その日のロンシャンから見える空は、朝から抜けるほどの青空が覗く晴天だった。
遠くへと目を向ければ、そこには雲が白く靡いている。青と白、二つのコントラストはターフの緑と合わせて目に鮮やかだ。バ場の発表が
ただ今年の凱旋門賞は、例年に比べて顕著に出走するウマ娘の数が少なかった。その数、わずか
凱旋門賞の開催が一桁人数立てとなるのは、本当に珍しい。記録にある限りでは、二次大戦直後の混乱の中で開催された凱旋門賞が同じく九人開催であったのを含め、百年近い開催の中で僅か三例ほどしかない。今年で四例目である。それほどまでに奇異なる事態であった。
ただその理由は、結局のところシンプルである。欧州のウマ娘レースは直前でのスクラッチが許されていて、「勝ち目がない」と判断した陣営はかなりカジュアルに出走を取りやめてしまう。例えばそれはバ場状態を見てのこともあるし、当然に
つまるところ、彼らは戦うことを避けたのである。誰のことかといえば、それは言うまでもない。
昨年のキングジョージにおける鮮烈なまでの勝利が、今年のアイリッシュチャンピオンステークスで自分以外の全てを擂り潰してみせた圧勝が、もはやダイナファントムを「極東からの挑戦者」という立場に置くことを許さなかった。
そして日本においてそのウマ娘と五分の戦いを演じ続け、また先の
故に今このロンシャンのターフの上に立つのは、その全てを織り込んで、その上で彼女たち二人のウマ娘に真っ向から挑む、勝つつもりのウマ娘たちに他ならない。
昨年の凱旋門賞覇者にてカルティエ賞年度代表ウマ娘ハリケーンラン、同じく昨年のBCターフの勝者シロッコに、既に同じレース場同じ距離条件のパリ大賞典で勝ち星を挙げているクラシック級ウマ娘レイルリンクと、どれも主役級の存在ばかりである。
「少数精鋭による頂上決戦」。このレースに与えられるべき形容として、それより相応しいものなどありはしなかった。
そう表現されるに値する、まごうことなき大舞台であった。
ダイナファントムは、ロンシャン二千四百メートルの発バ地点、このレース場の名物でもある
思い起こすのは、昨日の記憶である。
「凱旋門賞とは、あなたにとってどのようなものか」。
「この日を迎えるに当たって、心境はどうか」。
何故か招かれていた日本の報道陣から、「日本のファンに向けてメッセージを」などと、記者会見まがいの質問が寄せられたこともあった。
しかしその全ては、ダイナファントムにとってたった一つのシンプルな答えに根ざすものであった。
この場所は、夢の極点だ。期待の極北だ。
そうあれと望まれ、勝つことを祈られ、自らを取り巻くすべての人々の純粋なる願いが収斂したその上に、今自分は立っている。
「望まれた娘」として、「預けられた祈りの形」を胸の前で握りしめて、それでもただ、何よりも自らをして、直向きに勝利を、頂点を欲している。
しかし同時にきっと、この場所で頂点を競う全てのウマ娘にとって、それは同じなのだ。当然に、ディープインパクトであっても。
日本のウマ娘レースの歴史が作ってしまった、呪いにも似た執着は確かにそこにあって、それでも他のウマ娘だって、この場に集まるに足る物語を、きっと持っている。
だからこそ、ダイナファントムは力強く宣言した。
――私の持っている夢の形を、「誰も見たことのない景色を切り拓きたい」という願いを、最も輝かしい形で示せる場所が、この凱旋門賞であるのならば。
――誰にも負けず、何者にも譲らず、明日の私はロンシャンのターフの上を、先頭のままに駆け抜けてみせる、と。
目を開ける。ゲート入りの時間がやってきていた。
ダイナファントムに指定された今回のゲートは、ディープインパクトの隣、三番のゲートである。前に出たい彼女からすれば、それは申し分のない番号といえるだろうか。
一度その番号の枠の方へと視線を向けてから、ダイナファントムは自らの横にいるディープインパクトのことをちらりと見遣った。目線の向こう、そこにぽつんと佇む小柄な彼女もまた、一人天を見上げつつも、何も語ることなくその瞳を閉じていた。
何かを思い起こすようで、そして同時に何かを
それを見て、どこか親近感にも似た感情を、彼女は懐いた。
互いに、気負うものはあるということだろう。無理もないところだし、寧ろそうあることが日本のウマ娘としては当然の在り方に相違ないのだ、とも。
