双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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当然の帰結――5回東京8日10R・ジャパンカップ(GⅠ)(芝左2400・小雨・良)

 十一月の末、冬の空気がその顔を覗かせ始めた晩秋の府中は、小雨の降るあまりよくはないコンディションであるのにもかかわらず、三週間前の秋の天皇賞の時よりもはるかに多くの観客で満たされていた。スタンドはもちろんのこと内バ場にすら人々は詰めかけて、ともすればそれは日本ダービーの日におけるそれに匹敵するほどの人出であるといえた。

 彼らの目当てというのは、言うまでもなく一つだ。

 

 おおよそ二か月前、十月頭の凱旋門賞にて、他を圧倒するレースぶりで世界に「日本ウマ娘ここにあり」を示した二人のウマ娘、ダイナファントムとディープインパクトの帰国後初戦が、まさにその日に行われることになっていた。

 海外からのウマ娘を招待しての国際レース、ジャパンカップである。

 

 とはいえ、この年のジャパンカップへ挑戦を表明した海外のウマ娘は、たった二人だけである。その中でも有力といえるのは前走のBCフィリー&メアターフにてシーザリオの二着に入ったウィジャボードぐらいのもので、今年のジャパンカップは海外からの参戦という意味では、はっきり薄いメンバーとなっていた。日本のウマ娘を含めてもわずか十二人立てで、ジャパンカップの創立以来最も参加人数が少ないレースとなっていた。

 理由ははっきりしている。言うまでもなくダイナファントムの存在だ。

 

 まず欧州勢からすれば、去年から今年にかけて欧州戦線を荒らして回った挙句に凱旋門賞を持って行ったダイナファントムの、そしてそれに伍する形で二着に入り、時に勝ち、時に負ける互角の争いを繰り広げているディープインパクトのホームグラウンドにわざわざ殴り込みをかけようなどというのはもはや愚挙であった。

 ショービジネスとしてその後のウイニングライブもレース本体と劣らぬ価値を持っている日本のトゥインクル・シリーズとは違って、欧州のレースは勝ってなんぼの世界である。条件が少しでも合わなければ回避するなど当たり前のことで、GⅠ競走がたったの五人立て、いや三人立てになってしまうことすら当然にあり得る世界であった。自国、あるいは同じシェンゲン協定域内においてもそれであるのに、況や極東の島国においてをや、である。

 さらに言えばURAのウマ娘レース施行規則の中に、ラビットのような「他のウマ娘の勝利を助けるためのウマ娘の出走」を明確に禁じる事項がある*1ことも、かねてから欧州ウマ娘の日本のレースへの参戦を阻む障壁の一つになっていた。その辺りの事情が合わさった結果が、今年の欧州から参戦するウマ娘の壊滅的ともいえる少なさには反映されていた*2

 

 そして日本のウマ娘からしても、ダイナファントムとディープインパクトの「怪獣大決戦」に進んで巻き込まれたいと望むものはあまり多くない。特に前年まで幅広くシニア戦線で活躍していたゼンノロブロイや春の天皇賞でダイナファントムやディープインパクトには及ばずながらも大駆けを見せた古豪リンカーンなどの多くの有力ウマ娘たちがごっそりと抜けてしまった現状では、海外遠征からの「凱旋」――凱旋門賞からの帰りであることを考えればよく言ったものである――たる二人のウマ娘のぶつかり合いに割って入ろうと考える者などそうはいないのは当然であると言えた。

 その風潮に逆らってまで敢えて挑戦者として名乗りを上げたのは、例えばシニア二年目でもまだ元気に中央への殴り込みを続けているNAU所属の「北海道の星」コスモバルクであり、また或は今年のキングジョージを()()()()()*3したものの、有馬記念からドバイシーマの制覇までの実力派一瞬の煌めきだけではないことを英国の地にて証明してみせたハーツクライである。

 実際、シニア二年目以上のキャリアを持つウマ娘の参戦は、出走手当目当ての記念出走レベルのウマ娘を勘定の外に置くとなると、彼女たちを除けばそれこそ海外ウマ娘たるウィジャボードぐらいしかいなかった。

