暦が十二月に入り、いよいよ年の瀬が見え始めてきた頃合いにあって、ダイナファントムは浮かない表情をすることが多くなっていた。
原因ははっきりしている。先月の末にジャパンカップでディープインパクトに敗れたことだ。
否、敗れたことそれ自体に、ではない。すでにダイナファントムはディープインパクトに対して五つもの黒星を喫している。代わりにディープインパクトに対して五度に亘って勝利しているわけで、戦績という意味においては互角だし、今更彼女に対して一着を譲ったところでそれ自体を一週間も二週間も引きずるということはない。
次は勝つ。そう思って気持ちを切り替えればよかった。それだけの話であった。
だから問題はそこにはないのだ。寧ろ彼女の思うところは、自らの内面にこそ存在していた。
あの時、府中の直線、坂を登り切った最終盤の攻防の中、ダイナファントムは確かに
しかしそこにあったのは、抜け殻だった。限界、と言ってしまってもいいのかもしれない。
ダービーの前の頃のように、その存在を知覚できなくなっているわけではない。だからこそ、逆に分かるのだ。今の己は、その内につけ外につけ、
凱旋門賞を勝った。日本の誰も成し遂げたことのない、凡そ四十年越しの悲願を遂げた。
四つの国のGⅠを勝ち、シャダイが、日本のウマ娘が、或は日本のウマ娘レース業界そのものが、世界に雄飛するに足るレベルにまで十分に達したことを示した。
誰も見たことのない頂点からの景色を、確かにあの日、自らは手に入れた。
「必ず勝って帰って来る」と、「見果てぬ夢のその先を見せよう」と、約した言葉に違うことなく、奇跡を奇跡ではなくしてみせた。
そしてそれは、決して己のみではない。
去年不運に涙を呑み、失意を味わうことになった、
思いを繋いで、手助けもして、だからそれもまた間違いなく一つの区切りだった。
誰かの願いを遂げ、自らの夢に達し、獲った頂の数は七つを数えた。
全て自身が成し遂げたことで、故に誇るべきことだと胸を張って言えた。それは己の中に自覚的に持っていた感慨であった。
そしてそれを自覚したその時、その全てを叶えたダイナファントム自身が、もはやそれ以上の何かを欲そうと思っていなかった。
今までずっと続けてきたディープインパクトとの勝負に、飽いてしまったなどということはあり得ない。まだまだ競い足りないし、彼女と走る時間が楽しいのはずっと変わらない。
いつか自らの後輩と、ダイワスカーレットと、「同じターフの上で勝負をしよう」と、「勝負をしたい」と約束したことだって、よく覚えている。
そのためには、まだ走り続けなければならないのだ。走りたいのだ。その気持ちは、嘘偽りなく持っていた。
しかしそれでも、その思いがあってなお、自らの果たすべき役割は、その大役は、先の凱旋門賞という一つの結実となって終着点へと至ったのだという実感が、ダイナファントムの心中には尚大きく鎮座していた。
区切りがついたと思ってしまっているのだ。その心情を、自らの中で偽れはしない。
追わねばならぬ夢が、渇望が、心の中に沸いてこないという実情が、レース中の心理に与える影響というものは、きっと自らが想定しているよりも、ずっと重かったのだ。
そう言ったものの存在こそが己の「領域」を「領域」たらしめていたのならば、それを欠いた今の自分が満足の行く走りのパフォーマンスを出すのは、難しいのではないか。そう、思わざるを得なかった。
そんな今の自分が、目標をなくしてしまった自分が、これ以上走り続ける意味は、果たして存在するのか。それをただ、自問自答した。
「引退」。その二文字すらも、頭を過った。
たかが二着に敗れただけ、ディープインパクト以外には先着など許していない。確かにそれはそうであっても、こんな体たらくのままディープインパクトと走る自分が、そして恐らくは勝てないであろう自分が、許せるはずもなかったからだ。
凱旋門賞を勝てたのだ、丁度いい頃合いといえるのかもしれない。そんな弱気もまた、心の中で首をもたげた。
しかし、それは違う。絶対に違った。まだ、投げ出してしまうわけにはいかなかった。
約束したのだ。他でもない、初めて自分を慕ってくれた後輩と。
ダイワスカーレットと、一度だけでもいい、同じターフの上を走るのだと。それまではどうにかして、自分は現役を続けなければならない。一線を張って、走り続けなければならないのだ。走っていたいのだ。
ならば今の自分は、何とかしてでも、浮上のきっかけを探らなければならない。不甲斐ない自分のままではいられない。