それでも今は、これからは、その全てを脇においてでも、ターフのみと向き合うべき時だ。
一歩だけ足を伸ばして、ディープインパクトの肩を小さく叩く。
びくりと身体が震えて、その視線がダイナファントムの方へと向けられた。それを横目で視認して、しかしそんなディープインパクトの方を振り返ることもなく、彼女は手をひらりとさせながらゲートへと向かう。
「気負わず行こう」。そんな意思を、言外に含めていた。
それを受けてか、ディープインパクトも黙したままにダイナファントムを追う。二人はそのまま静かに、互いに配されたゲートの中へと納まった。
斯くて、時は満ちる。
始まりを告げるファンファーレもなく、秩序を持った順序だったゲート入りでもなく、ただ己のみと向き合う沈黙の三十秒が、スタートの前の全てになった。
そしてそれの明けたその時が、光差す夢への航路の、極点たる十二ハロンの旅路の、端緒となる。
故に――ゲートの開け放たれるガコンという音と、ダイナファントムの踏み出す一歩とが、その時においてぴったりと重なった。
誰よりも先に、誰よりも疾く、ダイナファントムはロンシャンのターフへと躍り出た。
ダイナファントムのウマ娘としての明確な強さに、「静止時からの爆発的な加速能力」がある。スタートの出の良さもさることながら、彼女を一流の逃げウマ娘として成り立たせているのは、その凄まじいまでの行き脚の付きっぷりに相違なかった。
それは数字にも表れる。ダイナファントムの脚の回転数は、その最初の五十メートルで一度
斯くなる明白な武器を、更に練り上げ、磨き上げて、ダイナファントムはこのレースに対してぶつけていた。欧州のウマ娘レースの中でも特に出足のつきづらいフランスのレースの中で、ダイナファントムはまさしく翔ぶが如くに他のウマ娘を置き去りにした。
『ダイナファントム、ロンシャンでも変わらずの行きっぷりの良さ。ポーンと飛び出して一気に加速、ほかのウマ娘のペースなど関係なし! 一気に先頭突き放していきます!』
リアルタイムで、日本の実況が声を張り上げる。
フランスから遠く離れた極東のその国は、まさに今真夜中の真っ只中、日付が変わったころである。しかしそれは関係ない。日本のトゥインクル・シリーズのファンのほとんどすべてが、今その「門」に挑む二人のウマ娘の雄姿を、目に焼き付けんとしていた。或はテレビで、或はウマホで、また或はパソコンで。
そしてその画面の中、ダイナファントムはテンの二百メートルで一気に
その二番手というのが、なんと
しかし二ハロン目に差し掛かって、その尋常ではない差のつき方を見て、ひとりのウマ娘が進出を開始する。
『二番手なんと、なんとディープインパクト! この位置取りは彼女にとってどうなのか、いやしかし外の方からそれを躱して一気に
ハリケーンラン。昨年の凱旋門賞の勝ちウマ娘であり、そしてこの年のキングジョージにて、
彼女はキングジョージに臨むに当たり、そして凱旋門賞に挑むに至って、何度となくダイナファントムのレース映像を目にしていた。その走りを研究してきた。
その知識が言う。そしてキングジョージにおいて同じような先行策を取ったハーツクライを下した、その経験もまた語る。
「着を拾うばかりならばともかく、勝つのであればあの逃げにはついていかなければどうしようもない」と。
つまり強迫観念などではなく、ハリケーンランにとってそれは絶対的な真実であった。
故に、彼女は凱旋門賞におけるセオリーを破る。ここから始まる登り坂の途中から、じわりじわりと加速していくラップを刻む凱旋門賞における黄金パターンを捨ててでも、ハリケーンランはダイナファントムに鈴をつけるべく足を速め、ディープインパクトを躱して二番手へと躍り出た。
そんな彼女の振る舞いを契機として、後方の隊列が、秩序が、一気に動いた。レースの展開は、大きく二分される。
つまり「ダイナファントムについていく者と、そうでない者」である。主にダイナファントムの「猛威」をよく知っているイギリスやアイルランドのウマ娘が前者を取り、そしてそうでないフランスやドイツのウマ娘が、後者を取った。
ディープインパクトはその中において、中立を保つ。欧州のウマ娘レースにあるまじき慌ただしい隊列の出入りには我関せずと、内枠からの発走の利を生かして経済コースをぴったりと走りつつ、