 

 一方の観客も、はっきり言って同じような意識であった。レース場に集っている彼らも、実質的にこのレースは「ダイナファントムとディープインパクトの凱旋パレード代わりの一騎打ち」であるとしか見ていなかったのである。

 

 ――やはり凱旋門賞を制したダイナファントムがここも逃げ切るのではないか。

 ――いや、東京二千四百条件はダービーでディープが勝っている。この条件ならば彼女の方が強いに違いない。

 テレビの前で、スタンドの中で、インターネット上で、議論が戦わされる。

 

 ――これまでの彼女たちは、先にダイナファントムが勝てばすぐさまディープインパクトが星を返す勝ち負けがずっと続いてきた。その法則によれば次はディープインパクトだ。これで戦績を五勝五敗のタイに戻すに違いない。

 そんな珍説すらも世間をにぎわせていた。

 兎も角、それほどまでにこの二人のウマ娘を措いて、他のウマ娘に目を配ろうとする者はいないか、いたとしても非常に少ないというのは、間違いのないところであった。

 

 

 

 今日は、つまりそういうレースなのだ。ダイナファントムはそのことについてはよく理解していた。自覚していた。

 凱旋門賞ウマ娘となった自分が、他者からどのように評価されるかも。かの地にて共に戦い、今回が十度目の激突になるディープインパクトとの競演が、どれほどの期待となっているのかも。

 

 それを識って、判って、ダイナファントムは府中のターフへと足を踏み入れていた。

 

 

 

 鈍色の空の向こう、底冷えのする細雨が視界を煙らせ、今眼前に屹立する発バ機に落ちる雨垂れが、そこに乾いた音を立て続けている。

 その音を聞き、その情景を目に入れて、ダイナファントムはぽつねんと佇んでいた。

 

 彩度を失くした世界が、彼女の中に描き出された心象風景と重なる。

 彼女は思う。あの日、凱旋門賞の日に燃え上がっていたはずの高揚感の炎が、その残照が、どこまでも遠い。今、あの日の自分に、その日の心情に立ち返ろうとする試みは、もはや何の意味もなさなかった。

 

 レース本番前、出走の五分前に至ってもなお、今日のダイナファントムの心中には己を奮い立たせるようななにかが立ち上がってはこない。

 これから周りの十一人と勝敗を競うのだという事実すら、どこかヴェールの向こう、他人事のように感じられていた。

 

 無論、それはダイナファントムがこのレースに参加する意思を喪っていることを意味したりはしない。

 彼女自身、走る理由は持っている。フランスからの凱旋、海外でGⅠを立て続けに二つ取った自分の健在を主張したい気持ちは確かにあって、つまり勝つ意思だって消えてはいない。

 それを証明するがごとくに、凱旋門賞帰りの調整も臨戦過程も完璧で、事実トレーニングにおいては過去最高の時計を出せていた。

 

 それでも、である。確実に今のダイナファントムは、あの日のロンシャンの上で懐いていたはずの()()を、手放してしまっている。

 そしてそれこそが、この二か月弱ほどの間ダイナファントムの中に決定的な欠落をもたらし続けていたものの、きっと正体であった。

 それ故の、今の彼女が抱える内的イメージの全てであるとも言えた。

 

 

 

 そういうわけでこの日のダイナファントムは、その肉体的な調子は兎も角として、精神的な調子は決して良いとは言い難いものがあった。

 ただ、それを表には出さないのが彼女でもある。初めからどこか醒めている心情はレース前の集中には寧ろ好都合で、四枠四番、ディープインパクトの二つ内側の枠に、偶数故の後入れで入ったダイナファントムは、外形としては普段とは何も変わることがないように映っていた。「いい気合乗り」であるとすら解説が評するほどにである。

 目を瞑り、気を落ち着け、鎮まり切った知覚の中でゲートの音に耳を研ぎ澄ませる。いつの間にか雨は上がって、雲間からは西日の山吹色がその顔を覗かせていた。

 

