双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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「2005年8月16日 第34回インターナショナルステークス(ヨーク 芝10f88y): ゼンノロブロイ 2着」。


『勇者』の追憶――York; International Stakes (Group 1)(10T, AC, Good)

 ダイナファントムというウマ娘にとって、夏とは即ち遠征の季節である。いつの間にか、そんな認識になってしまっていた。

 ただ、それも宜なるかなであろう。何となれば現役の競走ウマ娘として過ごした三度の夏、その全てにおいて彼女は日本にいなかったのだ。

 

 一度はアメリカとイギリス。

 二度目はアイルランド。

 そして今回もまた、そうである。

 

 アイルランドをイギリスに含むのであれば――間違いなく波紋を呼ぶ認識ではあるだろうが――遠征の夏というよりはもはやイギリスの夏というべきものなのかもしれない。つまり今年も例年と同じく、ダイナファントムの姿はイギリスの地にあった。

 予てより目標としていた、夏秋の欧州遠征の第一弾、インターナショナルステークスへの出走を果たすためである。

 

 インターナショナルステークス。「International(国際)」と名前自体はついているものの、ドバイワールドカップデーのレースやジャパンカップのような国際招待競走()()()()。しかし現在の欧州のウマ娘レースにおいてはクラシックディスタンス(二千四百メートル戦)に替わって王道になりつつあるチャンピオンディスタンス(二千メートル)の主要路線の一つとして、近年注目が高まっているレースでもある。

 

 ただ日本のウマ娘としては、このレースにまつわるものとしてはそれよりもなお印象深い一つの出来事を記憶していた。せざるを得なかった。

 

 二年前、その前年に秋シニア三冠を達成してURA年度代表ウマ娘の座に輝いたゼンノロブロイが、欧州遠征としてアイリッシュチャンピオンステークスを射程に入れつつも挑んだ第一戦目が、このインターナショナルステークスというレースであった。

 奇しくもそのひと月弱ほど前、ダイナファントムがニューベリーに開催替えとなっていたキングジョージを勝利し、イギリスにおける日本ウマ娘の初GⅠ制覇を成し遂げていた。つまりゼンノロブロイはそこから立て続けにイギリスにおける主要なGⅠを日本のウマ娘が制覇するという偉業に挑もうとしていたと言える。

 

 その結末についても、よく知られていることだろう。

 クビ差、僅差の二着。それがゼンノロブロイの挑戦の結果であった。彼女の夢は、ほんの僅かの差によって叶わなかった。

 

 それでもその挑戦は、結果は、間違いなく偉業である。ダイナファントムはそう考えている。ただそれを、今や海外のGⅠ制覇という勲章を四つ、ヨーロッパのそれで三つ持っている自分が言うのは、きっと厭味に過ぎた。

 しかし――否、()()()()ダイナファントムは、そしてディープインパクトも、このイギリスのレースに対して一つの強固な意思を持って当たろうとしていた。

 

 「必ず、この『落とし物』を拾ってみせる。日本へと持ち帰ってみせる」、と。公言こそしなくとも、それは絶対の誓いに等しかった。

 

 

 

 そういうわけでこの年の海外遠征へと至ったダイナファントムであったが、今回はその遠征のスケジュールとして、常に一人のウマ娘と行動を共にすることになっていた。言わずもがなのディープインパクトである。

 かのウマ娘は去年の遠征で、トレーニング場としてアサインされていたシャンティイにはレース本番の三週間ほど前に到着していた。これでも海外遠征におけるウマ娘の乗り入れの時期としてはやや早い方ではあるのだが、それでも彼女たちの陣営は、かの時の現地における調整の中に一つの後悔を残していた。

 つまりレース二週間前に、ディープインパクトが風邪をひいてしまったことである。

 

 「あれがなければ、ダイナファントムには勝っていたかもしれない」――とまでは彼女たちも思ってはいない。あの時のダイナファントムは至高の域にあって、迫れば迫るだけ伸びていく超絶的なパフォーマンスを見せていた。

 

 「あの日のダイナファントムには、誰も勝てない」。

 「あの日は、ダイナファントムの日だった」。

 数多のレースの果てに「最大の理解者」の境地に至っていたディープインパクトは、そして奈瀬トレーナーは、そう結論付けていた。

 

 しかしだからとて、万全の準備を整えられなかった悔いというものは、どうしても残るものだ。ならばそれと同じ轍は二度と踏まぬと相応の準備を試みるのは、ウマ娘レースに臨むものとして当然の心がけであった。

 つまるところディープインパクトは、前回よりも更に前倒しの形で現地に入ることを志向した。かの地の環境にどれほどスムーズに身体を馴らすことができるかが、滞在期間全てを通しての、そして当然に本番でのコンディションを左右する何より大きなファクターだ、と考えたのである。

 それは芝がどうこうという話ではない。文字通り環境の全てに対してである。気温や湿度、住環境や食に至るまで、全てに彼女たちは気を配ろうとした。それ故の前入りであり、そしてその心がけはダイナファントムとしても大いに参考にすべきところであった。

 

 幸いにしてこの二人は、持っている賞金額には途轍もない余裕があった。獲得賞金は二人して二桁億円を優に超過し、その一パーセントとなっている手持ちの支給金総額も合計で一千万を大きく上回る。URAの海外遠征奨励制度によって支給される遠征費用に更に上乗せする形で滞在を長期のものとすることに、さしたる問題はなかった。

