双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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成就、余韻、虚脱、そして

 それはまさしく、歴史が動いた瞬間だった。

 「凱旋門賞」。その四文字は、日本のウマ娘レース界における不可能の代名詞であった。アメリカで、フランスで、イギリスで、ドバイで、香港で、既に二桁に届こうかというほどのGⅠ競走での勝ちを積み上げていた日本のウマ娘が、それでもどれほど手を伸ばせど届かなかったのが、そのレースであった。

 

 次こそは。今年こそは。口では誰もがそう言って、しかし心の奥には諦念ばかりが渦巻く。

 「どうせ、今年も」。いくらその言葉を禁句としても、心の中に燻るその情動を、誰も否定することはできなかった。

 果たして()()()、ファンたちは、そしてトレセン学園の関係者でさえも、漠然とした希望の底に暗く塗りこめられた諦めの情を携えて、モニタに映し出されるかの地の様子を見ていた。

 

 しかしその夜に、全てが変わった。

 彼らは、彼女たちは、確かにその時、目にしたのだ。

 

 フォルスストレートを抜けて最後の直線、後ろから追い上げる海外勢をものともせず、涼しい顔でリードを保ち続けるダイナファントムを。

 後方集団から抜け出し、マークしていたはずのレイルリンクすらも軽く振り払ってダイナファントムに並びかけたディープインパクトを。

 そこから始まる三百メートルにわたる長い長い叩き合いを。

 それが後ろをはるかに引き離し、あのロンシャンのホームストレッチを、日本の二人のウマ娘の独演会へと書き換えた、その光景を。

 

 誰もが夢見た景色だった。しかし夢のままで終わることを、皆が覚悟していた。

 それでもその、絵空事のような二分二十四秒が過ぎたあと、異国の地の青空の下に勝利の凱歌を唄いあげたのは、確かに日本のウマ娘だった。ダイナファントムだった。

 四分の三バ身差で二着に入ったディープインパクトも、その後ろを四バ身という決定的な差によって突き放し、二人の世界の中には誰であっても立ち入ることなどできはしないということを、満天下に向けて誇示した。

 

 特異点の如き強さを持つ二人だ。強いから強い、それだけとも言えた。しかしそうであっても、彼女たちはまさしくその瞬間に、ともすれば永久に開かれることはないとすら思えた優駿の扉を、二人掛かりで強引にこじ開けたのだ。

 夢のようで、しかし断じて夢ではない。それでも成し遂げられた悲願に現実感が追い付くのは、そこからさらに一夜が明けて、レース全体のスタティスティックスがフランスクリールによって公式に発表されてからであった。

 データという形で記録に残ることで、歴史になることで、初めてその二人のウマ娘が成し遂げたことが、彼らの胸中に確固たる事実となったのである。

 

 そしてそれは同時に、今回のレースが()()()()()レコード決着となったことに、改めて注目が集まるということをも意味していた。

 良バ場条件で走れさえすれば、余程のことがなければレコードでの勝負になってきたのが、ダイナファントムとディープインパクトの二人である。それが場所を移しても未だ健在であった事実は、この二人のウマ娘が、確かに互いに互いを高みへと押し上げ続けてきたその軌跡をいうものを、遠いフランスの地にすらも消えぬ形で刻み付けたのだということを、誰の目にもわかる形で示していた。

 

 彼女たちが現役でいる間は、ともすれば本当に、世界の全てが彼女たち二人のものになるのではないか。そんな予感すら抱かせるほどの鮮烈な印象を残して、ディープインパクトは、ダイナファントムは、ロンシャンのターフから去っていった。

 

 

 

 

 

 一族の悲願を、業界の宿願を、そして自身の念願を遂げたダイナファントムは、キングジョージを制したときより遥かに、比べものにならないほどのメディア対応をこなしながら、フランスを発ち、日本へと戻り、そして日常へと還ろうとしていた。

 

 それでも、ダイナファントムは意識せざるを得ない。凱旋門賞ウマ娘という肩書きは、それを冠する前に思っていたよりも、はるかに重いのだ。「初めての栄誉をもたらした者」としての、「不可能を打ち破った時代の先導者」としての格別の栄誉もまた、恐らくはそれに拍車をかけていた、のかもしれなかった。

 かつて世界のGⅠをURA所属のウマ娘として初めて制したシーキングザパールも、タイキシャトルも、或は日本出身ウマ娘として、引退レースで香港ヴァーズを制し、海外GⅠ初制覇の錦を飾ったステイゴールドも、同じような思いをしたのだろうかと、ダイナファントムは思いを馳せる。