 その中、最後のゲート入りとなった今年の二冠ウマ娘メイショウサムソンを迎えて、体勢が整う。

 十万人以上というこの時期としては異例の数の観衆が見守る中、それでも心は()()冷静なままに、開かれたゲートからダイナファントムは誰よりも先に飛び出した。

 いつものように先頭に立ち、いつものように出足をつけて加速していく。

 

 ダイナファントムの心中は、その瞬間でさえも、どこまでも淡々としていた。

 高揚も興奮もなく、それを悪し様に言うのであれば、どこか惰性的ですらもあった。それこそが今の彼女のこのレースに対する態度であるとも、言うことができた。

 兎も角もそんな心理状態の中で、彼女のレースは始まることになったのである。

 

 

 

 シニア一年目の秋に至って、ダイナファントムの身体は益々充実の域に達している。彼女の場合それは出足のピッチの速さと、巡航速度のストライドの大きさに顕著に表れていた。

 どういうことかといえば、ただ無心なままにいつものように先陣を切って走ることで、後続勢を完全に置いていってしまっているということであった。

 

 今回のメンバーでまともに前受けをして走るのは、精々コスモバルクがいいところである。北海道の星としてNAU所属ながらも中央で好走を続けている彼女ではあるが、ただその走りというのは基本的には逃げよりではあるものの先行のポジショニングを志向するものであった。

 つまり前を飛ばすダイナファントムに競りかけに行くこともなければ後ろから突っつきに行くこともしない。己のペースで前目につけられればそれでよいタイプとも言えるだろう。そういうわけで、今回のレースの基本骨子はダイナファントムの単逃げという形に早々に落ち着いた。ある意味で、前走の凱旋門賞と構図としては同じであった。

 

 思えば、とダイナファントムは回顧する。先頭を行き、悠々と走りながら、レースにおいて自分が見ていた景色というのは、そのほとんどが今のような、()()()()()であったな、と。

 それを何ものにも侵されることのない静寂と孤高と見るか、伴走者も先導者も存在しえない孤独と取るかは人によるのだろう。ただダイナファントムはそれまで、レースの全ての区間、それこそ一秒を刻む勢いで頭を回し続けてきたのである。()()()()()に頭を回している余裕などありはしなかった、とも言えた。

 逆に言えば、今はそんなことを考える余裕があるということでもある。それをかなり悪し様に評するのだとすれば、「注意が散漫になっている」、とも言えるのだろう。

 四枠四番、内枠からのスタートによってゲートを出たその瞬間から誰にも邪魔をされることなく、その後もどこまでも淡々と、平均で十一秒九のラップを一切緩めることなく淡々と刻み続けている。

 良バ場発表とはいえそれまでに振り続けていた小雨が濡らしていた芝は滑りを生んで、スピードを出すには適していない部分はあれど、それは彼女にとって著しい負荷ではなかった。このペースを最後まで緩めることなく走り切る分には、二千四百メートル戦であれば、彼女にとってそれは現実的なペースである。

 一ハロン十一秒九。十二ハロンは二分二十二秒八。それが現状の想定走破タイムである。去年のアルカセットが出した大レコード、あの伝説のジャパンカップでホーリックスとオグリキャップが出した超抜レコードよりも更にコンマ一秒速い二分二十二秒一の勝ち時計*4からは五バ身ほど離されてしまう計算だが、今日のコンディションを勘案すればこれで十二分に勝ち負け、いや勝てるだろうと、そう言う構えである。

 

 そしてファンたちにしても、凱旋門賞でダイナファントム自身が見せたような、速い流れを前受けして押し切るレースぶりというのが、何より自らに求められていることであると、そう言う認識がダイナファントムの中にはあった。

 そのレース展開こそが、己の()()がもたらす力を最もよく発揮できるレース展開であるに違いない、とも。

 

 果たしてダイナファントムは、その前半千メートルをはかったような時計、即ちきっかり五十九秒五で通過する。二番手コスモバルクとはきっかり十バ身、時間にして一、六秒ほどの差が開いていた。

