双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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負けっぱなしじゃいられないから――3回阪神4日11R・宝塚記念(GⅠ)(芝右2200・小雨・稍重)

 ともあれ、トゥインクル・シリーズにおける一つの目玉、クラシック戦線は、そこで一段落の時を迎えた。

 そうなるとその次に人々の注目が向くのは、シニアにおけるウマ娘たちの動向である。

 春に一戦、ドバイの夜を照らし出した主役二人はそのあと暫くレースからは遠ざかっていて、しかしその辺りで彼女たちの次走が近づいていた。それは言わずもがな、上半期のシニア総決算である宝塚記念である。

 

 昨年はディープインパクトが制したこのレースだが、今年もその顔触れは豪華である。

 言わずもがなのダイナファントムにディープインパクト、昨年のティアラ二冠ウマ娘カワカミプリンセス、クラシック二冠ウマ娘メイショウサムソンにドバイデューティーフリーでダイナファントムの二着に入ったアドマイヤムーンもいる。

 更に今年はそこに、なんとクラシック組が二人も殴り込みをかけていた。つまるところそれは、ひと月前のダービーを制したウオッカに、二着に入ったアサクサキングスである。

 ダービーを制したウマ娘がそのまま宝塚記念へと出走してくるのは、最近だと二冠ウマ娘ネオユニヴァースあたりが記憶に新しかったが、基本的には異例のことである。そして今まで、この時点でのクラシックウマ娘が宝塚記念に出走して結果を出せた例というのは、未だ存在していない。

 しかしそれでもウオッカがこの宝塚への出走を決めたのは、偏に「ロマン」を追い求めた結果であった。

 

 ――待ち切れない。次に敬愛するディープインパクトに、そしてその終生の好敵手たるダイナファントムに挑めるのは、暮れの中山、有記念だ。それでは遅すぎる。

 それはそういう心理であった。

 ほぼ確実に引退レースになるであろう今年の有記念が、最初で最後の同じターフを走る機会になるというのは、ウオッカからしてみればあまりに惜しかったのである。

 

 そんな心理のもとに阪神レース場にやってきたウオッカを合わせて、なんと今年の宝塚記念はフルゲートを達成していた。天候条件の良くない梅雨のさなかの仁川の地に、十八人ものウマ娘が集結していたのである。それも除外すら出るほどの盛況ぶりであった。

 

 まさに上半期総決算にふさわしい場が、かの地には整えられていた。

 

 

 

 

 

 斯くの如くしてやってきた宝塚記念当日であったが、コンディションについては生憎といったところであった。

 去年ほどの荒天ではないにせよ、その日の阪神レース場は朝からずっと小雨の降り続ける空模様で、バ場についても発表は稍重と、よい路面の状態であるとはお世辞にも言えないところであった。

 

 しかし一堂に会するウマ娘は、そんなことなど百も承知である。霧雨に煙る、改装後初めての宝塚記念のスタート地点、屋根付きのポケットから、ウマ娘たちがそのすぐ前の発バ機へと思い思いに向かっていく。

 

 ダイナファントムはその中で、二枠三番*1を頂戴していた。二枠四番*2に配されたディープインパクトと一つ内側である。

 概ね好枠と言っていいであろう。ともに内に入ったディープインパクトと合わせて、言い訳の利かない真っ向勝負の枠であるとも言えた。

 

 ほかの十八人と共に、そして真っ先に枠へと入って、ダイナファントムは気息を整える。

 彼女にとってこのレースは、海外レースに匹敵するほどに「負けられない」戦いであった。

 確かにダイナファントムは前走のドバイデューティーフリーを楽勝し、強さを見せつけた。

 しかし前走と前々走を合わせて、彼女はディープインパクトに連敗を喫しているのだ。もしここでディープインパクトに負けた場合、ダイナファントムはディープインパクトに三連敗を喫し、直接対決の星を二つあけられることになる。

 それはさすがに看過できなかった。ディープインパクトのライバルを自任する者として、星取りにそれほどの差をつけられてしまうことは、避けたいとしたところであった。

 

 故に今日、ダイナファントムの気合はいつも以上に漲っている。

 しかし一方で、それがレースに臨むに当たっての雑念にもなりかねないことを、ダイナファントムは理解していた。今彼女がゲートの中で気息を整えようとしているのは、つまりそういうことであった。闘志を高め、気合を入れて、しかしレースに挑むに当たっての心持ちは純化させる。それをダイナファントムは自らに課していた。

