八月下旬のインターナショナルステークスから、遠征組の二戦目にして目標レースたる凱旋門賞までは、一か月半ほどの期間があった。今年の凱旋門賞は、暦の関係でその開催が十月の上旬ごろまでずれていたのである。
そういうわけで、ダイナファントムとディープインパクトは、一度日本に戻っていた。
直接イギリスからフランスへ渡航して次走への準備としても構わないところを、わざわざ戻ってきていたのには訳がある。
それは彼女たち二人が再び海外へ、フランスへと渡る丁度一日前、九月上旬の日曜日に行われるとあるレースを、見届けることにあった。
その名前を、「セントウルステークス」という。一般にスプリンターズステークスの前哨戦と位置づけられるGⅡ競走で、それだけならば彼女たちが取り立てて観戦する必要を感じることはなかったであろう。海外転戦からわざわざ一度日本に戻ってきてまですることでは、間違いなくなかった。
それでもそのレースを、阪神レース場の現地にまで出向いてそれを見届けようとしたのは、つまり一人のウマ娘が、その場に出てくるからであった。
つまりこの年のセントウルステークスは、去年の八月に心室細動で倒れ、それ以降出走停止措置と継続的検査によってターフの上に立つことを許されてこなかった
一年と少し前、同じように長期の休養明けのシーザリオが復帰戦の舞台としてぶっつけのGⅠを選んだことと比べれば、それは慎重な選択である。その次走を、いわゆる本番となるスプリンターズステークスに設定するかどうかすらも流動的で、とにかくラインクラフトの陣営は「無事に競走ウマ娘として復帰すること」を第一目標において、このレースへの出走を選んでいた。ただそれでもなお、半年に亘って強度の高い運動を何一つできずに過ごし、その後の半年もまた競走ウマ娘として必要な能力を取り戻すための一種の「リハビリ期間」を余儀なくされていたウマ娘の復帰戦の舞台としては、GⅡであってもチャレンジングな場となることには変わりがないのだ。
それでも、ラインクラフトはここに出てくることを望んだ。未だ自分は、「競走ウマ娘として生きているのだ」と、それをこの復帰戦の舞台で証明しようとしていたのである。
それを知って、その応援に出向かずいて、何が同期か。そういう強い思いが、今ダイナファントムを、そしてディープインパクトを、こうして阪神レース場へと出向かせていた。
そして二人と、更にラインクラフト復帰戦の報を聞きつけてやってきたシーザリオ――彼女は彼女で四月の末、香港のクイーンエリザベス二世カップを危なげなく勝利していた――が見守る中、ラインクラフトの復帰戦たるセントウルステークスの幕が切られた。
「電撃」とも称される六ハロン、つまり千二百メートル戦だ。始まりから終わりまで、一分十秒もかからない。展開の入れ替わりも、ウマ娘たちの駆け引きも、ともすれば瞬きすらも憚られるほどの烈しさと速さで進む。
「腕のあるトレーナーの言うことを忠実に聞くウマ娘」が最も強いのが長距離戦ならば、「ウマ娘自身の瞬時の判断」が勝負を分けるのが短距離戦だ。そこで最もシビアに要求されるのは、つまるところレースへの適応力、「レース勘」ともいうべきものである。
復帰戦、長らくレースから離れていたウマ娘にとって、それはどうしようもないほどの不利である。そのはずだった。
しかし今目の前で繰り広げられる攻防の中、内枠たる一枠二番からポンと飛び出たラインクラフトは、荒れた内バ場を避けるようにするっと一列、二列ほど外の方へと進路を取り、二枠四番サンアディユを外に押し出すようにして、最内からハナを切ろうとしたゴールデンキャストの左斜め後ろの位置につけた。
見事な進路取りである。すぐさまやってくる三コーナーからの下り坂で速度がつきやすく外差しの決まりやすいコースとは言え、ごちゃつきやすいスプリント戦の中段位置の陣取り合戦を復帰戦の中でこなすのは不安があったということなのだろう。流石に何も考えずに外々を回って大外から豪快に差しに行く大味のレースはやりづらいし、それで差し切れなければ油断のそしりは免れ得ない。
いや、そもそもにして次走以降にGⅠのようなハイレベルな舞台を見据えるならば、なおのことそんなレース運びは避けなければならないところであろう。ある程度そういった場での展開を見据えた戦い方を意識しておく必要があるのは間違いのないことで、それを含めて一瞬の判断のうちに有利な位置取りを取り切ったラインクラフトは、ブランクなど感じさせない機敏さを、その場所で発揮していた。