 身体が覚えたペース、慣れ親しんだ一本調子をそのままにして、ただ無心で足を動かす。勝負どころの終盤まで、それ以外の何かで以て局面を動かしにかかろうとは、今の彼女は考えていなかった。

 

 追走するウマ娘たちにとっても、一切の中弛みがない厳しいペースを作り出して、ダイナファントムのジャパンカップは中盤戦に入ろうとしていた。

 

 

 

 一方のディープインパクトだが、彼女はダイナファントムの二つ隣、六枠六番からレースを始めたものの、ゲートの出のタイミングで思いっきり前にノメっていた。前走の凱旋門賞で、洋芝でのスタートのつけ方を随分とスクーリングしたことで、ゲートから出る第一歩目の踏み出しが、野芝の路面においてなお、洋芝で、シャンティイやロンシャンで彼女がやっていた強い蹴りだしのそれになってしまっていたからである。

 言うまでもなく、無意識の産物である。だからこそその結果はディープインパクトにとって想定外のものであった。即ち、思ったよりも激しく前に出過ぎてしまったことがもたらした前のめりに過ぎる重心を落ち着かせるために、彼女は却ってスタートにおいて出足がつかない状況に陥ってしまっていた。

 約めて言えば、その作用機序は兎も角として、ディープインパクトはいつもの通りに出負けしていたのである。相変わらずカンパイすれすれのスタートをキメて他のウマ娘から二バ身三バ身のアドバンテージをかっさらっていくダイナファントムとは、その在り方は端的に対象的であるといえるだろう。

 これならば欧州のバ場の方が、スタートという意味に限定するならばディープインパクトに向いていたのかもしれない。それはなんとも皮肉な話であるといえなくもなかった。

 

 が、当のディープインパクトは全く焦っていなかった。何となれば、はっきり言って府中の二千四百メートル条件でならば、極端な出遅れでない限りはリカバリーは利くものであるからだ。出足をつけて前に行くことを早々に諦め、そろりと段階的にスピードを上げていきながら最後方へと位置した彼女は、その前にいる欧州からのウマ娘の一人、ウィジャボードの丁度真後ろの辺りにつけて、暫く相手なりのレースに徹することにした。

 ただでさえ行きっぷりがいいダイナファントムが前を張るだろう所に、今日はそれ以外に明確な逃げウマ娘はいない。出走表を見たときから自らの好敵手による単逃げ展開を確実視していた彼女は、その最初のコーナーから向こう流しに入るまでの間に、ダイナファントムが何を考えているかの意図を探る時間を設けようとしていたのである。

 

 そして少人数ゆえにあまり劇的に動くことのない展開の中、早々に決まった隊列を後ろから眺めながら第二コーナーの出口付近にやってきた辺りで、ディープインパクトはちらりとラチの内側に目線を向けた。随分とゆったりした流れになっているが、先頭はどうなっているのだろうかと思ったのである。

 そこで、ダイナファントムが既に後続をかなり離して先頭をを走っていることを、ディープインパクトは認識する。今の自らからは五十メートル近く前、つまり二十バ身ほど先を彼女は進んでいる。

 つまりどちらかといえば、この流れはダイナファントムではなくてその後ろを走っている番手のウマ娘が作り出しているものなのだろう。ディープインパクトは当然に、それを生み出した張本人が誰であるかは認知していた。コスモバルクである。

 彼女はダイナファントムの逃げが無理気味であると考えて、番手でありながらもペースを落として脚を溜めつつ最後にダイナファントムを捉えようと考えているのだろう。事実、ディープインパクトの体内時計が確かなのであれば、自分が千メートルを通過するのは一分二秒の後半ぐらいになる。つまり自らの十バ身と少し前を走っている番手のコスモバルクが一分一秒、そしてその前で一人だけぶっ飛ばして走るダイナファントムが、五十九秒半ばほどをマークすることになるだろう。二千四百メートル戦にしては、ダイナファントムのそのペースはやや速めであることは確かだった。