 果たして二人は七月半ば、八月下旬開催のインターナショナルステークスの一か月前にイギリスはニューマーケットのトレーニングフィールドに入った。例によって例の如く、BHB――改めB()H()A()*1の好意によって設備貸し出しの許諾を得てのものであった。

 

 

 

 すっかり互いが互いの帯同という在り方が板についてきたダイナファントムとディープインパクトは、早速と言った形で現地の芝への慣らし運転を始めた。

 具体的には、その芝路面を使った併せ運動をひたすらに繰り返すことで、である。やはり実地訓練に勝るものはない。そういう理屈であった。

 

 その中においては目立つのは、やはりダイナファントムの現地芝に対する適応の早さであった。しかしそれは当然といえば当然であろう。何となればダイナファントムにとってはこれが都合三回目となるヨーロッパ遠征であり、もはや「勝手知ったる」と言ってしまってもよいほどにこの地の路面の感触を彼女は覚えていたからだ。一方のディープインパクトも持ち前のレースに対する才覚でそれに追随せんとはしていたものの、やはりこればかりはダイナファントムに一日の長があるのは致し方のないところであった。

 

 逆に言えば、ディープインパクトは自らの目論見の正しさをそれによって証明したことになる。つまりその一か月の長期滞在によって、前回の滞在の中で付け焼刃的に適応した洋芝での双方を、今一度組み立て直す機会を得ていた。

 無論それに対する協力をしていたのは、ダイナファントムである。彼女もまた度重なる洋芝の経験の中で自らの走法を点検してアップデートする機会としていて、その方策としてディープインパクトとの相互のフォームチェックや併せの機会を最大限有効活用していた。

 

 一方の奈瀬文乃と福井裕子の二人もまた、トレーニング論や遠征における知見について活発な意見交換を進めていた。

 ただそこにはどうしても、「福井裕香が経験豊富な奈瀬文乃に対して教えを乞う」局面が多く含まれていたことは否めない。

 裕香より長いキャリアの中で、数多くの勝ち星を上げ、そして得難い経験を積み重ねてきたのが奈瀬文乃という「伝説級のトレーナー」である。その彼女とこれほどまでに近い距離で、タッグを組むような形でトレーニングを進めていく機会など、そもそもそうは多くない。学べることはいくらでもあるし、そこで学べないトレーナーは「足りない」トレーナーである。専ら理論派を以て鳴る、真面目気質の裕香にとってそれは当たり前の感覚で、だから可能な限り奈瀬文乃の言うことに耳を傾け、そのノウハウを自らのものとしようと努力するのもまた当然の行いであった。

 

 のちに福井裕香は、この時の、つまりダイナファントムシニア二年目の夏季遠征で奈瀬文乃と共に時を過ごした経験についてこう述懐することになる。

 ――この時の経験があったからこそ、私は更に一歩前に進むことができた。真の意味での「一流」の仲間入りを果たすことができたのは、この時の経験があったからこそである、と。

 

 ただそれについては今の裕香も、そしてダイナファントムにとっても知り得ないことである。兎にも角にも今の彼女たちは、このイギリス滞在の先に控える目先の目標に対して、「帯同」で、「同志」でありながらも打倒せねばならない「難敵」であるディープインパクトと、そしてそのトレーナーと共に当たらんとしていた。それがこの時の彼女たちの、言ってみれば全てであった。

 

 

 

 そして時間は、誰の上にも平等に流れていく。

 ニューマーケットで過ごすひと月を、トレーニングの期間を経て、彼女たちはいよいよ実戦の時に至らんとしていた。

 向かうのはイングランド北部、ロンドンから三百キロメートルほど北へ向かった場所、ノースヨークシャー州ヨークに座する、ヨークレース場だ。つまりインターナショナルステークスの開催地である。

 

 ロンドンから北東方向に八十キロほどの場所に位置するニューマーケットからならば、直線距離にして凡そ二百キロメートル、車で行くならば二百五十キロメートルといったところである。ざっと東京から浜松ほどの距離であろうか。これもまたBHAの手配による車で、ダイナファントムとディープインパクト、そしてそれぞれのトレーナーの四人は現地へと入ることになった。

 

 A1道路を二百キロメートルほど、ひたすら北へと進み、そこで交差するA64道路に乗る形で東へと進路を変える。そうすればそこからは十五分ほどで、目的地となるヨークレース場が彼女たちの前に姿を現した。

 

 

 

 ダイナファントムにせよディープインパクトにせよ、これから向かう先、戦う場所であるレース場がどのような場所であるかということに関して、知識は身につけていた。そうでなければレースプランなど立てようがないからである。

 

 ヨークレース場は、よくイギリスのウマ娘たちの、あるいはウマ娘レースのファンたちの間で、このように評されている。

 曰く、最も公平なレースが開催可能なレース場であると。

 

 ヨーロッパにおけるウマ娘レースの、とりわけ近代ウマ娘レースの起源は、イギリスにおける貴族の遊興にある。その時から既に常設のレース施設としての「レース場(racecourse)」を整備する発想はあったわけであるが、しかし「近代」と言いつつもその起こりそのものは今から五百年余り前、十六世紀前半のことであった。

