来年も走るようならば、またまみえることもあるでしょう"
そう言って、数日前のカラのトレーニングフィールドでそうしたように、ディラントーマスめがけて右手を差し出す。
対するディラントーマスは少しだけ目を開き、しかしその直後にはその表情を緩めた。
"ああ。その時まで、走りを磨いておくよ"
果たして二人の両手が、今一度しっかりと結ばれる。
そしてそれが終わるなり、ディラントーマスは踵を返した。勝者の祝福を得るべきウマ娘だけが、ダイナファントムだけが、このターフの上に残された。
空の蒼と芝の緑の境界線にぽつんと一人佇んで、ダイナファントムはもう一度、胸の前で右手を握る。その中に、ラインクラフトから譲り受けた銀細工のペンダントを確と握りしめた。
――まずは、一勝だ。
俯いて目を瞑って、そう内心で呟く。預かったこのペンダントと、背中にかけられた期待、そしてその上に載る己の意思の、「まだ見ぬ世界を切り拓く」という夢の積もった先に向かって、いまダイナファントムは確かな一歩を踏み出した。
さきにイギリスで挙げた一勝に加えて、今アイルランドで一勝をもぎ取った。自らは今、これに日本を加えた三つの国のGⅠを得たことになる。世界に雄飛する活躍を謳う己の夢と、そしてシャダイの願いの成就に、これで大きく近づいたのは確かであろう。
しかしそれでも、きっとこの次こそが、あらゆる意味において本題となるのだ。
そのことを、ダイナファントムは改めてその胸に強く懐いた。
目を開く。今日の日、夏のアイルランドの空は、遠くに霞をたなびかせながらも、どこまでも蒼く透き通っていた。
Race result: Leopardstown; Irish Champion Stakes (Group 1)(10T, AC, GF)
1st・Dyna Phantom
2nd・Dylan Thomas 7.L
3rd・Ouija Board neck
Last 3F: Unmeasured
Total time: 2:00.4R*5
作中の「マクブライアン氏」というのは、言うまでもなくクールモアの専属調教師エイダン・パトリック・オブライエン師のことを念頭に入れています。
そして競走馬の無酸素エネルギーと有酸素エネルギーについての話は、以下のページを参考にしました。
https://company.jra.jp/equinst/magazine/pdf/Y-2011-11.pdf
https://company.jra.jp/equinst/magazine/pdf/Y-2011-12.pdf
https://company.jra.jp/equinst/magazine/pdf/Y-2012-1.pdf