 

 瞼を閉じて、進むゲート入りの音を、係員の声を聴く。わずかに発バ機を叩く細雨の音も耳の中に反射して、その聴覚の全てが、ダイナファントムの意識をただレースにのみ向けさせた。

 瞳を開く。前を見据えた。最後の枠入り、大外ローエングリンがゲートの中に納まって――そこで開いたゲートから、認識の一歩前に脚を蹴りだして、ダイナファントムはいつものように飛び出した。

 

 

 

『今スタート! 横一線綺麗に揃って、しかしやはりいつもの通り、ダイナファントム抜群のスタートで一歩二歩前に出た。その内ウオッカもいいスタート、先行勢に混ざっていくか今日のウオッカ。しかしすーっとダイナファントム内に寄せていって、更にその外から七番カワカミプリンセスも前に出てくる。ディープインパクトは後ろに下げる格好、そして大外、大外からぐーんと脚を伸ばしてローエングリン、ローエングリン先手を取ろうと前に出た!』

 

 スタートから一ハロンの間に、この年の宝塚記念はごちゃごちゃとした先行争いが繰り広げられることになった。

 それは大きく内の方と、外の方の二つの流れである。

 まず内から抜群の出で以て前の位置を確保したダイナファントムが、稍重のコンディション故にいくらか加減をしながらも、力強い出足で前目のポジションを確保する。その横からカワカミプリンセスが負けじとダイナファントムに競って行こうとしてまずそこでダイナファントムの逃げと番手のカワカミプリンセスの絵図が作られようとした。

 しかし今回の宝塚記念は、それだけでは終わらない。そこに更に二人の逃げウマ娘が、外目の枠に残っていた。

 今年のダービーで果敢な逃げから二着に残したアサクサキングスと、そしてマイル戦を主戦場とする古豪、ローエングリンである。

 特にローエングリンはフランスのマイルGⅠであるムーランドロンシャン賞を二着に、そして短距離・マイル戦の本場である香港の香港マイルにおいて三着と好走する力ある()()()()である。そんなマイラーの逃げウマ娘が繰り出してくる逃げの脚というのは、如何に快速ウマ娘として強力な逃げを打てるダイナファントムといえど、抗えるものではなかった。中長距離を主戦場とする逃げウマ娘とは、そもそも普段から出しているスピードが違うのである。

 

 そういうわけでダイナファントムは、無駄に競りかけることをせずにあっさりと先手をローエングリンに譲った。さらにはそれに続いて上がってこようとする十番のアドマイヤメイン、十五番のアサクサキングスをも、ダイナファントムは見送っていた。

 

『さあ先頭ローエングリン行った、ローエングリン行った! ぐんぐんぐんぐん押していって差を広げにかかる! 二番手はその内から上がってきたアドマイヤメインで、続くのはアサクサキングス、なんとダイナファントムは四番手です! 今日は逃げないダイナファントム、逃げ集団を先行させてその後ろにつけようという算段でしょうか!』

 

 理由は、実のところはっきりしている。

 ダイナファントムは自らの出足とそれが作り出すラップに、絶対の自信をおいていた。つまり自らがレースの後半に至るまで脚を残すために必要十分なスタートダッシュのやり方をいうものを、その感覚というものを、完全に己のものにしていたのである。シニアも二年目に入れば、それは当然のことであるとも言えた。

 そしてその感覚が伝えていた。

 ――今年の宝塚記念、あまりにも速すぎる、と。

 

 つまり我先にと先陣を争う外枠の三人は、尋常ではないレベルのオーバーペースを作り出していた。阪神レース場二千二百メートル戦の最初の、五百メートルほど続く長い直線の中、恐らくは二ハロン目も三ハロン目も十一秒丁度かあるいはそれを切ってくるほどの速度を出しているであろうと、ダイナファントムは推量していた。

 確かにゴール板の位置する手前までの凡そ三百メートルほどの区間はひたすら下り坂が続き、故にこの阪神レース場の序盤戦は速いラップになりやすい。それは確かである。

 ただそれを含めてなお、この区間のタイムは速かった。速すぎた。その次にやってくる急坂から第一コーナーに入るまでの入りの三ハロン全体を見ても、()()()()()()()()()()()()異常なペースであることに変わりはなかった。