『さあこれから坂に入ろうと言うところでどうやら隊列落ち着いたか。先頭ダイナファントムは後続を未だ五バ身ほど離して先頭、その後ろハリケーンランが続いて半バ身後ろ外にぴったりとつけるようにベストネーム、シックスティーズアイコンその後ろ、更にその内にレイルリンク、ディープインパクトはその一バ身後方で内ラチ沿いにマイペース追走といった形、そこからぐーっと五バ身六バ身離れたところにシロッコ、アイリッシュウェルズが二人並んで続いて、最後方プライドといった体勢です』
ダイナファントムとディープインパクトの日本勢を除いて、このレースに参加しているすべてのウマ娘が本来想定してなどいないはずのハイペース戦へと、レースの性質が変化し始めていた。欧州の、とりわけフランスのレースとしては、本来あり得ない形であるとも言えた。
隊列はその勢いのまま、四百メートル地点から千メートルまでの三ハロンほど続く上り坂へと突入する。
ダイナファントムは、それでもペースを崩さない。坂であるがゆえにどうしても少なからず絶対的なスピードとしては落ちてはしまうものの、それでも十二秒を大きく超過することのない正確なラップを続けて、後続を牽引し続けている。つまりダイナファントムが今回のフランス滞在の中で得た数ある収穫のうちの一つが、「洋芝の坂を苦にせずに登るためのパワー」であった。
それは結果的に、追走する二番手以降のウマ娘との距離を再びじりじりと離していく方向へと作用した。ダイナファントムの刻む十二秒から十二秒三ほどのラップは、前半で無理をしないことを旨とする欧州のウマ娘たちにとっては、どうしても抵抗が強いものであったのだ。序盤において追走を意識していたイギリスやアイルランドのウマ娘たちをしても、それは変わらなかった。
彼女たちは、できれば十二秒五、欲を言えば十二秒七のラップを交えて登坂したいのである。結局それはダイナファントムを除いた後ろのウマ娘にとっての総意となり、俄にペースを落ち着けた二番手ハリケーンランを実質的なペースメーカーに、ほかのウマ娘たちも追走していく。
結果坂を登り切った地点、前半千メートルの通過のタイミングで、ダイナファントムと二番手との間には十バ身近い差が出現することになった。それほどの差が開いていてもなお、坂を「無茶」なペースで駆けあがったダイナファントムを相手にすれば、どうにかこの後の下り坂で、平坦な直線で、それを捉えることも叶うだろうと、彼女たちはそう信じていた。
『先頭依然ダイナファントム、坂を上がり切って前半千メートルのペースですが、それほど速くはない感じ、後ろ二番手とは十バ身ほどの差がついていますがこれはどうやら後ろが遅いか。前半スローの凱旋門賞らしいペース展開のなか、ダイナファントムだけ大きく前、自分のペースを変えることなく逃げている』
結果このレースの上に出現するのは、ダイナファントムにとっては「楽逃げ」に近く、それでも後ろを引き離した見かけ上の大逃げの構図である。というよりは、ダイナファントムと他のウマ娘の集団とで、並行していながらも全く別のレースを走っているというのが、現状の表現としては最も適切なものであった。
ダイナファントムのレースにおいて、それはよく出てくる構図である。そしてこの形に持ち込んだダイナファントムは、まずほぼ間違いのない形で逃げ切りを実現していた。それこそ、彼女たちのメイクデビュー戦からである。
故にこそ当然に、そのような展開を許さないウマ娘が、後ろにはいた。
言わずもがな、それはディープインパクトであった。
『坂を登って下りに入ろうと言うところ、そろそろ後続勢もペースを上げて追走を始めるか……いや、しかしここで動く! ディープインパクト動いたぞ! 春の天皇賞、夏の宝塚記念、立て続けに中盤からの位置の押し上げを見せてきたディープインパクト、今日も同じくここでするりするりと何人か躱していく! 斜め前方にいたレイルリンクはすでに後ろ、更に外に持ち出してシックスティーズアイコン、ベストネームも抜き去って現在単独三番手に躍り出ました!』
その行動を皮切りに、またしてもレースは慌ただしさを増し始めた。
ダイナファントムは、上り坂をマイペースに走っていく中で、二番手集団以降の足音が少しずつ遠ざかる音を聞いていた。その時点で、彼女はもはや殆どの後方勢を