そのまま位置取りを決めきって二ハロンが経過して、第三コーナーに入ればますますペースは熾烈ものとなる。緩やかな下り坂が隊列全体にスピード感を生んで、二番手の一線を形成するラインクラフトとサンアディユの二人は、仕掛けどころの判断と好位の確保のために、互いを強烈に意識し合っている。事前の人気投票ではなんと十二番人気*1と完全に伏兵でありながら、今回のレースのカギを握るのはこのウマ娘を措いて他にはいないのだと、ラインクラフトはきっと心に定めているのだろうと思わされる。
そして恐らく、それは正しかった。番手で手ごたえよく、互いを意識しながらレースを進めている二人の後ろ、追走する四番手以降のウマ娘は、先頭三人が演出する十秒台半ばから後半のラップの連続に、すでに余裕があまりなくなっていた。最低でもダイナファントムからはそう見えた。
きっとレースとしては、短距離戦の中でも更なるハイペース、コースレコードすら見える決着もあり得そうな展開だ。マイルを主戦場とするラインクラフトにとってもともすれば厳しい流れとなりそうなところを、それでもサンアディユの内、ラインクラフトは涼しい顔で前受けして進めることができている。
あるいはそれこそが、検査期間明けから進めていた復帰に向けた調整過程における、ラインクラフトの「自己改造」の成果であるのかもしれない。そう、ダイナファントムは考えた。
せっかく自らのことを、自らの走りを文字通り一から組み立て直すことのできる機会がやってきたのだ。転んでもただでは起きない、更に強くなるために求められるものの何たるかを、今仁川の短距離戦を走る眼前のウマ娘はきっと、ずっと考えてきた。そして準備を進めてきたのだ。その先に、今があるのだ。
そして――その研鑽を証明する最後の瞬間は、あっという間にやってこようとしていた。
『さあ四コーナー抜けて最後の直線に向く! そして今ラインクラフト抜け出した! ラインクラフト、そしてその横サンアディユも譲らない! ラインクラフト、一年ぶり復帰戦で来るか! 伏兵サンアディユもぴったりついて、その横アイルラヴァゲインは伸びないか!』
第四コーナーから直線に出るその場所で、満を持してラインクラフトと、そしてサンアディユが仕掛けた。後ろの二人のハイペース追走にとうとう力尽きたゴールデンキャストを外からかわし、二人が先頭へと躍り出る。
外からはアイルラヴァゲイン、そしてアルーリングボイスが追いすがろうとするも、手ごたえがまるで違う。あっという間に置き去りにされて、二番手集団からは二バ身、三バ身ほど開いた先頭で、ラインクラフトとサンアディユの熾烈な競り合いが、叩き合いが始まった。
『譲らないぞラインクラフト、サンアディユ! これは壮絶な叩き合いになった、後ろはもうこれは届かないか! 二バ身、三バ身、四バ身! しかし二人全く並んで、さあ残り二百!』
GⅡには不釣り合いとすら思える耳を聾する歓声が、スタンドから響く。その最前列、ダイナファントムは気づけば指を組んでいた。祈るようにターフを見て、もはや瞬きすらも忘れていた。
辺りを燃やし尽くすほどの、赫々たる決意を幻視した。
――「復帰戦だから」なんて、言い訳になどしない。できない。
わたしは桜花賞ウマ娘なんだ。ラインクラフトなんだ。その名前に、誇れる自分でありたいのだと。
ならば今この場所で、立ち止まってはいられない。絶対に、勝つのだと。
その覚悟に惹きこまれ、形すらも持つ意思の発露の中で、ダイナファントムは朧げながらに察した。
遠く離れたこの場所からは見ることは叶わずとも、恐らく今、最後の百メートルのその場所で、ラインクラフトは一つ「階梯」を登ったのだと。
つまり彼女は今、「
『ラインクラフト! サンアディユ! ラインクラフト! サンアディユ! しかしラインクラフトか! ラインクラフトか! ラインクラフトだ!』
極限の競り合いの中では、その差は決定的なものとなる。
お互いに全く譲らない横一線から、とうとうラインクラフトが、一歩を先んじた。
態勢が、はっきりとラインクラフトに傾く。残り六完歩、五十メートルの場所で、ラインクラフトは完全に頭一つ抜け出した。
そしてその差が克明に、目に見える形で表れた場所が、このレースの決勝線となった。