 

 それにつき合うなど、自殺行為もいいところである。よってダイナファントムは前でやり合う三人を好きにさせつつ、同じ先行ポジションを志向したカワカミプリンセスの内、一バ身ほど前を自らのペースを守りつつ確保して序盤戦を乗り切っていた。

 先頭のローエングリンからは十バ身、三番手のアサクサキングスからすらも四バ身ほどの差が、そこには開いていた。

 

 

 

 ダイナファントムが、好位先行策を取った。それは前を進む三人を除いた、残りの十四人のウマ娘たちに、衝撃を以て受け止められた。

 今までどこまでも逃げを、そうでないときも精々が番手策までの位置取りでしかレースをしたことのないダイナファントムが、ポジションを大きく下げているのだ。それも当然のことである。

 ゲートの出が悪かったか。何人かのウマ娘はちらとそれを思い、しかしゲートから出た瞬間のダイナファントムのいつもの通りのスピード感を思い出して、「そんなはずはない」とその発想を打ち消した。

 そうなると、後続のウマ娘たちは一つの推測に至る。つまり、「前が速すぎるのではないか」という懸念である。

 ダイナファントムは今まで一度もペース読みを誤ったことがない。ディープインパクトにこそ六回ほど差されているが、それはあくまでのディープインパクトというウマ娘の並外れた競走能力に、暴力的な末脚の性能によるもので、それ以外の誰にも彼女は先着を許してなど来ていない。

 そうなれば今、ダイナファントムが逃げのポジションを放棄した理由など、そのぐらいしか考えられない。そこに思い至ったウマ娘たちは、その瞬間にペースの中心点をダイナファントムへと据えた。つまり前を行く()()()()()を、完全に無視することにしたのである。

 結果ある程度自由な逃げを許されることになったローエングリンは、四ハロン目から一気の減速で溜め逃げを図ろうとした。二ハロン続くコーナーの中で、息を入れることを志向したのである。

 

 しかしそれを含めてなお、先頭のペースは異常であった。

 

『向こう流しの入り口、第二コーナーを過ぎて千メートル通過。前半千メートルは――五十七秒五!?』

 

 驚愕と困惑を最大限口調に込めた実況の叫びに、会場が一気にざわめく。

 速すぎるのだ、いくら何でも。二年前に府中二千を、秋の天皇賞を暴走とも言える大逃げで、しかし大差で逃げ切ったダイナファントムですら、その前半の通過は五十七秒六であった。

 秋の、良バ場の、府中でそれである。稍重の仁川で、しかも一ハロン長い二千二百メートル戦で出していいタイムではない。断じてない。

 この瞬間、観衆は前をひた走る三人のウマ娘の勝利については絶望的であると断じた。そしてその後ろ、四番手を単独で進むダイナファントムが、先頭から十バ身ほど後ろの位置を進んでいることを確認して、実質的にここが逃げのポジションであることを改めて認識した。

 ダイナファントムの位置で、通過が五十九秒一か二である。それでも稍重のコンディションであることを考えれば、やや速いとすらも言える。故にその後ろにぴったりと追走しているシャドウゲイトやカワカミプリンセスは、見た目に反してハイペース先行を試みている状況にあるとも言えた。

 

 果たして二コーナーを過ぎ、隊列は向こう流しに入る。三百メートルほど続くその平坦な道のりの中、十分なリードを確保したと感じた先頭ローエングリンが、更に息を入れようとまた一段減速する。

 そもそもベースがマイラーなのだ。行きっぷりよく逃げる能力を持っている一方で、それを持続させるスタミナの裏付けがあるわけでもない。そもそも「足りない」向きがある二千二百の道のりであるがゆえに、そこで少しでも息を入れて距離を持たせようとするのは自然の成り行きとしたところであった。

 

 そして当然、後ろを走るダイナファントムもそのことについては見抜いている。よって彼女もまた、その平坦な直線においてはややペースを落として終盤への備えにしようと試みていた。

 理由は単純である。この向こう流しを抜けた先、第三コーナーから始まるラスト四ハロンの道は、最後二百メートル地点の急坂までの六百メートルが、ひたすらに下り坂となっている。傾斜はコンマ三度ほどとそこまで強いものではないが、しかしその緩やかさ故に速度を稼ぎやすい。つまりその下り坂を利用して加速し、ラストスパートへとつなげる余裕を持つことが、このコース攻略の秘訣でもあった。