 

 今己の胸の中に拡がるのは、恐ろしく大きな達成感に、期待を裏切らず、夢を零さずに済んだ安堵感だ。

 しかし一方で、その全てを遂げてしまったが故の、ある種の()()()も、そこには同居していた。寂寥感、といってもいいのかもしれない。

 

 やりたかったことを、成就できたのだ。誰に対しても誇ることのできる、一廉のウマ娘になれたのだ。そのことに満足する自分は、間違いなくそこにいるはずなのに。

 同時にどこか、世界の中にひとりだけ投げ出されてしまったような錯覚すら懐いて、それが何故か、甚く心に影を落としていた。

 

 

 

 それでもダイナファントムには、自らに課している仕事がまだ残っていることを自覚していた。

 

 日本に帰ってきた十月の半ば、彼女は寮の自室の中で、一人のウマ娘と向かい合っていた。

 言わずもがな、シーザリオであった。

 

「明後日だったっけ、ここ出るの」

「そうね。調整は、だから二週間ぐらいになるかしら」

 

 秋の夜、透かされた窓から吹き込む涼風が頬を撫でる。誘われるように外へと視線を向けて、そこに映る己の顔と、シーザリオはじっと見つめ合った。

 

「ここまで、きたのよね。これたのよね、私は」

 

 自らに言い聞かせるような声であった。

 去年、一年と少し前にシーザリオを襲った不幸(靱帯炎)は、かねてよりの夢を、秋に控えていた大舞台への挑戦を、その年においては諦めざるを得ない事態へと彼女を追いこんだ。

 それでもシーザリオは諦めなかった。五月の復帰戦、ヴィクトリアマイルを勝利で飾り、秋一戦、叩きとして臨んだオールカマーもあっさりと勝ってみせて、一度靱帯に損傷を負ったとは思えないほどの順調な臨戦過程の先に、今彼女は立っていた。

 向かう先は、去年彼女が出走すること叶わなかった因縁の大レース、アメリカのBCフィリー&メアターフである。

 

「私は、信じてたよ」

 

 シーザリオが、発されたその声に向き直る。再び目線が合ったダイナファントムは、嘘偽りのない真剣な面持ちで、シーザリオのことを見ていた。

 

「気休めを言うつもりもなかったけど。それでも、ずっと横で見てたんだから。『約束』、したんだから」

 

 根拠なんてなくても、信じるだけならば、自由だったから。

 そうでしょう、と軽く首を傾げながら、覗きこむような上目遣いの目線を送るダイナファントムを見て、シーザリオは笑った。

 

「……確かに、それもそうね。私も、諦めてなんていなかったもの」

 

 ダイナファントムが、何故かしたり顔で頷く。だよね、と。そしてそのまままた背筋を正して、そのまま徐に自らの首筋へと、手をやった。

 なにを始めるつもりかと訝し気な目線を送るシーザリオの前で、がさごそという衣擦れの音が響く。その末に、ダイナファントムはその首の後ろに回していた手を戻し、前へと持ってきた。

 

 そうすれば、その意味するところはすぐにシーザリオの目に入った。小さく息を呑む音が、部屋に響いた。

 

「なら、これ」

 

 掲げた両手に提げているのは、首飾りだった。誰のものかなど言うまでもない。その()()()()()()()()のことを、そしてその()()がダイナファントムにそれを託した場面を、シーザリオはまさしく目の前で見ているのだから。

 つまりそれは、ラインクラフトがダイナファントムに、遠征の間身につけていてほしいと渡していた、紅の組紐のペンダントだった。

 

「これは、リレーだから。私の今年の遠征は、これで終わったから、ね。次はきみが持って行く番だ」

 

 シーザリオは、何も言わない。黙したまま、そのペンダントとダイナファントムの間で、視線を彷徨わせていた。

 

 つまり、ダイナファントムの残りの仕事というのは、シンプルにこれであった。

 ラインクラフトから受け取ったこのペンダントは、彼女が遂げることができなかった遠征の夢を連れるための形代にも等しい。

 ならばその次なる運び手は、これからアメリカ遠征を迎えるシーザリオを措いて他にはいなかった。

 

「私があの子に、ディープに勝てたのも、最後の最後で競り勝ったのも、もしかしたらこれのご加護があったから、かもしれないし」

 