 

 だが、ディープインパクトは知っている。ダイナファントムが凱旋門賞でどういった走りを見せたのか、そしてその後に日本に戻ってきた後にトレセン学園のトラックで出した時計がどれほどのものかを。

 つまりダイナファントムが今刻んでいるペースというのは、彼女自身からしてみればそこまで無理なものではない。凱旋門賞で見せた末脚を発揮できれば、今日のバ場条件でさえもダイナファントムは、JC、つまり府中二千四百メートルのレコードを更新できる。それは彼女にとって、当たり前の範疇にもはや入っていた。それほどまでの成長を、ダイナファントムは見せていたということでもある。

 

 シニア期、充実の秋にあって、フランスという、凱旋門賞という修羅場をくぐったダイナファントムは、その身体面において抜群の成長を遂げていた。恐ろしいほどにである。

 しかしそれは、ディープインパクトとて同じことであった。あの日のロンシャンで、四分の三バ身という少ないながらも勝負という意味でははっきりとした差をつけられたディープインパクトは、まさに今日その借りを返すつもりが満々であった。そしてそれができるほどの成長を、己もまた成し遂げていた。

 府中二四レコードペース、大いに結構である。ダイナファントムがそういう、「スペックに飽かせた消耗戦」で競う相手を選別しようというのであれば、自らもそれに正々堂々と挑んで、上回ってみせる。俄にそんな闘志が、ディープインパクトの心中に沸きあがった。

 

 故に向こう流しの真ん中、丁度レースとしても中間地点を迎えた辺りで、ディープインパクトは最後方からじわりじわりと位置を上げ始めた。外に持ち出しながら、前を走るウィジャボードに圧力をかけ、動くか動かないかを打診する。そして動きそうにないということを確認するや、ディープインパクトはそこから一気に位置を上げ始めた。

 後ろに固まった外国勢、ウィジャボードとフリードニアを抜き去り、更にそこから前を行くユキノサンロイヤルを、スウィフトカレントを躱して、更に今年の二冠ウマ娘メイショウサムソンを捉えて、瞬く間に五、六番手、コスモバルクからは四バ身ほど、そしてダイナファントムからは十二、三バ身ほどの位置につけた。それが大欅の前、第三コーナー手前、残り千メートルほどの地点でのことである。

 

 凄まじいほどのロングスパートだ。春の天皇賞にせよ雨降り頻る梅雨時の宝塚記念にせよ、シニアに上がってからのディープインパクトはこの捲り戦術というものを多用するようになっていた。それはその小柄な身体に全く不釣り合いなほどの、異常なまでの心肺能力のなせる業である。ダイナファントムにせよディープインパクトにせよ、当代のトップを張る二人のウマ娘は、出力の仕方こそ違うものの、つまりはいわゆる「スタミナお化け」であった。

 兎に角その持久力で以て全てをゴリ押すように、コーナーでなおディープインパクトは前に進出を続ける。その辺りでようやくウィジャボードが仕掛けを始め、後方から悠々と並びかけられているコスモバルクも堪えきれないとばかりに仕掛けを早めることを余儀なくされていた。

 全力で勝利を掴もうとするウマ娘たちは、ディープインパクトの進出に合わせて仕掛けを始めざるを得なかったのである。

 

 そして当然、それが生み出す空気のざわめきは、未だ番手から七バ身八バ身先を進むダイナファントムも認識していなければならないところだ。第四コーナーもそろそろ終わり、五百二十五メートルの直線コースが見えてくる。いつまでも我関せずの態度でいられるはずがない。勝ちたいと思うならば。

 ――さあ、どう出る。どう競り合う。

 

 そんな、どこか期待すらも込めた心持ち、眼差しを先へと向けるディープインパクトの前で、開けた最後の直線、スタンドの前へと、ダイナファントムは一人躍り出た。抵抗するコスモバルクをあっさり捉えて、ディープインパクトもまた、その六バ身後ろで直線入りしていた。

 

 

 