必死にその糸口を探そうとして、しかしあまりに茫洋としたその課題には、きっと明確な答えなどなく、徒に時は過ぎていく。
トレーナーにも、同室のシーザリオにも、はたまたディープインパクトにも、それは解決しようのない問題だった。なぜならこれはあくまでも、そしてどこまでもダイナファントムという一個人の、心の持ちようの問題であったからだ。
ただそうであっても、立ち止っている隙などありはしない。日々のトレーニングだけは欠かさずに、故に出る時計は次第に安定感を増してゆく。
身体的なコンディションという意味では、彼女の在りようにはますます磨きがかかっていた。
それでも自らの抱えたままの、その精神的な意味での重荷の解消には至らないまま日々は過ぎて、そしてとうとう次走の時期がやってきた。
ダイナファントムが次のレース、つまるところ今年の最後のレースとして掲げているのは、言うまでもなく有馬記念である。それはかねてからの、それこそ年始からの目標であった。
ジャパンカップでディープインパクトに敗れはしたものの、それでも今年海外を含めてGⅠを三勝し、その中に日本のウマ娘レースの悲願であるところの凱旋門賞を含んでいる今年のダイナファントムは、去年のディープインパクトをも上回るURAが集計を始めてから最も多い得票数を以て、人気投票一位に選ばれた。二位は言わずもがなディープインパクトである。この二人が他のウマ娘たちに大きく水をあけて票を得ているという事実は、このところのトゥインクル・シリーズ――とりわけ芝中長距離のレースが、その「双璧」を中心として回っているということをこの上なく示していた。
ありがたいことだ、とダイナファントムは思っていた。それほどの声に推されて、今年も自らは中山の地を踏むことができるのだから。そしてそんな人たちを前にして、前走のような情けない姿は見せられないとも。たとえ外野の人々があのレースをいつもに違わぬ素晴らしいものだったと評していたとしても、彼女自身にとってはあのジャパンカップの敗戦は、負けたという事実以上に愧ずべきものだったのだから、当然の考えであった。
そしてそんなことを思いながらも本番が近づくにつれ、彼女の心の中にはそれでも少しばかり、熱が戻ってきていた。
理由は、いくつかある。そう、ダイナファントムは自己分析する。
一つ確実にあるのは、前走の結果だろう。結局のところ「負けた」という事実は、ウマ娘の心を何より奮い立たせるのものだ。「次は勝つ」と、そう思って再戦を誓う。その負けん気こそが、競走ウマ娘を競走ウマ娘たらしめる重要な素質の一つであった。
そして同時に、目に見える形で現れる「誰かの期待」もまた、予てよりダイナファントムというウマ娘には強く作用するものだった。もはやそれは生来のもので、今更その在り方を変えようなどとは彼女は思っていなかった。
しかしそれよりも何よりも、やはり次走がこの一年の締めくくりであるということが、「
なぜならばそれは、同期であるディープインパクトも同じであるからだ。
ダイナファントムは、ディープインパクトのキャリアの在り方について深くは聞いていない。ダイナファントム自身は一つの目標に「ダイワスカーレットと同じレースを走る」ことがある以上、現役生活は最低でも来年の有馬までは続く。彼女が初めてティアラ限定でないシニアのレースに出てくるのは、そこになるからだ。
しかしディープインパクトは分からない。トゥインクル・シリーズの世界においてデビューからシニア一年目までを「最初の三年間」として重視するのは、裏を返せば
現在のディープインパクトは、GⅠ競走を四勝している。重賞ならば六勝だ。ダイナファントムのそれには及ばずとも功績は十分で、更にダイナファントムとの直対成績が完全に五分となれば、次の有馬の結果次第でドリームトロフィー行きを決断する可能性が十分にある。特に勝てばGⅠは五勝目で、そうなれば彼女の移籍についてとやかく言うものなど誰もいはしないだろう。
つまりダイナファントムにとって、ディープインパクトと同じレースで競い合う機会そのものが次で最後になってしまう可能性があるのだ。最低でもトゥインクル・シリーズにおいては、そうだった。
もしそうなのだとすれば、彼女との最後の機会かもしれないそのレースを不甲斐ない走りで終わらせてしまうなど、ダイナファントムをして自らに許せるはずもなかった。