 そういうわけでダイナファントムは、先頭が息を入れる中であっても、後ろとの距離を詰めることを急がない。どのみち前半を五十七秒五などというペースで走った前方の逃げ集団など、十バ身程度の差に納まっていれば四百メートルもあればとらえきれる。ダイナファントムもそう考えていたし、またそれより後ろを走るウマ娘たちも、同じことを考えていた。当然にそれは、未だ中団後方、十二、三番手を緩やかに追走するディープインパクトからみても、そうである。

 つまりレースが動くのは、本格的に下り坂が始まる残り八百のハロン棒の辺りからだ。それが、ダイナファントム以下のウマ娘たちの共通了解となった。

 

 コーナー入り手前、残り千メートルからの一ハロン、ローエングリンがペースを更に落とす。しかし差は詰まらない。ダイナファントムが詰めさせない。後ろもまだ動くつもりはない。奇妙な、不気味な平穏が続いて、しかしそれでも追走するすべてのウマ娘が、まさに機を窺っていた。

 ――いつ動く。()()()()()()()()()()()()()

 その緊張感はどこまでも張り詰めていって、いつだれが掛かって仕掛けを始めてもおかしくない状況で、しかし奇跡的に均衡が保たれていた。

 ダイナファントムより先に、或はディープインパクトより先に仕掛けては、絶対に勝てない。そんな信頼感が、確かにそこにはあった。今のトゥインクル・シリーズのターフの上においては、それほどまでにダイナファントムとディープインパクトの二人は、「絶対者」としての存在感を誇っていた。

 

 そして、バ群は第三コーナーも半ばに入る。十八人ウマ娘たちの視界の中、その右側に、「8」と書かれたハロン棒が映り、そして通り過ぎていった。

 身体が軽くなる。下り坂を迎えた。

 故にそれは、仕掛けの合図となった。

 

『第三コーナー中間残り八百、先頭ローエングリンと二番手アドマイヤメイン固まって、三番手アサクサキングスとの差は五バ身、アサクサキングスからダイナファントムとの差も――いやここで動く! ダイナファントム差を詰める! 仕掛けたかダイナファントム! アサクサキングスに迫って迫って今並んだ!』

 

 ダイナファントムが、進出を開始する。最後の三ハロン、ギリギリのスパートまで引き付けて逃げたい思惑を抱えていた前三人に対して、ダイナファントムはもはやこれ以上そのまま逃がしてやる気はなかった。

 完全な仕掛けとは言わないまでも平均ペースからスパートへと次第に移行しようとするペースアップが、未だスローの状態で引き付けようとする前方集団を瞬く間に飲み込む。三番手アサクサキングスはあっという間にダイナファントムに捕まって落ちてゆき、更にダイナファントムの動きを見て思い思いに仕掛けを始めた後続集団にも、次々にかわされてゆく。

 

 ダイナファントムに当てられるように、一気にバ群の動きがあわただしくなった。

 しかしその中で、一人だけ未だ泰然自若の存在がいた。言わずもがな、ディープインパクトである。

 シニアに入ってからのディープインパクトは、こういう展開であれば残り千か八百の時点ですでに大外から捲り上げ始め、最後の直線では大外から更に足を伸ばしてダイナファントムと一騎打ちを演じるというのが通常の流れであった。

 しかし今日は、今日ばかりは勝手が違う。それはこのレースにおけるバ群の構造に起因していた。

 

 今年の宝塚記念は、まず先頭を走るローエングリンがマイル戦のペースそのままに前を飛ばしてゆき、それにつられる形になった三人の逃げウマ娘が、殆ど自滅と言っていいほどのハイペースの逃げを敢行している。

 一方でペース読みに長けたダイナファントムはそれにつき合うことなく、やや早め程度のいつもの自らの逃げのペースを維持したまま、四番手追走の形を維持していた。

 そして後続はそのダイナファントムの振る舞いを実質的なペースメーカーとして動いていたが、しかし更に後方集団はどうしても先頭のローエングリンの動向も意識せざるを得ないところもあって、()()()()()()()()()()()()()()()

 つまり四番手ダイナファントムから最後方を進む最内枠のスウィフトカレントまでの間は、かなりギチギチに詰まったバ群を形成していた。四番手からシンガリまでは、十バ身もないほどである。