当然、ダイナファントムは凱旋門賞というレースが基本的に極端な後傾ラップを取ることが多いのは知っている。特に前半の上り坂においては誰もが無理をしたがらず、逃げウマ娘であってもこの区間ラップは十二秒の後半程度を遷移することがほとんどだ、と言うこともである。
しかしダイナファントムにとって、そんなことは
彼女はこの場所に、積み重ねたものすべてをぶつけに来ている。自分の出せる力を、その出し方を枉げることで、このレースの中で出せる己のベストを尽くせるとは、考えていなかった。
ロンシャンの坂は、六百メートルの間に十メートルを登る構造である。傾斜にして二パーセント弱、前走のアイリッシュチャンピオンステークスの最後の直線とほぼ同じ険しさだ。
だが、なんだと言うのか。ダイナファントムにとって、これをハロン十二秒のミドルペースで走ることは、はっきりなんの負荷にもなりえない。
いやむしろ、ここでセーブして力を抜いて、中途半端な形で溜め逃げの真似をしても、後ろに欧州のキレ味自慢が揃ったこのレースの中を勝ち抜けるとは思えない。欧州のバ場に、レース場の構造に慣れ切った者たちが繰り出してくる差し脚を上回るものを用意できるなどという思い上がりを、ダイナファントムは持ってはいなかった。
そもそもそれで逃げウマ娘が勝てるならば、凱旋門賞で果敢な逃げを敢行したエルコンドルパサーが、勝っているはずなのだ、あの時に。しかし、そうはならなかった。
ならばこのレースにおいて逃げが勝つためには、それまでのセオリーを破壊するための解を、突きつける必要がある。
だからこそ、ダイナファントムはダイナファントムらしく、己のやり方を押し通すのだ。
今まで、彼女自身がそうしてきたように。
――お前たちがついてくる気がないならば、手遅れになる開きを作って悠々と逃げきってみせよう。
――もし追いかけてくるのであれば、前走で見せたような地獄の消耗戦で、誰一人跡形もないほどに擂り潰してやる。
――どちらでもいいから、かかってくるがいい。
それは言うまでもなく挑発で、欧州のウマ娘たちはそれに
故に勝つ。彼女たちは、もはや相手になりえない。ダイナファントムはその予断に確信すら懐いた。
しかしそれと同時、彼女は自らの遥か後方において、一つの存在感が「爆発」するのを知覚した。坂の頂上から下りに入るあたり、距離にして残り七ハロンという距離は、このレースの終着地からしたら遥かに手前だ。
それでもダイナファントムは、その気配の指し示すものについて、恐らくこの場の誰よりもよく理解していた。
――来たか、
故に彼女は、内心でそう叫んだ。
ディープインパクトの周囲から、動揺が漣となって広がっていく。何となれば彼女はそのとき、仕掛けのタイミングで一度
視覚すらも塗り替えるほどの強烈さではない。遠くを走っていたダイナファントムからすれば、雰囲気の変容に留まるものである。その程度の浅い「潜航」だった。それでもディープインパクトのそのアクションから先、隊列が慌ただしく動きながらもダイナファントムを猛追する動きを見せ始めたことが、彼女の「存在感」が周囲に与えた影響力の大きさというものを、否応なく知らしめる。
『ロンシャンの長い下り坂、ディープインパクト動いて前へ前へとつけていく、それにつられて後方勢もそろそろ位置を上げていこうということか、最後方プライド押し出していって前の二人に並びかける、その三人一段となってディープインパクトを追走していこうとバ群が少しずつ圧縮されてきている! 前ハリケーンランも少しずつ少しずつ先頭ダイナファントムとの差を詰めていこうということか、六バ身七バ身、さあここでの仕掛けはどうか!』
周りのウマ娘たちを「引きずり」ながら、ディープインパクトは翔ぶ。後方の流れに一人逆らって、それでもレースの中盤のこの位置で強烈な存在感をまき散らし、強引に条理を書き換えていく。
「わたしひとりで、つかまえにいく」。言葉はなく、姿も見えず、それでもディープインパクトのその宣言が、確かにダイナファントムの心に届いた。
ならばそれには応えなければならない。最後の最後、直線コースに至るその時まで、ダイナファントムは妥協などするつもりはなかった。
駆け引きも、戦術も、もはや今の両者の間には意味を失いつつあった。
大きい、本当に大きいワンターンを超えて、隊列はとうとう終盤へと向かう。残り八百メートル地点、ホームストレッチへと向かうまでのわずかな直線区間、「フォルスストレート」だ。