 つまり「人工的なレース環境の造成」という発想は基本的には存在せず、そう言うわけでイギリスのレース場というのはほかの国のそれに加えてあまりに突飛な形をしたものが多い。アップダウンも激しいし、起伏の位置がコースの中で一線になっていないことすらも多々ある。「それがイギリスのウマ娘レースだ」と言ってしまえばそれまでではあるが、しかし近代ウマ娘レースの祖地を自認するイギリスのファンたちの間でも、その「不公平性」や、あるいは「危険性」というのはたびたび指摘され続けてきていた。改めるべき悪習であるとすら公言するものがいるほどである。

 

 しかしそんな中で、このヨークレース場はそんなイギリスの他のレース場からは明確に一線を画していた。レースコースは平坦で、オーバル型ではないものの周回コースを持ち、最後の直線は五ハロンもある。そして高低差もほとんどない。

 凡そイギリスのレース場としては異例もいいところである。人工的に造成された環境ではない――とは言えども周回コースへの改修のために人の手は入っているが――あたり、このレース場の立地も、そして構造も、まさに天の配剤とすべきところだと言えた。

 そういう意味で、このヨークレース場は「レース場の理想」であると、イギリスのウマ娘レースのファンたちから称されている。そこには国内における他場に対する当てつけの意味も多少は含まれているようであるが、それは愛敬としたものであろう。

 

 

 

 兎も角そういう事前知識を背景として、ダイナファントムとディープインパクトはヨークレース場へと入る。そしてその意識を持った状態で眺めてみれば、なるほど確かにこのレース場は美しいと、そう感じさせられるものはあった。

 スタンドからコースの中へと立ち入って見渡せば、その全景はどこを取っても平坦で、無限の先まで同じ芝の路地が続いているようにすら錯覚してしまう。

 理想的な、最良のレース場だという評価に、確かに偽りはないのであろう。最低でもダイナファントムはこのレース場に、そういう印象を懐いた。

 

 

 

 それがインターナショナルステークス開催の三日ほど前のことであった。その後今一度、今度はヨークの芝の様子を確かめがてら現地コースでの軽いキャンター調整を二人しておこなって、そうすれば残りはもはや、本番を待つのみとなる。

 しかしその頃合いに、ダイナファントムは思いもよらぬ出会いを――否、()()を果たした。

 

 基本的にイギリスの著名な、格式あるGⅠレースは、その前後数日にレースの開催が集中的に行われ、一つの祝祭のような趣となる。

 インターナショナルステークスとて、それは例外ではない。このレースは八月下旬ごろのヨークレース場におけるGⅠレースの集中開催であるイボア・フェスティバル(Ebor Festival)の中に組み入れられていた。イボア・フェスティバルにおけるその他の有名なレースといえば、ティアラ限定競走たるヨークシャーオークスが挙げられるであろう。

 

 兎も角イギリス・アイルランドエリアにおいて既に三度目、フランスの凱旋門賞を入れてヨーロッパでは四度目となるレースの参加経験において、ダイナファントムは「欧州レースの前日には前夜祭がある」という認識を強固なものとしていた。

 そういうわけで参加したイボア・フェスティバルの晩餐会のなか、ダイナファントムは不意に声をかけられた。

 

"ミス"

 

 名前を呼ばれたわけではないが、それが己に向けられた言葉であることは、視界の端に捉えた「何者か」の意思の籠った視線からもよく分かった。

 ディープインパクトと談笑していたところを、振り向く。その視線の先にいたのは、確かに見覚えのある鹿毛のウマ娘であった。

 上背が高く、目鼻立ちがはっきりしている、欧州らしいウマ娘だ。一瞬ばかり記憶を浚ったダイナファントムが、しかしその直後に気づく。

 怪訝そうにこちらを見やるディープインパクトを尻目に、彼女は会釈がてらに言葉を返した。

 

"ああ……お久しぶりです、()()()()()()()()()()"

 

 つまりそのウマ娘は、昨年のほぼ同じころ、凱旋門賞の前哨戦として挑んだアイリッシュチャンピオンステークスにおいて戦い、そして二着に破ったウマ娘、ディラントーマスに相違なかった。

 

 

 

"そういえば、おめでとうございます。今年のキングジョージ"

"ああ……それはありがとう。あなたほどのウマ娘から祝われると、面映ゆいな"

 

 本当に久方ぶりの遭遇である。取り敢えずということで、ダイナファントムは目の前のウマ娘、ディラントーマスにまつわる直近のニュースについて彼女自身にぶつけた。

 つまり彼女はシニア一年目となったこの年、例年通りのアスコット開催となっているキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス*2を勝利していた。去年アイリッシュチャンピオンステークスのあとにアメリカに渡った彼女はダート一戦目となるジョッキークラブゴールドカップ*3で四着に敗れており、その辺りのごたつきを乗り越えてのシニア級での躍進は、かのウマ娘の芝レースにおける資質の高さを十二分に証明していた。

 

"しかしミス、あなたの方こそ。――去年のL'Arc、私も見ていたんだ"

 

 そこでディラントーマスが、ふと視線を横へずらす。その先にいたのは、当然にしてディープインパクトであった。

 

"日本のウマ娘は、我々を凌ぐほどにまでなったか、と思ったよ。名誉あるL'Arcで、よもや日本のウマ娘が一着二着に入って、三着以下を引き離すなど。……失礼なことかもしれないが、正直言って想像もしていなかった"