『抜けた! ラインクラフト抜けた! 粘るサンアディユを競り落として、ラインクラフト今ゴールイン!』
割れんばかりの祝福の声が、仁川の空を埋め尽くす。
余力で突き抜けた先、第一コーナーの手前、肩で大きく息をして、ラインクラフトが立ち止まる。
ターフビジョンに目線をやって、自らにフォーカスする画角をその目で認めて、そして彼女がスタンドを向いた。
その表情に去来する幾重にも折り合わさった感情が、その発露が、ダイナファントムの胸を衝いた。
――不可能など、ターフの上にはない。
その格言の正しさを、ダイナファントムは自らの現役生活の中で、何度も証明してきた。そして彼女の周りのあらゆる場所で、それは示され続けてきたのだ。
ハーツクライのドバイシーマも、シーザリオの復活劇と、BCフィリー&メアターフも、ウオッカのダービーもそうだった。
そして今、ラインクラフトの復帰戦勝利が、また一つ奇跡を必然へと書き換えた。従来の
その価値を、ダイナファントムはよく理解していた。そして当然に、ディープインパクトもである。
何より、自らも同じようにして復活を遂げ、その後に三つものGⅠを重ねてみせたシーザリオは、今眼前のターフの上、スタンドに向けて手を振って笑顔を咲かせるラインクラフトの心中に、きっと最も深く共感していた。故にだろうか、右隣から漏れ聞こえてくる鼻をすするような小さな音に、しかしダイナファントムは敢えて聞こえないふりをした。
そしてただずっと、陽の光の差し込んで青々と輝くターフを、その上に未だ佇むラインクラフトのことを、彼女は見つめていた。
斯くしてラインクラフトの復帰戦における勝利を見届けたのちに、ダイナファントムは、そしてディープインパクトは、今一度海を渡った。
そしてまず向かう先はフランスの、シャンティイトレーニングセンターである。
去年と比べて少しだけ早い現地入りとはなったものの、行く先という意味では変わらない。つまるところ一年前と全く変わることのない光景が二人のウマ娘を迎えて、そして進めていく調整に関しても、基本的には同じものであった。
ただ、今年の凱旋門賞は去年とは決定的に違う点が一つある。それはつまり、参加する人数である。
前年の凱旋門賞は、ダイナファントムたちが経験した通りにたったの九人と、凱旋門賞ほどの格を持つレースにしてははっきり少なかった。
しかし今年は違う。既にフランスクリールとロンシャンレース場の運営者が想定出走表を発表しているが、登録を済ませて出走表明を行っているウマ娘の数は、今年はなんと十四人*3である。日本のGⅠ競走と比べても遜色は全くなく、つまりそれはこの年のレース展開について、去年とはまるで打って変わったものになる可能性を濃厚に示唆していた。
特に問題なのは、今年の出走ウマ娘の中に明確な「ペースメーカー役」がいることである。
前走のインターナショナルステークスにおいて、ダイナファントムは自らの逃げを二人のウマ娘に邪魔されていた。ソングオブハイアワサと、そしてデュークオブマーマレードである。どちらもマクブライアン氏の陣営によるもので、そして彼が勝たせたい本命のウマ娘というのは、ディラントーマスであった。
結局その時はダイナファントムが自らの先行力とハイペース耐性によって力づくでレース展開そのものを破壊して、無理やり勝ちに持って行った。しかしそれはあくまでも十ハロン戦の、更に平坦なコース形状であることから実現したものでしかないし、ああいう戦法は基本的に潰しが利かない。二千四百メートル戦で通用する戦い方では、間違いなくなかった。
そして今回も、マクブライアン氏は二人のウマ娘をペースメーカー役として出している。前走に引き続きのソングオブハイアワサに加えて、イエローストーンというウマ娘もそうであった。
特にこの二人のウマ娘は、そもそも二千四百メートルは距離として長いのだ。つまり恐らくは後半、下り坂から一気に加速してフォルスストレートに入り、その出口かあるいはそれよりも少し手前の辺りで力尽きて、追走するウマ娘に先頭を譲ることを初めから期待されている。
同じウマ娘として、その運用には何か言いたくなるし、胸にもやもやを覚えるのは事実である。しかしそれもまた、彼女たちの「レースの勝ち方」なのだ。外野から言えることは、きっと何もなかった。
ただ何にせよ、そのフォーメーションを受けて立つことになるダイナファントムは、当日に向けての対策を講じなければならない。彼女自身が逃げウマ娘である以上、それはなおのことであった。