 そうなると、集団後方ながら後方三番手四番手の位置で追走するディープインパクトもまた、ペースとしてはいつもより速い。彼女自身その追走ペースをこなせないわけではないにせよ、その詰まったバ群のさらに外を回って、大きな距離ロスをしながら捲り上げていくのは、はっきり非効率であった。

 更に言えば、斯くの如き凝縮したバ群が、最終直線までずっと固まったまま進むということは殆どあり得ない。つまり各々が自らの進路を確保しようとして、コーナー出口で大きく膨れるのである。

 そしてそうであれば、ディープインパクトの前には必然的に、そして自然と道が開けることになる。多少バ群を縫うような真似をしなければならない向きはあっても、この一塊の大外を通って他のウマ娘より十バ身ぐらいのロスをしながら差し切りを狙うよりは、「確実」かつ「楽」な戦略に相違なかった。

 よって、ディープインパクトは動かない。寧ろ慌ただしくなり始めたバ群の真ん中に自らの身体をねじ込んで、来るべき最後の直線の攻防まで体力を温存しようとしていた。

 

 三者三様の思惑の中、更に進んで四コーナー、残り三ハロンの場所へとたどり着いた。

 ローエングリンはまだ動けない。道悪であるにもかかわらずすさまじい出足で逃げを打ったことが、打ってしまったことが、彼女から残りの脚を完全に奪い去っていた。

 そしてそれをすべて見据えて、ダイナファントムがローエングリンのことを射程に捉える。後ろにはカワカミプリンセスと、そして後方から上がってきたメイショウサムソンを引き連れて、しかしそれに遜色ない、いや寧ろそれよりも優れた脚色で、四コーナー中間地点でとうとうダイナファントムがローエングリンをかわした。

 

『最後の直線手前、ここで先頭入れ替わる! ダイナファントムローエングリンをとらえてここで先頭! ダイナファントム先頭! しかしすぐ後ろにはカワカミプリンセス! 更に外にはメイショウサムソン、その後ろにはアドマイヤムーン! 内からはウオッカも来ているぞ! しかしディープは、ディープインパクトはまだバ群の中! これは大丈夫かディープインパクト! 今直線を向く!』

 

 ダイナファントムはローエングリンをかわすついでに、バ場の三分どころから半ばの方まで進路を変えていた。道悪で荒れ模様になる内より、最終直線においては外の伸びる部分を進んだ方が得と見ていたからである。

 そしてそのまま、更にスパートを始める。直前ギリギリまで引き付けていた形の後続勢が、この距離からならばダイナファントムを捉えられると必死に追い始めるが、しかし寧ろじりじりと離されてゆく。

 いつものように離した逃げではない、凝縮されたバ群の構造によって皆似たような消耗具合であった先行集団は、もはやダイナファントムを捉えることができるほどの脚を、最後に残せていなかったのである。道中で入れていたはずの息も、ダイナファントムが突き放していく脚に追いつくには、追いすがることにすらも、役に立っていなかった。

 内に進路を取ったウオッカも、その荒れぐらいに脚を取られて思うように速度を出せない。悪路故に容赦なく奪われていたスタミナもまた、彼女から最後の脚を奪っていた。

 つまるところ、どこもかしこもバテバテであった。ダイナファントムも客観的に見てよい脚を使えているわけではなく、それでもなお後続を離していくその状況は、このレースが完全な耐久戦となり果てていたことを端的に表していた。

 

 

 

 しかし、それでもなお、一人だけ「例外」がいた。

 

 

 

『ダイナファントム先頭! ダイナファントム先頭! 後続を二バ身、三バ身引き離す! これは決まったか! これは決まったか残り二百! ――いや、しかしやってきた! 内からやってきた! バ群を縫ってやってきた! 抜けて抜けて()()()()()()()()()!』

 

 残り一ハロンの位置で、ダイナファントムはその存在を意識の中に捕捉した。

 葡萄茶と金、紺と鹿毛。小柄な影が、絡みついて沈むような仁川の芝を切り裂いて、するりするりとバ群を抜ける。

 目の前にあったはずの障害など柳に風とやりすごして、ディープインパクトはいつの間にか、ウオッカをかわして内の方から二番手に上がってきていた。

 