 

 そこまで言われて、自らもまた話題の端に上げられたことを悟ったディープインパクトがディラントーマスの方を向く。そしてそのまま、小さく会釈だけをした。

 ディラントーマスが、その口の端に笑みを浮かべる。

 

"今年は私も、L'Arcに出るつもりでね。何もなければこのレースのあと、アイリッシュチャンピオンステークスにもう一度出て、それからになるだろう"

 

 ともかく、と言葉を切って、またダイナファントムへと目が向けられる。いつの間にかその顔つきは、またどこまでも真剣なものへと戻っていた。

 静かな闘志を、そこにダイナファントムは感じた。

 

"もはや我々は、挑戦者だ。L'Arcだけではない、このレースにおいてもだ。そこには敬意がなければならない。私はそう思っている"

 

 居住まいを正し、そして右手が伸びてくる。

 

"改めて――明日はよろしく。全身全霊をもって、私は「チャンピオン」に挑ませてもらう"

 

 その気迫に影響されたかのように、ダイナファントムもまた背筋を伸ばした。伸ばされた手をしっかりと握って、向けられた目を真っ直ぐに見た。

 

"光栄です、ミス・ディラントーマス。私もまたこの地のウマ娘全てに敬意を持って、前身全霊にてレースに当たらせてもらう所存です"

 

 固く結ばれた手と、合わさった視線の先で、それは確かな誓いとなった。

 その後ディラントーマスはディープインパクトとも握手を、そして言葉を交わして、彼女たちのテーブルから去っていった。

 

 

 

 兎も角もそう言うことがあって、ダイナファントムは今へと至る。時刻は午後三時も半ばに達しようかというところで、すでにすべてのウマ娘がバ場へと入場を果たして発バ機の前でその時を待っていた。ヨークレース場の向こう正面、二百メートルほど先に緩いカーブを迎えるその場所が、即ちインターナショナルステークスの発走位置である。

 

 今この場に揃うウマ娘は、九人を数える*4。二桁には届かないまでも、去年のレースに比べればまだ多いと言えるだろう。

 その中でダイナファントムは、もはや慣れ親しんだとすら思えるイギリスのレースの直前の空気を、ともすれば堪能していた。

 

 ダイナファントムは言うまでもなく、このレースを勝ちに来ている。二年前にゼンノロブロイが届かなかった落とし物を、他でもない自分が拾うつもりで、ここに立っていた。

 同時に今の彼女は、ディープインパクトと、そして世界の強豪たる、強豪と()()()ディラントーマスとこの場で勝負を競うことを、まぎれもなく楽しみにしていた。

 それを「楽しみである」と純粋に思えるようになったことこそが、今年におけるダイナファントムのマインドセットの最も大きな変容であるとも言えた。

 

 三時半、発バ機の前にかけられていたバリヤーが下げられ、開け放たれたゲートに思い思いにおさまる。ダイナファントムは三番、ディープインパクトは五番、そしてディラントーマスは七番である。奇しくも一つ飛ばしの形で彼女たち三人はゲートへと納まり、ファンファーレもない無音の空間の中で始まりの時を待つ。

 

 少人数の枠入りが速く済むのはいつものことで、果たしてそれから十秒と経たず、ゲートは開かれた。

 ダイナファントムが我先にとゲートを飛び出してハナを主張することもまた、いつものことであった。

 

 

 

 九人という少人数に対して、このヨークのターフはどこまでも広々としている。内側にダートのコースがないことも、その趣を際立たせているようにダイナファントムには感じられた。

 三番、()()()()()()()()()()*5から飛び出たダイナファントムは、二百メートル先に位置する緩いカーブの入り口にそのまま流れ込むようなコース取りで内に寄せながら、一気に先頭を主張した。

 ヨークはどこまでも平坦なコースで、アスコットのようにその始点から一気に下り坂が始まるような極端な構造はしていないし、逆にスタート早々登山が始まるエプソムダウンズのような形態でもない。そういうわけでその滑り出しはミドルそのものであり、ダイナファントムがハナを主張するのに際して極端に競りかけられるということはなかった。

 

 そこには、欧州のウマ娘たちのダイナファントムに対する戦術の変遷もまた作用していた。

 例えば、去年のアイリッシュチャンピオンステークス。あの時はマクブライアン師の陣営がダイナファントムにラビットを以て競り合いを仕掛けたが、彼女はこれ幸いとハイペース先行で前受けされつつ、結果後続が届かないリードを作られて逃げきられてしまった。

 例えば、一昨年のキングジョージ。ダイナファントムのマイペース逃げを後ろでじっくり溜めて最後の攻防でとらえようとしても、それを察知されて適度に脚を溜めつつ、後続が上がってきたタイミングを見計らって一気の脚で突き放されてしまった。

 

 つまりダイナファントムと対するにあって、ハイペース戦もスローペース戦も基本的には分が悪い。いずれにせよ()()()()()()()()()()()のがダイナファントムである。

 故に欧州の、イギリスの、アイルランドのウマ娘たちは一計を案じた。

 

 最初の一ハロン、ダイナファントムが先頭を取り切って内に切れ込み、後続とのリードを作ったまま自らのペースでの逃げに持ち込もうとしたそのタイミングで、後ろに控えていたウマ娘たちが一気に加速した。