 だとしたら、ちょっとディープには申し訳ないけどさ。

 あっけらかんと口にして、ダイナファントムは今一度、ずい、とそれをシーザリオに寄せてみせた。また一度首を傾げ、手に持つそれを促すように。

 

 それをも無言のままに見ていたシーザリオが、そこでようやく身動ぎする。おずおずといった様子で手を伸ばして、銀細工のペンダントヘッドの部分を、掌の上へと載せた。

 ダイナファントムは、笑みを深くする。そのまま、静かな手つきで彼女の右手の上に、組紐ごと静かにそのペンダントを据えた。

 

「……そう、だったらいいわね。私も……」

 

 手の上、ダイナファントムから渡されたそれに視線を落として、ポツリと口にする。その表情は柔らかく、そしてどこか遠くへと思いを馳せているようでもあった。恐らくは今も宇都宮にいるであろう、ラインクラフトのことを思案しているのであろう。

 そして、ぎゅっとそれを握りしめ、胸に抱いて、シーザリオが顔を上げる。ダイナファントムの瞳と、視線がぶつかった。

 

「なら、これは私が持って行くわ。責任を持って、アメリカまで。そして――」

 

 気づけば、その表情は真剣そのものに、ダイナファントムに向けられる碧の双眸には、強い意思の光が宿っていた。

 

「私も、夢を遂げてみせる。ファンさんがフランスで、やってきたみたいに。……絶対よ」

 

 強い誓いの言葉だった。

 ダイナファントムが頷き、そしてシーザリオも頷く。

 それ以上、二人の間に言葉は必要なかった。

 

 

 

 果たしてラインクラフトが託した夢のバトン(紅い紐のペンダント)は、ダイナファントムを経てシーザリオへと繋がれる。

 そして二日後、シーザリオは日本を発って一路アメリカへと向かった。かの地にてBCが開かれる、その三週間弱ほど前のことであった。

 

 

 

 

 

 斯くして今、栗東寮の談話室のテレビは、ダイナファントムが送り出した彼女の、まさに遂げるべき夢の結晶を、その舞台を映し出している。

 明けた十一月初旬、時刻は深夜の二時を過ぎた辺り、BCフィリー&メアターフの発走のベルが高らかに鳴り響いて、シーザリオは今年のBC開催の地、チャーチルダウンズのターフを駆けるウマ娘の一人となっていた。

 

 それを見るのは同期の二人、ディープインパクトとダイナファントム、そしてつい一週間前にデビューを無事勝利で飾った後輩のウマ娘であるウオッカに、これもまた近々にデビュー戦を控えたチームの後輩、ダイワスカーレットである。

 深夜、まさに真夜中にありながら煌々と室内灯が照らす談話室の中、ただ黙したままに全員で、シーザリオの雄姿を見届けんとしていた。

 

『小回りとなるこのチャーチルダウンズ、一周目のホームストレッチを抜けて二つ目のコーナー、第一コーナーに入りました。先頭ダンシングエディ変わらず、二番手半バ身後ろ、マイタイフーンが外につけて、そして三番手に日本からのウマ娘、日本のシーザリオ内々につけています。今日はシーザリオ先行策、一年前にアメリカンオークスを制した時と同じ戦術で行くか。今年はチャーチルダウンズ、二千二百メートル戦のこのレース、ここまでの半マイル、八百メートルが四十九秒と五分の三という発表、これはやや遅いと見ているかシーザリオ、果敢な先行策でレースを進めています』

 

 状況は、まさに実況の語る通りである。そしてシーザリオが先行策を()()()という物言いも、また真実であった。

 

 

 

 今回のシーザリオの遠征には、当然ながら福井トレーナーがついていって、現地の調整や当日のレースにおけるプランニングなどの補助を担当している。その一方で、ダイナファントムはBC本番までの間、日本にいながらもシーザリオと福井トレーナーと三人で本番を想定した作戦会議を何度か重ねていた。十四時間の時差がある故に、向こうの朝一番とこちらの夜眠る前のちょうどいい時間をどうにか見繕っての形になっていたが、ダイナファントムはいずれにせよ親身にシーザリオの今回のレースにおける方針決めにコミットしていたのである。

 そんな中、話の焦点になったのはやはり勝負の仕方であった。

 

 アメリカの芝レースは、アメリカ在地の芝ウマ娘という意味でははっきりと()()()()()()という構造はそのままで、故にBCのような大きなレースになると、その上位は殆どが欧州勢によって占められるというのが通例である。今年で八回を数えるフィリー&メアターフにおいてもその傾向は強かった。