 遠くに、しかし近くに、歓声が聞こえる。それが告げるクライマックスのなか、ダイナファントムのことを猛追しながら、しかし事ここにいたって、ディープインパクトは違和感を懐いた。

 

 ――静かすぎる。誰がかといえば、ダイナファントムがである。

 このレース展開、勝負所となる第三コーナーからディープインパクトは本格的に仕掛けて、その位置からならばもはや六バ身ほどの差が詰まっている。

 五百メートル弱で六バ身である。つまりこのままのペースで進むなら、残りの五百メートル強でもう六バ身は普通に詰まる。ディープインパクトは、ダイナファントムを捉えることができるのだ。

 つまり無策ならば、ダイナファントムは負けるのである。彼女にはまだ多少の脚は残っていようが、それはディープインパクトも同じことで、そこに差は生まれない。つまり今の彼女は、()()()ありとは言えども策を講じざるを得ないはずなのだ。勝とうと思うのならば。そしてそれは、態度に、心持ちに、表れていなければならないはずなのだ。

 

 それなのに、何もない。今前を走る、少しずつ差が詰まっているダイナファントムからは、()()()()()()()()()()()()()。最低でも、ディープインパクトはそう知覚した。

 

 ディープインパクトは、よく覚えている。二か月前、ロンシャンの直線の中、一人後ろの競り合いから抜け出してダイナファントムを射程に収めたその時の、ひりつくような闘志、赫然たる精神、それが生み出す茜色の輝きを。

 思いが熔け合い、絡み合って、意志の力で塗りつぶしあう幻視が生む極彩色を、あの瞬間の心すら燃やす競り合いを、ディープインパクトはまた求めていた。慣れ親しんだ日本の、府中の中であっても、ダイナファントムとならば、それが叶うのではないかと。

 

 しかし、それがない。まるでダイナファントムの心の中、何か決定的なまでに、()()()()()()()()()かのように。

 

 

 

 ダイナファントムの方も、そのことを自覚していた。

 己の心の中に空いていた穴が、そこにあったはずの温度が、今このレースの最終盤にあって、「負けられない」と自分を押し上げるエネルギーの源泉であったということに、である。

 

 頭は冷静だ。彼我の状況はどこまでも把握している。

 残り三百メートル、坂を上がり切ったこの地点が、逃げウマ娘としての自分の脚の使い時であると。

 そうすれば、残り一バ身差まで詰め寄られているディープインパクトとも、その最後の一ハロンであれば脚色を同じくできる。差を守り切れる。

 よってディープインパクトは最後の仕掛けをするためにいつものように()()()を切るだろう。そこに自分の()()()をぶつけて、勝ち負けというところだろうか。

 

 まるで傍観者のような、他人事のような思考だった。そこには熱意などない。内からこみあげてくるエネルギーというものの一切が、欠落していた。

 

 

 

 ディープインパクトが迫る。ダイナファントムが二の脚をつける。縮まる差の勢いががくんと弱まって、果たして残り百五十メートル地点でディープインパクトが更に「仕掛けた」。

 

 翼が広がる。羽が舞う。いつもの心象だ。そしてその力強い後押しを受けたディープインパクトが、一気にダイナファントムとの差を詰める。五十メートルであっという間に横に並びかけて、よって今までそうしてきたように、そのタイミングを見計らって、ダイナファントムは()()()。何の疑いもなく、心の底にある源泉に、手を差し伸べようとした。

 

 

 

 そしてそこで、ようやくダイナファントムは気がついた。

 己の抱えている思いの源泉は、「領域」の源泉は、今自分の心の中から抜け落ちてしまっている「何か」であったことに。

 

 目標を、夢を遂げてしまった今の彼女は、心の中に描き出さんとする夢への轍の、その終着点に、もはや至ってしまっていた。その先を、見つけられていなかった。

 光がくすむ。轍が崩れる。満足のいく加速を得られないままに、果たしてダイナファントムはあっさりとディープインパクトに躱された。

 

 

 