 

 ダイナファントムと後続のバ群の距離がみるみる詰まる。マクブライアン師の陣営のウマ娘、ソングオブハイアワサが二番手に、そしてデュークオブマーマレードがその斜め後ろ半バ身の位置につけて、後ろからダイナファントムのことを突きにかかった。一方のディラントーマスと、そしてこの年の英ダービーウマ娘オーソライズドは三バ身ほど離れた後方に位置取り、ディープインパクトはその二つの集団のほぼ真ん中、中段に位置することとなった。

 

 ソングオブハイアワサとデュークオブマーマレードは、ともにマクブライアン師の陣営においてペースメーカー役を演じているウマ娘である。そして彼女たちは去年同じようにラビット役としてダイナファントムに絡みに行ったエースと同じ轍は踏むまいとしていた。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ダイナファントムが少しでもペースを抑えようとすればすかさずその両脇から後ろをがっちり固めて後退を許さないようにしつつ、しかし常にダイナファントムの後方に位置取りながら一定以上のペースで追走し、ゆるみのないハイよりのミドルペースを常に維持することでダイナファントムに対して息を入れる暇を与えないことを目指していた。

 ある意味でそれは、去年ダイナファントムがエースを相手にして敢行した「プレッシャー戦術」の焼き直しである。その立場を逆にすることで、ダイナファントムに対してオーバーペースでの巡航を強いようとしていた。その戦術を取った瞬間に前の二人のウマ娘の自滅は自動的に決まっていて、それでもなお、二人掛かりでダイナファントムのことを討ち取ろうと考えていたのである。

 

 ダイナファントムのほうも、前半の二ハロンを進んでから後ろにぴったりとつける二人のウマ娘の存在については認識していた。そして同時に、彼女たちが何を目的として斯くなる行動に出ているのかも、概ね察していた。

 卑怯というなかれ、小賢しいというなかれ。それはこの国のレースの在り方として当然のことである。目指す勝利はチームのもので、レース規則に定める妨害行為さえ行わなければ、そのルールの範囲内で勝利を目指すのは、寧ろあるべき姿に相違ないのだ。

 

 故にこそ、ダイナファントムは思わずその口の端に笑顔を浮かべていた。それほどまでに警戒され、それほどまでに対策を練られたことがである。

 極東の小さな島国の、本来なら勝ちの望めない戦術を執るウマ娘に、専門の人員と専門の戦術を以て当たるべき価値があるのだと、この国の最も才あるトレーナーが認めたのだ。それはどれほどの栄誉であろうか。

 なんとも心の踊る話ではないか。ダイナファントムは自問する。そして同時に、その()()のことでどうにかなる逃げなど打っていないと、反骨心にも近い情動が湧き出ていた。

 

 ――ならば、やってやろうではないか。いつかこの日の距離と同じ、二千メートル戦でやってみせたように。

 

 それは無鉄砲な試みなどではない、確固たる自信に裏打ちされた決断であった。

 本来なら次走、()()()()()()()()()()()()()の走りではあったが、距離の短いこのレースの方が、あるいは向いているかもしれない。

 ダイナファントムはそんな考えのもと、そこで今一度、大きく足を踏み出した。

 

 

 

 その影響はすぐに見えた。後ろをずっとつかず離れつついてきた二人のペースメーカー、ソングオブハイアワサとデュークオブマーマレードとの距離が、じわじわ離れていく。三ハロン目から続く大きなコーナーの中、例年の逃げウマ娘であっても十二秒前半で回っていくヨークのコースを、ダイナファントムは十一秒六か七のペースで進み始めたのである。

 ――掛かったか。後ろのウマ娘は考える。しかしその瞬間に、その考えは彼女たちの頭の中で打ち消された。

 そんなわけはない。追走者が二人ぴったりとつけた程度であっさり掛かるようであれば、そもそもあのウマ娘は欧州のGⅠを三勝もしていない。

 

 ならばこれは恐らく、挑戦状なのだ。「そちらがこちらのペースの決定権を奪おうというのであれば、その企みを真正面から打ち砕いてやるから、かかってくるがいい」。つまりそれはそういう主張であった。

 ならば、それには乗らなければならない。結果的にペースメーカー役の二人も同じように追走のペースを上げざるを得ず、当然に「それを差し切れる位置でレースをする」ことになっている後方勢、つまるところディラントーマスもまた、それ相応のペースアップを余儀なくされた。当然にそれをマークするように進むオーソライズドも同じくギアを入れてコーナーを駆けてゆき、結果としてこのレースはその全体が、完全に耐久戦の様相を呈し始めていた。

 

 そして最後の一人、もう一人の日本勢たるディープインパクトもまた、その煽りをもろに食らっていた。

 日本のウマ娘レースにおける前半の追走ペースは、概して欧州のそれより速い。よって普段からそれに慣れているディープインパクトにとっては、今のペースであっても後方からついていく分には何の問題もない。しかし一方で、これほどのペースでダイナファントムに進まれては、流石にコーナー途中からの一捲りも、そして長大なヨークの最後の直線を使ったロングスパートも、やや難しいのは確かであった。つまりシニア級に入ってからのディープインパクトの十八番が、武器が、実質的に封じられる格好になっていたのである。