それは本番までの日々において、ダイナファントムとディープインパクトの調整の内容に差分を生む。共通して芝コースの追い比べをしたり、坂路で本番想定のペースメイキングを確認したりと一緒のトレーニングに励むことはいくらかあれど、基本的には重なり合うことのない研鑽の日々が、そこから暫く続くことになった。
そして一週が経ち、二週が経ち、凱旋門賞まで残り一週を切る。
出走するウマ娘は事前の十四人で固まり、そしてそれまでの間に、前走のインターナショナルステークスにおいて先着した二人の三着に入ったディラントーマスは、前哨戦となるアイリッシュチャンピオンステークスを勝利していた。あるいはそれは昨年のリベンジでもあり、そして同時に、ガネー賞とキングジョージに続くこの年三つ目のGⅠ勝利によって、己の好調を主張しようとしているようにすら、ダイナファントムには映った。
いずれにせよ、機は熟そうとしている。激突の日は、そう遠い先の話ではなくなっていた。
そんなある日のことである。凱旋門賞の直前追い切りとして、シャンティイのウッドチップコースである程度の時計を出した水曜日のその夜、ダイナファントムはふと思い立って、シャンティイの中にある宿舎のロッジから、外へと出ていた。
何故かと問われても、正直なところ理由はなかった。なんとなく、そうしたいと思ったのだ。
だからそれは、きっと誘われていたのだろう。
市街からは遠く離れて、辺りには人工光などほどんどないこのシャンティイの自然の中では、見上げる空には呆れるほどの星々が瞬いて、夜を満たしている。
それが照らす薄明かりのなかで、ダイナファントムは一つの影を目にした。
小柄な少女だ。そしてウマ耳が見える。つまるところ、それは彼女の「片割れ」であった。ディープインパクトであった。
かのウマ娘もまた、何の気なしの様子で、ともすれば所在なげに、トレーニングコースの入り口の辺りに立って、空を見上げている。
しかしウマ娘特有の鋭い聴覚が、砂利道を踏みしめて進むダイナファントムの微かな足音を捉えたか、ぴくりをその耳を震わせながら、視線が落ちてきた。
「……やあ」
見られたのならば、声をかけるのが礼儀というものである。ダイナファントムが手を上げつつそう言えば、いつもの通りにディープインパクトが、無言のままにこくりと頷いた。
遠慮するまでもないだろうと、ざくざくと足元から音を響かせながら、ダイナファントムがディープインパクトのもとへと歩み寄る。
その場所、トレーニングフィールドへの入り口は夜ということもあって閉じられている。その鉄製の門扉に寄り掛かるようにして、改めて二人は空を見上げた。
本当に、呆れるほどに、煩さすらも感じるほどに、星の輝きが遍く空を覆い尽くしている。中央トレセンは広大なトラックコースを持ってはいるものの、それでも人の営みが生み出す光そのものから逃れるには狭すぎる。普段の生活の中においては、決して見ることのできない光景であった。
その景色を沈黙のままぼんやりと眺めているうちに、ダイナファントムからはひとりでに言葉が漏れ出ていた。
「遠くに来たもんだね、思えば」
隣の空気か揺らいだ。恐らくはディープインパクトが、自らの方を向いたのだろう。そうダイナファントムは当たりをつける。
「ん。まあ、遠い。日本からは」
そしてそこから返ってきた台詞に、思わずと言った調子で吹き出した。
なるほど、確かに文字通り受け取ることもできるだろうと、今更ながらに気づかされたダイナファントムであった。
しかしいずれにせよ、彼女が言いたいことはそういうことではない。
「いや、まあ。そうなんだけど、さ。……三年……までは経ってないか。でも、それぐらい前だったよなって」
そこまで言えば、ディープインパクトとて気づく。
「メイクデビュー?」
「そう」
つまりはそういうことである。ダイナファントムとディープインパクトの二人は、あの晩秋の昼、淀のターフで初めて勝ちを争ったあのときから、ずっと互いのことを見てきていた。
最低でもダイナファントムにはそうであり、そして今、ある意味ではその涯の一つの結果として、二年目の凱旋門賞挑戦を眼前に控えているとも言えるのだろう。
「でも、そろそろなんだよなぁって」
同時に、そんなところに意識が及ぶというのは、つまり二人のこれからに待ち受けている「残りの時間」をも、意識せざるを得なくなるということであった。