 残り七十五メートル、そこで頭一つ抜け出したディープインパクトが、そのまま一と半バ身差をつけて一着でゴール板を駆け抜けたのは、それから五秒と経たないうちのことであった。

 

 

 

 外形的には、このレースはレコード決着であった。良バ場とは言え雨上がりの決して良いコンディションではないところであったにもかかわらず、である。

 前年、海外のウマ娘アルカセットがマークしたジャパンカップレコードをコンマ三秒上回る決着だ。相変わらずダイナファントムとディープインパクトが絡むレースは、当日の他のレースがどうであっても関係ないとばかりに凄まじいタイムが飛び出す、質の高いレースになる。今回もそれは同じであったと、観衆は二人のレース内容を讃えた。まさに凱旋門賞でワンツーフィニッシュを決めたに相応しい戦いぶりであったと。

 

 しかし、その場でレースをしていたウマ娘にとっては、まるで違う。

 ダイナファントムが愕然たる心持ちのままにレースを終えて、第一コーナーの辺りで脚を止める。どこにも目を向けることができず、ただ俯いて、そして両の手を呆然と見ていた。

 

 そこに、更に一人のウマ娘の影が差す。誰かなど、問うまでもない。

 そのウマ娘は、控えめな挙措で以てダイナファントムの隣に立ち、袖を引いた。気づいたダイナファントムが振り向く先、彼女は、ディープインパクトは、まっすぐにダイナファントムのことを見ていた。

 表情は、いつもながらに変わらない。それでもその奥に見える瞳が、訴えていた。――不満である、と。

 

「ファン」

 

 声がする。いつものように澄んでいて、それでも少し硬さのある声が。

 

「今日。……熱くなかった」

 

 いつもながらに、いつも以上に抽象的で、それでもその言わんとするところが、ダイナファントムの胸中に響く。

 

「もっと、色、ついてたのに。……つまらなかった?」

 

 そう問われて、ダイナファントムは首を振る。

 

「そうじゃ、ないよ。そうじゃ、ないんだ。……だけど」

 

 身体ごとディープインパクトに向き直って、ダイナファントムはぽつりと呟いた。

 

「ごめん。でもちょっと……()()()()()()()()()()()、みたいで」

 

 空を見上げる。雲の切れ間から西日が差し込んで、府中の景色は俄に輝きを取り戻し始めていた。

 

 それでも今のダイナファントムの内心は、そこにある決定的な欠落は、それとはまったく裏腹に、ダイナファントム自身に対して「目標を見失った」ことへの厳しい現実を、否応なしに突きつけていた。

 訝しげに、それでもどこか得心の行った表情のままに去っていくディープインパクトの後姿を見送りながら、ダイナファントムはその大きすぎる課題の存在を、強烈に意識する。せざるを得なくなった。

 

 

 

 奇しくもそれは、ダービーにおいてディープインパクトに敗れた時と同じ、府中の二千四百メートル戦の舞台でのことであった。

 

 

 


 

 レース結果: 5回東京8日10R・ジャパンカップ(GⅠ)(芝左2400・小雨・良)

 1着: ディープインパクト

 2着: ダイナファントム 1 1/2身

 3着: ドリームパスポート 6身

 

 上がり3F: 34.5

 レースタイム: 2:21.8R*5

*1
現実世界における「競馬施行規約第6節第41条、『競走に勝利を得る意志がないのに馬を出走させてはならない』」に対応

*2
なお史実的観点から言えば、どうやら2006年は欧州競馬の古馬戦線がどこもかしこも手薄であったらしい。主要なものを挙げてもPoW7頭、キングジョージ6頭、英国際7頭、愛チャン5頭、凱旋門賞8頭、英チャン8頭とどれも10頭に届かない異常事態であった。この年のJCにおける外国馬の参戦頭数の少なさはその影響によるものと思われる。

*3
史実では三着。

*4
2018年にアーモンドアイが2:20.6という全てを過去にする異常なレコードで勝利するまではこれがレコードタイムであった

*5
史実のタイムは2:25.1。

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