勝つか負けるかは、その時になってみないと分からない。相手のいることでもあるし、自分の心持ちだけでレースに、ディープインパクトに勝つことができるなどとは思い上がってはいない。それでもせめて悔いのない形でレースをしようということは、そればかりは、やらなければいけないことだと思っていた。そういうレースのできる、自らでありたいと思っていた。
それでもそれは、自らの中に燃え上がっていた炎の熱さからは、程遠い。義務感のようなじりじりとした微熱に、どこか焦りのようなものすらも内包された、そんな精神状態だった。それが生み出す緊張感はダイナファントムの中に決して悪い方向に作用することはなかったが、それでもなお有馬記念へと向かうに当たって、彼女のコンディションというのはその最もよいときから比べれば、全く万全であるとはいいがたかった。
しかしそんな彼女の在り方をよそに、本番の日はあっという間にやってくる。一週前の土曜日、メイクデビューを勝ったダイワスカーレットが次戦に選んだオープンクラスの競走、中京ジュニアステークスでクラシック路線のウマ娘たちと争いながらも、三着以下を五バ身引き離す叩き合いを半バ身差制してティアラ路線の有力ウマ娘として名乗りを上げ、チームとして勢いに乗る中での、年末の日曜日であった。
今年という意味においては、まだ本当の年末までは一週間の猶予がある。今年のURAのトゥインクル・シリーズの開催カレンダーは、そういう構成になっている。ただいずれにせよこの日曜日の全てのレースが終わった時点で、今年の分の中央のレースは全て終わりなことに変わりはない。よって冬の西日が枯れ芝を黄金に照らす中山のスタンドは、グランプリを見に来るための、そして今年のレースを見納めとするための数多の観客によって、例年の通りに埋め尽くされていた。
そこに集まる面々も、また錚々たるものだ。
まず、その主流はシニア二年目世代である。今年の秋の天皇賞を勝った、ダイワスカーレットの姉であるダイワメジャーに、二年前の菊花賞ウマ娘にして一か月前にオーストラリアのGⅠであるメルボルンカップを、日本のウマ娘として初めて制したデルタブルース、そしてもはやダイナファントムにとっては日本のレースではなじみとなった北海道の、「地方のエース」コスモバルクに、GⅠ三勝に加えて今年もエリザベス女王杯で二着を確保し――そのレースの勝者は何を隠そう、ダイナファントムのチームメイトにして後輩たるフサイチパンドラである――未だその豪脚の健在ぶりを見せつけたティアラの女傑スイープトウショウと、シニア二年目世代の充実ぶりを見せつけるものであった。
シニア一年目世代は、言うまでもなくダイナファントムとディープインパクトである。もはやそれ以上に何かを説く必要すらもないであろう。
そして今年のクラシック世代からは、二冠ウマ娘メイショウサムソンに、それと鎬を削ったクラシック路線の有力株たるドリームパスポートとアドマイヤメインが参戦していた。
これに加えて、シニア二年目のウマ娘にしてメルボルンカップにてデルタブルースと共に日本ウマ娘のワンツーを達成したポップロック辺りが人気の上位に入り、力関係でもまた上澄みであるとされていた。
それでもやはり話題の中心にいるのは、ディープインパクトとダイナファントムである。双方ともにこのレースのあとの動向については明言を避けていたこともあって、彼女たちがこの年のレースを走り切った後に現役を続行するのか、それともドリームトロフィーへと移籍を決めるのかといった辺りのことも、注目の的となっていた。
そんな彼女たちを中心とする、選び抜かれた綺羅星の十五人が、中山レース場外回りの合流地点付近、有馬記念恒例の発バ地点へと集まっている。そして冬空に響き渡る関東GⅠファンファーレと共に枠入りも粛々と始まった。
ダイナファントムに割り当てられたのは、五枠九番*1だった。基本的に外に行けば行くほど不利になるといわれる中山二千五百メートルの枠順としてはあまり望ましいものとは言えなかったが、それでも先入れというのは、ダイナファントムにとっては比較的都合がよかった。
この辺りはゲートを嫌うような他のウマ娘とは全く相容れない価値観ではあろうが、ゲートの中で気を落ち着け、覚悟を決めるまでの時間は、彼女からしてみれば長ければ長いほどありがたかったのである。
ただ、この日ばかりはそうとは言っていられなかった。それはダイナファントム自身のコンディションに起因するものではない。原因は完全に外的環境にあった。