 

 ただ、ディープインパクトの方にも一つの確信が存在していた。つまりそれはダイナファントムが作り出すペースが後半戦に及ぼす影響についてである。

 つまりダイナファントムは、競りかけられてからの中三ハロンでアクセルを踏んだ。二千メートルあまり――正確には十ハロン八十五ヤード、凡そ二千百メートルである――の端数を引いて前半千メートルを出せば、未だコーナーから終盤の直線までは至っていないまでも、恐らくは六十秒を切ってくる。

 これは欧州のレースにおいては驚異的な数字だ。つまりこのペースをそのまま維持しようとすると、最後のゴール前の攻防で必ず失速する。欧州の芝路面で、すべてのハロンラップタイムで十二秒を切るようなタイムなど計時できようはずがないのだ。

 

 ならば、最後の直線におけるペースダウンがどこでやって来るかを読めば、そのタイミングで位置を上げての仕掛けが利く。そしてディープインパクトはその瞬間を、()()()()()()()()()()()であろうと断定した。

 これは長年のダイナファントムとの勝負の中で磨かれた、直感にも近かった。ダイナファントムは最後の攻防において、失速することを極度に嫌う。逃げのウマ娘でありながら、最後の一伸びができるように脚を残しておきたいという欲張りなところがあるのだ。それはあるいは現役生活の中で常に後方脚質のウマ娘たるディープインパクトの存在を意識し続けてきたことによるものなのかもしれず、ただいずれにせよそういう()()があるのが、ダイナファントムのレース運びであった。

 

 故にダイナファントムはここから、コーナーを曲がり切って直線入りしたその時に、()()()()。今追走しつつもじりじりと離され続け、五バ身ほどリードを許している二番手三番手のウマ娘たちも、恐らくは並びかけるところまでは行くはずである。

 そう考えれば、ディープインパクトがすべきことは結局変わらない。少し前まで「不可能」と思われていた「必殺の五ハロンスパート」は、結局ここでも利くのだ。

 ならばやることは一つしかなく、今他のウマ娘たちに倣うように焦って位置を上げる必要は、恐らくはない。

 

 そう結論付けたディープインパクトは、一人ペースを墨守する。後ろから位置を上げてきた他の二人、ディラントーマスとオーソライズドにその順位を明け渡して、コーナー出口の辺りで彼女はとうとう最後方へと下がることになった。

 

 そしてそれとほぼ時を同じくして、ダイナファントムが後ろを六バ身離した状態でコーナを曲がり切る。

 終盤戦と呼ぶには些か以上に速すぎる、それでも最後の直線が、やってきた。

 

 

 

 ヨークレース場の最後の直線は、九百メートルほどある。つまりインターナショナルステークスのの後半戦は、ずっと直線の中での攻防となるということだ。

 誰より速く直線入りしたダイナファントムは、やはりというかそこでペースを落とした。まさしくディープインパクトの読み通りである。

 しかしそれでもそのペースは、ハロンラップにして十二秒をやや上回るかどうかだ。決して遅くはない。後続が必死の追走をせねばならないことに変わりはなく、直線入りして二ハロン、残り五百メートルほどのところにたどり着くまでに、後続二番手に躍り出たデュークオブマーマレードがその後ろ一バ身ほどの場所にまで追いすがってきたのが精々であった。

 

『ヨークレース場、レースの半分あまりを占める最後の直線です。先頭未だダイナファントム、後続から五バ身六バ身、いつものように逃げています。しかし後続も直線のなか、差を詰めようと仕掛け始めたか。バ群が少しずつ圧縮されてきました』

 

 ただ、その後ろは猛然と仕掛けている。中段でウマ娘たちの攻防からはやや放置気味となっていたノットナウケイトがまず早めの仕掛けを始めて、置いていかれ始めているソングオブハイアワサに外から並びかけた。

 

『後ろからディラントーマスとオーソライズド、バ体を併せて上がってくる。残り四ハロンの標識を通過して、ぐーっと差を詰めて今アジアチックボーイをかわして更に前へ前へと押し上げていく! 先頭ダイナファントムかなり差が詰まってきたぞ大丈夫か!』

 

 それには後ろも黙っていない。明らかに前方が緩んだその機を逃すまいと猛然とチャージを始めたディラントーマスとオーソライズドの二人も、ノットナウケイトとソングオブハイアワサの一段後ろ、アジアチックボーイをかわして四番手の一線から六バ身先を走るダイナファントムの姿を射程にとらえた。

 

 

 

『そしてここで大外だ! 大外から鹿毛が飛んでくる! ディープインパクト上がった! 仕掛けたかディープインパクト! 最後方まで下げていたところからすーっと上がっていって今中団! 先に仕掛けたディラントーマスに、オーソライズドに外から並びかけていった!』

 

 そしてさらにその外から、ディープインパクトが一気のロングスパートを敢行した。

 まさに満を持して溜めた脚を爆発させたその小柄な鹿毛が、一条の矢の如くに大外、バ場の真ん中から一気に内を飲み込んだ。一人完全に違う脚でアジアチックボーイを、オーソライズドを、そしてディラントーマスをかわしていく。

 そのまま余勢を駆って、今まさに二番手集団に取りつかんとしていた。

 