 よって欧州ウマ娘のやり方が、つまりテンを遅く入って少しずつラップを上げていっての末脚勝負、後傾ラップによる決着が志向されるのが通例となっている。一方で、アメリカのレース場というのは日本のそれよりも徹底したオーバル(楕円)型の、そして平坦なコースレイアウトが持ち味である。例外はサンタアニタのヒルサイドコースぐらいのもので、とにかく傾斜というものが存在しない。

 つまりコースの中のアップダウンを考えてペースの調整を考えなければならない欧州のやり方に、必ずしも従う必要はないとも言えた。もし前でレースを進めつつも勝ち切れるだけの末脚を発揮できるならば、それに越したことはないのである。

 

 そしてそこで、シーザリオの今年の復帰戦が活きてくる。つまりそれは、今年の五月にあったヴィクトリアマイルのことである。

 あのレースそれ自体は、シーザリオとしては後方からの豪脚一閃という勝ち方で終わっていたものの、それでもマイルの後方追走というのは、中距離レースにおいてはともすれば中段より前のタイムになりうる。ティアラ限定とは言えども、シニア級のマイル戦で追走力を鍛えられた、速い流れをこなせるようになった今のシーザリオにとって、中距離で前目につけるレースというのはかつてよりも無理せずに実現可能な戦術となっていた。

 

 シーザリオと福井トレーナーは、方針を定める。内枠三番、有力な()()()()()であるウィジャボードの隣のゲートを確保した以上、テンの入りを見つつもウィジャボードの前を塞ぎながら、流れを見て内の好位につけて進む。ペースが緩めば、三番手か或は番手でレースを進めることも、視野に入れておこう、と。

 それが今まさに、ダイナファントムたちが見守るテレビ画面の中で繰り広げられていることだった。

 

 

 

 二千二百メートル戦としてはやはりやや遅めの展開が未だ続き、シーザリオは内々の経済コースを余裕たっぷりに進む。向こう正面中ほどに達した時点で、彼女はもはや我慢しきれないとばかりに先頭をつつき始めた。

 自分の持てる脚を以てすれば、この辺りからのペースアップを十分にこなせる。ならばそろそろ前残りにされては困る故に、先頭には無理な脚を使ってもらおうか。そういう意思が、ありありと見えていた。

 結果、そのゴールまで残り八百メートルほどの地点で、レース全体のペースが俄に上がってくる。それに呼応するかのように、一番人気ウィジャボードはシーザリオの構える第二列の一段後ろ、三人が並ぶ中段の丁度真ん中で、シーザリオのことを見るように追走を始めた。

 

 バ群が俄に慌ただしくなる。決着へとひた進む彼女たちの、泣いても笑っても最後の攻防である。

 その中で、広がる波紋の中央に位置するのは、この舞台の主役に立っているのは、間違いなくシーザリオだった。

 

『さあ向こう正面から、二周目の第三コーナーをカーブして残り六百を切った! 先頭未だマイタイフーンですが、さあここで仕掛けるか、三番手からシーザリオ促していく、内二番手ダンシングエディを外から抜かして回っていくかここで二番手、先頭マイタイフーンにも並びかけて、並びかけてさあここで先頭に立つか、四コーナーで先頭に立つかシーザリオ! 抑えきれない様子で先頭に立つ!』

 

 流れが速まる。緩流から激流へ。後方勢が待っていましたとばかりに襲い掛かる。シーザリオをマークするように進めていたウィジャボードも満を持した様子で外を回りつつ、抜け出したシーザリオを更に外から捉えようとその末脚を解き放った。

 それでも、それでもなお、もはや勢いに乗って先頭を突き進み始めたシーザリオの勢いは、誰にも止められない。小回りのコーナーを抜けて最後の直線に入り、残り四百メートルの地点でシーザリオは更に一段の加速を決めた。

 

『直線だ! ここが最後の決着の時! シーザリオ先頭! シーザリオ先頭! 外からはウィジャボード! 内からはフィルムメイカー迫る! 二番手マイタイフーン逃げ粘るがそろそろ躱されるか! 中からはウェイトアワイルも上がってきている! 横一線並んで差を詰めようと二番手集団、しかし!』

 

 後ろを引き連れて、歓声上がるチャーチルダウンズのホームストレッチを、風を切り裂いて進む青毛のウマ娘は、ただ一人だけピンスポットを浴びるように、追随をまるで許しはしない。

 

『しかし()()()()()()()! 残り二百で後続とは四バ身五バ身のリード、シーザリオ先頭、一人抜け出している! 完全に抜け出している!』

 