問題の起点は、本来後入れとなるはずの四枠六番に割り当てられたウマ娘、スイープトウショウである。
元々大層なゲート難、つまりゲート入りを嫌う性で知られていた彼女だ。そういうわけで彼女はどの枠番を割り当てられようと、必ず先にゲートに入れられることになっていた。ダイナファントムのような例外を除いて、基本的に閉所恐怖症を強く発症することの多い本格化の時期のウマ娘は、ゲートの中に長くいるとそれだけで精神的に消耗し、不利になると考えられているからだ。それほどにスイープトウショウのゲート入りは手こずるものだと初めから思われていたということでもあった。
ただその辺りを勘案しても、それであってなおこの日の彼女は、あまりにも、いつも以上に、ゲート入りをごねていた。元々気分屋の気のある彼女のことだ、恐らくはよほどに何か気に入らないことがあったのであろう。ざわめき続けるスタンドの喧噪を受けて、係員に取り巻かれながらも彼女はまさに「徹底抗戦」の構えを見せていた。意地でもゲートに入らない、そういう態度である。
これがあまりにも続けば外枠発走に、そしてそれすらも拒絶するならば競走除外になるわけだが、それでもURAの係員たちはそうなる前に最善を尽くす義務を負っている。言葉で、仕草で、どうにか宥めすかして機嫌を取って、かのワガママ娘のことをどうにかゲートの中に収めようと奮闘していた。
その間、周りのウマ娘たちはゲートの外でそれを待つよりほかにない。ダイナファントムとしてはこのごねている時間じゅうゲートに入っていても何の不満もなかったし、何なら早いところ入れてほしいとすらも思っていたが、ただ一人だけそんな特例が許されるはずもない。よって彼女は他のウマ娘たちと同じく、ごねまくっているスイープトウショウが何とかゲートに納まるまでの三分にもわたる格闘の一部始終を見届けた上で、やっと自らもゲートの中にその身を潜らせることになった。
最終的にスイープトウショウがゲートに入り切った時にスタンドから送られた歓声と拍手には、ダイナファントムは自分ごとでもないのに思わず苦笑を漏らさざるを得なかった。
ただ、それは必ずしも悪いばかりのことではなかった。つまりそこに至るわちゃわちゃとした攻防を見ているうちに、ダイナファントムの中に蟠っていた焦燥が、レースに対する不安が、少し晴れてきていたのである。
彼女自身、そのことについては自覚していた。即ち今の自分の心の持ちようがどうであろうと、この場に立ったからには全力を尽くすよりほかにないのだ。終盤、いずれにせよディープインパクトに肉薄されるのは確定している以上、その時の己の心持ちは、その時の自分にしか分からないのだと、それは割り切りにも似ていた。
そしてダイナファントムが、そんな凪いだ心境へと至ったそのタイミングこそが、今年最後の大レースの始まり、ゲートが開く瞬間だった。
寸分の違いなくポンとそこから飛び出して、彼女の、そしてここに集った十五人のウマ娘たちのための有馬記念が、その幕を開いた。
ともあれ、いつもの通りに出の良さと行き足のつきっぷりで以て先頭を確保せんとしたダイナファントムだったが、しかしこの日のレースは一味も二味も違っていた。
その震源地は、一人のクラシック級ウマ娘にあった。
ダイナファントムもその現役生活は足掛けで三年目であり、そしてこのレースを終えれば四年目に至る。つまり今まではその競う相手というのは基本的には同期――即ちディープインパクトか、或は彼女たちよりもキャリアを積んでいるシニア級というのが当然の前提としてあった。無論海外のレースにおいては、その限りではないが。
そしてそれが崩れ始めたのは、凱旋門を終え、ジャパンカップに入ってからである。つまりその辺りから、ダイナファントムは自らがよく知らない相手からの「挑戦を受ける」立場に移り変わり始めていた。
日本において、そして世界ですらも関係なく、今やまさに「頂に立っている」と評すべきダイナファントムとディープインパクトの二人は、その走りを仰ぎ見ていた後輩たちから、「打倒すべき大いなる目標」として見られるようになっていた。
その意思の表れというのが、まさに今中山のターフの上で巻き起こっていることである。ダイナファントムの一つ外の枠、六枠十番に納まっていたウマ娘が、ダイナファントムの後ろ、横並び一線の二番手の集団から一人だけ一気の出足で飛び出し、猛然と競りかけてきた。