故にそろそろ、後ろはダイナファントムを捕まえることを考えなければならない。最終直線での仕掛けに備えながら、各々が自らの差し脚で届く射程距離に、ダイナファントムを捉えようとする。少しずつギアを入れ替えるように、後ろのウマ娘たちが先頭をペースメーカーとして加速を始める。
いや、加速を始める
『坂を下ってここからは平坦、終盤の真っ向勝負はもうすぐ、先頭ダイナファントムと二番手ハリケーンランの差はやや詰まったものの六バ身ほどをキープして、そろそろ後ろは差が気になりだす頃合いか。詰めていきたいところだがしかし隊列そのまま、三番手もうここにディープインパクトつけて前ハリケーンランとは半バ身ほどの差、その後ろ外で見るようにレイルリンクつけて、しかしそこからはむしろ差が開いているか!』
縮まらないのだ。差が。理由など言うまでもない。追いかける後ろのウマ娘たちに、追走できるだけの脚が、もうほとんど残っていなかったのである。
ヨーロッパ、とりわけフランスの、というよりもこのロンシャンのレースは、普段ならばその前半に兎に角脚を溜めて溜めて溜め続けることで、後半に脚を残してそのキレを競うことになる。故にこのフォルスストレートの辺りからじわりじわりとギアを上げ、仕掛けを探っていくことができていた。
されど今回は違う。いま展開されているレースは、常に一定程度のペースで速度を維持し続け、息を入れるタイミングを与えないことですべてのウマ娘に極限の消耗戦を強いていた。序盤でいきなり稼がれたリードを詰めるために、後ろはダイナファントムと同じかそれ以上のペースでの絶え間ない追走を余儀なくされている。それについてこれる者だけが終盤でダイナファントムに勝負をかけられる、それはどこまでもシンプルなサバイバルレースであった。
つまり実質的にダイナファントムは、その最終盤においてとある一人のウマ娘以外を、勝負の俎上に連れていく気など、初めからなかったのである。その思惑を示すように、フォルスストレートを抜けて最後の直線に入るコーナーの真ん中で、三番手にいるディープインパクトは二番手のハリケーンランを躱した。
ついに彼女の目の前には、九度目の激突となる青鹿毛のウマ娘の他に誰もいなくなる。そしてそれが、二人にとっての決戦の、まさしく号砲となった。
『さあ最後の直線、五百五メートルの直線、ダイナファントム未だリードを保って先頭を進む! 二番手集団から抜け出したのはディープインパクト! ディープインパクトだが前との差はまだ五バ身ある! そしてレイルリンクここで仕掛けた! ディープインパクトをずっとマークして機を窺っていたか、クラシックウマ娘レイルリンクここで仕掛けてディープインパクトに並ぼうとする!』
スタンドの前、遠く耳に歓声の喧噪が聞こえる。それ以外に五感を刺激するのは、ただ芝の緑に空の蒼、そして地を蹴り、芝を切りつけて進む自らの蹄鉄の音だけ。
それでもダイナファントムは、後ろから迫るディープインパクトの存在を、その意思を、確かに知覚していた。聞こえないはずの息遣いを聞き、見えないはずの眼光を見た。
その外側、横から食らいつく、イギリスからやってきたウマ娘を、レイルリンクを引き連れて、それでもディープインパクトもまた、眼前を駆けるダイナファントム以外の何ものも、認識の外へと掃き出していた。
見えない線で結ばれたかのようだった。ダイナファントムがディープインパクトを引っ張り、ディープインパクトがダイナファントムを押し出す。
『しかしディープインパクト譲らない! ディープインパクト単独二番手、寧ろレイルリンクを引きはがす! ダイナファントム先頭! ディープインパクト迫る! 日本のウマ娘二人の一騎打ちになるぞー!』
「2」のハロン棒を過ぎ、「1」のハロン棒を前にして、ターフの上の世界は二人だけのものになる。勝ちを得ようと後ろから、追いすがるウマ娘たちがそれぞれが持つ「領域」に潜ろうとして、しかし勝ち筋を失った彼女たちのそれは何かを形作ることなく、燐光を発しながら解けて、そして崩れていく。
そのさなかにあって、しかしその全てを押し潰すがごとくの強烈な輝きが、そこで辺り一面に拡がった。
ディープインパクトだ。一度「潜り」、そして翔んでいたはずの彼女が、しかし一段と深い場所から拾い上げた翼を背に、もう一度空を舞う。