 それが、ゴールから五百メートル地点のことである。ディープインパクトからダイナファントムからの距離は、いつしかもはやたった三バ身ほどまでに詰まっていた。

 今までの経験でいえば、それほどの距離が残っているところでここまで詰めていれば、概ね差しきれるとしたところであった。

 

 ただ、これで終わるなどとはディープインパクトとて思っていない。ダイナファントムも、当然に先頭の座をくれてやるつもりなど毛頭なかった。

 

 つまり残り五百メートルのその地点で、ダイナファントムはとうとう()()()()

 

『さあそして残り五百メートル! 後続押し寄せてダイナファントムに迫る迫る! 迫るがしかしここからがダイナファントムの本領か! ダイナファントム二の脚をつけたか! また二番手デュークオブマーマレードと差が開く! 二バ身! 三バ身! 突き放す!』

 

 予定より百メートルほど余分に引きつけられた分、残っている脚もまた充分であった。まさに一気と言っていいほどの加速で一瞬のうちにトップスピードに達したダイナファントムが、必死の追走と言った風情の二番手を、デュークオブマーマレードとノットナウケイトを一気に置き去りにする。

 

 後ろのウマ娘たちの纏う空気が、一気にざわついた。

 何となれば、つまるところ()()()()のだ。()()()()()()()のだ。言うまでもなく、ダイナファントムの脚がである。

 確かに最後の一勝負のために二の脚を温存していることは誰もが承知していて、その脚を測りながらも差しきれるポジション取りを後続勢は各々意識しつつ、己の脚とも相談しながらの仕掛けて前へと迫らんとしていた。差せるか差せないかはギリギリと誰もが考えていたが、それでも勝負には持ち込めると、そう半ば確信していた。ディープインパクトも含めてである。

 

 しかし、結果としてそれは甘かった。二番手集団として追走するデュークオブマーマレードとソングオブハイアワサのスタミナの残り方と仕掛けを無意識に判断材料に入れていた後方勢は、それによってダイナファントムに対して、百メートルもの余計な脚の温存期間を与えてしまっていたのだ。

 百メートルの猶予というのは、実質的には二百メートル分の仕掛け位置の差を生む。百メートル助走区間を増やし、同時に百メートル全力疾走すべき距離を短くするからである。

 その結果が、今表れていた。

 

『逃げる逃げるダイナファントム! 残り三百メートルを通過して、差はなかなか縮まってこないぞ!? 後続から飛び出してディラントーマスとオーソライズド、そしてディープインパクト追っている! ディープインパクト追っている! あと二百! 横一線からわずかにディープインパクト外で抜け出して、今単独で二番手に上がる! しかしそこから()()()()()! 二バ身か、二バ身半か!』

 

 尤も、ならば仕掛けを今より速くして、読み違えを糾していれば、今ダイナファントムとの差がこれほどまでに開いていなかったかといえば、それも恐らくは違っていた。

 後方勢にとって、そもそもがギリギリのペース配分であったのだ。これ以上仕掛けを早めれば、却ってスタミナ切れから取り返しがつかない差をつけられていたことだろう。

 ディープインパクトばかりはもう少し仕掛けどころを速くする余地があったのだろうが、それでも二バ身半が一バ身半になったかどうかとしたところで、いつもの()()()()にダイナファントムを巻きこめるところに違いはあれど、逆に言えばそれだけであった。

 

 

 

『これは圧巻! 圧倒的な走りだ! 後ろの誰にも、私の影をも踏ませはしない! 完勝、圧勝、今ゴールイン!』

 

 つまりこの日、このインターナショナルステークスは、最初から最後までダイナファントムの独擅場であり、横綱相撲そのものであった。

 まさに今ようやくにして、ダイナファントムは能力の絶頂を窮めたということなのか。スタンドから、あるいはテレビの前で彼女の走りを見た人々の胸中には、そんな感慨すら去来していた。

 

 それは、ともにレースを走ったウマ娘たちからも、同じように見えていたのだろう。余力で駆け抜け、一コーナーの辺りで立ち止まった九人のウマ娘のなかから、二人がダイナファントムの方へと近づく。

 

 一人はディープインパクトだ。そしてもう一人もまた、ダイナファントムからすれば予期できた相手だった。

 

 

 

"……恐れ入った。少しは近づけたと思っていたんだが……"

 

 凛とした低めの声だ。つまり、ディラントーマスである。

 

"いやはや、恐ろしい国だな、日本は。またもあなたたち二人に我々は負かされてしまった"

 

 完敗を認めるが如くの台詞でありつつも、表情はどこか晴れやかに見える。しかし一方で、その声の響きの中には、少なくない悔しさもまた滲んでいるように、ダイナファントムには聞こえた。

 あまりに明け透けな賛辞だ。それを正面から受け止めることはダイナファントムにはどうにも憚られて、しかし今それに謙遜を重ねるのもまた、正しい在り方には思えなかった。

 勝者は勝者らしくあるべきなのだ。彼女は微笑んで、胸に手を当ててみせた。

 

"……当然でしょう。我々は勝つつもりでここに来ているんです、日本から。それに……"

 

 そこで彼女は、ディラントーマスの横、ディープインパクトの方にちらりと目線をやる。

 

"ずっと私は、()()()とやり合って来たんです。二人で一緒に、ここまで来たんです。今までだって、()()()()()()()"

 