 ダイナファントムの心中が、歓喜に打ち震える。

 ――そうだとも。そうでなければ。きみは、そうでなくては。

 来ないとなど思ってはいなかった。存在感は希薄で、前との争いとペース配分に意識こそ向いていても、その存在を片時とも忘れることはなかった。

 しかし今実際にこの場の最終局面で、「来れないはずの場所」からやってきたように見えるその存在感を背中に受ければ、浮き立つ心は抑えられない。

 

 それでこそ、だからこそ、私はいまここにいる。走っている。

 そんなきみだからこそ、負けっぱなしではいられないのだ。

 

 止められない情動が、自ずと己の心象を世界に敷衍する。

 認識を塗り替える光の洪水が、二条()()()()()()()光芒が、撚り合わさって光の路を描き出した。

 それに呼応するように、後ろからも蒼い閃光が差し込んだ。散ってゆく羽根の幻覚が、すべての抵抗を置き去りにして翔び続ける「翼持つウマ娘」の存在を、強く心に懐かせた。

 

『ダイナファントム逃げる! ディープインパクト追う! やはり最後はこの二人! 今年も最後はこの二人! 一騎打ちになる! ダイナファントム後ろを離して、しかしディープインパクトじりじり詰める! 二バ身が一バ身半! 一バ身半が一バ身! どうだ! ディープインパクトとらえるか! とらえられるか!』

 

 互いが互いの心象を侵しながら、交ざり合った知覚の中で己の勝利を主張し続ける。

 泥濘が跳ね上がり、勝負服を汚して、その現実と幻視の狭間を掻き分けながらも、二人はひたすらに、無我夢中に進む。

 

 彼我の距離はじりじりと、確実に縮まって、しかしその中でダイナファントムは、そしてディープインパクトは、最後の最後、ゴール板の位置での互いの体勢を、その手前五完歩の位置において察した。

 その決め手がどこにあるかと問われれば、「どこにもない」ということになるのだろう。

 ただ今日この日、チリのように積み重なった選択と展開の一つ一つの結果として――

 

『しかし詰め切れない! 抜かせない! ダイナファントム粘り切る! ダイナファントム逃げきって――今ゴールイン!』

 

 「半バ身差」という着差が、ダイナファントムの勝利が、仁川のターフに描き出された。

 

 

 

 地獄のような消耗戦となった今年の宝塚記念は、内前総崩れとなったレース展開の中、ただ一人前受けを粘り通したダイナファントムが、魔術のようなバ群縫いで抜け出したディープインパクトの追撃を半バ身差凌ぎ切り優勝する、そういう結果となった。

 

 個々の実力ではよほどのことがないと抗えないトラックバイアスとレース展開を、ただ一人の地力でねじ伏せて勝利を掴んだ。

 凝縮されたバ群がもたらす後方勢にとっての回避困難な難題を、まるでそこに誰もいないかの如くの魔術的なコース取りによって無意味なものにしてみせた。

 

 そのどちらもが、凄まじいパフォーマンスである。この二人の「次元の違い」は、まさに今回のレースの中にこの上なく表現されていた。

 

 

 

 華々しい斬り合いではなかった。寧ろそれは間違いなく、泥臭い殴り合いのような戦いであった。

 しかし、いやだからこそ、その中に浮かび上がる「双子星」の煌めきが、見る者の全てを魅了した。

 

 今年も海外へと挑むダイナファントムとディープインパクトの二人が、未だ誰の目をも惹きつける強い輝きを誇っていることを、今年の宝塚記念は何よりも雄弁に語った。証明してみせた。

 そしてその強烈な印象を日本の普くファンに向けて叩きつけた二人は、月が替わって七月の半ば、日本を発った。

 

 

 

 行先はイギリス。欧州遠征第一戦目の舞台、インターナショナルステークスの開かれる地である。

 彼女たちの戦いは、またひとたび、海を越えようとしていた。

 

 

 


 

 レース結果:3回阪神4日・宝塚記念(GⅠ)(芝右2200・小雨・稍重)

 1着: ダイナファントム

 2着: ディープインパクト 1/2身

 3着: アドマイヤムーン 4身

 

 上がり3F: 35.7 (12.2-11.6-11.9)

 レースタイム: 2:11.4*3

*1
史実におけるシンガリ人気マイソールサウンドの枠番

*2
史実におけるブービー人気マキハタサイボーグの枠番。

*3
史実における本レースのタイムは2:12.4。

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