彼女の名は、アドマイヤメインという。先日執り行われた有馬記念の公開枠順抽選会において、このウマ娘はダイナファントムを差し置いて堂々の「逃げ宣言」を謳っていた。絶対に先頭は譲らない、思い通りには逃げさせないと、公然とダイナファントムのことを牽制したのである。
俄然色めき立った報道陣に対して、しかしダイナファントムは何も答えることはなかった。
張り合うことのできる精神状態ではなかったというのも一つの理由ではある。ただそれよりはどちらかといえば、ダイナファントムの個人としてのスタンスが、そうさせていた。つまり鷹揚というか、超然とした振る舞いである。
結局のところ、それは自信であった。これまでもレースにおいて他のウマ娘から競りかけられたことは一度や二度ではないし、そして彼女はその走りにおいてそういった同じ逃げのウマ娘を相手にして苦労したことは特段なかったという事情も、自負も、そこにはあったのである。
そして今回も、ダイナファントムは半ば挑発的な態度で外からバ体を併せに来たアドマイヤメインに対して、対処は冷静そのものであった。暫く内に切れ込ませないように併せた体勢を維持したままに内々を回り、一周目の四コーナーの出口、一回目のホームストレッチに入ろうかどうかといったところで、ダイナファントムはあっさりと「身を引いた」。アドマイヤメインがしびれを切らして改めてハナを主張するために一段の加速を始めたところで、はしごを外すように先頭を譲ったのである。
ただそれは、駆け引きの結果ではかならずしもない。どちらかといえば、純粋な「ペース読み」の結果の振る舞いであった。
まず前提として、コーナーが多くスピードに乗りづらい中山二千五百メートルという競走条件において、逃げの手を打ったウマ娘が現実的に勝ちを得られる前半千のラップタイムというのは、いいところ一分フラットが限界である。ダイナファントムの肌感覚としては、去年自らが記録した一分コンマ三、もう少し厳密に言えば一分コンマ二五秒というのが、恐らくは彼女にとってちょうどいい塩梅であろうと当たりをつけていた。機械的にハロン単位にすれば、十二秒コンマ〇五ということになる。
そしてその想定ラップに対して、今大胆にハナを主張しに行ったアドマイヤメインの走りは、はっきりとオーバーペースだった。このままいけば一コーナーの中間辺り、前半千メートルが一分を割り込む勢いで、それについていくのはさしものダイナファントムとて無理がある。そういう判断が、彼女をしてハナを譲るという選択をさせていた。
一方そのまま先頭を譲り受けたアドマイヤメインは、一人ぐんぐんと後ろを突き放して逃げていく。あっという間にダイナファントムからも、三バ身四バ身の差をつけていた。
一方のダイナファントムは、それを無理に追おうとはしなかった。それは今までの彼女の流儀とは些か異なる趣の戦術であった。
ダイナファントムはこれまで、番手でレースをするときは前を進むウマ娘に息を入れさせない位置取りでプレッシャーをかけ続けることでその対象たる先頭のウマ娘を実質的に自滅させるような戦い方を好んでいたが、しかし今回ばかりは事情が異なる。あの「バカ逃げ」に付き合ってはこちらも共倒れになると、おとなしく離された二番手、先頭と三番手のダイワメジャーの丁度中間の辺りを意識する位置取りでレースを進めていたのである。
果たしてそれから暫く、第一コーナーを過ぎた辺りで、レースを見る観客に向かって実況がレースのペースを伝える。
『先頭アドマイヤメインぐんぐんと、悠々と前を進んで、ここで前半千メートルを通過、タイムは五十九秒五! 五十九秒五です! 今年は速いぞ有馬記念、後ろ四バ身五バ身差の二番手ダイナファントムは一分丁度から一分コンマ二といったところでしょうがそれにしてもアドマイヤメイン飛ばしています』
その内容についてダイナファントムは知る術もないが、ただ結論から言えばダイナファントムの選択にも推論も、概ね正しかった。
去年の秋天のバカバカしいペースを作ったダイナファントムがいうのも何ではあるが、とにかく今のアドマイヤメインの走りは前半のラップメイクとしてもあまりに速すぎるのである。
これで逃げ切れるのならばもはやそれはウマ娘という生命体を超越した何かであり、いくら何でもそれはあり得ない。そういうわけでダイナファントムは、事ここに至ってはアドマイヤメインのことは、一度頭から除外した。どうせ息を入れるためにペースを落とすか、息すらも入れられずに終盤に垂れるか、二つに一つである。そう信じた。