 ディープインパクトが、目を瞬かせる。たった今負かされた相手が、ダイナファントムが向ける目線に宿る光の意味を、彼女は読み取ろうとしていた。

 

 

 

 つまり今、ダイナファントムは無言のうちにディープインパクトに伝えんとしていた。

 

 彼女は今回のレースで、「領域」に潜ることはなかった。

 そして同時に、彼女に対する誰一人として、「領域」に潜ることを許さなかった。

 

 言い換えるならば、ダイナファントムは自らの他には誰一人として、勝ち筋など与えなかったのだ。

 付け入る隙などどこにもない。ディープインパクトに対してさえも、文字通り何もさせない。ダイナファントムがこのレースで見せたのは、畢竟そういう走りであった。

 

 それは去年の暮れの、挫折の二走の先にある境地だ。あの日ぶつけられた問いへの答えを胸に抱いて、だからこそ今ダイナファントムは、その心身が共に整った状態にある。それでこその力で、だからこその強さだった。そこにダイナファントムは、確かな手ごたえを感じていたのだ。

 

 そしてそうなのであれば、自らの片割れも、ライバルも、そうでなければならない。

 即ち次走の凱旋門賞、ディープインパクトが勝ちを欲するというのならば、彼女もまたそこに至る必要があるのだ。ダイナファントムは、それを知らしめんとしていた。

 

 

 

 かつて日本ダービーでダイナファントムがディープインパクトから見せつけられた現実と、それはどこか鏡写しのようであった。

 最後の、今ひとたびの「極点」へと至る旅路のなかで、共に並び立たんとするためのピースを、今ダイナファントムはディープインパクトに求めていたのだ。

 

 それができるのが、ディープインパクトというウマ娘であるはずだろう、とも。

 それができるのは、ディープインパクトというウマ娘を措いて、ほかにあるはずもないだろう、とも。

 

 なんとなれば、二人で切り拓く、二人だけの到達点は、互いが互いに妥協を許さない究極の向こう側にしか、存在しえないのだから。

 

 

 

 その全てを無言のうちに察して、ディープインパクトが頷く。

 

 彼女とて今日のような完敗を喫して、そのまま次のレースを迎えて構わないと思えるほど鈍感なウマ娘ではなかった。

 しかしそれも当然だろう。元から負けず嫌いの気が強い彼女であって、しかもそれ以上に、次に控える凱旋門賞は、ディープインパクトにとってそれそのものが「目的」なのだから。

 「レース」に「レース」以上の価値を置かない彼女が、それでも望んだ「名誉」という事実は、それほどまでに重いのである。

 

 

 

 そして――「次」に対して並々ならぬ思いを抱えているのは、この二人だけではなかった。

 

"これから……L'Arcも、やはり出てくるのか"

 

 視界の外から、声が聞こえた。ディープインパクトの方へと顔を向けたままだったダイナファントムが、そちらの方へと視線を戻す。

 その声の主、ディラントーマスは、そうひとりごちたままに目を閉じていた。

 静寂の内に二度三度、呼吸を重ねた彼女の口の端に、次第に笑みが浮かんでいく。

 

 そしてたっぷり十秒ほどの沈黙を破ってそう口にしたディラントーマスが、目を開いた。

 

"……それは、楽しみだ"

 

 見えた双眸の中浮かんでいたのは、獰猛なまでの闘志を宿した、そんな色の光であった。

 

 彼女の中にもまた、覚悟がある。現役のシニアウマ娘の中で、「欧州最強」となった自負を持つディラントーマスもまた、「次」――またダイナファントムと、ディープインパクトと(まみ)える凱旋門賞において、負けられない理由というものを、確かに持っていたのだ。

 

 

 

 そんな三者三様の思惑を、矜持を抱えて、彼女たちは別れの握手を交わす。そしてヨークのターフを後にした。

 インターナショナルステークスが終わり、そしてそれは同時に次走の、凱旋門賞への準備期間の、始まりでもあった。

 

 

 

 再びの激突は、決戦の時は、そう遠くない。

 


 

 Race result: York; International Stakes (Group 1)(10T, AC, Good)

 1st: Dyna Phantom

 2nd: Deep Impact 2 1/2.L

 3rd: Dylan Thomas 3.L *6

 4th: Authorized neck *7

 

 Last 3F: Unmeasured

 Total Time: 2:05.92R*8

*1
2007年7月、英国競馬公社BHBは英国競馬統括機構BHAに事業を継承し、発展的解消された。

*2
この年からレース名より「ダイヤモンド」が取れ、今一般によく知られる「キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス」となった。

*3
ウマ娘の世界における「ジョッキー」とは何ぞやと言う話であるが、英単語「jockey」の原義は「馬の世話役」「馬商」「馬の愛好家」である。つまりウマ娘時空においては「ウマ娘レース愛好家」、という解釈で行けば問題はない。AJCCもあるし。

*4
史実においては7頭立て

*5
イギリスのレースはレース場によって枠番の振り方が外側からになることがある。ヨークはこのタイプ。

*6
史実ではオーソライズドの二着。

*7
史実では優勝。

*8
史実では2:11.82。ダイナファントムが出したタイムはシーザスターズが二年後に出すレコードタイム2:05.29よりは遅いが、モスターダフの出した歴代二位タイムとタイの記録となっている。

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