もう四日後に迫っている凱旋門賞が終われば、あとは有馬を残すのみだ。最低でも今年はそうで、そしてディープインパクトははっきりと、そのレースを最後に現役を退くことを公表していた。
対するダイナファントムのほうは、引退の発表こそまだであるが、しかしもはやディープインパクトのいないトゥインクル・シリーズのターフの上をそれ以上走ろうという気概は、恐らく自らの中には残らないのであろうと、そんな風に自己分析していた。
否、そうでなくてもディープインパクトと走ることのできる機会は、つまりそれほどしか存在しないのである。そのことがどうしようもなく、ダイナファントムの胸中に寂寞の情として広がっていた。
「ファン」
しかし、ディープインパクトは違っていた。小さく、しかし芯の入った声が、ダイナファントムのことを呼ぶ。
空ばかりを見上げていた視線を戻してディープインパクトを見遣れば、星明りが薄く照らす瞳の奥が、それ以上の輝きすらも湛えてダイナファントムのことを見据えていた。
「それは、『まだ早い』」
力強い断言だった。たったその二言で、言いたいことの全てを表していた。
――そうだ。まだ早い。私たちの次走には凱旋門賞があって、今気にするべきは一にも二にもそれであろうに。
「初めて。『走る』より、『勝つ』ほうが上になった」
そしてそのまま、滔々と語る。
いや、言葉少なは言葉少なだ。それでもその裡に漲る意思は、どこまでも直接的にダイナファントムのことを向いていて、そしてそれをダイナファントムもまた真っ直ぐに受け取った。
そうだ。負けず嫌いの気は強いといえども、「勝つ」ことよりも「走る」ことを上において、「走る楽しさ」を何よりも謳歌し続けてきたディープインパクトが、そんな自らの在りようを捻じ曲げてでも今回ばかりは、「勝ちたい」という情を表に強く出している。
ここまでの調整過程の中でも、日ごろの併せでも、メディアへの発表の中においてですら、その色合いは濃かったのだ。
「並びたい。あなたに。……去年、勝ってたから」
そしてその理由が、今あまりにもさりげなくディープインパクトから零れてきた。
ダイナファントムは、思わず息を呑む。
――並びたい。そんなことを、まさかディープインパクトの方から言われるなど。
そう、思わず考えていた。
「そんな、私はずっと――」
「私は」
反駁しようとして、遮られる。
「私は、ずっと見てた、あなたを。速いことを。強いことを」
――ずっと、ずっと、見ていた。
力強く、言葉が重ねられていく。
「だから、同じ場所に立つ。こんどは私が、勝って」
「そ……っか……」
ともすれば気圧されたのかもしれず、しかしそれ以上に、その情動の直射が、それを向けられた事実それ自体が、ダイナファントムの心にじんわりと温かさをもたらしていた。
自らがディープインパクトに思っていたように、ディープインパクトを思っていたように、彼女もまた自らを、ダイナファントムを思っていたのだと、それをきっと、事ここに至って知ることができたからであった。
けれども、それで退いてしまうのではウマ娘が廃る。挑まれた勝負は、受けて立たねばならない。
その上で勝つことをディープインパクトが望んでいることを考えれば、それは当然のことだろう。そもそもそれ以前に、そして当然に、ダイナファントムには負けてやるつもりなど、まるで、これっぽっちも、ありはしなかった。負けるためにレースをするウマ娘など、最低でも日本にはいないのだから。
沸々と湧きあがるような高揚が身体を衝き動かし、口元に笑みを模る。
「なら。猶更、負けられないね。私は」
果たしてそう口にしてディープインパクトを見れば、彼女もまたその表情に小さく笑みを浮かべて、ダイナファントムを見返してきた。
「それでこそ」
そして互いに構えた拳を、静かにぶつけ合う。
結局のところ、二人の関係性とはこれなのだ。共に互いを敵手と認め、その実力を認め、時に勝ち、時に負けて、互いが互いを高め合う。
いつの間にか生まれていた奇妙な絆も、確かな友情も、すべてはその上に立脚していて、だからこそその行きつく先は、きっとここにしかありえなかったのだ。
日本から遥か遠く、シャンティイの満天の星空の下、胸襟を開いて心を通わせた「双子星」は、しかしいつもの通りの終着点へと至って、次の日にはロンシャンへと入る。
宿命の時は静かに、それでも確かに、近づきつつあった。