故に彼女はさながら逃げの如く振る舞い、コーナーのカーブを利用して一度大きく息を入れにかかる。意識するのは十三秒台、ここでダイワメジャーに一バ身差ほどまで詰め寄られても構いはしないと、コーナー出口までの二ハロンきっかりと息を入れた。
ただそれは、前のアドマイヤメインも同じことを考えていたらしい。大幅に減速したにもかかわらず、開いたバ身差は精々が二バ身といったところであって、そしてダイナファントムの後ろも完全に彼女の作り出すペースに任せるように速度を落とし、恐らくは息を入れていた。
ダイナファントムは、内心で頷く。もしそうなのであれば、これは条件としては絶好だ。ここで二ハロンに亘って十三秒などという大変に緩いラップを刻めて、そして後ろとの差が詰まらなかったのはあまりに大きい。後は道中仕掛けのところまで十二秒のペースを守ったまま追走し、そして四コーナー途中のL2から一気にペースを上げてスパートすれば、最低でも前は問題にはならないし、後ろにも早仕掛けを強いることができよう。
つまるところそれが何の苦もなくできるディープインパクトを除いて、この時点で早くもダイナファントムの想定する勝負の土俵には、誰も登るに値しなくなっていたのである。
果たして第二コーナー出口、向こう正面に入ったその辺りで、ダイナファントムはペースを一気にもとへと戻した。ゴールまでは千百メートルの距離、ロングスパートと表現するにはやや緩めの流れでありつつも、しかし未だ息を入れて帳尻合わせを試みているであろうアドマイヤメインとの距離が、そこでどんどんと縮まり始めた。
一時期は七、八バ身ほどに開いていた差が、残り八百の標識の辺り、向こう正面を走り切って三コーナーの入り口のタイミングではもはやなくなっている。ダイナファントムはアドマイヤメインの外に位置取り、彼女に堂々と並びかけた。
後ろもそれにつられるように上がってくる。ここまでの三ハロン四ハロンの間、事実上ダイナファントムがペースメーカーとして振る舞っていたが故の、それは副次的効果であった。後ろ側のウマ娘たちをそのペースアップに強引に付き合わせ、そして事実上それは、後方からレースを進めているディープインパクトの早仕掛けを牽制するという意味合いをも含んでいた。一気に捲り上げるには、やや全体の展開が速くなるように仕向けたのである。
ダイナファントムは後続を五バ身六バ身ほど後ろに引き連れ、内で抵抗するアドマイヤメインのことなどもう知らぬとばかりに、そこで一気に抜き去って先頭に立った。彼女にとっては平均のペースである「十二秒」という黄金の数字を機械的に保って、そして第三コーナーの終わり、六百標識を通過する。
つまりそれは、本当の意味での勝負の始まりであった。
後ろから増大した気配が迫り始めるのを、ダイナファントムは意識する。
じわりじわりとした捲りに限界があると認識したであろうかのウマ娘が、ディープインパクトが、もはやここが一気の脚の使いどころであると、遠慮なくその末脚を解き放っていた。
聞こえないはずの息遣いが耳朶を打ち、知覚の外にあるはずの足音がこだまする。
ただそれを感受する知覚は、ロンシャンの最終盤において感じたものよりは、未だ鈍く遠い。それでもジャパンカップでは一つとて聞き分けられなかったことを考えれば、幾分かマシとしたところであるのだろう。
その射抜くような意思の発露を背中に受け、いよいよ四コーナーの中間、四百標識を通過した。ディープインパクトに煽られるように後続勢は一気にスパートを始め、二番手ダイワメジャーとダイナファントムの間の距離は二バ身ほどへと詰まる。
しかしそこで、ダイナファントムは満を持してスパートを始めた。ここまでずっと使うことなく堪えてきた二の脚を、まさに去年と同じように、この直線入りの直前の場所において一気に爆発させた。
遠くに、歓声を聞く。後ろの気配がじりじりと離れていくのを感じ取る。後方で前受けしていたウマ娘たちのスパートは、今のダイナファントムの二の脚には届かない。
しかしその中から一人抜け出したその「気配」は、離されている他の集団とはまるで関係なしに、ただひたすらダイナファントムとの差を詰めてきていた。
三百十メートルの直線において、その差はまだ三バ身ある。この二ハロンスパートに命運をかけたダイナファントムの脚色よりも後ろから三ハロン以上のロングスパートで追ってくるディープインパクトのそれの方がわずかにいいのは、やはりディープインパクトというウマ娘の「別格さ」を象徴してはいるのだろう。