 「行け行け」、「そのまま」、そんな声が飛ぶ。ウオッカか、ダイワスカーレットか。ディープインパクトは何も言わず、それでも目を爛々と輝かせて画面に齧り付く。

 ダイナファントムもまた等しく、視線一つ逸らさずに、シーザリオの雄飛するその姿を、目に焼き付けていた。

 

 

 

 彼女の瞳の中、何者も寄せ付けることなく駆けていくその姿に、出発前に語った彼女の誓いの言葉が重なる。

 「夢を、遂げるのだ」、と。

 そしてその約定は、成就される。

 

『一年越し、夢の舞台、主人公は私だ! ――シーザリオ、フィリー&メアターフ、今一着でゴールイン!』

 

 実況の叫ぶ声が、画面に映る決定的な差による決着が、歓声を上げてハイタッチを交わし、そして我に返ったかバツが悪そうに互いから目を背けた二人の後輩の姿が、それがまぎれもない現実であるのだと、ダイナファントムに報せる。

 

 シーザリオのここまでの道は、決して平坦ではなかった。最低でもダイナファントムが辿ってきたそれよりは、よほどに険しいものだったはずだ。

 それでも今、彼女は届いた。届かせてみせたのだ。叶えると決めた、誓った夢を、遂げてみせたのだ。

 あの日ダイナファントムが、「次はきみだ」と渡した(ペンダント)の思いをも、しかとつなげてみせたのだ。

 

 ダイナファントムは、大きく息を吐く。自らがそれまでの間、最後の直線の攻防が始まってから、呼吸すらも忘れていたことに、そこでようやく気がついた。

 早鐘を打つ心臓を鎮め、横を見る。そこには同じように、それでも静かな眼差しで彼女のことを見つめる、ディープインパクトの姿があった。

 

 無言のうちに互いに頷いて、手を伸ばし合う。ダイナファントムが上に、ディープインパクトが下に。そして振りかぶったダイナファントムの手が打ち下ろされて、合わさった二人の掌から、乾いた高い音が鳴った。

 

 

 

 

 

 斯くしてこの世代が世界の中に積み上げたGⅠの勝ち星は、これで合計五つになった。

 それは同時に、全て福井トレーナーの下で、チーム《ポルックス》が成した功績でもある。

 その始終を見届けて、ダイナファントムは自らが予てより掲げていた目標の大方が、この時を以て成し遂げられたことを知る。

 

 

 

 成し遂げられて()()()()ことを、知る。

 

 

 

 凱旋門賞を制覇して、そこから帰ってきて、その後に暫く続いていた空白感を、それでも彼女は今の今まで、己が僚友の夢への挑戦をサポートする名目で、誤魔化し続けていた。

 「あの子が頑張っているのだから」と、次走のジャパンカップに向けてのトレーニングにだって、余年はなかったのだ。

 

 それでもシーザリオのフィリー&メアターフの勝利を見て、そこから帰ってきた彼女を、その満面の笑みを見て、そして再び受け取った銀細工のペンダントを、宇都宮の病室に、ラインクラフトの許に返しに行ったことで、いよいよ以てダイナファントムは、自らの心の中に広がるどうしようもないほどの空白を、浮遊感にも似た喪失感を、意識せざるを得なくなった。

 日本の、イギリスの、アイルランド、そしてフランスのGⅠを勝って。「世界に通用するウマ娘」の言葉に違わぬ結果を出して。そして王道距離でGⅠ七勝を挙げたことで、ともすればかの伝説に、シンボリルドルフに並んだとも、或は()()()とすらも、そんな烏滸がましい評価すらも、囁かれるようになっていた。

 

 そんな現状を前にして、くだらない言葉までもが、頭を過ってしまう。

 「勝つべき戦いなど、残っているのか」などと、傲慢でしかありえないのに。

 まだ、ディープインパクトと競い合う日々は、終わっていないのに。

 

 それでも、ダイナファントムは自らを誤魔化すことはできなかった。

 それから二週間ののち、JC本番の一週前の日曜日、ダイワスカーレットが京都にて無事にメイクデビューに勝利した報を受けてなお、ダイナファントムの心は、浮揚してこなかった。

 

 

 

 「日本で初めての凱旋門賞ウマ娘」としての()()が、それを成して()()()()ことによる虚脱が、彼女の胸中を、確実に蝕んでいた。

 そしてそれを知るものは、未だ彼女自身の他にはいなかった。

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