『ディープインパクトここでギアを上げた! ディープインパクト一気にダイナファントムとの差を詰める! ダイナファントムに迫る! 二バ身! 一バ身! 並ぶか、並ぶか!』
持てる全てを吐き出すような、渾身の末脚だった。後ろで持ち直し、再度前を目指し始めたレイルリンクは、その伸びの前に完全に置いていかれる。
故に先頭を争う相手は、互いにただ一人だけとなった。
世界すらも二人占めしたかのような錯覚の中、現実と幻視の境目を駆けて、そして飛ぶ。互いにもはや、互いのことしか目に入らない。認識すらもしようとしない。
日本のレースにおいては至ってこなかったはずの、それほどまでに「深い」場所だった。ともすれば、互いの知覚すらもほどけて混ざってしまうほどに。
だからこそ、どちらともなく理解する。
今ディープインパクトは、ダイナファントムを完全に捉えていた。半バ身を詰め、並び、そして勢いをそのままに追い抜かんとしている。
「つかまえた」。ディープインパクトの声が、こだまする。確かに今のままでは、五秒と経たないうちにディープインパクトはダイナファントムのことを抜き去っていくだろう。それは、事実だった。
――それでも。
ダイナファントムは顔を上げる。目を見開く。
光降り注ぐ視界は、無音の声で満ち満ちていた。
その全ては、この場所に降り積もった誰かの祈りの声だった。この場所に集った誰かに向けられた、確かな願いの声だった。
そして今その中に、己へと向けられた幾つもの音なき音を、聞く。
両親の。一族の。トレーナーの。後輩の。同室の。――そして、
その全てが、ダイナファントムを導く。促していく。「今がその時だ」と。
ならばもはやきっと、これ以上言葉は必要ない。
俄に湧き上がる抑えきれないほど激情の赴くままに、ダイナファントムは、世界に光の轍を敷いた。
溢れ出た閃光の奔流が、もう一度知覚の全てを塗り替えた。
『しかし譲らない! ダイナファントム一歩も譲らない! あと二百メートルでダイナファントム、ディープインパクト並ぶがダイナファントム抜け出している! 半バ身から一バ身、ディープインパクトもう一度差し返そうとするがちょっと苦しいか!』
放たれたのは、
それは彼女の中より出でて、二条の光芒の形作る轍はどこまでも伸びていく。その上を進むダイナファントムの身体には、いつしか
そこにあるのは、彼女が具象化した数多の願いの形だった。あの日託されたペンダントの姿を模って、ダイナファントムの心のうちに赫々たる炎を燃やす。
アイリッシュチャンピオンステークスの中、その最終盤において「至り」かかったその場所に、ダイナファントムは今、確かに手を触れていた。その見えざる力が、彼女を終着地へと、極点へと、導いていた。
そして――夢は今、現実になる。
『ダイナファントム先頭! ダイナ先頭! ディープ二番手! 日本勢二人が前! 後ろを引き離す!
――世界に誇る
その実況の叫びと同時に、ダイナファントムがロンシャンの決勝線を踏み越えた。
『――ゴールイン! 日本の悲願、数多の挑戦の果て、扉をこじ開けたのはダイナファントム! ダイナファントム一着です! 見事、見事凱旋門賞の栄誉を勝ち取りました!』
もはや何度目かもわからない。
次こそは、次こそはと望みを持って挑み続けて、それでも重く閉め切られた扉は重く固く、永久に開かれる日は来ないのかもしれないと、弱音すらも聞かれ始めていた。
その努力も、願いも、徒なるものに過ぎないのかもしれないと。
それでも一人のウマ娘が、満天下のもとで、はっきりと示した。
――世界は、塗り替えられる。それを真に望むのならば、いつかきっと。
その証こそが今、ロンシャンの青い空の下で、一つの結果となって表れているのだから。
止まっていた時計の針がこの日、軋んだ音を立てながら、確かに動き始めた。
Résultat de la course: Longchamp; Prix de l'Arc de Triomphe (Groupe 1)(12T, Droit, Bon)
1er: Dyna Phantom
2ème: Deep Impact 3/4.L
3ème: Rail Link 4.L
3F dernier: Non mesuré
Temps total: 2:24.3R*2