しかし一方で、それでも今のペースでは、ゴールまでにディープインパクトがダイナファントムを捉えるに至らないのは確かであった。この距離でこの差を詰め切るほどには、両者の使っている脚に今のところ差は存在していなかった。
故に、次の展開についてはダイナファントムも理解していた。ディープインパクトもである。
すでに数多の経験から慣れ親しんだ、「世界を塗り替える」存在感が広がるのを、ダイナファントムは知覚する。この場においてダイナファントムのほかに唯一勝ち筋を持っているそのウマ娘が、ディープインパクトが、ダイナファントムのことを二バ身以内に捉えた直線半ば、残り百五十メートルほどの場所で一気に加速する。
空を駆ける翼あるウマ娘の表象を見せて、それは今までよりもなお
あと八秒か七秒か、それまでじりじりとしか詰まってこなかった差が、その距離が、瞬く間にゼロになってゆく。あのダービーの日、初めてこれを見かけた時から、何度も何度も経験してきた怒涛の追い上げであった。
故にこそそれに対抗するべく、ダイナファントムも心の内にある心象を引き出そうとする。しかしそれはジャパンカップの日に自覚したままの姿でどこか褪せて擦り切れて、凱旋門賞の日に見せた視界全てを塗りつぶす鮮烈さからには、どこまでも程遠い。
故に背中を押すはずの力も同じように弱く、進むターフに敷かれるべき光の轍も掠れていて、その不完全な「領域」はまるで踏みつぶされるかのごとくに、あざ笑うかのごとくに蹴散らされ、ディープインパクトはダイナファントムの背中を捉えた。そして追い抜いた。
あと五十メートル、抜き去っていくディープインパクトの後姿がダイナファントムの目に映り、その中かで彼女の主観の中の時間は、どこまでも引き延ばされていく。
――勝てないのか、また。
その中で、ダイナファントムは自問した。またあの日の、ジャパンカップと同じ轍を踏んだまま、敗れるのかと。
勝負ならば致し方がないと、相手が強かったのだと、そんな諦めの言葉も、答えも、心の片隅には確かにあった。これで勝つならば、やはりディープインパクトは強かったのだと。
しかしそれでも、自らの中で問うたその声に何よりも先んじて答えるのは、偽らざる本能の叫びであった。
「嫌だ」。
「このままじゃ終われない」。
このまま情けない姿を見せたままで終わって、それでもしディープインパクトと相まみえる機会がこれで最後になったら、絶対に、一生、後悔する。
ならば、私は何をこのターフに叩きつけるべきなのか。
感情も、理屈も、その二つが俄に一つの方向性を指し示して、ダイナファントムはそこで初めて、今一度の答えに至った。
夢を追う。それも一つの在り方だろう。
しかしそれを成就した今、それでも己がターフから去ろうとしないのは、ここで負けたくないと思っているのは――。
――ただあの子と、ディープインパクトと、隣り合って、並びあって、そしてあの子に勝ちたいからなのだと。
それに気づいたその瞬間に、褪せていた光が、胸の中の燃えさしが、烈しい炎を、光を宿した。
敷かれていた轍が、形を変えていく。未知の象徴、中空に描かれる当てもない旅路としての二条の光芒が、空を駆ける一対の翼の側に寄り添うように敷かれ直されていく。
その上をなぞるように、新たに示された道の上へと足を踏み出せば、既に枯れはてていたはずの力が、ともすればこれまでよりもなお強く、大きく、ダイナファントムの背中を押し始めた。
気づけば口からは絞り出すがごとくの唸り声を上げて、ダイナファントムはそのエンジンを再点火させる。抜き去っていたはずのディープインパクトの背中めがけて、凄まじい猛追で以て差し返さんと襲い掛かった。
あっという間に彼我の距離は再びなくなり、そして二人が並んだその場所が、この有馬記念のゴール板のある位置であった。
二人の削り合うがごとくの熾烈な競り合いに、その幕切れに、観客が熱狂する。
実況も、肉眼では到底判別しえないほどの微差での決着に、興奮の声を上げている。最低でもこれは写真判定、ともすれば同着もありうる、と。
前後の関係で語るならば、ダイナファントムが完全にディープインパクトを捉える態勢ではあった。彼女は、確かにディープインパクトを差し返していた。
それでも、ダイナファントムは理解する。
――あと一歩、足りなかった、と。
駆け抜けた勢いをそのままに、ディープインパクトと二人で第一コーナーまで進み、そこでどちらともなく減速して、立ち止まる。
どちらともなく顔を見合わせて、言葉を探った。
「……足らなかった、よね」
先にそれを口にしたのは、ダイナファントムの方である。言わずもがな、このレースの結果についてであった。
「自信、ない。けど、多分?」
答えたのは、ディープインパクトだ。半信半疑ながらも、恐らくは本当にギリギリでダイナファントムの逆撃を凌ぎ切った。そう、彼女の方も考えていた。
「だよねぇ……」
見解が一致して、ダイナファントムは苦笑いをした。
その心中に、じわりじわりと
ただ今は、今だけは、自らの「再起」がわずかに前を走るディープインパクトに届かなかったという事実が、どうしようもないほどに悔しかった。
ダイナファントムは俯いて、しかしまたすぐに顔を上げる。髪をかき上げ、掻き毟るように右手でくしゃりとそれを掴んだ。
「あー……くっそぉ……」
そして出てきた言葉もまた、今までの彼女からは到底想定しえないようなものである。ディープインパクトが、目をぱちくりとさせた。
そのまましばらくまじまじとダイナファントムのことを見つめて、しかしそこで、声を発する。
「でも、ファン。私も、今日は負けられなかった。
投げかけられたそれに、ダイナファントムは思わずディープインパクトの方に向き直る。その意図するところがなんであるのか、質すためだった。
しかし続きを促すまでもなく、ディープインパクトは言葉を重ねる。
「今日、ファンが勝ったら。もしかしたら、『終わり』になるかもしれないって、思ったから」
「それは……」
ダイナファントムの口から、図らずも声が漏れる。
「終わり」。ディープインパクトの言わんとすることは、ダイナファントムには理解できる。即ちそれは、ダイナファントムの方がディープインパクトに対して懐いていた懸念と、全く同じものであった。
このレースで勝たれてしまえば、自らのライバルたる
その事実が、ダイナファントムの心を今一度灯していく。
なぜなら、それが意味しているのは一つだからだ。
「じゃ、ディープ。きみは、来年も……」
わななく唇で問うたダイナファントムに、ディープインパクトが頷く。
「ん。走る。最低でも、来年いっぱい」
親指を立てて、心なしかドヤ顔で、そこからすぐに、その訳を続けていく。
「まだ、走り足りない。ファン、あなたと、まだ走りたい。それに――」
そこで一度言葉を切って、ディープインパクトはターフビジョンの方を向いた。ほどなく歓声が上がる。写真判定の結果がそこには映し出されて、それがこのレースにおけるディープインパクトとダイナファントムの着差が、
結果は、「ハナ差三センチで、ディープインパクトが一着」。その結果が着順掲示板に映し出されたのを見届けて、ディープインパクトがダイナファントムに振り返った。
「
そう言ってニヤリと笑ってみせたディープインパクトの姿を正面に収めて、ダイナファントムもまた、笑みで以てそれに返した。
「そっか。じゃあ、私も連覇、狙うことにするよ」
つまりそれは、確固たる意思表示であった。
双方ともに、来年一年もトゥインクル・シリーズにて現役を続けると。
そして、また共に海外で、凱旋門賞で、雌雄を決することにしよう、と。
言外に含まれたその思いを共有して、ダイナファントムとディープインパクトは、互いに一歩歩み寄る。
そのままどちらともなく出した右手が、互いに強く握られた。
故にそれは、次の一年のための確固たる約束となって、二人の間に結ばれた。
果たして有馬記念の翌日、ダイナファントムとディープインパクトの陣営は共に声明を発表する。
互いに、もう一年トゥインクル・シリーズにおいてレースを走ることを。
そして二人ともにもう一度、凱旋門賞を含めた海外遠征に、打って出るということを。
彼女たちの時代は、連星の時代は、まだ、終わらない。
レース結果:5回中山8日9R・有馬記念(GⅠ)(芝右2500・晴・良)
1着: ディープインパクト
2着: ダイナファントム ハナ
3着: ポップロック 8身
上がり3F: 34.8 (12.2-11.4-11.2)
レースタイム: 2:30.1*2
さ よ う な ら デ ィ ー プ イ ン パ ク ト の 初 年 度 産 駒。
ということで、ここでまた一つ区切りとさせていただき、書き溜め作業に入ります。
最終章「シニア級二年目編」の再開はまた一か月ほどあと、年明けごろからになるかと思います。
それではその時に、またよろしくお願いいたします。